二〇二三年一月三日 火曜日
カルルイン アインクラッド第五層主街区
寒風は依然として肌を刺すが、往来を行き交う人波はここ数日よりも明らかに増していた。
新年が明け、第五層の攻略熱は未だ冷めやらぬまま、広場や商店街には三々五々にプレイヤーが集っている。彼らの話題は装備の強化や効率的な狩り場についてで持ちきりだ。
僕は喧騒を縫うように歩き、目立たない路地へと折れた。
その突き当たりに、簡素な露店を構える男がいた。
屈強な肉体を誇示するように腕を組み、浅黒い肌が冬の陽射しを受けて金属的な光沢を放っている。カーソルネームは『Agil』。屋台の板には『希少素材高価買取』という殴り書きがあった。
――こいつがキリトの言っていた、裏(ブラック)……いや、やり手の商人か?
露店に近づく。エギルは顔を上げ、鋭い眼光で僕を一巡すると、豪快な笑みを浮かべた。
「よう、新顔だな。売りに来たか、買いに来たか?」
「売りだ」
僕はウィンドウを開き、いくつかのアイテムを提示した。『氷結巨像(フロスト・コロッサス)の破片』、『月光狼(ムーン・ウルフ)の牙』、『黒曜石の結晶』。第五層迷宮区のドロップ品だ。希少性はさほどでもないが、数は揃えてある。
エギルは片眉を跳ね上げ、黒曜石の結晶を一つ摘み上げて光にかざした。
「質は悪くないな。まとめて引き取ろう。相場(レート)に5%上乗せでどうだ?」
「10%だ」
「ハッ!」
彼は白い歯を見せて笑った。
「値切りは強気だな。だが、キリトの紹介じゃ無碍(むげ)にもできん。それでいい」
僕は僅かに目を瞬かせた。
「キリトが僕の話を?」
「あの小僧、二日前に装備を売りに来た時についでに言っていきやがったよ。ソロの偏屈な野郎が来るかもしれんってな」
エギルは手早くアイテムを査定しながら続けた。
「IDはコーカン、武器は打刀、無口――特徴は一致してるぜ」
「……あいつも口が軽いな」
「気にするな、あいつはそういう奴だ」
エギルは代金のコルを僕のアカウントへ送金した。
「ところで、何も買わんのか? いいモンが入ったばかりだぞ」
彼は脇の麻布を捲り、微かな光を放つ装備品を露わにした。両手斧(バトルアックス)、チェインメイル、高級ポーションのセット、そしてSTR補正の指輪。
「武器は間に合ってる」
僕の視線が指輪に留まった。
「これはいくらだ?」
「お目が高い」
エギルは指輪を摘み上げた。
「『剛力の指輪(リング・オブ・マイト)』。STR+3、耐久度は八割残りだ。即決価格8000コル」
「5000」
「おいおい、殺生な!」
エギルは大袈裟に両手を広げた。
「せめて7000だ!」
「5500。加えて『氷結巨像の核(コア)破片』を三個つける」
僕は青い輝きを放つ結晶体をウィンドウに表示した。
「第五層ボス戦後の迷宮区でしか落ちないレアだ。価値はわかってるだろ」
エギルの目が光った。
「ほう? それなら話は別だ……」
商談の末、6000コルと核破片三個で決着した。指輪を左の中指に嵌めると、STR値の上昇を示すログが流れた。
「いい取引だった」
エギルは満足げに核破片をカウンターにしまった。
「またいいネタが入ったら持ってきな。ついでに――」
彼は声を潜めた。
「『ダークエルフの秘宝』なんてのが手に入ったら、倍額で買い取るぜ」
「……ダークエルフ?」
「最近、森でエルフを見つけたってプレイヤーが増えててな。NPC経由で結構なレア物が流れてきてるんだ」
彼は意味深に笑った。
「ただ供給が不安定でな。プレミアがついてる」
僕は頷き、それ以上は聞かなかった。キリトとアスナが関わっているクエストだろうが、深入りするつもりはない。
路地を出る頃には、空の色が濃くなっていた。街路の魔法灯が次々と点り、積雪した屋根の輪郭を金色に縁取っていく。
マップを開き、第六層への転移門の位置を確認する。第五層の狩り場は概ね探索し尽くした。そろそろ次の階層へ進むべき潮時だ。
――その前に、鍛冶屋で装備の強化を済ませておくか。
新しく手に入れた指輪の感触を確かめつつ、僕は主街区の中心部へと足を向けた。背後にはまだエギルの豪快な笑い声が残っている気がした。
「……食えない商人だな」
***
カーン、カーン、とリズミカルな鍛造音が店外まで響いている。
重厚なオーク材の扉を押し開けると、灼熱の空気と鉄錆の匂いが鼻孔を突いた。薄暗い店内は、炉の炎によって橙色に照らし出されている。壁には短剣(ダガー)から大斧(グレートアックス)まで、多種多様な武器が冷たい光を放って掛けられていた。
カウンターの奥では、ずんぐりとしたドワーフ族のNPC鍛冶屋が、真っ赤に焼けた地金をトングで掴んでいた。額の汗が炎の色を映して輝いている。彼は僕を一瞥したが、手は休めなかった。
「いらっしゃい。強化か、修理か?」
「強化だ」
腰から『上級打刀(ハイ・カタナ)』を外し、カウンターに置いた。
メニュー画面を操作し、強化値を決定する。ウィンドウに『+7』の表示が浮かび上がる。
処理が完了し、打刀を実体化させる。手首にズシリとした重みを感じた――以前より僅かに増しているが、許容範囲内だ。
軽く一閃。刃が空気を切り裂く軌道は、かつてないほど滑らかだった。
「……いい剣だ」
僕は頷き、打刀を鞘に納めた。強化された武器は微かな冷気を帯びており、鞘の表面にさえ薄っすらと霜が降りていた。
鍛冶屋を出ると、陽はすでに沈んでいた。第五層の空は毒々しいほどの紫紅色に染まり、遠くの雪山が晩霞を反射してピンクゴールドに輝いている。通りの人影は昼間よりも疎らで、熱心な露天商が数人残っている程度だ。
僕は打刀を抜き放ち、黄昏の中でその刀身を検分した。
+7の強化エフェクトは顕著だ。刀身に走る氷紋が闇の中で青白く発光し、極北のブリザードを封じ込めたかのような冷厳さを放っている。
――これなら、明日の第六層攻略も少しは楽になるはずだ。
***
第六層 フィールドエリア
刃が空気を切り裂き、狼型モンスターの咽喉(のどぶえ)を正確に貫いた。
断末魔と共に、その躯(むくろ)は無数のポリゴンとなって氷結した大気の中に霧散する。僕は刀身に付着していない血を振るう仕草をし、EXPバーを一瞥した。レベルアップまで、あと僅かだ。
「――今の残心(ざんしん)、綺麗だったな」
背後から声が掛かった。
振り返ると、少し離れた場所にキリトが立っていた。黒いコートの裾が寒風に煽られ、静かになびいている。手にした片手直剣は刺突のフォロースルーを維持したままで、その足元には処理されたばかりの別のモンスターが転がっていた。
「そっちの連携(コネクト)も悪くなかった」
僕は短く返す。
キリトは苦笑し、黒剣を背中の鞘に納めた。第五層攻略以降、こいつは以前にも増して多忙のようで、狩り場で見かけることは稀だった。今日、この第六層で遭遇したのは意外だった。
「組まないか?」
彼が唐突に提案してきた。
「この辺りの『氷牙狼(アイス・ファング)』は経験値(実入り)がいいんだが、ソロだと少し効率が悪くてな」
二秒ほど思案し、僕は頷いた。パーティを組めば、確かに効率は跳ね上がる。
***
「そういえば」
短い休息(インターバル)の最中、キリトが口を開いた。
「純粋なヒーラー(回復役)ってのを見たことあるか?」
「ヒーラー?」
僕は眉をひそめた。
「SAOにそんな職業(クラス)があるのか?」
「厳密にはない」
キリトは樹氷の幹に背を預け、インベントリから水を取り出した。
「だが、従来のMMOにおけるクレリック的な役割(ロール)を模索している連中がいるらしい。支援と回復に特化したスタイルとかな」
これまでに遭遇したプレイヤーたちを記憶の底からさらってみる。大半は純粋なアタッカーで、稀に盾を持つタンカーがいる程度だ。回復専門など聞いたこともない。
「……SAOに魔法はない。どうやって回復するんだ?」
「そこが問題なんだ」
キリトは溜息をついた。
「現状、他者を『回復(ヒール)』できる手段は三つしかない。ポーションの使用、非戦闘時の自然回復、そして――」
「――スキル『バトル・ヒーリング』か」
僕が言葉を継ぐ。
「正解だ」
キリトは頷く。
「だが『バトル・ヒーリング』の発動条件はシビアだ。基本的には非戦闘時か、あるいは微量のリジェネ効果しかない。中級ポーション一本分の回復量すら稼げないのが現実だ」
「つまり、いわゆる『僧侶』はこの世界じゃ成立しないってことか」
「ああ」
キリトの声色が沈む。
「ここは『ソードスキル』の体系(システム)上に構築された世界だ。魔法はない、遠距離攻撃もない。初歩的な治療手段さえ極めて限定的だ」
彼の口調には複雑な色が混じっていた。諦観のようでもあり、あるいは覚悟のようでもあった。
「――全プレイヤーが前線に立ち、武器を振るわなきゃならない。後衛(リアガード)に隠れる場所なんてないんだ」
その言葉は氷塊のように、重く胃の腑へと落ちていった。
短い沈黙の後、キリトは不意に軽笑した。
「ま、それもSAOの特色(カラー)ってやつさ」
彼は冗談めかして言った。
「少なくとも、魔法で消し炭にされる心配はないからな」
「……随分と楽観的だな」
「慣れただけさ」
キリトは立ち上がり、コートについた雪を払った。
「続けるか? あと一時間も回せばレベルが上がる」
僕は頷き、打刀の柄を握り直した。
***
最後の一匹となった氷牙狼の喉を斬り裂く。冷たい獣の血が飛散するより早く、それはポリゴンの欠片となって消滅した。
手首を振り、掌に残る『+7打刀』の重量感を確かめる。刀身に凝結した氷の結晶が陽光を浴びて輝き、振るうたびにその軌道は鋭さを増していた。
「――やっぱり、強化すると手応えが違うな」
キリトが黒剣を納め、隣に並ぶ。彼の呼吸は乱れておらず、黒いコートには皺一つない。今の戦闘がただの散歩であったかのような余裕だ。
「+7の氷属性(アイス)エンチャントは、この手のモブには効果覿面(てきめん)だな」
彼は僕の刀を一瞥した。
「ただ、耐久値(デュラビリティ)の消耗も早くなるだろ?」
「ああ。だが、許容範囲内(マージン)だ」
僕たちは並んで次の湧き場(ポップ・ポイント)へと歩き出した。
第六層の氷結の森は、永遠に溶けぬ霧に閉ざされている。骸骨のように林立する蒼白い樹木、地面を覆う薄氷。時折吹き抜ける寒風がダイヤモンドダストを巻き上げ、視界を白く染める。
「そういや」
キリトが不意に切り出した。
「攻略組の中に、槍(スピア)使いが極端に少ないと思わないか?」
「槍使い?」
僕は記憶を巡らせた。
「確かに、少ないな」
「ベータの頃からそうだった」
キリトは足元の氷塊を蹴った。
「片手剣、曲刀、それに盾持ちが全体の七割以上だ。長槍、斧、戦鎚(ウォーハンマー)なんかは合わせて二割にも満たない」
「使い勝手が悪いからか?」
「それもある」
キリトは足を止め、遠くに霞む山脈の稜線を見やった。
「SAOの槍スキルは、設計(デザイン)が少々不遇でな。リーチは片手剣より長いが、技後の硬直(ディレイ)がデカい。頻繁なスイッチや回避が要求される高層の戦闘じゃ、リスクが高すぎるんだ」
「――それに、連携(コネクト)の相性も悪い」
キリトは続ける。
「槍技の大半は直線的な刺突だ。片手剣のように流れるような連撃(コンボ)を組みにくい。パーティ戦じゃ、その攻撃範囲の長さが仇になって、味方の邪魔をすることもある」
「よく研究してるな」
「観察してるだけさ」
キリトは笑った。
「ベータの時、一通りの武器種(カテゴリ)を試したんだ。結局、片手剣が一番しっくりきた」
氷霧の奥から、新たな狼の遠吠えが響く。僕たちは阿吽の呼吸で進路を修正し、音源へと向かった。
「だがな」
キリトが補足した。
「もし本当に槍を極めた奴がいたら、対人戦(PvP)じゃ相当厄介だぜ」
「ほう?」
「一対一(デュエル)なら、槍のリーチ差(レンジ・アドバンテージ)は脅威だ」
彼の眼差しが鋭くなる。
「特に『スパイラル・スラスト』みたいなノックバック付きの技を使いこなされると、近接武器じゃ間合いに入ることすらできない。完封(ハメ)される」
脳内でシミュレートしてみる。開けた場所で、長槍使いが刺突を繰り返して距離(ディスタンス)を維持する光景。確かに、打刀の間合いでは分が悪い。
「……痛い目を見たことがある顔だな」
「ベータ最終日に、あるプレイヤーとデュエルしてな」
キリトは肩をすくめた。
「そいつの槍は毒蛇みたいだったよ。常に俺の剣技(スキル)が届くギリギリ外側から狙ってくるんだ」
「で、どうした?」
「後で酒を奢って、槍技のクールダウンの法則を聞き出した」
キリトは悪戯っぽく片目を閉じた。
「二戦目は勝ったよ」
僕は思わず軽笑した。この男、真面目そうに見えて意外と強か(したたか)だ。
新たな氷牙狼の群れが視界に入った。
全身が雪のように白く、牙だけが幽鬼のような蒼光を放っている。先ほどよりも強力な変異種(バリアント)だ。
黒剣が抜き放たれると同時、キリトが黒い疾風となって飛び出した。狼たちが反応してざわめくが、牙を剥くより早く、僕の打刀が氷藍色の軌跡を描いて群れの中心へと斬り込んだ。