「キリト?」
僕はその名を小さく反芻し、柄を握る指に力を込めた。
目の前に立つ、キリトと名乗ったプレイヤーは、黒いレザーコートに身を包んでいた。露わになっている顔立ちは青白く鋭利で、その漆黒の瞳は光さえも飲み込むブラックホールのようだ。年齢は僕と同じくらいだろうか。だが、その纏う雰囲気(オーラ)は、幾多の死線を潜り抜けた古強者のそれだった。
「緊張しないでくれ」
キリトは両手を軽く上げ、敵意がないことを示した。
「ただ確認したかっただけだ。あんたも、あの情報(ネタ)を掴んでるのかってね」
「情報?」
「宝箱の中身についてさ」
彼は首を傾げ、僕の背後にある豪奢な宝箱に視線をやった。
「ガーゴイル・ロードに特効ダメージを与える武器が入ってるって噂だ」
アルゴはそのことには触れていなかった。僕は目を細め、キリトの一挙手一投足を観察する。彼の立ち姿は一見無防備だが、実のところ攻撃にも防御にも瞬時に移行できる「自然体」だ。背中に負った黒い長剣も、ただの初期装備ではないだろう。
「情報屋か?」
僕は探りを入れる。
キリトの口元が微かに緩んだ。
「まあ、似たようなものかな。俺は『情報交換』って呼ぶほうが好きだけど」
彼が一歩前へ出る。僕は即座にバックステップで間合いを保つ。キリトは苦笑して足を止めた。
「本当にやり合う気はないんだ。ただ……俺たちは協力(パーティ)できるんじゃないかと思ってね」
「理由は?」
「効率(レート)だ」
キリトは宝箱を指差した。
「あの箱にはトラップが仕掛けられてる。一人で解除するのは骨が折れる。それに……」
彼の眼差しが鋭さを増す。
「ガーゴイル・ロードが、もうすぐ帰ってくる」
彼の言葉を裏付けるように、遠くから重苦しい羽音が響いてきた。地響きと共に、巣全体が微かに震動する。耳を澄ますまでもない。音源は急速に接近している。
「あと三分」
キリトは早口に言った。
「解錠に二分、撤退に一分だ」
時間がない。僕は瞬時に利害を計算した。眼前の黒衣の剣士は只者ではない。協力こそが最善手だ。だが……。
「条件は?」
「中身は山分けだ」
キリトは即答した。
「武器が出たらあんたが優先でいい。俺はコルと素材だけ貰えれば」
羽音はさらに大きくなり、石壁が軋む音まで聞こえ始めた。交渉している暇はない。
「商談成立だ」
キリトは弾かれたように動き出し、宝箱の前にしゃがみ込んだ。僕もすぐさま隣に並び、複雑なルーン文字の錠前を確認する。
「両側のルーンを同時押しだ」
キリトが箱の左右にある窪みを指し示す。
「左はあんた、右は俺がやる。三カウントでいくぞ」
僕は頷き、左手の指をルーンに添えた。キリトの手が右側に触れる。
「ワン、ツー、スリー!」
同時に力を込める。ルーンが眩い青光を放った。蓋がゆっくりと持ち上がり、同時に暗赤色の光線が内部から射出されたが、僕らの顔の数センチ手前で霧散した。
「ナイス」
キリトは手早く中身を物色し始めた。
「あった!」
彼が掲げたのは、青い燐光を纏う短剣だった。刀身は細長く、波打つような刃紋が刻まれている。
『ソニック・ダガー』
『特殊効果:攻撃時30%の確率で音爆(ソニックブーム)を発生させ、石質系の敵に追加ダメージ』
「おあつらえ向きだな」
キリトは短剣を僕に差し出した。
「約束だ。あんたが先だ」
僕は短剣を受け取る。驚くほど軽く、重心バランスも絶妙だ。普段使いの打刀とは勝手が違うが、ガーゴイル相手ならこちらのほうが分がある。
「恩に着る」
短く礼を言い、ダガーを腰に差した。
キリトは残りのコルと青く光る鉱石を素早くインベントリに収納していた。
遠くから響く震動はいよいよ激しさを増し、天井からパラパラと砂塵が舞い落ちてくる。
「ズラかるぞ」
キリトが立ち上がる。
「大家さんが玄関にお着きだ」
その時だった。入り口から鼓膜を破らんばかりの咆哮が轟いた。
同時に振り返った僕らの目に映ったのは、通路を無理やり押し広げるようにして侵入してくる巨大な黒影だった。通常のガーゴイルの五倍はある巨躯。全身を暗赤色の結晶体に覆われ、展開された翼は入り口を完全に塞いでいた。
『ガーゴイル・ロード Lv.12』
『フィールド・ボス』
「予定変更だ」
キリトは背中の黒剣を引き抜いた。
「どうやら一戦やるしかないみたいだな」
「撤退するんじゃなかったのか?」
僕は眉をひそめた。
「そのつもりだったさ」
キリトは苦々しげにロードの背後を指差す。
「だが、あいつが出口を塞いじまった」
確かに。ロードの巨体が退路を完全に遮断している。生き残る道は、こいつを倒すか、あるいは……。
「他の出口は?」
キリトは首を振った。
「あの壁をぶち抜けるなら話は別だがな」
彼が指したのは、玉座の後ろにある頑強な石壁だった。
「だ――」
彼が言い終わるのを待たず、僕はロードの左側面へと駆け出した。ソニック・ダガーが空中に青い軌跡を描く。
「おい! 待て!」
背後でキリトが叫ぶが、もう遅い。
ロードは不届きな侵入者を認め、耳をつんざく咆哮を上げた。右の爪が凄まじい速度で振り下ろされる。僕は辛うじて身を捩り、ダガーで爪を擦り上げるように受け流す。
浅い傷。
「弱点は胸の赤い結晶だ!」
キリトが叫び、逆サイドから斬り込んだ。彼の黒剣は深紅のエフェクトを纏い、ロードの左脚に重い一撃を叩き込む。
ロードが苦痛に顔を歪め、キリトへ向き直る。
好機。僕はロードの背後へ回り込み、関節の隙間にソニック・ダガーを突き立てた。
――《ソニックブーム》発動。
衝撃波が炸裂し、ロードの巨体が硬直する。動きが目に見えて鈍った。
「いい連携(スイッチ)だ!」
回避行動の合間にキリトが声を張り上げる。
「俺がメインで削る(DPSを出す)。あんたは音爆(ソニック)で動きを止めてくれ!」
僕は答えず、黙ってその戦術を受け入れた。キリトの火力は僕より明らかに上だ。彼が主攻(アタッカー)を務め、僕が新兵器でサポートに回る。それが最適解だ。
その後の戦闘は、まさに死闘と呼ぶに相応しいものだった。ロードは巨体に似合わず俊敏で、攻撃パターンも多彩だ。爪撃、翼による薙ぎ払い、さらには口腔から礫(つぶて)をマシンガンのように吐き出してくる。
僕のHPは瞬く間に半分以下(イエロー)に落ち込み、中級ポーションでの回復を余儀なくされた。
「気をつけろ! レイジモードに入るぞ!」
キリトが警告を発した。
直後、ロードの全身から眩い赤光が噴き出した。攻撃速度と威力が倍加する。暴風のような爪が襲い来る。僕はダガーで受け止めたが、衝撃を殺しきれず数メートル吹き飛ばされた。
「耐えてくれ!」
キリトはいつの間にかロードの背後(ブラインド・サイド)を取っていた。黒剣がかつてないほどの深紅の輝きを放っている。
「これで……倒れろォッ!」
暗紅色の斬撃が閃き、ロードの背にある赤い結晶を正確に断ち割った。ロードが絶叫し、全身の結晶体に亀裂が走る。
「ラストアタック!」
キリトが叫ぶ。
「胸を狙え!」
僕は歯を食いしばって踏み込んだ。全身全霊を込め、ソニック・ダガーを突き出す。狙うは胸部中央、最大級の赤色結晶。
切っ先が結晶に触れた瞬間、青白い閃光が炸裂した――。
ロードは最期の咆哮を残し、その巨躯を轟音と共に地に伏せた。次の瞬間、膨大な量のポリゴンとなって爆散する。
巣全体が激しく揺れ、天井から瓦礫が雨のように降り注ぎ始めた。
「走れ! ここが崩れるぞ!」
キリトが僕の腕を掴み、玉座の裏側へと強引に引っ張る。
「出口はないんじゃなかったのか?」
僕は彼の手を振りほどき、背中を追って走った。
「たった今見つけたんだ!」
キリトは玉座の後方を指差した。ロードが消滅した直後、石壁に亀裂が走っていた。
「あいつの死(デッド)がトリガーになって開いたみたいだ」
僕たちは亀裂に身体をねじ込み、狭い脱出通路へと滑り込んだ。背後で轟音と共に広間が崩落していく音が聞こえる。だが、もう安全圏だ。
通路は緩やかに上り続け、やがて迷宮区の外郭にある小さな洞穴へと通じていた。
洞口から夕陽が差し込んでいる。久々の強烈な明かりに、僕は思わず目を細めた。
「はぁ……。生き残ったな」
キリトはその場にへたり込み、黒い長剣を無造作に放り出した。
「やるじゃないか、コーカン」
僕は岩壁に背を預けて座り込み、自身のダメージを確認した。HPの残量は180。早急に街へ戻って回復する必要がある。
「あんたもな」
短く返す。
キリトは笑って立ち上がり、右手を差し出してきた。
「改めて自己紹介を。キリトだ。あんたと同じ、ソロだ」
一瞬の逡巡。だが、僕はその手を握り返した。
「コーカンだ」
「さて、コーカン」
手を離すと、キリトの表情が真剣なものに変わった。
「今日のことだが……」
「他言はしない」
僕は彼の言葉を遮った。
「あんたもだ」
キリトはきょとんとした後、理解したようにニヤリと笑った。
「商談成立だ」
彼は洞口へと背を向ける。
「次に会う時も、こうして平和的にやりたいもんだな」
「待て」
僕は呼び止めた。
「ロードのドロップアイテムはどうする」
「約束通り、山分けだ」
キリトは振り返りもせずに手を振った。
「素材はあんたにやる。俺はコアを貰うよ。それと紅水晶(レッド・クリスタル)……こいつは俺の手間賃ってことで」
言い残し、彼の姿は逆光の中へと消えていった。食えない奴だ。
洞穴を出ると、日はすでに沈みかけていた。夕闇に沈む腐敗の森は、いよいよ禍々しい様相を呈している。僕は足を速め、夜の帳が完全に下りる前にはじまりの街へと帰還した。
***
街の灯りは相変わらず暖かく、迷宮区の冷気とは対照的だった。僕は一直線に宿屋へ向かい、休息を取ろうとした。
だが、ロビーに足を踏み入れた瞬間、聞き覚えのある声が僕を捉えた。
「コーちゃん(・・・・・)〜。今日は大収穫だったみたいだネ〜」
ロビーの隅、薄暗い影の中にアルゴが座っていた。琥珀色の瞳が怪しく光っている。テーブルには湯気を立てる二つのカップ。僕がこの時間に戻ってくることを予期していたようだ。
「情報屋ってのは皆そんなに神出鬼没なのか?」
僕は彼女の向かいに座った。
「職業病だヨ〜」
アルゴがお茶を勧めてくる。
「あの黒ずくめと二人でロードを狩ったんだッテ? 噂が広まるのは予想以上に早いネ」
お茶を一口啜る。渋みの中に微かな甘さがあった。
「あんたの情報には誤りがあったぞ」
「おやおや〜」
アルゴは大袈裟に胸を押さえた。
「そいつは傷つくネ。どこが違ったんだイ?」
「宝箱のトラップの種類。それにロードの攻撃パターンだ」
僕は彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「へいへい、わかったヨ〜」
彼女は立ち上がった。
「次の情報料はまけてやるからサ、コーちゃん」
次に顔を上げた時、彼女はいつもの如く跡形もなく消え失せていた。
***
それから三日間、僕は迷宮区に籠りきりだった。
早朝に出発し、日没と共に帰還する。《ソニック・ダガー》は腰の隠しポーチに忍ばせ、対ガーゴイル戦のみ抜刀する。打刀の刃は研ぎ澄まされ、ソードスキルの連携(コネクト)は日増しに滑らかになっていった。
四日目の早朝。
いつものように宿屋の前で装備の確認をしていると、魚の匂いを嗅ぎつけた猫のように、アルゴが音もなく現れた。
「おはよ〜。勤勉なソロプレイヤーさん」
彼女は小首を傾げる。頬に描かれた髭のペイントが、朝の光の中でやけに目立っていた。
「聞いたかイ? ディアベルの奴が攻略組を組織してるって話」
僕は顔を上げずに作業を続けた。
「おやおや、つれないネ〜」
アルゴは芝居がかった溜息をつく。
「二十人以上の高レベルプレイヤーを集めて、迷宮区の最深部を攻略するつもりらしいゾ」
「ディアベル?」
僕はそこでようやく反応を返した。
「何者だ?」
「自称『騎士(ナイト)』サ」
アルゴは唇を尖らせた。
「四六時中『みんなのために』なんて言ってる奴だケド、腕は確かだヨ。レベルはもう10に達してるらしい」
僕は鼻を鳴らした。
レベルの高さが実戦能力に直結するとは限らない。特にこのデスゲームにおいては。だが、二十人もの人間をまとめ上げる統率力(カリスマ)があることは事実なのだろう。
「奴らは昨日から迷宮区に入ってる」
アルゴは言葉を続けながら、視線を僕の腰元へと滑らせた。
「面白いモノをたくさん見つけたらしいゾ……」
僕は反射的に隠しポーチを押さえた。ソニック・ダガーの存在を悟られないように。
それを見たアルゴの口元が、悪戯っぽく歪む。
「警戒するなッテ〜。君の秘密に興味はないヨ」
彼女はひらひらと手を振った。
「でもま……もし迷宮区で何か『特別』なモノを見つけたら、優先的にあたしに売ってくれヨ〜」
言い残すと、彼女はまたしても朝霧の中へと溶けるように消えた。後に残ったのは、淡いインクの匂いだけだ。
僕は首を振り、迷宮区への道を急いだ。腐敗の森のルートはすでに熟知している。目を閉じていてもトラップ床(スワンプ)を避けて歩けるほどだ。
見慣れた入り口をくぐり、僕はここ数日とは異なるルートを選択した。
下へと続く螺旋階段。アルゴの追加情報(アペンド)によれば、この先には未踏破エリアが広がっている可能性がある。
階段の最下層は、広大な円形ホールになっていた。
壁面には青く発光する水晶が埋め込まれ、空間全体を幻想的に照らし出している。
ホールの正面には巨大な石扉が鎮座し、その表面には複雑怪奇なルーン文字が刻まれていた。
特筆すべきは、扉の両脇に立つ二体の彫像だ。フルプレートに身を包んだ騎士が、長剣と盾を構え、入り口を厳粛に守護している。
「鍵が必要なのか……」
僕は独りごちて、周囲を調査し始めた。
ホールには、僕が入ってきた入り口とこの石扉以外に通路らしきものは見当たらない。壁面の水晶配列は一見ランダムに見えるが、注意深く観察すると、ある種の法則性を持って配置されているのがわかった。
まるで星座のような――あるいは、地図のような。
水晶の配列を考察していた最中、背後から足音が響いた。
僕は即座に反転し、打刀を半ばまで抜き放つ。
「緊張するなよ。俺だ」
聞き覚えのある声。影の中からキリトが姿を現す。黒のコートは埃に塗れ、激戦を潜り抜けてきたことが見て取れた。
「またあんたか」
僕は警戒を解かない。
「ストーキングか?」
「ただの偶然さ」
キリトは肩をすくめ、反対側の通路を指差した。
「俺はあっちから来た。ディアベルの攻略部隊がエリアを掃除した直後だ」
そこで初めて、彼の手にある一冊の書物に目が留まった。青い燐光を放つ表紙に、金色の文字が浮かび上がっている。薄暗い光の中で、そのタイトルは一際目を引いた。
『アインクラッド攻略本』。
「それは?」
キリトは頷き、無造作にその本を放ってよこした。
「読んでみろよ。どうせ内容は同じだ」
受け取ると、予想外の重量感があった。
最初のページを開く。整然としたフォントで、こう記されていた。
『アインクラッドに囚われたプレイヤー諸君へ』
『この攻略本は第一層迷宮区の基礎情報を網羅している。ベータテスターの有志が編纂したものだ。このデスゲームを生き抜く助けとなることを祈る』
『――君たちの仲間より』
続く数十ページには第一層の地形、モンスター分布、宝箱の位置、ボス部屋の予備情報まで詳細に記録されている。
最終ページには赤ペンで特記事項がマーキングされていた。
『第一層フロアボス:イルファング・ザ・コボルド・ロード』
『武器:ボーンアクス/タルワール(第二段階で変更)』
『特殊スキル:ルイン・コボルド・センチネル(狼人護衛)の召喚』
『弱点:火属性攻撃』
「ボス部屋は特定されたのか?」
僕はページを捲りながら問う。
「ああ。ディアベルの班が見つけた」
キリトは壁に寄りかかり、黒剣を肩に担ぐようにして掛けた。
「高レベルプレイヤーを総動員して挑むつもりらしい。攻略会議の準備中だ」
本を閉じ、キリトに投げ返す。
「どう思う?」
「急ぎすぎだ」
キリトは本を受け取ると、珍しく険しい表情を見せた。
「攻略本の情報じゃ、イルファングは第二形態(フェーズ)で武器を持ち替えることになってる。だが、具体的な攻撃パターンの記述が一切ない。ベータの時とは別物かもしれん」
「罠か?」
「可能性は高い」
キリトは頷く。
「茅場晶彦はそういう遊びが好きだからな。救いの手を差し伸べるフリをして、致命的なバグ(欠陥)を仕込む」
僕は沈思する。確かに、あの狂った設計者がそう簡単に善意を施すとは思えない。この攻略本の出現自体が怪しい――なぜ今になって配布されたのか? なぜボス部屋を見つけた者たちだけに?
「会議に出るのか?」
僕は尋ねた。
キリトは首を振る。
「いや。傍聴するだけだ」
一拍置いて、彼が問う。
「あんたは?」
「興味ない」
出口へと歩き出す。
「集団行動(ギルド)は性に合わない」
「賢明な判断だ」
背後からキリトの声が追ってくる。
「だが……一通り目を通しておいたほうがいい。少なくとも、危険地帯(デンジャー・ゾーン)くらいは把握できる」
僕は振り返らず、片手を上げて応えた。
階段を上るにつれ光量が増し、地上への接近を告げる。
***
はじまりの街に戻ると、夕陽が時計塔の影を長く伸ばしていた。
中央広場には普段以上の人だかりができている。仮設の木製演壇を囲むようにプレイヤーたちが密集し、その壇上には金髪碧眼の青年が立っていた――彼がディアベルだろう。
僕は群衆の外縁に立ち止まる。参加する気はないが、重要情報を逃すつもりもない。
「……明日の正午、ここで攻略会議を行う!」
ディアベルの声は力強く、透き通っていた。
「レベル8以上の者は必ず参加してほしい! 我々が団結しなければ、このデスゲームには勝てない!」
演説にはカリスマ性があった。周囲のプレイヤーたちが歓声を上げ、拍手を送る。
彼の腰には装飾過多な細剣(レイピア)が吊るされ、柄にはサファイアが埋め込まれていた――明らかに一般品(ドロップ品)ではない。
「皆の解放のために!」
ディアベルが拳を突き上げる。
「第一層を、共に攻略しよう!」
歓声が再び沸き起こる。僕はそっと群衆を抜け出し、宿へ戻ろうとした。
その時、小柄な影が立ちふさがった。
「態度を表明しないのかイ、独行者(ソロ)の旦那?」
アルゴが小首を傾げる。その瞳には、悪戯っぽい光が宿っていた。
「興味ない」
僕は彼女を避けて歩き出す。
アルゴは尻尾のように背後をついてきた。
「ディアベルの奴、わざわざ君のことを持ち出してたんだゾ〜」
「『ガーゴイル・ロードを討伐したプレイヤーにも是非参加してほしい』トカなんとか」
僕は足を止めた。
「なぜ奴がそれを?」
「そりゃあ、ま……」
アルゴは舌を出しておどけてみせた。
「情報屋もたまには口を滑らせるってコトだネ〜」
僕は溜息をついた。あの日の一件はやはり漏れていたか。まあ、キリトも居合わせのだから、情報が拡散するのは時間の問題だった。
「そんな顔するなッテ〜」
アルゴは懐から一冊の青い本を取り出した。キリトが持っていたものと同じ攻略本だ。
「ほら、詫びの印だ。中身はもう知ってるだろうケド」
本を受け取り、適当にページを捲る。
「なぜ今になって配布した?」
「さあネ〜」
アルゴは肩をすくめた。
彼女の口調は軽薄だが、僕は本を閉じ、ふと疑問を投げかけた。
「あんたは攻略組に参加するのか?」
「あたしが?」
アルゴは大袈裟に自分を指差した。
「冗談言わないでヨ〜。情報屋の価値は生きて情報を伝えることにある。砲弾の餌食(キャノン・フォルダー)になることじゃないサ」
理屈は通っている。だが、言葉の裏に何かを含んでいるような気がした。アルゴはボス戦の内部事情について、もっと深い何かを知っているのかもしれない。だが、それを共有する気はなさそうだ。
彼女はいつものように素早く身を翻し、黄昏の雑踏へと溶け込んでいった。
***
正午の陽射しが、はじまりの街の中央広場を焦がしていた。
僕は人混みの外縁、建物の影に身を潜め、仮設の演壇に集まるプレイヤーたちを眺めていた。ざっと見積もって二百人――デスゲーム開始から半月が経過した今、これは驚くべき数字だ。
壇上では、ディアベルが数人の重装備プレイヤーと低い声で言葉を交わしていた。今日の彼は白銀の軽鎧(ライト・アーマー)を纏い、腰の豪奢な細剣が陽光を反射して輝いている。
認めざるを得ない。彼には指導者(リーダー)としての資質がある――背筋は伸び、表情は揺るぎなく、挙手投足のすべてに自信が満ちていた。
「諸君!」
ディアベルのよく通る声が響き、広場の喧騒が波が引くように静まった。
彼は周囲を見渡し、僕がいるあたりで一瞬視線を止めたようだったが、すぐに次へと移した。
「第一層フロアボス攻略会議に参加してくれて、感謝する!」
彼は右手を胸に当て、模範的な騎士の礼を取った。
「私はディアベル。レベル11、片手直剣使いだ」
広場から感嘆の声が漏れる。レベル11はこの段階におけるトップ層(最前線)だ。これだけの陣容をまとめ上げるのも頷ける。
「先遣隊の探索により」
ディアベルは続けた。
「我々はボスの部屋を特定した。そして、ここにいる全員が、ベータテスターの有志によって編纂されたこの攻略本を受け取っているはずだ」
彼は見覚えのある青い本を掲げた。表紙の『アインクラッド攻略本』という金文字が煌めく。
「攻略本の記述によれば、第一層のボスは『イルファング・ザ・コボルド・ロード』。武器はボーンアクス。取り巻きの狼人(コボルド)を召喚する……」
僕は壁に背を預け、すでに暗記している情報を復唱するディアベルの声を聞いていた。
彼の演説は論理的だった。パーティ編成から役割分担(ロール)に至るまで、周到に練られている。彼の計画では、攻略部隊(レイド)は六人編成の分隊(スクワッド)を六つ作り、それぞれが主攻、牽制(タンク)、雑魚処理(モブ・クリア)を担当することになる。
「……明日の午前九時、迷宮区入り口に集合してほしい」
ディアベルの声が、不意に重さを増した。
「これは死闘になる。誰にも強制はしない。だが、我々が団結しなければ、このデスゲームを突破することは永遠にできない!」
彼の言葉が終わるか終わらないかのタイミングだった。
群衆の中から、突き刺すような怒声が炸裂した。
「待てや! 始める前に、言いたいことがある!」
逆立てた髪、顔に走る古傷。小柄だが威圧感を放つ男が演壇に飛び乗った。カーソルネームは『Kibaou』。
「キバオウさん?」
ディアベルが眉をひそめる。
「手短にお願いします。時間は限られている」
「安心せえ、すぐ済むわ!」
キバオウは獰猛な笑みを浮かべ、群衆へと向き直った。
「なあ、みんなおかしいと思わんか? なんでベータテスターの連中は、これだけの情報を知ってて今まで隠しとったんや?」
広場の空気が一変した。数人の高レベルプレイヤーが、気まずそうに後ずさるのが見えた。
「あの薄汚いテスターどもはな!」
キバオウは拳を振り上げた。
「自分らだけ美味しい狩場やクエストを独占して、俺ら初心者が何も知らんと死んでいくのを見殺しにしたんや! 今さら善人面して攻略本なんか出しおって、罠があるんちゃうか!?」
ざわめきが疑念の色を帯びていく。キバオウは勢いづいた。
「俺は提案する! 参加するベータテスターは全員、装備とコルを吐き出して、死んだ奴らの遺族に償うべきや! さもなきゃ――」
「キバオウさん!」
ディアベルが声を張り上げ、彼を遮った。
「今は内輪揉めをしている場合じゃない。攻略本は複数のテスターが共同で編纂したものだ。情報はクロスチェック(相互検証)されており、信頼性は高い」
「なんでお前がそれを知っとるんや?」
キバオウがディアベルを睨みつける。
「まさか、テメェもベータテスターなんちゃうか?」
ディアベルの表情は微塵も揺らぐことはなかった。
「違う。だが私は信じている。この生死を賭けた状況下で、すべてのプレイヤーは団結すべきだと。非難や疑心暗鬼は、我々を解放から遠ざけるだけだ」
彼の声は低く、力強かった。その響きが、次第に騒動を鎮火させていく。
キバオウは何か言い返そうとしたが、台の下からはすでに不満のブーイングが上がっていた。
「いい加減にしろ、キバオウ!」
「俺たちはボスを倒したいんだ! 内輪揉めじゃない!」
衆人の非難を浴び、キバオウは毒気を抜かれたように肩を怒らせて演壇を飛び降りた。
「後悔するで! テスターにろくな奴はおらんのや!」
捨て台詞を残し、彼は人混みの中へと消えていった。
ディアベルは深く息を吸い込み、再び微笑みを浮かべた。
「時間を取らせて悪かったな。明日の攻略に参加してくれるプレイヤーは、解散後に各パーティリーダーに声を掛けてくれ。集まってくれて、本当にありがとう!」
拍手の中、会議は終了した。
人垣が崩れ、プレイヤーの多くがパーティリーダーに指名された高レベルプレイヤーのもとへと殺到する。僕もその場を離れようとしたが、視界の端に、見覚えのある姿を捉えた。
あのキリトという黒衣の剣士が、少し離れた噴水の縁に寄りかかり、無表情でその光景を眺めていたのだ。
彼は僕の視線に気づいたのか、微かに顎を引いて会釈し、人混みの中へと消えていった。
――本当に、食えない奴だ。
***
夜の帳(とばり)が下りた。
僕は宿屋の一階にあるレストランの片隅で、遅い夕食を摂っていた。鹿肉のロースト・キノコのスープ添え。このデスゲームにおいて、美味と呼べる数少ないメニューの一つだ。周囲の席は明日の攻略戦を議論するプレイヤーたちで埋め尽くされ、緊張と期待の入り混じった熱気が漂っている。
「ここ、いいかな?」
頭上から穏やかな声が降ってきた。
顔を上げると、ディアベルが立っていた。礼儀正しい笑みを浮かべている。あの目立つ白銀の鎧は脱いでおり、一般的な茶色の革鎧(レザーアーマー)に着替えていたが、腰の豪奢な細剣(レイピア)は変わらず自己主張していた。
僕は頷き、皿の上の鹿肉を切り分ける作業に戻った。
ディアベルは椅子を引いて座ると、NPCのウェイターにエールを注文した。少し疲労の色が見えるが、その瞳の輝きは失われていない。
「今日の会議、来てくれて感謝するよ」
彼は単刀直入に切り出した。
「ずっと一番後ろの隅に立っていたけれどね」
「ただの見物だ」
「わかっているとも」
ディアベルはウェイターが置いたエールを受け取り、一口啜った。
「ソロプレイヤー特有の警戒心だ。実を言うと、私も本来は単独行(ソロ)を好むタイプでね」
それは意外だった。この、生まれながらのリーダーといった風貌の金髪の青年が、ソロプレイヤーだとは想像しにくい。
「なら、どうして……」
僕は思わず問い返した。
ディアベルの眼差しが遠くなる。
「気づいてしまったからさ」
彼の指がグラスの縁を軽く叩く。
「このデスゲームは、たった一人の英雄や、少数の精鋭だけでクリアできるものじゃない。層(フロア)を上がるごとに、ボスの難易度は幾何級数的に跳ね上がる」
彼の言う通りだ。攻略本の記述によれば、第二層のフロアボスに対抗するには最低でも三十人のレイドパーティが必要となる。
「つまり?」
僕はナイフを置いた。
「僕を攻略組(レイド)に勧誘しに来たのか?」
「その通りだ」
ディアベルは僕の目を真っ直ぐに見据えた。
「君の戦闘データを見させてもらった。ソードスキルの連携(コネクト)と、ポジショニングの精度。どれを取っても同レベル帯のプレイヤーを凌駕している」
――なぜ彼がそれを知っている?
僕の疑念を察したのか、ディアベルは苦笑した。
「警戒しないでくれ。偶然、君が迷宮区で戦っているのを見かけただけだ。あの無駄のない(ソリッドな)戦闘スタイルは、レベルのごり押しで身につくものじゃない」
――なるほど。いつぞやの迷宮区探索中、彼に見られていたのか。
「君のようなプレイヤーが必要なんだ」
ディアベルの声に熱がこもる。
「遊撃手(ルーズ)としてね。主力部隊には、ここぞという局面で戦線を突破できる鋭い切っ先が必要だ」
僕は黙って水を飲んだ。ディアベルの提案には理がある。だが、集団行動はリスクを伴う。モンスターからの脅威だけでなく、連携ミスという名の人的リスクも負わねばならない。
「キバオウの言葉なら、気にしなくていい」
ディアベルが唐突に話題を変えた。
「彼は友人を初期フィールドで亡くしていてね。だからベータテスターに対して偏見を持っている。だが、大半のプレイヤーは理性的だ」
「僕はベータテスターじゃない」
淡々と答える。
「知っているよ」
ディアベルは頷いた。
「君のスタイルは、ベータ時代のどの流派(ビルド)とも違う。もっと……そう、実戦的な自己流(我流)に見える」
その観察眼は恐ろしいほど正確だ。僕の剣技は、現実での経験とシステム上の挙動を擦り合わせた、完全なオリジナルだ。
「考えておいてくれ」
ディアベルは立ち上がり、一枚のメモ用紙をテーブルに置いた。
「明日の集合場所と時間だ。君がどんな決断を下そうと、私はそれを尊重するよ」
背を向けて去り際に、彼は付け加えた。
「今夜の食事代は、私のほうで払っておいたから」
階段を上がっていく彼の背中を見送り、僕はメモを手に取った。整った筆跡でこう記されていた。
『明朝08:30 迷宮区エントランス集合』
窓の外では、はじまりの街の灯りが夜闇の中で瞬いていた。遠くからは、明日の決戦に備えて剣技の確認をするプレイヤーたちの掛け声が聞こえてくる。
僕はメモをポケットにねじ込み、席を立って二階の客室へと向かった。
***
黎明の冷気はまだ辺りに残っていた。
迷宮区の入り口に立つと、吐き出した息が白い霧となって空気に溶けていく。集合時間までまだ二十分はあるが、すでに少なからぬ数のプレイヤーが到着しており、三々五々に集まっては声を潜めて会話を交わしていた。
僕は入り口近くの岩壁に背を預け、無意識に腰の打刀を撫でた。昨夜はろくに眠れなかった。脳内で攻略本のボスデータが延々と再生されていたからだ。攻略組への参加を決めたとはいえ、不測の事態に備えた単独(ソロ)用の生存プランも構築してある。
「よう」
横合いから声がした。
いつの間にか、キリトが隣に立っていた。相変わらずの黒いレザーコート姿だ。背負った長剣が朝の光を浴びて冷たい光沢を放っている。彼の目の下には薄っすらと隈(くま)が浮かんでおり、彼もまた十分な休息を取れていないことが見て取れた。
「よう」
僕は短く返す。
時間の経過と共に、続々とプレイヤーたちが到着した。ざっと見て四十人以上。昨日の会議で言及されていた三十六人よりも多い。その大半が良い装備を身に着けており、レベルも8を超えているようだ。彼らは六つの分隊(パーティ)に整然と分かれていた。
張り詰めた空気が漂い、時折、武器の擦れる金属音が神経を逆撫でする。
「みんな!」
高みからディアベルの声が響いた。
彼は突き出た岩の上に立っていた。白銀の軽鎧が朝日を浴びて輝き、金髪が風に揺れている。昨夜の疲れた様子は微塵もなく、その瞳には決意の炎が燃えていた。
「時間通りに集まってくれて感謝する! 出発の前に、改めて戦術(タクティクス)を確認する」
彼は大きな羊皮紙の地図を広げた。そこにはボス部屋までのルートと、各パーティの配置(ポジション)が詳細に記されている。
「第一、第二パーティは主攻(メイン・アタッカー)。私が直接指揮を執る。第三パーティは遊撃隊として、ボスの武器持ち替え(スイッチ)のタイミングで割り込んでくれ。第四、第五パーティは取り巻き(ミニオン)の掃除。第六パーティは支援(バフ)と負傷者の後送を担当してくれ」
彼の視線が全員を巡る。
「最後に警告しておく――これは正真正銘の死闘だ。もし降りたい者がいれば、今が最後のチャンスだ。私は誰も責めたりしない」
静寂が落ちる。誰一人として足を動かす者はいなかった。キバオウとその取り巻きたちも隊列の端にいたが、不満げな顔をしつつも異議は唱えなかった。
「よし――」
ディアベルは腰の細剣を抜き放ち、その切っ先を迷宮区の奥へと向けた。
「この世界に囚われたすべてのプレイヤーのために、我々の解放のために――前進!」
「オオォッ――!」
野太い喚声が早朝の森に木霊する。
隊列は秩序を保ったまま、迷宮区へと進軍を開始した。金属鎧の触れ合う音が重なり合い、一つの巨大な生き物のような響きを作り出す。
僕とキリトは、第三パーティの先頭を歩いていた。背後には四人のメンバーが続く――剣士が二人、長槍使いが一人、戦鎚(メイス)使いが一人。皆、僕より年上で、レベルも相応に高い熟練者(ベテラン)たちのようだ。
「ガーゴイル・ロードをソロでやったって本当か?」
槍使いが声を潜めて聞いてきた。赤髪の青年で、カーソルネームは『Agu』。
「誰が言った?」
「噂になってるぜ」
アグはニヤリと笑った。
「打刀使いのソロプレイヤーがロード級を狩ったってな。あんたの武器を見ればピンとくるさ」
僕はキリトを一瞥した。彼は聞こえないふりをして前を見ている。情報源(ソース)は特定できた。
「運が良かっただけだ」
短く答え、歩調を早める。
『腐敗の森』を抜け、隊列は迷宮区のエントランスに到達した。いつもと違い、入り口には数名の重装備プレイヤーが立哨していた――ディアベルが配置した先遣隊だろう。
「異常なし」
見張りの一人がディアベルに報告する。
「ボス部屋へのルートはクリア(掃討)済みです。新たなトラップも発見されていません」
「ご苦労」
ディアベルは彼の肩を叩き、本隊へと向き直った。
「予定通りの隊形(フォーメーション)で進む! 警戒を怠るな!」
迷宮区の内部通路は、いつもより薄暗く感じられた。心理的な作用かもしれないが、壁面の水晶も輝きを失っているように見える。
「そういえば」
キリトが不意に声を潜めた。
「ポーションはどれくらい持ってる?」
「中級(ハイ)が三本だ」
僕も小声で返す。
「あんたは?」
「ハイが二本に、上級(エキスパート)が一本だ」
一拍置いて、彼は続けた。
「念のためって、ディアベルから解毒ポーション(アンチドート)も一本貰ったよ」
通路は下り坂になり、冷気が漂い始める。
「もうすぐだ」
先頭を行くディアベルが拳を上げ、隊列を止めた。
「この先がボス部屋(ルーム)だ。各小隊、最終装備チェック(チェック・シックス)!」
巨大な石扉の前で足が止まる。
扉には獰猛な獣人の頭部が彫刻されており、剥き出しの牙と、血のように赤い宝石が埋め込まれた瞳が、侵入者を拒むように睨みつけていた。
「作戦を忘れるな!」
静まり返った通路に、ディアベルの声が響く。
「第一フェーズは主攻隊がヘイト(敵対心)を維持、残りは取り巻き(ミニオン)を掃除。ボスのHPが五割を切ったら、第三部隊はスイッチ(交代)の準備だ!」
彼は全員を見回し、一人一人の顔に視線を留めた。
「明日もまた、全員で太陽を拝もう」
彼は扉に向き直り、深呼吸をしてから、レリーフに両手を添えた。
「開け!」
重厚な轟音と共に、石扉が左右へとスライドする。鉄錆とカビの臭いが混じった冷風が吹き出し、思わず目を細める。
完全に開いた扉の向こうには、巨大な円形ホールが広がっていた。天井には無数の松明が吊るされ、空間を昼間のように照らし出している。
中央の石造りの台座には、巨大な獣人の像が立っている――あれが第一層フロアボス、『イルファング・ザ・コボルド・ロード』だ。
だが今はまだ、静止した石像に過ぎない。
「隊形(フォーメーション)展開!」
ディアベルが低く命じる。
「第一、第二班は私に続け! 残りは距離を取れ!」
隊列は迅速かつ整然とホールへ雪崩れ込み、六つの分隊が所定の位置へと散開した。僕とキリトのいる第三部隊は入り口付近に待機し、突撃の機を窺う。
ホール内は異様な静寂に包まれており、金属鎧の擦れる音と、プレイヤーたちの緊張した呼吸音だけが聞こえた。
「戦闘準備(バトル・レディ)!」
最前線に立ったディアベルが、細剣を石像に突きつける。
「来るぞ!」
呼応するように、石像が震え始めた。
表面の石殻がボロボロと剥がれ落ち、その下から暗緑色の皮膚が露わになる。最後の一片が落ちた時、身長三メートルを超える巨躯が完全にその姿を現した。
『Illfang the Kobold Lord』
視界いっぱいに伸びる極長のHPバーと共に、その名は表示された。
鼓膜を破らんばかりの咆哮。手にしたボーンアクスが地面に叩きつけられ、ホール全体が震動する。同時に、台座の周囲から十数体の狼人(コボルド)が湧き出した(ポップした)。その双眸は凶悪な光を放っている。
「戦闘開始!」
ディアベルが剣を掲げた。
「我々の解放のために――攻撃(アタック)!」
開戦の瞬間、ボス部屋は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
ディアベル率いる第一、第二部隊が切っ先となって中央へ突っ込む。白銀の鎧が松明の光を弾き、幾筋もの流星となる。ボーンアクスと金属盾が激突し、爆音が炸裂した。イルファングの薙ぎ払いを、訓練されたプレイヤーたちが盾の防御陣形(ファランクス)で受け止める。
「コボルド・センチネルだ! 左に三体!」
「右から五体! 長槍隊、頼む!」
飛び交う怒号の中、第四、第五部隊が展開し、殺到する狼人たちを分断していく。僕たち第三部隊は待機状態を維持し、ボスの第二形態(フェーズ)移行を待つ。
「予想以上に順調だな」
キリトが僕の横で黒剣を下段に構える。
「第一形態の挙動(パターン)、攻略本の記述通りだ」
僕は小さく頷き、台座上の激戦を凝視した。ディアベルの指揮は完璧だった。メインタンクがローテーションでダメージを分散し、取り巻きの狼人は瞬く間に処理され、経験値とコルの欠片へと変わっていく。
イルファングのHPは着実に削られていく――。
アグが長槍を握りしめ、他のメンバーも身を硬くする。
ボスのHPバーが50%を切った瞬間、異変が起きた。
「グルルルオオオッ――!」
イルファングが天を仰いで咆哮し、ボーンアクスを地面に投げ捨てた。
誰もが驚愕する中、奴は背中から新たな武器を引き抜いた。だがそれは――攻略本にある曲刀(タルワール)ではない。
刀身だけで二メートルはある、血濡れた『野太刀』だった。
「なっ!?」
ディアベルの叫びが戦場を切り裂く。
「違う!」
――遅い。
野太刀が深紅の弧を描く。あまりの速度に残像すら見えた。先頭に立っていた二人の盾役(タンカー)は、防御姿勢を取る間もなく胴を薙ぎ払われ、無数のポリゴンの破片となって爆散した。
「散開! 離れろ!」
ディアベルの声が恐怖で裏返る。
「第三部隊! 今だ!」
指示されるまでもなく、僕は飛び出していた。野太刀の二撃目がディアベルを捉えようとしたその刹那、僕の打刀がその軌道に割り込んだ。
ガィィン――!
激しい金属音と火花。野太刀の威力は桁外れで、ガードの上からHPを一割も持っていかれる。だが、ディアベルがバックステップを踏む隙は作れた。
「戦術変更!」
ディアベルが即座に冷静さを取り戻す。
「野太刀のレンジが広すぎる! 総員退避(バック)!」
混乱の最中、キリトが亡霊のように戦場を駆け抜けるのが見えた。彼の黒剣は暗赤色のエフェクトを纏い、襲いかかる狼人の咽喉(のどぶえ)を正確に貫いている。
「コーカン! 牽制(ホールド)を頼む!」
突然、ディアベルが僕に叫んだ。
「ソードスキルで決める!」
一瞬で彼の意図を理解した――攻略組のリーダーとして、LA(ラストアタック)ボーナスを取りに行く気だ。それ自体は非難されることではない。だが、ボスの挙動が不明な今、その功名心はあまりに危険だ。
僕が返事をする暇もなく、ディアベルは突進(チャージ)を開始していた。細剣が眩い金色の光を放ち、彼自身が流星となってイルファングの胸板へと突き進む。
「ディアベル! やめろ――」
キリトの警告は、金属音の轟きにかき消された。
ディアベルのスキルは確かに命中した。だが、イルファングは土壇場で身体を捻り、あり得ない角度から野太刀を斬り上げてきた。
ズバッ――!
空中でディアベルの身体が硬直する。左肩から右脇腹へ、野太刀が斜めに走り抜けていた。HPバーが一瞬で消失し、身体が青いガラスのように砕け始める。
彼は震える手を伸ばし、信じられないという目で虚空を見つめた。
回復(ヒール)は間に合わない。
治療結晶が砕けるよりも早く、ディアベルの身体は完全に崩壊し、無数の光の粒子となって霧散していった。
ボス部屋は死のような静寂に包まれた。
「隊……隊長が死んだ……」
「どうするんだ……俺たち……」
「撤退するか?」
恐慌(パニック)が疫病のように伝染していく。
イルファングはその隙を見逃さず、猛攻を仕掛けた。野太刀が再び唸りを上げ、反応の遅れた二人のプレイヤーを瞬時に刈り取る。戦線は崩壊し始め、我先にと出口へ逃走を図る者さえ現れた。
その時だった。
後方から小柄な影が疾駆し、残像(トレース)すら見えるほどの速度で戦場を駆け抜けた。銀色の閃光が走り、狼人(コボルド)の咽喉を貫いて石壁に縫い止める。
アスナだ。
深く被ったフードの下、その表情は窺えない。
指導者を失ったプレイヤーたちは依然として動揺していた。だが、彼女の行動が呼び水となり、隊列は徐々に再集結し始めた。当初ほどの統制はないものの、最低限の秩序は回復した。
アスナは銀の旋風となって戦場へ切り込んだ。細剣(レイピア)がイルファングの周囲に不可視の斬撃網を張り巡らせる。野太刀の圧倒的な攻撃範囲(レンジ)も、極限まで敏捷性(AGI)を高めた彼女の前では、徒(いたずら)に空を切るだけの鈍重な鉄塊と化していた。
僕とキリトは視線を交わし、同時に地を蹴った。
「はあぁぁっ!」
キリトの黒剣が暗赤色の光を帯び、イルファングの右膝を深々と抉る。同時に僕の打刀が左脚の同一点を捉えた。
左右からの同時重打撃。ボスの巨躯が初めてバランスを崩し、ガクンと片膝をついた。
好機と見たアスナが跳躍する。細剣が一条の銀光となり、無防備になったイルファングの喉元へと奔る。
「グオオオオッ――!」
千一髪の刹那、イルファングが暴発した。
野太刀が下段から凄まじい勢いで斬り上げられる。アスナは空中で身を捻り、直撃コースを外した。だが切っ先が彼女の左腕を掠め、鮮血のような真紅のエフェクトが散る。
「危ないッ!」
思考するより先に身体が動いていた。
僕はアスナの前に滑り込み、打刀を水平に構える。追撃として振り下ろされた二撃目が刀身に激突した。強烈な衝撃が腕を痺れさせるが、何とか耐え切る。
その硬直を、黒衣の剣士は見逃さなかった。
キリトが側面から強襲し、黒剣でボスの脇腹に獰猛な傷を刻み込む。
イルファングのHPバーは残り二割(レッドゾーン)。だが、狂暴化(バーサーク)状態にある奴の危険度は跳ね上がっている。野太刀が風を切り裂くたびに死の予感が肌を撫でる。一撃でも貰えば即死(インスタント・キル)だ。
「スイッチ!」
アスナが叫んでバックステップを踏む。
入れ替わりにキリトが飛び出し、突進技《ソニックリープ》を発動した。
他のプレイヤーたちもそれに続く。剣技の雨がイルファングの顔面へと降り注ぐ。ボスは堪らず腕を上げて防御態勢を取った。
野太刀の嵐が止む。
致命的な隙(ディレイ)が生じた。
「今だッ!」
僕ら三人は、同時に最強のソードスキルを起動した。
キリトの黒剣が、かつてないほどの深紅の光を放つ。
アスナの細剣は、視認不可能なほどの超高速突きを繰り出す。
そして僕の打刀は、野太刀を握る右の手首一点を狙い澄ます。
三つの絶技が、ほぼ同時に着弾した。
「ガアアアアアッ――!」
イルファングが絶叫を上げる。巨体が大きく揺らぎ、野太刀がでたらめに空を薙いだ。
硬直(スタック)したボスの背後へ回り込み、キリトが片手剣突進技《レイジ・スパイク》を放つ。その一撃はイルファングの急所を深々と貫いた。
『Congratulations!』
『第一層ボス「イルファング・ザ・コボルド・ロード」討伐完了!』
『第二層への転送ゲートが活性化しました』
システムメッセージが視界で明滅する。だが、歓声は上がらなかった。
ボス部屋を支配していたのは、不気味なほどの静寂だった。生き残ったプレイヤーたちは顔を見合わせ、その表情には疲労と恐怖だけが張り付いていた。
僕は片膝をつき、荒い息を吐いた。HPバーはドット単位でしか残っていない。あと一撃、いや、掠っただけでもアウトだった。キリトとアスナも同様で、満身創痍(まんしんそうい)の体だ。
プレイヤーたちは三々五々にへたり込み、傷の手当てをする者もいれば、ディアベルが消滅した虚空を呆然と見つめる者もいた。誰も言葉を発しない。重い呼吸音と、時折漏れる啜り泣きだけが、広大なホールに反響していた。
石柱に背を預け、呼吸を整える。ポーションの効果でHPは緩やかに回復しているが、精神的な摩耗は拭えない。ディアベルの死はあまりに唐突だった。一秒前まで指揮を執っていた人間が、次の瞬間にはデータの欠片となって消え失せる。このデスゲームの非情な現実(リアル)が、改めて全員の眼前に突きつけられたのだ。
「お前らのせいや!」
鋭い罵声が沈黙を切り裂いた。
人垣を押し除け、牙王(キバオウ)が飛び出してきた。顔の古傷が怒りで歪んでいる。彼はキリトへ一直線に詰め寄り、その鼻先に指を突きつけた。
「お前や! 元ベータテスター!」
キバオウの声は激情に震えていた。
「お前、ボスが武器を変えるって知っとったんやろ!? なんで前もってみんなに教えんかったんや!?」
キリトは無表情で彼を見返した。その漆黒の瞳は底知れぬ闇のようだ。
「知らなかった」
「嘘つけ!」
キバオウがヒステリックに叫ぶ。
「お前らテスターはみんな同じ穴のムジナや! 情報を独占して、俺らを見殺しにする! ディアベルはんはお前に殺されたようなもんや!」
周囲のざわめきが大きくなる。プレイヤーたちの視線に、疑念と非難の色が濃くなっていく。
キリトは深く息を吸った。
「ディアベルはヘイト(敵対心)水晶を使ったんだ。LA(ラストアタック)ボーナスが欲しくて、意図的にヘイト値を引き上げた」
「デタラメ抜かすな!」
キバオウが激昂して遮る。
「ディアベルはんがあんなことするわけないやろ!」
「本当です」
震える声が群衆の中から上がった。眼鏡をかけた女性プレイヤーがおずおずと進み出る。その手には、砕けた赤い結晶の残骸が握られていた。
「せ……戦闘前、ディアベル隊長に上級ヘイト水晶を頼まれたんです……。これでボスを自分に引きつければ、指揮がしやすくなるからって……」
キバオウの表情が凍りついた。だが、すぐにまた獰猛な色が戻る。
「だから何や!? 元テスターが情報を隠してなけりゃ――」
「言っただろ、知らなかったんだ」
キリトの声が不意に硬くなった。
「ベータ時代のイルファングの第二武器は曲刀(タルワール)だった。野太刀じゃない。茅場晶彦が攻撃パターン(アルゴリズム)を書き換えたんだ」
「嘘や!」
キバオウは金切り声を上げる。
「お前ら『ビーター(・・・・)』はみんなグルなんや! 資源を独り占めして、初心者を盾にする! ディアベルはんはお前らに嵌められたんや!」
「ビーター……か」
キリトはその言葉を小さく復唱し、自嘲気味に口の端を吊り上げた。
「ああ、その通りだよ」
全員が息を呑む中、キリトはウィンドウを操作した。数回のタップ音の後、黒いコート――ボスのLAボーナスである『ミッドナイト・コート』が彼のアバターに実体化した。
「俺はビーターだ」
キリトの声は恐ろしいほどに凪いでいた。
「ベータの情報を使って一番いい狩場を独占し、何も知らない連中が無様に死んでいくのを高みの見物してたのさ。お前の言う通りだ、キバオウ」
ホールは水を打ったように静まり返った。あまりにも唐突な自白に、キバオウ本人さえも言葉を失い、口を半開きにして立ち尽くしている。
キリトは背を向け、ホールの最奥にある転移門(ゲート)へと歩き出した。ミッドナイト・コートの裾が翻る。
「待って!」
アスナが叫んだ。
「どこへ行くの?」
キリトは振り返らなかった。
「第二層だ。みんなビーターがお嫌いみたいだからな。『最悪のビーター』である俺は、お先に失礼させてもらうよ」
転移門の前で、彼が一瞬足を止めた。だが、それだけだった。
彼は青い光の渦の中へと足を踏み入れ、その輪郭が滲んでいく。
消滅の間際、彼は微かに首を巡らせ、僕に向かって小さく頷いたように見えた。
光が霧散し、黒衣の剣士は完全に姿を消した。ホールには再び沈黙が落ち、転移門の低い駆動音だけが残された。
キバオウはその場に立ち尽くしていた。怒りに満ちていた表情は茫然自失へと変わり、やがて奇妙な羞恥へと定着した。彼は何か言いたげに口を開閉させたが、結局、足元の石ころを乱暴に蹴り飛ばすと、踵を返して出口へと歩き去った。
残されたプレイヤーたちは顔を見合わせ、どう反応すべきか戸惑っていた。
アスナが小さく溜息をつき、細剣を納めて僕に歩み寄ってきた。
「彼を知ってるの?」
彼女は問うた。栗色の長髪が松明の光を受けて温かな色に輝く。
「まあな」
僕は短く答える。
「君は?」
「たった今、本当の意味で知った気がする」
アスナは無人の転移門を見つめた。その瞳には複雑な色が過(よぎ)る。
「……変な人ね」
僕は頷いた。返す言葉が見つからない。確かに、キリトの最後の振る舞いは常軌を逸していた。自ら進んで『ビーター』という汚名を被り、悪役(ヒール)を演じたのだから。
「これからどうする?」
僕は話題を変えた。
アスナは少し考え込んだ。
「私も第二層へ行くわ」
彼女は数歩進み、転移門の上に立った。
「アスナ」
僕は呼びかけた。
「キリトの言ったこと……本当だと思うか? ディアベルが水晶を使ったって話」
長い沈黙。彼女は答えないかもしれないと思った。
「本当よ」
やがて、彼女は静かに言った。
「見たの。突撃(チャージ)の直前、ディアベルが何かを握り潰すのを……。その後、彼の剣が異常なほど輝き始めたから……」
僕はそれ以上追求しなかった。
「第二層で会おう」
転移門が輝きを増す中、アスナが言った。
僕は頷く。
「ああ。第二層で」