意識が徐々に浮上するにつれ、最初に感じたのは背中に触れる寝台の柔らかさと、空気中に漂う微かな香の匂いだった。
――僕は現実(リアル)に戻ったのか?
目を開ける。視界に映ったのは見知らぬ天井だった。木製の梁(はり)に紅白の幕が下がり、障子越しの陽光が畳の上に幾何学的な光の格子を描いている。
――戻っていないらしい。
――ここは……?
上半身を起こし、周囲を見回す。部屋はさほど広くないが整然としており、壁際(かべぎわ)には同じ規格の寝台が幾つか並んでいる。プレイヤー個人のハウジング(私室)ではないようだ。
装備は無傷で、戦闘の痕跡さえ消えていたが、筋肉の芯に残る鈍い疼きだけが、あの死闘が幻覚でなかったことを告げていた。
障子が音もなく開き、アスナが盆に湯飲みを載せて入ってきた。
「気がついた?」
彼女は湯飲みを枕元の小卓(サイドテーブル)に置いた。
「丸一日、眠りっぱなしだったわよ」
「……ここは?」
「血盟騎士団(KoB)の仮眠室よ」
アスナはベッドの縁に腰掛けた。スカートにあしらわれた銀糸の紋章が陽光を浴びて煌めいている。
「ノーチラスが中央広場で倒れている君を見つけたの。意識不明で、戦闘ダメージも残っていたわ。圏内(セーフエリア)でも決闘(デュエル)モードを利用して昏倒プレイヤーを襲うPK(プレイヤーキラー)がいるから、念のためここまで運んでもらったの」
僕は頷き、湯飲みを手に取った。温かい液体が喉を潤す。仄かに薬草の風味がした。
「ありがとう」
「気にしないで」
アスナは立ち上がった。
「友人として、そんなことにはなってほしくないもの。……もうすぐユキイも来るわ」
障子が再び閉まり、静寂が戻った。
システムメニューを開き、ステータスを確認する。HPもSPも全快しており、疲労度も大半が回復している。インベントリの中では、『神楽鈴』が消滅し、代わりに鈴の形をした結晶アイテムが鎮座していた。
『神雷の種(Seed of Divine Thunder)』
『カテゴリ:消費アイテム』
『効果:破砕時、使用者座標へ落雷を誘導する。クールタイム72時間』
『þis is Godes wite』
なるほど……。
指先で結晶の表面を撫でる。その冷たさは、あの雲海での戦いを想起させた。もし雷反(サンダー・リフレクション)の理屈を悟っていなければ、このアイテムの真価を発揮させることは永遠にできなかっただろう。
再び障子が開いた。
入り口にユキイが立っていた。血盟騎士団の制服――紅白のスカートに白い肩甲(ポールドロン)を装着している。
「広場で野垂れ死にかけたって聞いたけど?」
彼女はベッドサイドまで歩み寄ってきた。
「ただのスタミナ切れだ」
僕はメニューを閉じた。
「騎士団に入って、ずいぶん忙しそうだな」
「義務だから」
彼女は軽く鼻を鳴らした。
「それより貴方、フロアボス攻略戦を五回連続で欠席してる。陰口叩かれてるわよ」
「集団行動は性に合わないんでね……」
「勝手にすれば」
僕たちは他愛のない雑談を続けた。話題は最近の狩り場(レベリング・スポット)から新階層の開放へと移り変わる。ギルドに所属しても、彼女の簡潔で直接的な物言いは変わらない。ただ時折、騎士団内部の些細な出来事が口端に上るようになった程度だ。
***
黄昏の光が翳り始めた頃、僕は身支度を整えて部屋を出ようとした。
障子を開けた瞬間、巨躯が行く手を遮った。
紅白のマント、冷徹な貌(かお)、そして底知れぬ深淵を湛えた双眸。
「ヒースクリフ……」
血盟騎士団団長は微かに顎を引き、僕とユキイを交互に見やった。
「回復は順調のようだな」
その声は低く、揺るぎない。
「明後日の第三十三層フロアボス攻略戦、君の参加を期待している」
「僕はソロの方が動きやすい」
ヒースクリフは半身になり、道を空けた。廊下の灯りが彼の紅白のマントに反射し、金属的な光沢を放っている。
「再考してくれたまえ、コーカン君。個人の力では及ばぬ戦いもある」
足音が遠ざかり、薄暗い廊下に僕とユキイだけが取り残された。
***
六月十日 土曜日
第三十三層迷宮区 フロアボス攻略戦
僕は攻略組(レイドチーム)の最外縁に立っていた。周囲には数百名の完全武装したプレイヤーがひしめいている。薄暗い迷宮の中で、各ギルドのエンブレムがやけに鮮明に映る。
ヒースクリフが隊列の最前線に立ち、十字剣(クロス・シールド)の柄に片手を置いて全軍を見渡した。
「斥候部隊(スカウトチーム)の情報によれば、この階層のボス部屋(ルーム)は少々特殊だ」
彼の声が石壁に反響する。
「即座に戦闘が始まるわけではない。ある種の儀式(ギミック)が必要となる」
集団から低くざわめきが漏れた。
迷宮の奥、ボス部屋の扉は開放されていたが、予想されたモンスターの巨体はない。代わりに、部屋の中央には一枚の古びた紙片が浮遊し、地面には一本の太刀が突き刺さっていた。
「草薙剣(くさなぎのつるぎ)……?」
僕は目を細めた。
その太刀の造形は、天守閣に奉納されていたものと酷似している。漆黒の鞘には注連縄が巻かれ、鍔(つば)には八岐大蛇の紋様が刻まれている。
アスナが紙片に歩み寄り、そこに記された文字を読み上げた。
「『素戔嗚尊(スサノオノミコト)、八岐大蛇を斬りて天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を得たり……』」
紙片の内容は、僕が隠しクエストで目にした壁画の情景そのものだった。
「誰かがこの剣を抜く必要があるみたいだな」
キリトが顎を撫でながら分析した。
「ボス戦のトリガー(鍵)ってわけか」
衆人の視線が攻略組の中を彷徨い始めた。ある者はヒースクリフを、ある者は各ギルドのリーダーを見る。だが、それ以上に多くの視線が――僕に集中していた。
「おい、あのソロプレイヤー、打刀使いじゃなかったか?」
「天守閣の隠し部屋をソロで攻略したって噂だぞ……」
「あいつにやらせてみるか?」
囁き声が周囲に伝染していく。ヒースクリフは態度を保留し、静かに僕の反応を注視していた。
僕は溜息をつき、人垣を割って『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』へと歩み寄った。
柄を握り、ゆっくりと引き抜く――。
刃が鞘走った刹那、ボス部屋全体が激しく振動した。草薙剣の刀身が不吉な紫黒の光を帯び、まるで脈打つかのように震えている。
宙に浮いていた紙片が突如として発火した。青白い、妖異な炎だ。
「下がれ!」
ヒースクリフの警告と同時、燃え尽きた紙の灰が空中で凝縮し、形を成していく――。
まずは骨格、次いで筋肉、最後に甲冑。
紫黒の雷電が部屋の中央で炸裂し、強烈な閃光が全員の視界を奪った。視力が戻った時、そこには身長五メートルを超える巨人が君臨していた。
『須佐之男命(スサノオノミコト)』
古代の戦鎧を纏い、頭には龍角の兜。右手にはプレイヤーが引き抜いた『草薙剣』と瓜二つの巨刃を握り、左手には雷紋が刻まれた円盾を装備している。最も不安を煽るのはその瞳だ――瞳孔はなく、あるのは混沌とした青い電光のみ。
なるほど……。
ボス戦の発生条件(トリガー)は、プレイヤーの手でこの『贋作(レプリカ)』を抜刀させることだったわけか。
スサノオノミコトがゆっくりと巨刃を振り上げた。青い雷光が刃に収束していく。
「戦闘用意!」
ヒースクリフの号令が場を圧した。
数百の武器が一斉に抜かれる音が、豪雨のごとく響き渡る。
僕は部隊の側翼(サイド)へと退避し、『シュンエイ・ブレード』を構えた。
スサノオノミコトの巨刃が振り下ろされた瞬間、ボス部屋の地面が悲鳴を上げた。
青い雷光が衝撃波となって炸裂し、前衛(タンク)部隊の盾職たちが紙屑のように吹き飛ばされる。HPバーが一斉に削り取られ、装備の甘い数名は一撃でイエローゾーンへ突入した。
「――散開! 正面から受けるな!」
ヒースクリフが十字盾(クロス・シールド)を構えて割り込み、第二撃を真正面から受け止めた。昏い空間に金属衝突の火花が散り、彼のブーツが石床を削って二本の深い溝を刻む。
やはり、こいつの攻撃判定は通常のボスとは桁が違う……。
僕は姿勢を低くし、戦場の縁を疾走した。
アスナのレイピアが銀色の軌跡を描き、彼女率いる敏捷特化(アジリティ)部隊が蜂の群れのように側面から食らいつく。数十のソードスキルの光が同時に輝くが、スサノオノミコトは僅かに身を捻ると、左手の雷紋円盾を猛然と地面に叩きつけた――。
ドォォォン!
青い雷電が円盾を中心にドーナツ状に拡散し、肉薄していたプレイヤーを一瞬で弾き飛ばす。回避の遅れた数名のHPが、レッドゾーン寸前まで落ち込んだ。
「こいつ、防御動作(モーション)が正確すぎる……」
キリトが歯噛みしながら、片手剣で弧を描き、ボスの死角(ブラインド・スポット)へ切り込もうとする。
だが、スサノオノミコトはまるで彼の動きを予測(リード)していたかのように、巨刃の軌道を変化させた――振り抜くはずだった斬撃を中途でキャンセルし、横薙ぎへと移行する。刀身に纏わりつく雷光が暴発的に膨れ上がった。
「キリト! 下がれ!」
思考より先に体が動いた。『シュンエイ』を抜き放つと同時に、スキルの光エフェクトが輝く――。
――《ファントム・レイド》。
僕の剣技とボスの紫電が空中で激突した。爆裂する衝撃波が僕とキリトを同時に吹き飛ばす。背中を石壁に強打し、HPバーがガクリと減る。
「くっ……サンキュ」
キリトは即座に体勢を立て直し、切っ先を再びボスへ向けた。
「あの技、システム規定のソードスキルじゃない……」
「ああ、可変技(モーフィング)だ」
僕は痺れた手首を振った。
「こいつの行動パターン(モジュール)、通常の両手剣ボスの倍以上の派生(バリエーション)があるぞ」
戦場の中央では、ヒースクリフが攻勢を再構築していた。血盟騎士団の精鋭たちが十字盾を核として、鉄壁の包囲網を敷く。スサノオノミコトが広範囲攻撃の予備動作に入るたび、数名のプレイヤーが同時に《プロボーグ》を発動し、ボスのヘイト(敵意)ターゲットを強制的に撹乱する。
「今だ! 攻撃手(アタッカー)、左脚へ集中しろ!」
ヒースクリフの指示に従い、数十名の両手剣使いが一斉に《アバランチ》を発動した。重厚な巨剣が次々とスサノオノミコトの左膝に叩き込まれ、ついにその巨躯が僅かによろめく。
HPバーが初めて明確に減少した。
「効いてるぞ! 押し切れ!」
戦場の士気が跳ね上がる。だが、全員が畳みかけようとした矢先、スサノオノミコトは突如として草薙剣を頭上高く掲げた――。
混沌とした青い雷雲が、部屋の天井付近に凝集していく。
「総員防御!」
次の瞬間、無数の雷槍が天から降り注いだ。
青い雷の雨だ。
僕は猛然と転がって回避するが、一筋の雷光が肩を掠め、激しい麻痺感が走った。右腕が無数の針で刺されたように痛み、動作が鈍る。視界の端に『麻痺』のアイコンが踊る。完全硬直ではないが、攻撃のリズムは完全に破壊された。
「気をつけて! 受けちゃ駄目!」
アスナの声が雷鳴の中で鋭く響く。彼女はレイピアで銀の幕を張り、辛うじて数本の雷光を弾いたが、それ以上の雷がプレイヤーの群れに突き刺さった。
戦場は一瞬で阿鼻叫喚と化した。
前衛の盾職たちが必死に大盾を掲げるが、金属表面に雷が直撃するたびに刺すような火花が散る。装備の劣るプレイヤーが膝をつき、HPバーが目に見える速度で溶けていく。
その時、ヒースクリフの十字盾が眩い紅光を放った。彼は雷雨の中を突進し、剣先をスサノオノミコトの胸板へ向けた。ボスは雷撃を中断せざるを得ず、防御のために草薙剣を掲げる――。
ガキンッ!
鼓膜を圧する金属音。ヒースクリフはあの巨刃を真正面から押し返したのだ。ほんの半歩だが、それこそが絶好の好機(チャンス)を生み出した。
「今だ!」
僕は右腕の麻痺を気力でねじ伏せ、『シュンエイ』を再び走らせた。ダッシュの慣性を乗せ、刃をボスの右膝へ突き立てる――。
切っ先が甲冑の継ぎ目に吸い込まれ、スサノオノミコトが初めて苦痛の咆哮を上げた。
巨人が、ガクリと片膝を地面に突いた。
「効いてるぞ! 右脚を制圧し続けろ!」
キリトが側面から切り込み、『アニール・ブレード』が完璧な弧を描いた。彼のソードスキルに派手なエフェクトはないが、一撃一撃がボスの関節を正確に捉えている。重装戦士たちも好機を逃さず、バトルアックスやウォーハンマーを同じ箇所に叩き込んだ。
スサノオノミコトが突如として激昂した。
左手の雷紋円盾を猛然と振り払う。彼を中心として環状の衝撃波が炸裂した。至近距離にいた数名のプレイヤーが紙切れのように吹き飛ばされ、石壁に叩きつけられる。
「散開! 範囲攻撃(AoE)だ!」
僕はバックステップで衝撃波を回避しようとしたが、麻痺の残留効果(エフェクト)が動作をコンマ数秒遅らせた。円盾の縁(リム)が胸元を掠め、アーマーが悲鳴を上げる。HPが一瞬で15%消し飛び、呼吸が止まった。
――こいつ、変則技(モーフィング)が多すぎる。
通常の両手剣ボスの攻撃パターン(ルーチン)はせいぜい三、四種類だ。だがスサノオノミコトのあらゆる動作は、途中で軌道を変える可能性がある。今のシールドバッシュも、本来なら上段からのスマッシュであるはずが、動作の半ばで横薙ぎに変化した。システム規定のスキル軌道を完全に逸脱している。
「欲張るな! 一撃離脱(ヒット・アンド・アウェイ)だ!」
ヒースクリフが冷静に指揮を執る。血盟騎士団の精鋭たちはローテーション戦術に移行し、同時に攻撃するのは二、三人に留め、他は即座にスイッチできるよう待機する。
この堅実な戦法がついに功を奏した。
スサノオノミコトのHPが緩慢に、しかし確実に削られていく。75%……70%……。攻撃パターンが変化するたび、誰かが即座に盾となって致命打を防ぎ、仲間の退路を確保する。
65%――。
HPがその数値を割った瞬間、スサノオノミコトは唐突に全ての動作を停止した。
ゆっくりと直立し、草薙剣と雷紋円盾が同時に刺すような紫光を帯びる。
第二形態(フェーズ2)に入る――。
全員が神経を張り詰めた。
だが、予想された広範囲殲滅攻撃は来なかった。スサノオノミコトはただ草薙剣を高く掲げ、切っ先を天井に向けただけだ。
青い雷雲が再び収束する。だが今度の範囲は先ほどより遥かに狭く、彼自身の周囲五メートルほどを覆うのみだった。
「あれは……?」
次の瞬間、答えが示された。
十二本の雷光が、同時にスサノオノミコト自身を直撃したのだ。
甲冑の隙間から眩い電芒(でんぼう)が迸(ほとばし)る。元来の紫黒色だった甲冑は幽青色の光暈(ハロー)に染め上げられ、あの混沌としていた瞳までもが、雷霆(らいてい)のごとき青白色へと変貌した。
HPが45%で固定された瞬間、その挙動が爆発的に加速した。
「下がれ――!」
ヒースクリフの警告は一歩遅かった。
スサノオノミコトの草薙剣が信じ難い速度で横薙ぎに閃く。大盾を構えた三人のプレイヤーが、盾ごと吹き飛ばされた。その内の一人の盾は粉々に砕け散り、HPが瞬時にレッドゾーンへ突入する。
「速すぎる……!」
キリトが歯を食いしばって後退し、追撃の二太刀目を辛うじて受け流す。アスナのレイピアが側面からボスの喉元を狙うが、命中する寸前、雷紋円盾に阻まれた――。
ドォォン!
円盾から放たれた衝撃波が彼女を吹き飛ばし、細剣(レイピア)が手から弾き飛ばされる。
攻撃の隙(クールタイム)がない……。
僕は刀を握り締めたが、切り込むタイミングが見つからない。スサノオノミコトの連撃は流れる川のごとく途切れず、巨刃と円盾の連携(コンビネーション)は完璧で、システム制御されたボスの挙動とは到底思えなかった。
円盾があらゆる攻撃を正確に防御(ブロック)する。さらに恐ろしいのは、攻撃のリズムが一切乱れないことだ。草薙剣は依然として恐怖すべき頻度で前衛を斬り刻んでいる。
「駄目だ! ヘイトが完全に固定できない!」
一人の盾使いが巨刃に肩を削られ、鎧が紙のように裂けた。よろめいて後退し、ポーションに手を伸ばそうとした刹那、二撃目が胸元に迫る――。
ガキンッ!
千鈞一髪、ヒースクリフの十字剣が割り込み、その致死の一撃を強引に受け止めた。火花が散り、彼のブーツが床に二本の深い溝を穿つ。
「陣形再編! 防御を最優先にしろ!」
攻略組は戦線を縮小し、前衛が互いをカバーしながら後退を始める。だがスサノオノミコトの攻勢は衰えるどころか激化し、草薙剣の軌道はより刁鑽(ちょうさん)に、ある時は落雷のように直下し、ある時は毒蛇のようにうねり、空中で軌道を変えることさえあった。
HPは45%で膠着しているが、プレイヤー側の被害(ダメージ)は蓄積していく一方だ。
「このままじゃジリ貧(・・・・)で各個撃破される……」
僕は深く息を吸い、突如として戦場の側翼(フランク)へ走り出した。麻痺効果はすでに消滅しており、『シュンエイ・ブレード』の雷紋が薄暗いボス部屋で微光を放っている。
スサノオノミコトは僕の動きを察知したらしい。草薙剣が軌道を変え、眼前の獲物を放棄して僕へと振り下ろされる。
――釣れた。
巨刃が触れる寸前、急制動(ブレーキング)で方向転換する。刃風が鼻先を掠め、風圧が頬を打つ。奴が体勢を戻す僅かな硬直(ディレイ)、僕は全力で突っ込んだ――。
――《フリージング・エッジ》。
スサノオノミコトが苦悶の声を上げ、その動作についに遅延(ラグ)が生じた。
「今だ! 右膝に集中攻撃(フォーカス)!」
その刹那の好機を逃さず、数十名のプレイヤーが一斉にスキルを解放した。剣技の光が暗い空間に網を描き、ついにその巨躯をよろめかせる。
HPが再び減り始める――44%……43%……。
だが、誰もが形勢逆転を確信したその時、スサノオノミコトは唐突に全ての動作を停止した。
彼はゆっくりと直立し、草薙剣と雷紋円盾を胸の前で交差させた。青い雷雲が部屋の天井で狂ったように収束し、電蛇のごとき雷光が彼の周身を覆い、不可侵の結界を形成していく。
「溜め(チャージ)攻撃だ! 不用意に近づくな!」
ヒースクリフが鋭く警告する。詠唱(キャスト)中断を狙って接近した数名のプレイヤーが、雷光に触れた瞬間に弾き飛ばされ、HPが一瞬で20%消し飛んだ。
天井を見上げる――雷雲の渦はすでにボス部屋の直径を覆い尽くすほどに密集している。青白い電光が雲層を走り、背筋が凍るようなパチパチという音を立てていた。
――この規模の攻撃……躱しきれるか?
天井の雷雲の渦は極限まで膨張し、無数の怒れる蛟龍(こうりゅう)のごとき電光がのたうち回っている。ボス部屋全体が明滅し、空気中には濃厚なオゾン臭が充満し、呼吸するたびに微細な電流が鼻腔を刺激した。
スサノオノミコトは溜めの姿勢を維持し、交差させた剣盾の周囲には密度の高い雷の網が展開されている。それを信じないプレイヤーたちが再度突進を試みるが、雷網に触れた瞬間に弾かれ、HPを蒸発させた。
あの時と同じだ……。
雲海の上、あの竜の雷霆も、今のこれと同じだった。
指が無意識に『シュンエイ』の刀身を撫でる。薄暗い光の中で、刃は微かな青い光を帯びていた。この刀はかつて神域の雷を弾き返した。ならば、目の前の雷電も――。
一歩目。砕けた石が散乱する地面を蹴り、スサノオノミコトの左側面へと跳躍する。巨神のごときボスは僕の意図を察知したのか、雷紋円盾の角度を微かに調整したが、チャージ状態による硬直がその動作を縛っていた。
二歩目。膝の甲冑の突起を足場にする。金属からの反作用でふくらはぎが痺れる。この高さでようやく奴の腰辺りだ。だが、まだ足りない――。
「はあぁぁっ!」
最後の蹴りに渾身の力を込める。靴底でボスの胸甲を激しく踏みつける。亀裂の入った装甲の装飾は完璧な足掛かりとなり、僕は放たれた矢のごとく上方へと駆け上がった。
視界が急速に上昇する。雷光に照らされ、スサノオノミコトの獰猛な貌(かお)が目と鼻の先に迫る。混沌とした雷の瞳孔に、刀を高く振りかぶった僕の影が映り込み、その瞬間、時間が凍結した。
天井の雷雲が、ついに充填(チャージ)を完了した。
ドォォォン――!
ドラム缶ほどの太さがある青白い雷柱が劈(つんざ)くように落ち、空中の僕を正確にロックオンした。回避の余地はない。思考する時間さえない。本能だけが両手を突き動かし、刀を頭上へと掲げさせた――。
世界が雷光で純白に塗り潰される。
青白い電蛇が刀身を伝って狂ったように奔流し、腕の麻痺ゲージ(メーター)が目視できる速度で暴騰し、限界値を突破しようとする。視界は眩い光で埋め尽くされ、耳には電流の轟音だけが残った。
手の中の刀が高周波で振動し、今にも砕け散りそうだが、奇跡的に全雷圧に耐えている。
――今だ!
最後の気力を振り絞り、手首を返す。極限まで蓄積された雷光が、切っ先に凝縮して眩い光球となる。
極限圧縮された青白き雷柱は天罰の剣となり、下から上へとスサノオノミコトの胸板を貫通した。神威を誇った甲冑は雷光の中で紙細工のように砕け散り、内部のデータ流(ストリーム)で構成された『血肉』を晒した。
HPバーが暴落する。42%から一気に18%へ。開戦以来、最大幅のダメージ。
ボス部屋全体が、白昼のように照らし出された。
プレイヤーたちの驚愕の声は、雷霆の轟音にかき消される。スサノオノミコトが初めて苦痛の絶叫を上げ、巨躯をよろめかせて後退した。草薙剣と雷紋円盾が同時に手から離れ、ガシャンと重い音を立てて落下する。彼を覆っていた雷網は寸断され、天井の雷雲の渦も霧散を始めた。
そして僕は――。
雷反(サンダー・リフレクション)を完了した瞬間、全身の力が完全に抜け落ちた。麻痺ゲージが完全に振り切れ、視界の端に『重度麻痺』の真紅の警告(アラート)がポップする。
墜落。
雲海の上のような不思議な浮遊感はない。あるのは冷徹な重力加速度だけだ。朦朧とする視界の中で、キリトが必死に駆け寄ってくる姿と、ユキイが差し伸べた手が見えた――。
だが、全ては遅すぎた。
背中から石床に叩きつけられる。衝撃で、残存HPがさらに削り取られた。
意識がゆっくりと水面へ浮上するにつれ、最初に感じたのは、後頭部に伝わる柔らかい感触だった。
目を開けると、ユキイの少し俯いた顔が視界に飛び込んできた。彼女は僕を覗き込んでおり、金色の髪がボス部屋の薄暗い光の中で柔らかな艶を放っている。その氷藍(アイス・ブルー)の瞳には、微かだが安堵の色が浮かんでいた。
「……起きた?」
「ああ」
上半身を起こして、ようやく自分が先ほどまで彼女の膝に頭を預けていたこと(膝枕)に気づいた。
「誤解しないで。たまたま一番近くにいただけよ」
ユキイはプイと顔を背けたが、耳の先は微かに赤らんでいた。
「団員に見られたら体裁が悪いでしょ。団長自らおんぶして運んだなんて」
遠くから歓声が聞こえてきた。スサノオノミコトの巨躯が無数のポリゴンの欠片となって霧散していく最中だった。攻略組のプレイヤーたちが武器を掲げて勝利を祝っている。数名の血盟騎士団員がポーションを配って回り、部屋の中央ではヒースクリフが十字剣を鞘に納めていた。
「勝ったのか?」
「当然でしょ。無茶する誰かさんが、ボスを瀕死まで削ったお陰でね」
ユキイは軽く鼻を鳴らし、立ち上がって制服の埃を払った。
「それにしても、よくやったわね。あんな雷、まともに受け止めるなんて」
答えようとした矢先、周囲がにわかに騒がしくなった。
「おい見ろ! 『青い閃光』が目覚めたぞ!」
「マジか? あの打刀で雷撃を跳ね返した奴だよな?」
「凄すぎだろ! あんなの特撮映画でしか見たことねぇよ!」
プレイヤーたちが三々五々に集まってくる。その視線には好奇心と敬意が混じり合っていた。『風林火山』のメンバーと思しき数人が親指を立てて見せ、『聖竜連合』の連中は「ソロであれだけの動きをするとは」と小声で囁き合っている。
「青い閃光……?」
僕が訝しげにユキイを見ると、彼女はプッと吹き出した。
「おめでとう。貴方にも二つ名(ニックネーム)がついたわね」
彼女は悪戯っぽく瞬きをした。
「『黒の剣士』とかより、ずっとカッコいいじゃない?」
「……勘弁してくれ」
立ち上がると、麻痺効果は完全に消えていたが、筋肉にはまだ幾分の怠さが残っていた。
人垣を割ってアスナが歩いてくる。手にはハイポーションの瓶を持っていた。
「はい、騎士団からの配給分よ」
彼女は微笑みながらポーションを差し出した。
「さっきの技、本当に凄かったわ。団長も称賛してたもの」
受け取って蓋を開け、一気に飲み干す。相変わらず眉を顰(しか)めたくなるような甘ったるいイチゴ味だが、HPは緩やかに満タンまで回復した。
「ありがとう」
「お礼ならユキイに言ってあげて」
アスナは隣の金髪の少女を指差した。
「彼女がずっと、貴方を背負って安全地帯まで運んだんだから」
ユキイの顔が瞬時に沸騰した。
「あ、アスナ! それは言わない約束でしょ!」
「あら? 私は事実を言っただけだけど――」
「黙ってて!」
頬を膨らませて怒るユキイを見て、僕は思わず声を上げて笑ってしまった。彼女は即座に睨みつけてきた。その目は毛を逆立てた猫のように険しい。
「何笑ってんのよ! 次は野垂れ死にさせるからね!」
「はいはい、命の恩人に感謝するよ」
周囲のプレイヤーたちから善意の笑い声が上がった。先ほどの雷反(サンダー・リフレクション)の動作を真似する者もいれば、「青い閃光、もう一回!」と叫ぶ者もいる。
ボス部屋の天井では、最後の雷雲の残滓が消えようとしていた。
『Congratulations! 第三十三層フロアボス「Susanowo-No-Mikoto」討伐完了!』
『第三十四層への転移ゲートが活性化しました』