純白の雲霧が足元を流れている。まるで実体があるかのように重量を受け止めているが、それでいて今にも消え入りそうなほど軽やかだ。彼方では、黄金色の陽光が雲を貫き、空間全体を夢幻的な色彩に染め上げている。
突如、雲の層が激しくうねり、一筋の長大な影が雲を突き破って現れた。
それは東洋の龍だった。
青玉(サファイア)色の鱗は陽光の下で金属的な光沢を放ち、鹿角のような龍髭(りゅうし)が風に舞い、四本の鋭利な爪が雲霧の間に見え隠れしている。その巨躯は驚くほど長く、雲海の上を旋回している。黄金色の縦瞳孔は二つの小さな太陽のようで、僕を真っ直ぐにロックオンしていた。
『鳴神竜(ナルカミ・ドラゴン)』
レベル表示は『?』。これは、こいつの強さが現在の階層水準を遥かに凌駕していることを意味する。
竜は即座には攻撃せず、侵入者を値踏みするかのようにゆっくりと旋回していた。僕は無意識に『シュンエイ・ブレード』の柄を押さえたが、理性が冷酷に告げている――この距離では、いかなるソードスキルも届かない。
ドォォォン――!
最初の落雷が、何の前触れもなく落ちた。
金色の雷光が僕のすぐ脇で炸裂し、雲海が引き裂かれる。灼熱の爆風によろめき、たたらを踏んだ。HPが5%低下し、ステータス欄に『麻痺(スタン)』のデバフアイコンが点灯した。四肢が急激に重くなり、鉛を流し込まれたかのように動作が鈍る。
「……マズい」
麻痺効果は丸十秒続いた。竜は依然として雲間を遊弋(ゆうよく)し、追撃はしてこない。まるで獲物の窮地を楽しんでいるかのようだ。
デバフがついに消えた瞬間、第二の雷光がすでに落ちてきていた。
今度は辛うじて横へ転がり(ロール)回避する。雷光が雲海に黒焦げの空洞を穿ち、すぐにまた新しい霧がそれを埋める。竜が低く吟嘯(ぎんしょう)した。それは一千万の銅鐘を同時に打ち鳴らしたかのような震動で、鼓膜を痛くさせた。
――立ち止まってはいられない。
僕は走り出した。雲海の表面は一見柔らかそうだが、踏みしめると程よい弾力があり、特殊なゲルのようだ。竜が頭上を旋回し、金色の雷電が次々と降り注ぐ。一撃一撃が僕の足跡を正確に追ってくる。
ドッ! ドッ! ドッ!
雲海が粉々に吹き飛び、焦げたオゾンの臭いが鼻腔に充満する。僕は方向を変え続け、時折隆起した雲を一時的な遮蔽物(カバー)として利用した。何度か雷が髪の毛を掠めるほどの至近距離を通り過ぎ、余波でHPがじわじわと削られていく。
竜の攻撃リズムが突如変化した。鎌首をもたげ、胸腔内で不吉な金光が膨れ上がる――。
――ブレス!
猛然と左側へダイブする。黄金の光柱が右腕を掠め去った。直撃は免れたものの、余波でHPが一気に削られ、ステータス欄に『火傷(バーン)』のデバフが追加される。右腕が焼けつくように痛い。
転がり起きるや否や、第三のブレスが続く。今度は予測し、全力で隆起した雲岩の陰へとダッシュした。光柱が岩に直撃し、破片が四散するが、致命打は防げた。
竜はこの回避に苛立ったらしい。ブレスを止め、高速旋回に移行した。雲がその動きに合わせて渦を巻く。雷はもはや一本ずつではなく、暴雨のごとく降り注ぐ――。
ドガガガガガ――!
雲海全体が雷の池と化した。金色の電光が四方八方で炸裂する。僕は絶えず動き回ることを強いられ、足をついた場所は次の瞬間には雷光に飲み込まれた。HPは減り続け、瞬く間に60%を割った。
指が腰の転移結晶(テレポート・クリスタル)に触れ――その瞬間、凍りついた。
――結晶が反応しない。
強く握りしめる。角が掌に食い込む痛みを感じるほどだが、システムウィンドウは死んだように沈黙している。
ドォォォン――!
メッセージ・クリスタルを取り出してみるが、やはり反応はない。
また一筋の金雷が足元に落ち、雲海に黒く焦げた深坑を穿った。僕はよろめいて後退する。喉が引きつり、呼吸が制御できないほど荒くなる。
冗談じゃない……。
冷や汗が背筋を伝い、インナーを濡らす。これは普通の狩り場じゃない。技術(テクニック)や運で凌げる戦闘じゃない。あの竜――雲端を旋回する怪物は、雷撃一つで僕のHPを軽々と10%削り取るのに、僕の刀は奴の鱗一枚にすら届かない。
――逃げられない……。
攻撃も届かない……。
逃走(エスケープ)さえ、できない……。
竜が再び鎌首をもたげ、胸腔の奥で刺すような金色の光が膨れ上がった。
来る――!
本能的に横へダイブする。ブレスの光柱が左肩を掠め去った。灼熱の痛みが炸裂した瞬間、HPバーが50%(イエローゾーン)を割り込んだ。ステータス欄で『火傷(バーン)』のアイコンが点滅し続け、左腕は焼けた鉄を押し当てられたかのように熱く痛む。
足元で雲海がうねり、僕の無様な姿を嘲笑っているかのようだ。
――死ぬ。
その思考が毒蛇のように心臓に絡みついた。敗北ではない。リスタートではない。真の『死』――ナーヴギアによって脳神経を焼かれ、現実の肉体が呼吸を止める、あの死だ。
ドォォォン――!
鼓膜が破れそうな雷鳴。よろめきながら隆起した雲岩の陰へ逃げ込もうとするが、半ばで爆風に煽られ、吹き飛ばされた。背中を雲の地面に強打し、HPがまたガクリと減る。
竜がついに高度を下げてきた。
優雅に旋回するその青玉の鱗は、冷酷な光沢を放っている。縦瞳孔(スリット)に映るのは、雲岩の陰でうずくまる僕の影。その眼差しは好敵手を見るそれではなく、琥珀に閉じ込められた羽虫を見る目だった。
――動け!
震える足に必死に命令を送るが、麻痺の余韻(エフェクト)が動作をコンマ数秒遅らせる。竜の爪が雲を引き裂き、雷光を纏って襲いかかる。
千鈞一髪、横へ転がる。竜爪が右の脇腹を切り裂いた。HPが30%(レッドゾーン)へ暴落し、『出血(ブリーディング)』のデバフがポップアップする。HPバーが目視できる速度でジリジリと減っていく。
竜は嬲(なぶ)るのに飽きたらしい。
再び上昇し、雲間でその長大な身体を伸ばした。一枚一枚の鱗が雷光を帯び始める。雲海全体が沸騰し、数え切れないほどの金色の電蛇(でんだ)が四方八方を走り始めた。
――広範囲殲滅攻撃(フル・スクリーン・アタック)?
絶望的な気分で周囲を見渡すが、遮蔽物はどこにもない。雷光の密度が増していく。最も近い雷撃は、つま先のわずか五十センチ先で弾けた。
――終わる。
この仮想の地獄で、無価値に消えるのか――。
指が無意識に雲を掴む。藁にもすがる思いだった。腰にはまだ『シュンエイ・ブレード』がある。だが、この絶望的な戦力差(スペック差)の前では、武器など滑稽な装飾品に過ぎない。
竜が最後の長吟(ちょうぎん)を上げ、雷光が豪雨のごとく降り注いだ――。
僕は目を閉じた。終わりの激痛を待つ。
――こんなところで終わるのか?
まだ攻略していない階層が山ほどあるのに。まだ……死にたくない――。
雷鳴が全てを飲み込んだ。
……激痛は、来なかった。
目を開けた瞬間、視界は刺すような金色で埋め尽くされていた。雷光が、目と鼻の先で停滞している。まるで不可視の壁に衝突したかのように、細かな電蛇が空気中でパチパチと音を立てて霧散していく。
HPは3%で踏みとどまっていた。
震える指でアイテムウィンドウを操作し、ハイポーションを実体化させる。雷光に照らされて輝くクリスタル瓶の栓を抜き、仰ぎ見る。吐き気を催すほど甘ったるいイチゴの味が鼻をつく――なぜゲームの高ランクポーションは決まってこんな悪趣味な味なのか。
一気に流し込む。粘度のある液体が喉を滑り落ち、不自然な熱をもたらす。HPが緩やかに回復を始め、『出血』と『火傷』のアイコンが消滅した。だが、筋肉の芯にはまだ麻痺の痺れが残っている。
雲間から竜の不満げな唸り声が聞こえ、再び雷光が凝縮し始めた。
僕はその場で跳躍を試みた。体が意外なほど軽い――いや、軽いのではない。この空間の重力係数(パラメータ)が通常フィールドと異なっているのだ。軽い踏み込みで二メートル以上浮き上がる。だが、十メートル上空を旋回する竜には届かない。
再び、雷光が落ちる。
今度は避けなかった。僕はその金色の軌跡を凝視した。
――抗う術(すべ)は一つ、地との縁(えにし)を断つことなり。
――宙(そら)にて雷(いかずち)を刀身に喰らわせ、
――着地するより疾(と)く、敵へと解き放て。
紙片の言葉が、脳裏に鮮烈に蘇る。
ほぼ本能的に、雷光が刃に触れる刹那、僕は手首を返した――。
バチッ!
強烈な閃光が刃の上で炸裂した。『シュンエイ・ブレード』が激しく振動し、刀身を通じて強烈な痺れが伝わる。HPが10ポイント減少したが、本来発生するはずの『麻痺』状態(ステータス)にはならない。
驚くべきことに、弾かれた雷光は矢のように反転し、雲海の奥の竜影へと一直線に射出された。
「グオォォ――!」
竜が苦痛に身を捩った。反射(リフレクト)した雷撃が、その腹部に黒い焦げ跡を残している。ダメージは微々たるものだが、開戦以来初めて、僕の刃が(・・・・)奴に届いた。
雲海が激しく波打つ。
竜は完全に激昂した。優雅な旋回を捨て、垂直に急降下を開始する。四本の利爪が雷光を纏い、天罰の槍のごとく突き刺さってくる。
僕は全力で後方へ跳躍(バックジャンプ)した。特殊重力を利用し、より高くへ。竜の爪が靴底を掠め、生じた風圧で空中のバランスが崩れる。
間髪入れず第二の雷光が迫る。今度は横薙ぎに広がる扇状の雷撃(ファン・サンダー)だ――。
「はあぁぁっ!」
空中で無理やり体を捻り、『シュンエイ』で雷光を迎え撃つ。
ズガガガ――!
先ほどより十倍も重い衝撃が刀身を駆け抜ける。雷光は確かに反射され、今度は正確に竜の右眼を捉えた。
「ガアァァッ!」
竜が鼓膜を震わす苦痛の咆哮を上げ、一時的に攻撃の手を止めた。その隙を突き、隆起した雲岩の上に着地する。
――なるほど。
この空間では、雲海の地面に触れていなければ雷を跳ね返す(リフレクトする)ことができる。だが、その反動(負荷)は確実に武器と身体に蓄積していく。しかも、竜の攻撃頻度(レート)は加速する一方だ……。
竜のHPがついに減少し始めた。
足元の雲海がうねる。跳躍のたびに、体が現実世界(リアル)よりも遥かに軽く感じる。
ドォォォン――!
またしてもドラム缶ほどの太さがある雷柱が天から降り注ぐ。僕は空中で身を捻り、雷光を迎え撃つように刃を斬り上げた。
先ほどより強烈な衝撃が柄から伝わり、HPが削れる。だが、今回跳ね返した雷光は太い。まるで黄金の長槍のごとく雲層を貫き、竜の左腹へ深々と突き刺さった。
竜が悲鳴を上げ、青玉の鱗が広範囲で焦げ付く。もはや悠然とした旋回ではない。手負いの獣のように不規則な飛行を始め、雷光の軌道も滅茶苦茶(ランダム)になる。
だが、それが逆に危険だった。
不意に側面から雷光が襲来する。辛うじて刀で受けるが、衝撃で吹き飛ばされた。雲海が背下を高速で流れ、背中を隆起した岩に強打する。HPが瞬時に40%(イエローゾーン)へ急落し、視界の端が危険信号(レッド)に染まる。
「ガハッ……」
藻掻くように起き上がる。上空で竜が体勢を立て直していた。胸部の鱗が逆立ち、その下で雷光を纏った紅い『逆鱗』が明滅している――。
――好機(チャンス)!
次なる落雷。僕は即座には弾かなかった。タイミングを計り、雷が刃に触れる直前、全力で跳躍した。重力異常の恩恵を受け、かつてない高度へと舞い上がる。
竜はその挙動を予期していなかったのか、動きが一瞬硬直した。
今だ――。
刃によって弾かれた雷光は、もはや拡散しない。剥き出しになった逆鱗へと、吸い込まれるように直撃した。
「グオオオオオオオ――!」
絶叫が雲海全体を震わせる。78%のHPバーが激しく振動し、一気に65%まで滑り落ちた。竜は狂ったように身を捩り、自身を中心とした雷爆が四方へ炸裂する。無数の黄金の電蛇が雲海を這いずり回る。
僕は連続バックステップを強いられた。着地のたびに膝が砕けそうな衝撃が走る。最も危険な雷光が頬を掠め、HPは30%まで落ち込んだ。だが、口端は制御できずに吊り上がっていた。
――勝てる。
竜のHPは減り続けている。64%……63%……。反射(リフレクト)のたびに奴の動きは狂暴化するが、同時に鈍重にもなっていた。左側の損傷が激しく、飛行高度が徐々に下がってきている。
50%。
その数字が表示された瞬間、雲海が凍りついたように静止した。
竜が攻撃を止め、地上二十メートルの高さで浮遊している。
マズい……。
本能が警報を鳴らす。死に物狂いで後方へ跳ぶ。ほぼ同時に、竜を中心として半径百メートル規模の球状雷爆(プラズマ・スフィア)が発生した。雲海が蒸発し、視界が灼熱の金光で塗りつぶされる――。
「ぐっ……!」
全速力で退避したにも関わらず、HPは一瞬で10%まで削り取られた。ステータス欄に『重度熱傷』と『麻痺』が同時にポップする。両足に鉛が詰まったように重い。
雷爆が晴れると、竜の姿は変貌していた。
体躯は一回り縮小したが、新生した鱗の一枚一枚が純金で鋳造されたかのように輝き、四肢の爪には実体化した雷光が纏わりついている。最も恐ろしいのは、HPバーが徐々に回復し始めていることだ――。
――自己再生(リジェネレーション)能力だと?!
竜が僕を見下ろしている。その黄金の縦瞳孔に、初めて『感情』らしきものが浮かんだ。
それは、憤怒。
黄金の竜鱗が雲海の間で刺すような光を乱反射させる。新生した鱗は以前よりも眩く、そして致命的だ。回復していくHPバーは、僕のこれまでの努力をすべて嘲笑っているかのようだった。
――回復させるわけにはいかない。
奥歯を噛み締め、再び跳躍する。両足の痺れは未だ消えず、動作は普段より幾分か遅い。だが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
竜もこちらの意図を察知したらしい。胸腔内で再び雷光が膨れ上がる。先ほどよりも眩く、より狂暴な光だ。
ドォォォン――!
第一の雷光が落ちる。僕は身を捻って転がり、直撃を辛うじて回避するが、余波でHPがさらに5%削られる。間髪入れず第二の雷光。今度は回避を選択しない。雷光に向かって跳びかかる――。
『シュンエイ』の刃が正確に雷を捉えた。黄金の閃光が刃の上で炸裂し、腕に激しい痺れが走る。弾き返された雷光は黄金の矢となり、一直線に竜の胸へと射出された。
バチッ!
雷光が逆鱗に命中した瞬間、竜のHP回復が停止し、数値が55%で固定された。
「グオォォォ――!」
竜が怒りの咆哮を上げ、巨躯を激しく捩(よじ)らせた。四本の爪が雲を引き裂き、狂乱した気流を巻き起こす。飛行軌道は乱れ、雷の着弾点も散漫になる。痛みが奴のリズムを崩しているのだ。
好機(チャンス)。
僕は跳躍を繰り返した。雲海の重力異常を利用し、何度も竜の攻撃圏内へと肉薄する。雷が落ちるたび、刃でそれを跳ね返す。反射のたびに腕が砕けそうな衝撃を受けるが、竜のHPは確実に減り始めていた。
竜の反撃は狂気を帯びていった。雷光の頻度(レート)と強度は増していくが、その挙動は支離滅裂になりつつある。逆鱗の傷口は広がり続け、金色の血液が鱗の隙間から滲み出し、雲海に滴っては細かな電光となって霧散していく。
ドッ! ドッ! ドッ!
三連の雷光がほぼ同時に降り注ぐ。全力で跳躍し、空中で刃により半円を描いて第一撃を反射。第二撃が続く。辛うじて体を捻って躱すが、第三撃は完全回避が間に合わない――。
「ぐぅっ――!」
左肩を雷光が掠め、HPが一瞬で15%まで急落する。だが、竜のHPもすでに45%まで低下していた。その動きは明らかに鈍重になり、黄金の瞳に微かな狼狽が走る。
――斬殺圏内(キル・レンジ)。
その思考が脳裏を掠める。
竜もまた危機を悟ったようだ。闇雲な落雷を止め、距離を取ろうと旋回上昇を試みる。だが深手を負ったその体では、高度は最初よりも遥かに低い。
僕は深く息を吸い、柄を強く握り直した。
竜のHPは限界域(リミット)にある。
低空を旋回するその金色の鱗は、もはや当初の輝きを失っていた。逆鱗の傷口からは光の血が絶えず溢れ、雲海に落ちてはジジと音を立てている。烈日のごとき縦瞳孔が僕を死に物狂いで睨みつけている。憤怒と、そして一抹の信じ難いという感情――区々(まちまち)たる人間が、なぜ自分をここまで追い詰めるのか理解できないというかのように。
突如、竜が鎌首をもたげた。胸腔内で、かつてないほど刺々しい光が膨張する。それは通常の雷光ではない。太陽核のごとき、純白の輝き(ホワイト・アウト)。
ブレス――。
本能が警鐘を鳴らす。だが今回、僕は後退しなかった。
熾白(しはく)の光柱が噴出され、触れた雲海を瞬時に気化させていく。ブレスが僕を飲み込むその刹那、僕は猛然と跳躍した。吐息が巻き起こす爆発的な上昇気流(アップドラフト)を利用し、一気に雲の頂きへと駆け上がる――。
風圧が身体を引き裂き、皮膚が焼ける激痛が走る。HPが急速に減っていく。だが、この高度なら――竜と目線が合う。
チリリン――。
腰の『神楽鈴』が、唐突に自鳴した。
清冽な鈴の音が雷鳴を貫き、天地の間に反響する。
その瞬間、時間が凍結したかのように思えた。
雲層の遥か深奥、天空より、未だかつてない金色の雷光が撃ち下ろされた――竜からではない。より高き蒼穹(そうきゅう)からのものだ。宮殿の柱ほどもある極太の雷柱が、僕が高々と掲げた『シュンエイ・ブレード』へと直撃する。
「うおおおおおおお――!」
雷光が体内を貫通する苦痛で、視界が真っ白に染まる。刀身が、その雷霆(らいてい)を余さず吸収していく。
竜が、初めて恐怖の表情を見せた。
逃げようとした。だが、もう遅い。
蓄積された全ての雷霆が、切っ先から奔流となって解き放たれる。
天地が暗転した。
極限まで圧縮された光の洪流は、蒼穹を横断する一本の巨剣と化し、その刀身には無数の雷竜のごとき電蛇が纏わりついていた。この一撃は、今の落雷の力だけではない。これまでに反射してきた全ての雷電が融合している――。
これぞ真なる、『神雷奉還』。
竜の巨躯が、光の剣によって胸を貫かれた。
断末魔もなく、身悶えもしない。
直撃を受けた箇所から、鱗が一枚また一枚と剥がれ落ち、金色の光の粒子(エフェクト)となって霧散していく。まずは胸、次いで長大な胴体、そして最後に威厳ある竜頭。あの烈日のごとき瞳は、消えゆく直前、どこか憑き物が落ちたような安らぎを浮かべていた。
僕は雲海の上に重々しく倒れ込んだ。
――勝った。
仰向けに大の字になる。視界の端で、経験値バーが恐ろしい速度で暴騰(ぼうとう)していた。金色の数字が狂ったように跳ね上がる。Lv.53から一気にLv.57へ、最終的に58目前まで伸びて止まった。HPバーは瞬時に全快し、ステータス欄の全てのバッドステータスが消失した。
――勝ったんだ。
その事実が、ようやく緩慢に意識へと浸透してくる。
体は鉛を詰め込まれたように重く、指一本持ち上げることさえ億劫(おっくう)だ。視界の中ではシステムログが点滅を繰り返し、何らかのアイテムドロップを通知しているようだが、今はメニューを呼び出す気力さえ残っていない。
背下の雲層がゆっくりと流れ、優しく体を支えてくれている。頬を撫でる微風は、雨上がりの清涼を含んでいた。見上げる空は、水で洗い流されたかのように純粋で、信じ難いほど深い碧(あお)を湛えている。
指を動かそうと試みたが、刀を握る握力さえ入らない。『シュンエイ』は手元に静かに転がっている。
瞼(まぶた)が急速に重くなる。
HPは満タンのはずなのに、精神的な疲労(ファティーグ)が底を突いているようだ。視界の縁から光が滲み始め、雲海の白と空の碧が溶け合い、朦朧とした霧へと変わっていく。
耳元で、鈴の音が聞こえた気がした。
神楽鈴のような清冽な音色ではない。もっと空霊(くうれい)で、遥か彼方から響いてくるような、あるいは脳内に直接反響しているような悠遠(ゆうえん)な響き。
何か言おうとしたが、唇はもう動かなかった。
最後に残った意識の端で、雲の上方に何かが発光しているのが見えた――鳥居の輪郭のようでもあり、あるいは巨大な門のようでもあった。
そして、闇が優しく全てを包み込んだ。