深い闇の底。
あなたは、自分自身の意識が溶け出し、無理やりねじ込まれた「無数の誰かの記憶」の濁流に飲み込まれていた。それは、たった一人の記憶ではない。世界中から掃き溜めのように集められた、救いのない「孤独」の記録(アーカイブ)だった。
『……いらない子ね』
まだ幼い視点。大好きな母親の背中が、雨の降る路地裏で遠ざかっていく。
「待って、置いていかないで」と伸ばした手は、誰にも掴まれることなく空を切った。
『……きみ、誰だっけ?』
教室の隅、あるいは職場の片隅。誰とも目が合わず、声を出しても届かない。存在しているのに世界から認識されていない、透明人間のような空虚な毎日。
『……ああ、寒い……か……』
薄暗いアパートの一室。ゴミと静寂に埋もれた、孤独な最期。
病に伏し、飢えと渇きに苦しみながら、助けを呼ぶこともできずに息絶える瞬間。数ヶ月後、誰にも涙を流されることなく「処理物」として片付けられる肉体。
『……愛されたかった』
『……寂しい、寂しい、寂しい、サミシイ……』
何十、何千、何億という「独り」の絶望。愛を乞う叫び。裏切られた憎悪。
そのすべてが、あなたの心臓に杭を打ち込むように流れ込み、魂を泥のような悲しみで埋め尽くしていった。
「――っ……う、あ……ぁ……」
あまりに残酷な記憶の奔流に、あなたの心は耐えきれなかった。
夢の中で叫び続け、現実でも涙を流し続ける。
ピッ、ピッ、ピッ……。
無機質な電子音が一定のリズムで響く、白く静かな部屋。
あなたは身を起こすこともできず、ただ天井を見つめたまま、涙を流し続けていた。
自分の感情ではないと分かっていても、頬を伝う熱は止まらず、嗚咽が喉の奥からせり上がってくる。
「……気がついたか……!」
耳元で、張り詰めていた空気がふっと緩む気配がした。
涙でぼやけた視界の中で、いくつもの顔があなたを覗き込んでいる。
「(あなたの名前)……! よかった、やっと目が覚めた……!」
ミドリがあなたの右手を両手で包み込むように握りしめていた。彼女の瞳も真っ赤に腫れており、あなたが目覚めた安堵で再び涙をこぼす。
「……バカ野郎。丸三日も寝てやがって……心配させんじゃねぇよ……」
左側には、腕を組んだアカネが立っていた。強気な態度はどこへやら、声は激しく震え、目元を乱暴に袖で拭っている。
その奥にはサキ、アオト、親友、ギンジ、ミサ、ユカリ、ヒカリ……。仲間たち全員が、痛々しいほど心配そうな表情であなたを見守っていた。そして部屋の隅には、沈痛な面持ちのアーサーとグラハムの姿もあった。
「……う、ぐ……」
夢の中で体験した「絶対的な孤独」と、今ここにある「絶対的な温もり」。
その落差があまりにも大きく、あなたは子供のように泣きじゃくることしかできなかった。
ミドリから手渡された水を一口飲み、荒い呼吸が少しだけ落ち着いた頃。
あなたは掠れた声で、ポツリポツリと語り始めた。
「……夢を、見たんだ」
視線は誰にも合わせられず、震える手でシーツを握りしめる。
「……親に捨てられて、泣き叫んでも誰も振り返ってくれなくて。冷たい部屋で、誰にも知られずに、たった一人で死んでいく……」
「(あなたの名前)……」
「一回じゃない。何千回も、何万回も……。名前も知らない誰かの人生の、一番『惨めな最期』だけを、延々と見せられ続けたんだ」
病室が、重苦しい沈黙に包まれた。
それは単なる悪夢ではなく、明確な悪意を持って植え付けられた、精神への呪いだった。
「……やはり、そうか」
腕を組んで沈思黙考していたアーサーが、重い溜息と共に顔を上げた。
「君が見たのは、かつて世界中から廃棄された『負の感情データ』だ。だが、それだけではない。あの影の正体は、かつての戦いで我々が完全に拭い去ることができなかった、純粋な憎悪の塊だ」
すると、窓際で背を向けていたアカネが、拳を強く握りしめて振り返った。その瞳には怒りと、それ以上の複雑な感情が宿っている。
「……違う。ただの憎悪の塊なんかじゃない」
アカネは意を決したように、その名前を口にした。
「……あいつは、『ロキ』だ」
その一言が落ちた瞬間、室内の空気が真っ二つに割れた。
「っ……!?」
ミドリ、アオト、ギンジ、ユカリ、ヒカリ……。かつての世界を知る彼らは、雷に打たれたように絶句した。
「嘘だろ。あいつは、あそこで消えたはずなのに……」
一方で、状況が飲み込めない者たちがいた。
「……ロキ? 誰なの? アカネたちの知り合い?」
サキが怪訝そうに眉をひそめ、ミサやあなたの親友も首を傾げる。記憶を見せられたあなた自身も、その名に心当たりはなかった。
「……説明が必要みたいだね」
静寂を破ったのはアオトだった。彼は困惑するあなたたち4人を見つめ、静かに語り始めた。
「ロキは……かつて僕たちが戦った、天才的なトリックスターだった。世界を混乱させ、僕たちを何度も苦しめた……けれど、彼なりの悲しい理由を持っていた男だ」
「そして、あいつは死んだはずなんだ」
ギンジが重々しく言葉を継いだ。
「最後の戦いで、自らの命と引き換えに……。完全に消滅したはずだった」
アカネが苦々しい顔で言葉を重ねる。
「ああ。だがあいつの魂は、成仏しきれなかったんだ。……あいつが最期に抱いていた世界への未練、あるいは絶望。それが……」
アカネはあなたの震える手を見つめ、残酷な事実を告げた。
「……世界中に散らばっていた『捨てられた記憶』や『憎悪』と同化しちまったんだ。今のあいつは、俺たちが知ってるロキであって、ロキじゃねぇ。……『亡霊』に成り下がっちまったんだよ」
ロキ。かつての宿敵にして、悲劇の道化師。
その魂の残滓が、世界中の「孤独」を吸い上げて怪物として蘇った。
それが、あなたを襲い、心を壊そうとした「影」の正体だった。
敵の正体と背景が、仲間たちの口から語られた。
「知っている者」の動揺と、「知らない者」の戸惑いが交錯する中、事態は新たな局面へと向かう。