二〇二三年二月十二日 日曜日
フローリア アインクラッド第十四層主街区
アルゴの尻尾――いや、彼女のマントが、酒場の薄暗い照明の下で微かに揺れていた。彼女は本物の鼠のようにボックス席の隅に丸まり、指先で木製のテーブルをトントンと叩いている。
「コーちゃん、情報は高いヨ?」
彼女は目を細め、冗談とも本気ともつかない、あの特徴的な笑みを浮かべた。
「……まだ買うとは言ってない」
僕は向かいの椅子を引いて座り、メニューウィンドウをスワイプして、一番安い黒麦酒(ライ・エール)を注文した。NPCのバーテンダーがすぐに木製のジョッキを滑らせてくる。濃褐色の液体が波打ち、苦い麦の香りを放った。
アルゴが鼻に皺を寄せ、不満げな顔をする。
「まったく、久しぶりの再会なんだからサ、せめて蜂蜜酒(ミード)くらいのいい酒を頼みなヨ」
「情報屋が客の懐事情に口を出すのか?」
エールを一口啜る。苦味が舌に広がるが、意外にも悪くない味だ。
「おやおや、心配してやってるんだゾ〜」
彼女はニシシと笑って身を乗り出し、声を潜めた。
「ま、コーちゃんがここに来たってことは、あの噂(・・)に興味があるってことだロ?」
「……何の噂だ?」
「とぼけないでよネ」
アルゴは指先でテーブルに半円を描いた。
「第十四層の南西に広がる森、そこに真夜中だけ現れる奇妙な爺さんNPCがいる――最近、もっぱらの噂だヨ」
僕はジョッキを置いた。
「……具体的な場所は?」
アルゴの笑みが深くなる。彼女は指を三本立てた。
「三千コル。マップへのマーキング・サービス付きだヨ〜」
***
夜の第十四層の森は、想像以上に冷え込んでいた。
月光が鬱蒼とした樹冠に切り裂かれ、苔むした地面に斑模様を描いている。僕は枯れ枝を踏みしめ、足音を殺しながら進んだ。
アルゴの情報は詳細だった。NPCの出現(ポップ)時間まで正確に記されている――深夜零時から二時までの、僅か二時間のみ。
「……面倒な設定だ」
システム時刻を確認する。23時57分。
さらに奥へと進むと、木々が疎らになり、小さな空き地が現れた。中央には風化した石造りの祭壇が鎮座し、表面には摩滅して判読不能なルーン文字が刻まれている。
そして、祭壇の傍らに――。
「……来たか」
枯れた声が響いた。反射的に柄に手を掛けるが、すぐに力を抜く。
灰色のマントを羽織った老人だった。腰は曲がり、顔に刻まれた皺はナイフの傷跡のように深い。彼は祭壇に寄りかかり、白濁した瞳で僕をじっと見つめていた。
「若者よ、今日が何の日か知っておるか?」
僕は一瞬沈黙した。
「……二月十二日だが?」
老人は首を振り、骨と皮ばかりの手で祭壇の刻印を撫でた。
「残月の夜じゃ」
彼は低く呟いた。
「最後の、残月の夜じゃよ」
その言葉と共に、システムアラートが耳元で鳴った。
『隠しクエスト「残月祭」の開始条件を満たしました』
老人の濁った瞳に、月光が頼りなく映り込んでいた。それは今にも消えそうな蝋燭の火のようだった。彼の声は低く、嗄れていて、どこか遠い場所から響いてくるような錯覚を覚える。
「……残月の夜?」
僕は低く復唱し、祭壇の摩滅したルーンに視線を走らせた。
老人は答えず、ゆっくりと手を上げて夜空を指差した。その視線を追う。第十四層の夜空は木々の影に分断されていたが、その隙間から、何者かに食い千切られた銀盤のような、頼りない残月が浮かんでいるのが見えた。
「遠い昔、この森には神殿があった」
老人が語り始める。その声は、枯れ葉が擦れ合う音に似ていた。
「人々はそこで月光を祀り、加護を乞うた……。だが、闇がそれを飲み込んだのじゃ」
「闇?」
「左様」
老人は手を下ろし、深く溜息をついた。
「そして今、最後の残月が消えようとしておる……。儀式を遂行せねばならん」
『クエスト更新:失われた祭器を探せ』
ウィンドウが更新され、新たなタスクが追加される。僕は眉をひそめた。隠しクエストは高難易度と相場が決まっているが、相応の報酬(リワード)も期待できる。
「……何をすればいい?」
老人はマントの下から枯れ木のような手を差し出した。その掌には、光を失った銀色の欠片が乗っていた。
「これは最後の『月光の欠片』」
彼は言った。
「だが、儀式には三つの祭器が必要なのじゃ――この月光の欠片、『暗影(あんえい)の鈴』、そして……『忘却の祈祷文』」
「残りはどこにある?」
「月光の欠片はここにある」
老人は欠片を懐にしまった。
「暗影の鈴は、森の深奥に潜む『暗影狼の王(シャドウ・ウルフ・ロード)』が持っておる。そして祈祷文は……地下迷宮へと持ち去られたと聞く」
僕は押し黙った。
暗影狼の王といえば、第十四層のフィールドボスだ。そして地下迷宮は、未だ全容が解明されていない未踏破エリア。どちらも、散歩ついでにこなせる相手ではない。
「……なぜ僕なんだ?」
僕は老人の目を見据えた。
「このクエスト、僕以外にもトリガーできるはずだろう?」
老人は笑った。深い皺が寄り集まり、乾いた樹皮のように歪む。
「今宵、ここを訪れたのはお主一人じゃからな」
彼は声を落とした。
「残月は……迷う者を待ってはくれん」
***
祭壇を後にし、僕はマップを開いて暗影狼の王の出現エリアを確認した。森の北西、『幽影の谷』だ。
夜風が梢を揺らし、ざわざわと騒ぐ。僕は腰の打刀を確かめ、歩調を早めた。
――アルゴの奴……まさかこのクエストの難易度を知ってて売りつけたうんじゃないだろうな?
三千コルを笑顔で受け取った彼女の顔が脳裏をよぎり、思わず溜息が出る。
――だが、受けた以上は後戻りできない。
***
『幽影の谷』
谷の霧は、予想以上に濃かった。
足を踏み入れた瞬間、視界は灰白色の薄布(ベール)に覆われ、月光さえも頼りなく滲む。足元の土は湿って柔らかく、歩くたびに生物の皮膚を踏んでいるような不快な粘り気が靴底に絡みつく。
呼吸を整え、右手を柄に添えたまま警戒を強める。
――情報によれば、狼王はこのエリアを徘徊しているはずだ。
不意に、霧の奥から低い音が響いた。
狼の遠吠えではない。
それは、手負いの獣が漏らす嗚咽のような、湿った喘鳴(ぜんめい)だった。
承知いたしました。ご指摘ありがとうございます。
スキル名の叫び(シャウト)は排除し、アクション描写として記述する方法で翻訳を継続します。
足を止め、重心を低く沈める。
霧の奥底で、二点の猩々緋(しょうじょうヒ)の光がゆらりと灯った。
続いて三点目、四点目……。
――マズいな。
即座にバックステップを踏み、同時に打刀を抜き放つ。ほぼ同時、霧の中から黒い影が弾丸のように襲い掛かってきた!
刃と爪が激突し、火花が闇を焦がす。
微かな月光を頼りに、ようやくその怪物の全貌を視認した――通常の狼より二回りは巨大な体躯。漆黒の毛並みには不吉な暗紫色の霧が纏わりつき、牙の間からは腐食性の唾液が滴り落ちている。
『シャドウ・ウルフ・ロード Lv.24』
――予想よりレベルが二つも上か……。
HPバーを一瞥し、ステータスを確認すると同時に構え直す。
狼王は息つく暇も与えず、再び跳躍した。
「――チッ!」
身を捻って回避行動(ドッジ)。すれ違いざまに刃を走らせ、前脚に裂傷を刻む。だが狼王は意に介する様子もなく、突進の勢いを乗せて反転し、鞭のような尾を薙ぎ払ってきた!
――しまっ。
回避が間に合わない。咄嗟に刀身を盾にするが、強烈な衝撃に数歩弾き飛ばされる。HPバーが僅かに削り取られた。
狼王は追撃してこなかった。その場に留まり、紅い瞳で僕を射抜くように睨みつけ、喉の奥で脅すような低音を鳴らしている。
――何を待っている……?
霧の中に、さらなる赤い光点が無数に浮かび上がった――狼の群れだ。
――なるほど、取り巻き(ミニオン)の召喚か。
深く息を吸い込み、柄を握る指に力を込める。短期決戦でいくしかない。
狼王は僕の意図を察したのか、天を仰いで長く吠えた。呼応して、周囲の群れが四方八方から雪崩れ込んでくる。
まずは雑魚(モブ)から――。
刀光が霧を切り裂き、最前列の二頭のシャドウ・ウルフを瞬時にポリゴンの欠片へと変える。だが、後続の群れが距離を詰めてくる。僕は後退しながら突破口を探るが、視界の端で狼王が密かに側面へ回り込んでいるのを捉えた。
――不意打ち狙いか?
あえて隙を晒す。群れの対処に追われ、動作が遅れたふりをする。
――案の定、狼王がその好機に食らいついてきた。
爪が肉に届く寸前、僕は猛然と身体を反転させた。刀身を下段から天へと斬り上げる。
――ソードスキル発動。
暗紫色の血液が飛散し、狼王が苦悶の悲鳴を上げて地面に叩きつけられる。HPバーが一撃で三割近く蒸発した。
首領(ボス)の手痛い被弾に、群れが一瞬混乱する。その隙を見逃さず踏み込み、切っ先を狼王の咽喉へと突き出す――。
しかし、その巨体は突如として黒い霧となり、その場で霧散した。
――幻影(ファントム)?
殺気は背後から迫っていた。
空気を裂く爪撃。辛うじて身をよじったが、左肩を浅く切り裂かれる。HPがさらに減少する。狼王は着地するや否や、警戒して距離を取った。
再び、対峙。
夜風が霧をいくらか払い、月光が束の間、戦場を照らし出す。霧は風に巻かれてうねり、月は雲間から顔を出してはまた隠れる。
明滅する光と影の中で、シャドウ・ウルフ・ロードの姿はいよいよ異様さを増していた。黒い毛皮に纏わりつく紫煙、吐息ごとに漏れ出る腐食の臭気。奴はゆっくりと円を描くように歩き、赤い双眸で僕をロックオンし、喉を鳴らし続けている。
呼吸を整え、切っ先を僅かに下げる。重心を極限まで落とす。
狼王が動いた。
先ほどより速い。黒い残像(トレース)と化し、爪が風を切り裂いて喉元へ迫る。
僕は鋭くサイドステップを踏み、刀を斜めに擦り上げた。刃と爪が噛み合い、火花が散る。甲高い金属音が静寂の森を引き裂いた。
一撃目が防がれると見るや、狼王は即座にバックステップで跳び退いた。前脚が泥に深く食い込み、後ろ脚の筋肉がバネのように収縮する。次弾装填の構え。
息をつく暇など与えない。
僕は地面を強く蹴り、弦を放たれた矢の如く突進した。
――《ソニックリープ》。
稲妻のような刀光が、狼王の首筋目掛けて奔る。
しかし、刃が触れようとした刹那(せつな)、狼王の輪郭が不意に滲み、黒い霧となって霧散した。
――本物は斜め後方から襲い来る。
獠牙(りょうが)が寒光を放ち、僕の肩へと迫る。
無理やり体を捻り、刃を回してその噛みつきを辛うじて受け止める。だが狼王の衝撃力(インパクト)は凄まじく、僕はタタラを踏んで後退し、背中を古木に強打した。樹幹が震え、枯れ葉がパラパラと落ちてくる。
狼王は追撃せず、油断なく後退する。その瞳に狡猾な光が走った。
僕は深く息を吸い、柄を握りしめる。指の関節が白くなるほどに。
――受動的(パッシブ)な防御じゃジリ貧だ。
僕は幹を強く蹴り、その反動を利用して疾走した。銀色の弧を描いて肉薄する。
狼王も低く唸り、正面から飛び掛かってくる。
刃と爪が再び激突――だが今度は、力任せの衝突(クラッシュ)は避けた。
接触の瞬間、手首を返し、刃を狼王の前脚に沿って滑らせる。
痛みによろめく狼王。動作が僅かに遅滞する。
――今だ!
僕は躊躇なく剣技(スキル)を発動する。
――《逆輪(リバース・ホイール)》
新月のごとき刀光が夜を切り裂き、上段から脳天へと叩きつけられる。
シャドウ・ウルフ・ロードが凄惨な悲鳴を上げ、HPバーが一気にレッドゾーンへ突入する。
だが、まだ倒れない。
瀕死の獣ほど危険なものはない。
狼王の両目は完全に赤く染まり、黒霧が爆発的に膨れ上がる。腐食性の瘴気が呼吸を止めるほどだ。なりふり構わず飛び掛かり、その牙が僕の喉笛を狙う。
完全には躱しきれない。
千鈞一髪、猛然と首を逸らす。牙が頬を掠め、HPがさらに削れる。
だが、それゆえに奴の体勢が崩れた。
――トドメ(フィニッシュ)だ!
両手で柄を握り締め、下段から斬り上げる。雷霆(らいてい)のごとく、狼王の喉を貫いた。
暗紫色の血液が噴出し、狼王の巨躯が空中で硬直し、やがてドサリと地に落ちた。
HPがゼロになる。
『System Alert:暗影狼の王(シャドウ・ウルフ・ロード)討伐』
『獲得:暗影の鈴』
濁った息を吐き出し、切っ先を下ろす。
月光がようやく雲を穿ち、消えゆく狼王の躯を照らした。
泥の中に、漆黒の鈴が静かに転がっていた。表面には淡い紫の紋様が走っている。
拾い上げると、指先に冷たい感触が伝わった。
――第一の祭器、確保完了(ゲット)。
掌の上で、鈴が微かに熱を帯びている。まるで狼王の体温が残っているかのようだ。僕はそれをインベントリに収納し、夜空を仰ぐ。
残月はすでに西に傾いている。時間は残り少ない。
地下迷宮――老人が口にした最後の祭器はそこにある。
僕はマップを広げ、最寄りの侵入口(エントランス)を確認した。
第十四層の地下迷宮は、主街区フローリアの南東に位置する峡谷の底にある。プレイヤーたちの間では『影の回廊(シャドウ・コリドー)』と呼ばれている場所だ。出現するモンスターのレベルは軒並み25以上とされ、攻略組のメンバーでさえ単独で踏み入ることは滅多にない危険地帯だ。
幽影の谷の外縁を抜けると、霧は徐々に薄れていった。月光に浮かび上がる峡谷の輪郭は深淵そのもので、両側の岩壁は巨大な戦斧で叩き割られたかのように険しく切り立っている。狭い石段を降りていくにつれ、空気は湿り気を帯びて澱み、どこか腐敗した臭気を孕み始めた。
石段の突き当たりには、錆びついた鉄柵が立ち塞がっていた。干からびた蔦が絡みつき、柵の向こう側に広がる闇は、月光さえも拒絶するかのように粘度を増している。
僕は打刀を抜き放ち、左手で柵を押し開けた。錆びた蝶番(ちょうつがい)が悲鳴のような金属音を上げ、静寂に包まれた峡谷に耳障りに響いた。
足元の石畳はひび割れ、その隙間には微かに蛍光を発する苔が群生している。この青緑色の光の粒子だけが暗闇における唯一の光源であり、辛うじて通路の輪郭を浮かび上がらせていた。
ほどなくして、前方からカサカサという何かが蠢く音が聞こえてきた。僕は足を止め、切っ先を僅かに上げる。闇の奥で、数対の真紅の瞳が不意に灯った。
『シャドウ・ラーカー Lv.22』
巨大な蜘蛛を思わせる異形の怪物たちが、天井から垂れ下がっていた。八本の節足が石壁を擦り、歯が浮くような音を立てている。外殻は病的な灰白色をしており、腹部からは絶えず腐食性の液体が滴り落ちていた。
最初に仕掛けてきたのは、一際巨大な個体だった。バネのように弾け飛び、鋭利な前脚を僕の顔面めがけて突き出してくる。
僕は体を捻って回避し、その勢いのまま刃を擦り上げる。柔らかい腹部が切り裂かれ、濃緑の体液が噴き出した。石畳に落ちた液体が、ジュッという音と共に白煙を上げる。
手負いのラーカーが高周波の悲鳴を上げた。それを合図に、残りの個体が一斉に殺気立つ。四方八方から押し寄せ、節足が床を叩く音が死へのカウントダウンのように響く。
僕は即座にバックステップを踏み、壁に背を預けて包囲されるのを防いだ。右手で柄を強く握り、左手を峰の中ほどに添え、防御の構えを取る。
三体のラーカーが同時に跳躍した。
――《ホリゾンタル》。
刀光が完璧な半円を描き、先頭の二体を両断する。だが、三体目がその隙を縫って肉薄し、鋭い口器が僕の首筋に迫る。
間一髪、猛然と頭を下げる。右手の柄を逆手に持ち替え、真上への突き(アッパー・スラスト)を放つ。刃はラーカーの下顎から突き刺さり、頭部を貫通した。
息つく暇もない。通路の奥から、さらなる影が湧き出してくる。
刀にこびりついた残骸を振り払い、深く息を吸う。こいつらは無尽蔵か。何とかして突破口を開かなければ――。
視線を走らせ、通路の両脇にある岩壁に目立つ亀裂があるのに気づく。
次波が押し寄せる寸前、僕は戦術を切り替えた。正面からの迎撃を捨て、右側の岩壁へとダッシュする。走力を利用して壁面を三歩駆け上がり(ウォールラン)、高く跳躍した。
ラーカーたちはこの機動を予測できていなかったらしく、攻撃はすべて空を切った。
僕は空中で姿勢を制御し、切っ先を真下に向ける。
――《メテオ・インパクト》。
流星の如く落下し、リーダー格のラーカーの背中へと正確に切っ先を突き立てる。衝撃で怪物の体は地面に縫い付けられ、余波が周囲の数体の外殻を砕いた。
生じた僅かな空白(ギャップ)。
僕は即座に前進し、包囲網を突破して迷宮の深部へと駆け出した。背後で響く金切り声が、徐々に遠ざかっていく。
通路は下り勾配になり、湿度はさらに増していく。前方から微かに水音が聞こえ始めた。
急なカーブを曲がると、視界が一気に開けた。
そこは巨大な地下空洞(鍾乳洞)だった。中央には漆黒の地底湖が広がり、鏡のような水面が、岩盤の天井から垂れ下がる発光水晶を映し出している。
そして、湖の中央に浮かぶ小島に、破損した石碑が孤独に佇んでいた。
――あれが、目的地だ。
一見すると湖面は穏やかだが、水面下には巨大な影が蠢いている。僕は湖畔にしゃがみ、小石を拾って投げ入れた。波紋が広がった瞬間、巨大な黒影が猛然と過った。
『アビス・ガーディアン Lv.28』
漆黒の湖面は凝固した墨玉(ぼくぎょく)のようで、天井の幽青色の水晶を映している。空気には湿った黴(カビ)の臭いと、名状しがたい生臭さが混じり合っていた。僕は湖の端に立ち、指先で切っ先を撫でる。金属の冷感が精神を研ぎ澄ませてくれる。
湖心(こしん)の小島の石碑には古のルーンが刻まれ、微かな銀輝を放っている。あれこそが老人の言っていた『忘却の祈祷文』――最後の祭器だ。
だが、水面下を遊弋(ゆうよく)する影が、単なる回収作業を致死的な挑戦へと変えている。
突破口を探して周囲を見渡す。岩壁には無数の鍾乳石が垂れ下がり、中には折れて鋭い断面を晒しているものもある。湖岸には巨大生物の骸骨とおぼしき流木が散らばっていた。
――これを利用できるか。
拳大の石を拾い、数歩下がってから思い切り湖心へ投擲(とうてき)する。静寂を切り裂き、水面に波紋が広がる。
黒影が暴起した。
水面が炸裂し、巨体が躍り出る。大蛇(パイソン)に似ているが、頭部は竜種の骨甲(ボーン・アーマー)で覆われ、黒い鱗には蛍光の脈が走っている。それは大口を開け、飛来する石を正確に空中で噛み砕き、粉塵に変えた。
『アビス・ガーディアン Lv.28』
――やはりな。
こいつは水面へのあらゆる干渉に反応する。正面突破は不可能だ――速度が違いすぎる。
僕は垂れ下がる鍾乳石に視線を定めた。
岩壁の端までゆっくりと後退し、深く息を吸い込む。一気に加速して湖面へ。水に入る寸前、岸辺の岩を強く蹴り、宙へ舞う。
空中で体を捻り、右手の一撃を最も近い鍾乳石へ叩き込む。
轟音と共に三メートル超の石柱が落下し、先端が湖心へと突き刺さる。ガーディアンは即座に音に反応し、その巨体を落下点へと捻じ向けた。
――今だ!
反動を利用して軌道を変え、別の低い鍾乳石へと着地する。足先が触れるや否や、再び跳躍。見えざる階段を駆け上がるように、垂れ下がる石柱の間を縫って進む。
怪物は落下した鍾乳石に噛みつき、欺かれたと知るや怒りの咆哮を上げた。巨大な尾が水面を叩き、数メートルの水柱が上がる。
湖心の小島まであと二十メートル。
足場となる最後の石柱を蹴り、全力で小島へ跳ぶ。
だがその時――。
ドパァン!
水面が突如として炸裂し、ガーディアンの尾が鞭のように薙ぎ払われた。空中で無理やり体勢を整え、刃で受ける。
ガィィン!
鼓膜が破れそうな金属音。凄まじい衝撃に、僕は糸の切れた凧のように吹き飛ばされ、小島の縁に激突した。HPバーが一瞬で三割近く消し飛ぶ。
痛みを無視して転がり起きる。怪物はすでに方向転換を済ませ、獰猛な頭部を水面から突き出していた。凍てつく縦瞳孔(スリット)が僕をロックオンしている。
即座には来ない。ゆっくりと遊弋し、小島を包囲する。太く長い体が湖面に危険な波紋を描き、退路を完全に断った。
突如、アビス・ガーディアンが加速した。全身を矢のようにして射出される。口腔には三列の鋸状(のこぎりじょう)の牙が寒光を放っていた。
咬合(こうごう)の寸前、サイドステップで躱し、下段から刃を擦り上げる――。
――《逆輪(リバース・ホイール)》。
刃が下顎を切り裂き、暗緑色の血飛沫をあげる。怪物は痛みにのけ反るが、同時に太い尾が側面から迫る。
完全には躱せない。打刀を垂直に立てて受ける(ブロック)。
ドンッ!
強烈な衝撃に数メートル滑り、靴底が湿った岩を削る音を立てた。HPがさらに削れる。怪物は喘ぐ隙を与えない。再び来る。今度は噛みつきではない――その巨体を使った質量攻撃(プレス)だ。
僕は後退を続け、程なくして石碑の近くまで追い詰められた。背後は堅牢な岩壁だ。退路はない。アビス・ガーディアンもそれを悟ったのか、攻勢はいっそう激しくなる。突如、奴は鎌首をもたげ、喉元を大きく膨らませた――。
――マズい!
僕は猛然と横へ飛び込んだ。
次の瞬間、漆黒の酸が吐き出され、直前まで立っていた場所が白煙を上げて溶解し、深い孔が穿たれた。
石碑は目と鼻の先だ。だが、怪物が完全に進路を塞いでいる。
視線を巡らせ、石碑の基部に幾筋かの亀裂が入っているのに気づく。あるいは……。
怪物が再び襲い来る。僕は回避を選択せず、正面から突っ込んだ。衝突の刹那、急激な方向転換(フェイント)を入れる。刃を奴の左目に叩き込む。
アビス・ガーディアンが鼓膜をつんざく絶叫を上げ、狂ったように身を捩る。その隙を突き、僕は石碑へと走った。渾身の力を込め、打刀を基部の亀裂に突き立てる――。
パキリ!
音を立てて石碑が倒壊し、怪物の頭部を直撃した。
この一撃が何らかの機構(ギミック)を作動させたらしい。空洞全体が激しく振動し始める。天井の水晶が次々と落下し、湖面に無数の水飛沫を上げた。
水流が乱れ、ガーディアンは一時的に方向感覚を失ったようだ。僕は素早く瓦礫の中から、ルーン文字が刻まれた石板を拾い上げる――これこそが『忘却の祈祷文』。だが、安堵する間もなく、足元の小島が沈降を始めた。
石碑が浮島を支える要(かなめ)だったのか。
湖水が急速に迫り来る。ガーディアンはすでに体勢を立て直し、こちらへ向かって泳ぎ出していた。
すぐに離脱しなければ――。
周囲を見渡す。最寄りの岩壁まで十五メートル。今の状態では、一度の跳躍で届く距離ではない。
いや……。
視線が、落下してくる鍾乳石を捉えた。
深く息を吸い、タイミングを計る。島が完全に水没する直前、全力で跳躍した。体が宙に浮いた瞬間、ガーディアンが水面を割って躍り出る。その巨大な顎(あぎと)が足元で閉じられたが、僅か数センチ届かない。
空中で、僕は落下する鍾乳石を刀で薙ぎ払い、その反作用で軌道を変えた。辛うじて、別の流木の上に着地する。
怪物は即座に方向転換し、追ってくる。岸まであと十メートル。躊躇している暇はない。再び跳ぶ――。
今度は、足場も反動点もない。
水面に落ちる――そう覚悟した瞬間、岩壁から一本の蔦がするりと垂れてきた。
この予期せぬ救い手がどこから来たのか考える余裕もなく、僕は手を伸ばして掴んだ。蔦がグイと引き上げられ、体が岩壁へと運ばれる。ガーディアンの鋭利な牙が空振りに終わり、水飛沫がズボンの裾を濡らした。
岩壁の棚に這い上がり、振り返る。怪物は眼下を数回旋回した後、不承不承といった様子で漆黒の湖底へと沈んでいった。鍾乳洞の震動も徐々に収まっていく。
手の中の石板を見る。古のルーンが闇の中で微かに脈動していた。
湿った岩壁の上で、命綱となった蔦がまだ揺れている。見上げると、岩の裂け目の縁にアルゴがしゃがみ込んでいた。トレードマークの鼠色のマントが、幽青色の水晶に照らされて奇妙な光沢を放っている。
「コーちゃん、もう少しで魚の餌だったネ」
彼女は手にした蔦をぶらぶらと揺らし、あの見慣れた、小賢しくも親しみのある笑みを浮かべていた。
岩の突起を掴み、裂け目まで登る。アルゴが手を貸してくれた。その指先は少し冷たかったが、意外なほど頼もしかった。
「どうしてここに?」
「そりゃあ、無鉄砲な奴を放っておけなくてネ」
アルゴはマントの埃を払った。
「君が迷宮に入った時から、ずっと後ろをつけてたんだヨ。ただ、あの『影に潜む者(シャドウ・ラーカー)』どもは趣味が悪くてネ、随分と遠回りさせられた」
洞窟の奥底から、アビス・ガーディアンの怨嗟のような鳴き声が響き、閉鎖空間に不気味な反響音を残す。アルゴの耳(・・)――フードの装飾だとわかってはいるが――がピクリと動いた気がした。本当に鼠のような警戒心だ。
「ずらかろう。ここの構造、不安定になってるヨ」
彼女は背を向け、岩の裂け目の奥にある狭い通路へと潜り込んだ。
***
第十四層の地上へ戻る頃には、残月はすでに樹梢(こずえ)へと沈みかけていた。森には夜明け前特有の冷厳な霧が立ち込め、歩くたびに草むらから蛍が驚いて飛び立ち、散らばった星屑のように僕らの周囲を舞った。
アルゴが先導し、手慣れた様子で道を塞ぐ蔦を払いのけていく。その動作には独特のリズムがあり、まるで彼女にしか聞こえない音楽に合わせて踊っているかのようだ。
「で、爺さんの欲しがってた祭器は揃ったのかイ?」
「ああ」
僕はインベントリにある三つのアイテムを確認した。
「月光の欠片、暗影の鈴、それと……」
「『忘却の祈祷文』か~」
アルゴは突然くるりと振り返り、器用に後ろ歩きを始めた。マントが朝霧の中で流麗な弧を描く。
「コーちゃん知ってるかイ? あの石碑の文字、実は古代エルフ語なんだヨ」
僕は片眉を上げた。アルゴはここぞとばかりに得意げな顔をし、マントから古びた手帳を取り出した。
「『残月が地平に沈む時、銀の刃は最後の月光を飲み干す』――大意はそんなところかナ」
パタリ、と手帳を閉じる。
「具体的な効果(エフェクト)は不明だけど、とんでもない武器になるのは間違いないネ」
最後の灌木帯を抜けると、祭壇のある空き地が姿を現した。
老人は変わらず、朽ちた石造りの祭壇の傍らに佇んでいた。まるで一歩も動いていないかのように。そのマントは夜露で濡れ、朝の光を受けて細かな輝きを放っていた。
「戻ったか」
老人の声は、記憶にあるそれよりも一層枯れて響いた。
「供物は……すべて持ち帰ったか?」
僕はインベントリから三つのアイテムを取り出した。
夜明け前の闇の中で、『月光の欠片』は殊更に光を失っているように見え、『暗影の鈴』はチリチリと微細な震動を続けている。そして『忘却の祈祷文』が刻まれた石板は、祭壇に触れた瞬間、微かな燐光を放ち始めた。
老人はそれらを特定の順序で祭壇に配置し、晦渋(かいじゅう)な呪文を詠唱し始めた。彼の声が高まるにつれ、祭壇のルーン文字が次々と輝き出し、やがて銀蒼(ぎんそう)色の光の網となって結合する。
いつの間にか、アルゴが僕の背後、半歩下がった位置まで退いていた。彼女の呼吸が僅かに荒くなっている。
「来るヨ」
彼女が小声で告げた。
祭壇の中央で光が歪曲し、見えざる手によって空間が引き裂かれたかのような亀裂が生じる。そこから一振りの刀が、ゆっくりと浮上してきた。
鞘は深海を思わせる鉄紺(てつこん)色で、その表面には月の満ち欠け(フェイズ)を模した銀の紋様が流れるように描かれている。
老人は震える両手で刀を捧げ持ち、僕の方へと向き直った。
僕がそれを受け取ると、即座にシステムウィンドウがポップアップした。
『獲得:ザンゲツ・ブレード(Zangetsu Blade)』
鯉口を切り、刀身を抜き放つ。
黎明の闇を切り裂き、一筋の銀光が走った。刃は奇妙な半透明の質感を帯びており、まるで月光そのものを鋼鉄として凍結させたかのようだ。鍔(つば)は三日月を象り、柄には銀蒼の糸が巻き付けられている。触感は冷ややかだが、不思議と冷たさは感じない。
アルゴが顔を近づけてきた。朝日に照らされ、その琥珀色の瞳がキラキラと輝いている。
「わお~。ステータス(スペック)はどうだイ?」
僕は武器情報を彼女と共有(シェア)した。
「スタック型のダメージ上昇パッシブに、範囲(レンジ)バースト……コーちゃん、とんだお宝を拾ったネ」
ふと気配が消え、視線を上げる。老人はいつの間にか祭壇の後方へと退いており、その輪郭が透け始めていた。
「心せよ」
彼の声は風に溶けるように頼りなくなっていた。
「その刃は月光を喰らう……そして、持ち主の……」
最期の言葉は完結することなく、彼の姿は朝霧のように霧散した。祭壇のルーンも一つまた一つと輝きを失い、最後には元の風化した石塊へと戻った。
アルゴは首を傾げて祭壇を見やり、それから僕の手の中の刀を見た。
「ま、NPCの台詞ってのはいつも意味深で神出鬼没なモンだヨ」
彼女は大きく伸びをした。
「空も白んできたし、街に戻って朝食(ブレックファスト)にしないかイ? 蜂蜜パンケーキが絶品の店を知ってるんだヨ~」
『ザンゲツ・ブレード』が晨(あした)の光を受けて微かに明滅する。僕はそれを鞘に納めた。鞘は腰のホルダーに吸い付くように収まり、最初からそこにあったかのようなフィット感をもたらした。
***
帰路、アルゴは調子外れの鼻歌を口ずさみながら、時折スキップをして水たまりを避けて歩いた。道中、僕は地下迷宮での出来事を簡潔に話し、彼女はアビス・ガーディアンに関する補足情報を教えてくれた。
「……なるほど、あいつの弱点は顎の下の逆鱗だったのか」
「Bingo(ビンゴ)~」
アルゴはくるりと振り返り、器用に後ろ歩きをしながら人差し指でこめかみをトンと突いた。
「ま、弱点(ウィークポイント)を知ってても、コーちゃんみたいにソロでやり合えるプレイヤーなんてそうそういないけどネ」
主街区フローリアの輪郭が地平線に浮かび上がり、朝を告げる鐘の音が遠くから響いてきた。
不意にアルゴが足を止め、マントから一枚の羊皮紙を取り出した。
「そうだそうだ、これ、あげるヨ」
それは手書きの地図だった。第十四層の隠し狩り場(スポット)がいくつか書き込まれている。北西の角には、赤いペンで星印がマーキングされていた。
「新しく見つかったエリートモブの湧き場(ポップ・ポイント)だヨ。試し斬りにはもってこいだ」
彼女は右目をパチリと閉じてみせた。
「情報料はオマケしとくヨ。先行投資のお返しってことでネ~」
アルゴはピョンピョンと跳ねるようにして城門へと駆けていった。鼠色のマントが朝陽の中で翻り、それは消えゆく残月の姿によく似ていた。
***
二月七日 火曜日
第十四層迷宮区 フロアボス攻略戦
迷宮区の最奥、玉座の間(スローン・ルーム)。空気は凍りついたように静止していた。
第十四層フロアボス――『エスポワール・ザ・フロスト・ドミネーター(Espoire the Frost Dominator)』が、氷の玉座に君臨している。
千年の永久凍土から削り出されたかのようなその巨躯は、薄暗いホールの中で幽鬼のような青い光を放っていた。後頭部には六本の鋭利な氷柱(つらら)が王冠のごとく浮遊し、呼吸に合わせてゆっくりと回転を続けている。
エスポワールがゆっくりと腕を持ち上げると、地面から無数の氷棘(ひょうきょく)が瞬時に隆起した。
「散開!」
襲い来る氷柱(つらら)をサイドステップで躱し、足を止めることなくボスの左側面(フランク)へ疾走する。
『ザンゲツ・ブレード』が銀の弧を描き、膝関節に亀裂を刻んだ。五連撃のソードスキルが完璧に繋がり、五つの『残月』の刻印が刀身に次々と灯る。
刀光が炸裂した瞬間、広範囲の銀色の斬撃波が薙ぎ払われ、エスポワールの左脚を覆う氷甲(ひょうこう)に蜘蛛の巣状の亀裂を走らせた。怪物は鼓膜を破るごとき咆哮を上げ、浮遊していた六本の氷柱を同時に射出した。
「弾幕(バラージ)に注意せよ!」
プレイヤーたちが散開して回避行動をとる。その最中、僕は左前方にいる一人の槍使い(ランサー)に気づいた――氷柱の乱反射の中で、その金色の長髪が一際鮮烈に輝いていた。立ち位置が突出しすぎている。三本の氷柱が『品』の字を描くような陣形で、彼女へ殺到しようとしていた。
――マズい!
思考よりも早く身体が駆動した。霜に覆われた石畳を強く踏み砕き、ザンゲツ・ブレードを薙ぐ。先行する二本の氷柱を粉砕する。だが、三本目には刃が間に合わない――。
千鈞一髪、僕はその槍使いへ体当たりし、射線から弾き飛ばした。氷柱が右肩を掠め、HPバーが一瞬で二割近く蒸発する。骨まで凍てつく寒気が走り、右腕の感覚が麻痺した。
金髪の槍使いは空中で軽やかに身を翻し、長槍の石突きを地面に立てて着地した。その湛藍(たんらん)の瞳が僅かに見開かれている。誰かが助けに入るとは予想していなかったようだ。
言葉を交わす時間はない。エスポワールはすでに第二形態(フェーズ)の広範囲攻撃(AoE)を発動しようとしていた――。
「総員退避! 氷の環(リング)が来るぞ!」
地面が激震し、地割れから無数の氷晶が噴き上がる。僕は槍使いの手首を掴み、強引に後方へと引きずった。僕たちが直前まで立っていた空間を、巨大な氷柱が轟音と共に貫いた。
「……ありがとう」
***
二時間後。エスポワールは全員の猛攻を受けて崩れ落ち、その巨躯は無数の氷晶となって砕け散り、空気中へと霧散していった。
『Congratulations!』
『第十四層ボス「エスポワール・ザ・フロスト・ドミネーター」討伐完了!』
ホールに歓声が爆発する。僕は壁に背を預け、荒い呼吸を整えた。右肩の凍傷(フロストバイト)状態(ステータス)は未だ完全には消えておらず、指先にはまだ痺れが残っている。
「あの……」
涼やかな声が横から掛かった。
金髪の槍使いがそこに立っていた。長槍は背に懸架(マウント)されている。トレンチコートに似た深青色(ミッドナイトブルー)のアウターを纏い、膝丈の裾が戦闘の余韻の中で微かに揺らめいていた。
「先ほどは、助かりました」
その瞳は極地の氷河を思わせた。清冽で冷ややかだが、同時に言葉にしがたい光彩を宿している。
「気にするな」
僕は首を横に振った。
彼女は微かに唇を引き結び、何かを躊躇う素振りを見せた。やがて、彼女は手を上げ、フレンド申請ウィンドウを呼び出した。
「ユキイ……」
『フレンド申請:Yukii』
僕は申請を受諾した。ユキイの表情が、ほんの僅かに和らいだように見えた。口元の弧度(カーブ)はほとんど識別できないレベルだったが。
ユキイは小さく頷き、金糸の髪がさらりと揺れた。何かを言いかけたようだったが、遠くからの仲間の呼び声に遮られた。
「ユキイ! 戻るぞ!」
「……行かなくては」
彼女は身を翻した。
「また」
踵を返す動作は洗練されていた。ロングコートの裾が優美な弧を描き、それはまるで冬の日に吹き抜ける一陣の風のようだった。
僕は彼女の去りゆく背中を見送った。その金色の輝きが、玉座の間の曲がり角へと消えていくまで。