ソードアート・オンライン インテンシブ   作:神谷 キリン

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ウィンドウを開き、現在時刻を確認する。午後五時を回っていた。

 第四層主街区ロビアは、祝祭の雰囲気に包まれていた。茅場晶彦の気まぐれか、あるいはシステム的な自動イベント(スクリプト)かは不明だが、少なくとも今の主街区はクリスマス一色だった。

 ――いつの間にか、クリスマスになっていたのか。

 運河沿いの建物には色とりどりのイルミネーションが輝き、NPCショップのショーウィンドウはクリスマス装飾で埋め尽くされている。空からは仮想の雪まで舞い落ちてくる始末だ。プレイヤーたちは三々五々に連れ立ち、熱いドリンクやラッピングされたプレゼントを手に、談笑しながら通りを行き交っている。

 僕は広場の外れ、建物の影に身を置いて、その光景をただ黙って眺めていた。

 ――DKBとALSの合同クリスマス壮行会も、そろそろ始まっている頃か。

 元DKB所属とはいえ、僕の元に招待状(インビテーション)は届かなかった。もっとも、届いたところで参加する気は毛頭なかったが。

 

「……賑やかな場所は、やっぱり性に合わないな」

 

 低く呟き、広場に背を向ける。

 路地裏を抜け、僕はロビアの東側にある船着場へと足を向けた。ここはメインストリートの喧騒から隔絶されており、数艘のゴンドラが静かに水面に揺れているだけだ。石段に腰を下ろし、夕陽に赤く染まる運河の水面をぼんやりと見つめる。

 ――クリスマスイブ、か……。

 現実世界(リアル)でも、この時期はいつも一人だった気がする。

 家の中は常に空虚だった。学校の友人たちから誘われることもあったが、大抵は断って自室に引きこもり、本を読むかゲームに没頭していた。

 ――まさかデスゲームの中でも、同じ習性を引きずるとはな。

 自嘲気味に笑い、インベントリからホットドリンクを取り出す。一口含むと、ホットココアに似た甘い液体が喉を滑り落ち、僅かに寒さを和らげてくれた。

 

「……やっぱり、甘すぎる」

 

 眉をひそめつつも、カップを傾ける。

 空の色が濃紺へと変わり、街灯が次々と灯り始めた。水面に映る光が、散りばめられた星屑のように揺らめく。遠くからはプレイヤーたちの笑い声や、クリスマスキャロルの旋律が微かに届いてくる。

 僕は立ち上がり、コートの裾を払った。

 ――レベリングの時間だ。

 世間が祝日だろうと、攻略組(クリアラー)の進行(プログレス)は止まらない。第四層迷宮区には未踏破エリアが多く残されている。大半のプレイヤーが浮かれている今こそ、効率的に稼げる好機だ。

 マップを展開し、迷宮区の方角を確認する。船着場を離れようとしたその時だった。

 

「ニャ〜」

 

 足元から、か細い鳴き声がした。

 視線を下げると、一匹の黒猫が石段に座り込み、金色の瞳で僕をじっと見上げていた。

 

「……NPCか?」

 

 しゃがみ込み、手を差し伸べてみる。黒猫は逃げる素振りも見せず、鼻先を寄せて指の匂いを嗅ぎ、やがて手の甲に頭を擦りつけてきた。

 ――柔らかい。現実の猫と変わらない感触だ。

 少し意外だった。SAOにおける動物系NPCは希少で、その多くは背景同然のオブジェクトだ。これほど明確なインタラクションを持つ個体は珍しい。

 喉の下を軽く掻いてやると、黒猫はゴロゴロと喉を鳴らし、目を細めた。

 ――そういえば、このゲームには猫さえいるのに、『ログアウト』ボタンだけが存在しない。

 皮肉な事実に、手が止まる。黒猫は僕の感情の変化を敏感に察知したのか、顔を上げ、首を傾げて「ニャッ」と短く鳴いた。

 

「……悪い、考え事だ」

 

 手を引っ込め、インベントリから魚の切り身を取り出す。元は釣り餌(ベイト)用だが構わないだろう。目の前に置いてやる。黒猫は匂いを嗅ぎ、すぐさま夢中で食いついた。

 その一心不乱な姿を見ていると、少しだけ心が軽くなる気がした。

 

「……メリークリスマス」

 

 小さく呟く。相手はプログラムで構成された仮想存在(データ)だとわかっていても、言わずにはいられなかった。

 黒猫が顔を上げ、金色の瞳を街灯の光に輝かせた。まるで言葉を理解したかのように、「ニャ〜」と応えた。

 

          ***

 

 船着場を後にし、僕は迷宮区への道を急いだ。

 ロビアの目抜き通りは依然として賑わっていたが、街の外縁に近づくにつれて人影は疎らになり、フィールドに出る頃には周囲に誰一人いなくなった。

 夜風が水面を渡り、波紋を広げる。僕は石橋を渡り、歩調を早めた。

 

          ***

 

 第四層迷宮区

 

 最後の一体となったガーゴイルの喉を切り裂く。耳障りな破砕音と共に、その石造りの肉体は無数のポリゴンとなって四散した。刀身にこびりついた黒い体液を振り払い、僕は長く息を吐いた。

 

「……思ったより面倒だな」

 

 第四層の迷宮区は構造が複雑だ。狭隘な石窟通路が蜘蛛の巣のように交差し、壁の中から突如モンスターが湧く(ポップする)こともしばしばある。単体での脅威度は低いが、包囲されれば厄介なことになる。

 マップを確認し、現在地を把握する。すでに中層域まで踏み込んでいる。ボス部屋まではまだ距離があるが、攻略組の進行ペースを考えれば、本格的なボス攻略戦までには数日かかるだろう。

 さらに奥へ進もうとした時、視界の隅に違和感を覚える光が映り込んだ。

 ――ん?

 足を止め、右側の岩壁を見る。

 闇に沈むようにして、一本の細い脇道があった。注意深く観察しなければ見落としていただろう。その突き当たりの岩肌に、扉が嵌め込まれていた。

 ――本来、そこにあるはずのない扉が。

 

「……隠し部屋(シークレット・ルーム)か?」

 

 眉をひそめ、警戒しながら接近する。

 扉は高さ二メートルほど。表面には鈍い銀色の金属細工が施され、中央には蔦が絡み合うような意匠が彫り込まれている。

 何より目を引いたのは――鍵穴に、鍵が差し込まれたままになっていることだ。

 

「……罠か?」

 

 反射的に神経を研ぎ澄ます。SAOにおいて、異常(イレギュラー)は即ち危険信号だ。鍵が必要な扉に、あらかじめ鍵が刺さっているなどという不条理は、何か裏があると疑うべきだ。

 ゆっくりと手を伸ばす。指先が鍵に触れた瞬間、システムウィンドウがポップアップした。

 

『未鑑定の鍵』

『00:10:00』

 

「……未鑑定?」

 

 これは予想外だ。通常、迷宮区のキーアイテムには用途が明記されているはずだ。それが「未鑑定」状態ということは、特定の隠しクエストやイベントに紐づいている可能性が高い。

 

『00:09:47』

 

 カウントダウンが進む。

 ――つまり、時限式の鍵。そして、時限入室の部屋ということか。

 一瞬の躊躇。だが、僕は鍵を握りしめ、静かに回した。

 カチリ。

 乾いた機械音が響き、ロックが解除される。

 ――トラップの発動はない。モンスターの出現もない。

 深く息を吸い込み、扉を押し開ける。

 

 内部の空間は、予想に反して広大だった。

 円形ホールの中心には石碑が鎮座し、それを取り囲むように六本の石柱が聳え立っている。柱には未知のルーン文字が刻まれていた。天井は闇に溶け込むほど高く、どこからともなく降り注ぐ微かな光が、部屋全体を幻想的な蒼い霧で包み込んでいる。

 そして、何よりも異質な存在がそこにあった。

 ホールの中空に、一本の剣が浮遊していたのだ。

 いや、正確には剣の『幻影』だ。

 半透明の刀身が淡い金色の光を放っている。柄には扉と同じ蔦の紋様が刻まれていた。それは静寂の中で、主の訪れを待つかのように漂っていた。

 

「……武器クエストか?」

 

 慎重に部屋へ踏み込むと、新たなウィンドウが表示された。

 

『隠しクエスト「忘れ去られた誓約」が開始されました』

『達成条件:???』

『報酬:???』

 

「……すべて不明(アンノウン)だと?」

 

 SAOにおいて、これほど曖昧なクエスト記述は極めて稀だ。通常は高難易度の隠しイベントでしかお目にかかれない。

 浮遊する剣に近づき、触れようと手を伸ばす。だが、指先は虚しく幻影をすり抜けた。確かな感触は何もない。

 

「……やっぱり駄目か」

 

 周囲を見渡す。視線が石碑に止まる。近づいて表面を確認すると、一行の文字列が刻まれていた。

 

『血をもって契と為し、刃をもって証と為す』

 

「……血?」

 

 無意識に自分の掌を見る。SAOにおいて「血」とは、通常HPの減少、あるいは出血(ブリーディング)状態を指す。だが、文字通りの意味である可能性も否定できない。

 迷った末、僕は打刀を抜き、刃を左の掌に押し当てて引いた。

 チクリとした仮想の痛覚と共に、HPバーが僅かに減少する。

 突如、部屋全体が激しく振動した。

浮遊していた剣の幻影が、突如として眩い光を放った。石柱のルーン文字が次々と輝き出し、まるで生命を吹き込まれたかのように脈動する。

 僕は本能的に半歩下がり、打刀の柄を握りしめ、事態の推移を警戒した。

 光が収束していく。剣の幻影は質量を持ち始め、やがて一本の実体ある剣となって、石碑の前へと静かに降り立った。

 古朴な意匠の片手直剣だ。鍔(つば)には扉と同じ蔦の紋様が絡み合っている。

 手を伸ばし、柄を握る。システムウィンドウがポップアップした。

 

『武器「オースファング(Oathfang)」を獲得しました』

『「オースファング」はバインド(呪縛)されました』

 

「……バインド武器?」

 

 僕は眉をひそめた。

 SAOにおいて、バインド属性の装備は極めて稀だ。通常、それはトレード不可、破棄不可を意味し、場合によっては強制的なクエスト(カース)が付与されることもある。

 剣を鞘から抜き放つ。薄暗い光の中で、刀身が冷ややかな輝きを放った。軽く振ってみると、空気を切り裂く感触は普段使いの打刀よりも遥かに滑らかで、まるで腕が延長されたかのように馴染んだ。

 

「……性能(スペック)は悪くない」

 

 だが奇妙なことに、ステータス画面には基礎数値以外に、灰色のスキルアイコンが一つ表示されていた。ラベルには『???』とある。

 

「未解禁(ロック)スキルか……」

 

 考察しようとした矢先、背後で石の擦れる轟音が響いた。

 弾かれたように振り返る。入り口の扉が、完全に閉ざされていた。

 

「……しまっ」

 

 扉へ駆け寄り、力任せに押してみる。ビクともしない。

 

「チッ……嵌められたか」

 

 僕は努めて冷静さを保ち、部屋を再確認する。クエストがトリガーされた以上、クリア条件(フラグ)は必ず存在するはずだ。

 石碑の文字が変化し、新たな文章が浮かび上がっていた。

 

『試練開始』

 

 次の瞬間、六本の石柱が一斉に赤く発光した。

 ――逃げ場はない。

 地面が震動し、石柱の中央空間が歪曲する。そこから一つの人影がせり上がってきた。

 ――巨剣使い。

 全身を暗銀色の重厚なフルプレートで覆い、兜のスリットからは二点の猩々緋(しょうじょうヒ)の光が漏れ出ている。自身の身長ほどもある巨大な剣(グレートソード)を片手で引きずっており、切っ先が床を削って耳障りな音を立てていた。

 会話はない。システム音声もない。

 騎士はただ無言で巨剣を持ち上げ、その切っ先を僕に向けた。

 ――戦闘本能が警鐘を鳴らす。

 僕は重心を落とし、右手で直剣(オースファング)を強く握りしめた。

 

「……来い」

 

 巨剣使いが動いた。

 その巨体に似合わぬ神速だった。重装備の重量を感じさせない速度で踏み込み、巨剣が凄まじい軌道を描いて振り下ろされる。

 ――防げない(ガード不可)。

 僕は全力で横へ転がった(タンブル)。

 剣風が肩を掠め、巨剣が床に激突する。石礫が飛び散り、衝撃波が腕を痺れさせた。HPバーが僅かに削れる。

 

「……この威力だと!?」

 

 体勢を立て直す暇もなく、二撃目の横薙ぎが迫る。

 ガィィィン――!

 辛うじて剣で受け止めるが、薄暗いホールに火花が散った。剣身から伝わる衝撃は桁外れで、虎口が裂けそうなほど痺れる。僕は数メートル弾き飛ばされ、背中を石柱に強打した。

 

「ガハッ……!」

 

 HPがさらに減少する。

 ――マズい。

 筋力(STR)と敏捷力(AGI)、共に次元が違う。奴の攻撃パターンは単純だが、一撃一撃が重すぎる。正面から打ち合えばジリ貧だ。

 巨剣使いは休む暇を与えない。再度の突進(チャージ)。巨剣を振りかぶり、山崩れのような勢いで叩きつけてくる。

 

「……やるしかない!」

 

 僕は歯を食いしばって地を蹴った。

 刃が落ちてくるその刹那、突進技を発動する。

 ――《レイジ・スパイク》。

 稲妻のような刺突が、巨剣使いの喉元へと走る――。

 ガキンッ!

 巨剣使いは手首を返し、幅広の剣腹を盾にして僕の突きを防いだ。

 

「なっ……!?」

 

 瞳孔が収縮する。

 ――ソードスキルを読んだのか!?

 硬直(ディレイ)をキャンセルする間もなかった。巨剣使いの左の拳が、無防備な僕の腹部にめり込む。

 

「ぐふっ――!」

 

 内臓を突き上げる激痛と共にHPが急落する。僕はボールのように吹き飛ばされ、床を何度も転がってようやく止まった。視界の端が赤く明滅し始める。HPがレッドゾーンに突入した警告だ。

 身体を起こす。喉の奥から鉄錆のような味がせり上がってきた。

 巨剣使いは焦る様子もなく、死神の足取りでゆっくりと距離を詰めてくる。巨剣が床を擦る音が、処刑へのカウントダウンのように響く。

 ――勝てない。

 パラメータで完全に圧倒されている上に、スキルまで見切られている。このままじゃ……。

 絶望が思考を塗りつぶそうとしたその時、視界の隅で青い光が瞬いた。

 あの灰色だった『UniqueSkill』のアイコンが、いつの間にか輝き出し、脈動していた。

 

「……スキル解禁(アンロック)?」

 

 直後、未知の『奔流』が剣から腕へ、そして全身へと駆け巡った。

 

「……これは?」

 

 手元を見る。『オースファング』の刀身が淡い蒼光を帯びていた。そして身体が……信じられないほど軽い。

 巨剣使いが再び突っ込んでくる。巨剣の薙ぎ払い――。

 だが今度は、その動きがスローモーションのように見えた。

 僕は最小限の動きで身を捻る。剣風が鼻先を掠める。

 手首を返す。流れるような剣閃が、巨剣使いの胸甲(ブレストプレート)に深い斬撃痕を刻んだ。

 

「……速い!」

 

 攻撃速度だけではない。ソードスキルのクールダウンまでもが短縮されている。本来なら予備動作が必要な連撃が、思考に直結して滑らかに繋がる。

 剣光が網のように交錯し、巨剣使いの鎧から絶えず火花を散らせる。

 奴の動きが乱れ始めた。反撃はすべて予測(リード)でき、回避できる。僕の刃は正確無比に関節と鎧の隙間を捉え続けた。

 ――まるで……身体が勝手に戦いのリズムを記憶しているようだ。

 フィニッシュだ。

 僕は中空へ跳躍した。刀身が鮮烈な蒼い光を放つ。

 ――《ソニックリープ》。

 流星と化した切っ先が巨剣使いの兜を貫通する。

 兜の奥の紅い光が、瞬時に消え失せた。

 巨剣使いの巨躯が硬直し、次の瞬間、無数のポリゴンとなって四散した。

 

 ホールに静寂が戻る。僕の荒い呼吸音だけが石壁に反響していた。

 

「……終わったのか?」

 

 『オースファング』を見下ろす。刀身の蒼い光は徐々に褪せつつあった。

 そして、『UniqueSkill』のアイコンも再び灰色に戻り……やがて、完全に消滅した。

 

「……やっぱり、時間限定(リミテッド)スキルか」

 

 溜息をつく。予想はしていたが、あの全能感に近い流麗な操作感覚(フィーリング)が失われたことには、一抹の寂しさを覚えた。

 その時、システムメッセージが鳴り響いた。

 

『試練達成』

『AGI上昇』

『片手直剣スキル熟練度上昇』

『「オースファング」を回収します』

 

 手の中の直剣が不意に希薄化し、最後には光の粒子となって掌から消え去った。

 

「……こっちもクエスト限定かよ」

 

 僕は苦笑して首を振り、ステータスウィンドウを開いて確認した。

 確かにAGIの数値が上昇しており、片手剣の熟練度ゲージも僅かに伸びていた。

石柱の輝きが完全に消え失せ、ホール中央の石碑が地中深くへと沈んでいく。代わりに出現したのは、新たな扉――どうやら出口のようだ。

 僕は最後に、この奇妙な隠し部屋を一瞥し、出口へと足を向けた。

 

「……次は、不用意に鍵に触るのはよそう」

 

 扉を押し開けた瞬間、第四層迷宮区特有の湿った空気が顔を撫でた。

 

          ***

 

 二〇二二年十二月二十六日 月曜日

 ロビア アインクラッド第四層主街区

 

 正午の陽光が運河の水面で乱反射し、石畳の上に揺らめく光の模様を描いていた。

 僕はオープンテラスの木製椅子に腰掛け、フォークで皿の上のシチューを弄っていた。

 

「――で、その隠し部屋の試練が終わったら、武器は消えちまったって?」

 

 向かいに座るキリトがコーヒーカップを置き、眉根を寄せた。陽の光を浴びた彼の黒髪は、いつも通りの無造作さで跳ねている。

 

「ああ」

 

 僕は頷く。

 

「報酬はAGIと熟練度の上昇だけだ。武器はクエスト限定のレンタル品扱いだったみたいだ」

 

「妙だな……」

 

 キリトは顎に手を当てて考え込んだ。

 

「ベータ時代にそんな設定はなかったはずだ。正式サービスで追加された隠し要素か?」

 

「単にテスターが見つけられなかっただけかもしれないわ」

 

 隣のアスナが優雅に紅茶をかき混ぜる。栗色の髪が微風に揺れた。

 

「ベータ期間は限られていたし、すべてのディテールを探索できたわけじゃないでしょう?」

 

「それはそうだが……」

 

 キリトは溜息をついた。

 

「『UniqueSkill(ユニークスキル)』なんて代物、ただのクエスト報酬で解禁されるとは思えないんだよな」

 

 僕は黙ってスープを口に運んだ。あのスキルの件については、「一時的に特殊スキルが使えた」とだけ伝え、詳細な戦闘感覚については伏せていた。何より、自分自身、あれが何だったのか理解しきれていないのだ。

 

「ま、ともかく」

 

 キリトが顔を上げ、薄っすらと笑みを浮かべた。

 

「ステータスが上がったんなら儲けもんだ。だが、次に変な扉を見つけたら、もう少し慎重になれよ」

 

「……善処する」

 

 陽光がテーブルに降り注ぎ、周囲の客たちは談笑に花を咲かせている。NPCの給仕がトレイを片手に忙しなく行き交い、すべてが平和そのものだ――ここがデスゲームの中だということを忘れれば。

 昼食を終え、僕たちは主街区の西門で別れることになった。

 

「俺たちはヨフェル城へ戻る」

 

 キリトは背中の剣帯を調整した。

 

「ダークエルフ側のクエストの続きがあるんでな」

 

「そうか」

 

 短く応じる。

 互いに背を向けようとした、その時だった。

 

「――キリト、アスナ」

 

 凛とした女声が森の方角から響いた。

 三人同時に振り返る。

 林間の影から歩み出たのは、漆黒の甲冑に身を包んだ女性だった。肌の色は深みのある紫黒色、琥珀色の瞳が陽光を浴びて鋭く輝いている。

 ――ダークエルフの騎士、キズメル。

 

「あっ、キズメル!」

 

 アスナが微笑む。

 

「どうしてここに?」

 

「任務報告に手間取ってな。まだ主街区の近くにいるのではないかと思ったのだ」

 

 キズメルの視線がキリトとアスナを巡り、やがて僕の上で止まった。

 

「その者は?」

 

「彼はコーカン。俺たちの……友人だ」

 

 キリトが一瞬言葉を選んだ。

 

「ソロプレイヤーだが、腕は立つ」

 

「なるほど」

 

 キズメルは恭しく頷き、僕に手を差し出した。

 

「お初にお目にかかる。ダークエルフ騎士団のキズメルだ」

 

 一瞬の躊躇い。だが、僕はその手を握り返した。彼女の掌は薄いガントレットに覆われており、冷たく硬質だった。

 

「コーカンだ」

 

 短い自己紹介を終え、手を離す。キズメルの視線が僕の腰の打刀に注がれた。僅かに関心を示したようだが、何も問わなかった。

 

「ヨフェル城へ戻るの?」

 

 アスナが尋ねる。

 

「うむ」

 

 キズメルは頷いた。

 

「前線の情報を早急に指揮官へ伝えねばならん」

 

「なら、すぐに出発しよう」

 

 キリトが僕を見る。

 

「コーカン、この後はレベリングか?」

 

「ああ。森の北部は沸き(ポップ)がいいからな」

 

「気をつけろよ。あそこはたまにエリートが出る」

 

 キリトが忠告する。

 

「……忠告痛み入る」

 

 キズメルが僅かに目を細めた。

 

「森の深部での単独行動は賢明とは言えん。我が同胞を同行させようか?」

 

 唐突な提案に、僕は虚を突かれた。

 

「いや、結構だ」

 

 首を横に振る。

 

「そうか」

 

 彼女は強要しなかった。ただ淡々と言った。

 

「精霊の加護があらんことを」

 

 その言葉の意味を咀嚼する間もなく、三人は森の奥へと歩き出した。キリトが振り返って手を振り、アスナも会釈する。キズメルの背筋は剣のように真っ直ぐで、すぐに木々の影へと消えていった。

 風が林間を吹き抜け、葉擦れの音を奏でる。

 僕はその場に立ち尽くし、彼らの去った方向を見つめていた。やがて小さく首を振り、北部の狩場へと足を向けた。

 ――ダークエルフ、か……。

 キリトたちがNPC勢力と協力関係にあるとは聞いていたが、実際に目にするのは初めてだった。あのキズメルという騎士、その言動はプログラムされたNPCの域を超えている。まるで、実在する一人の戦士のようだった。

 

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