模擬戦当日。破軍学園の闘技場は、異様な熱気に包まれていた。
今日の対戦カードは、一年生ながら『史上最強の怪物』の異名を取る黒鉄 剣心と、三年生の選抜クラスに名を連ねる高藤 聖悟。高藤は、昨年の『七星剣舞祭』ベスト4の実力者であり、『剣の王』を目指す理想主義的な騎士として知られていた。
しかし、闘技場の空気は、勝敗への期待というよりも、不気味な予感に満ちていた。
剣心が入学してから約二週間。彼との模擬戦に臨んだ上級生は、十名を超える。その全てが、瞬時に、完璧に敗北している。誰もが、剣心が剣を振るう姿を鮮明に覚えていないという事実が、恐怖を増幅させていた。
観客席の最前列には、理事長である新宮寺黒乃が、面白そうに紫煙を燻らせている。その隣には、生徒会長の東堂刀華や、副会長の砕城彼方といった執行部の面々も顔を揃えていた。
そして、剣心と同じ一年生席。ステラ・ヴァーミリオンは、腕を組みながら、どこか不機嫌そうに戦場を見つめていた。
「あの男、相変わらず態度が気に食わないわね」
ステラが吐き捨てるように言う。彼女の隣には、Eランクの騎士、黒鉄 一輝が座っていた。
「剣心君は、いつも完璧な礼儀正しい態度じゃないか。何を怒っているんだ?」一輝は首を傾げる。
「完璧すぎるのよ! 彼には、剣士としての血の熱を感じないわ。あれは、剣を振る機械よ」
一輝は、ステラの言葉に反論しなかった。剣心の剣術が、常軌を逸した精度と速度を持つことは知っている。しかし、剣心自身が語るように、彼の剣には「熱」が欠けていることを、一輝もまた肌で感じ取っていた。
「彼は、僕たちと同じ黒鉄の血筋だから、気になるんだ。あの剣に、彼の意志はあるのかな」
一輝は、静かにそう呟いた。
二人の騎士が、闘技場の中央で向かい合う。
高藤聖悟は、整った顔立ちに真摯な眼差しを持つ青年だった。彼が顕現させた霊装は、精巧な装飾が施された両手剣《風花》。その刀身には、風を操る魔力が常に渦巻いていた。
「黒鉄 剣心君」
高藤は、一輝への敬意からか、剣心にも真摯な態度で接した。
「君の噂は聞いている。まるで、未来を予知し、勝利の道筋をなぞるかのような剣だそうだ。騎士として、自分の剣の可能性を最初から否定しているようで、私は感心できない」
剣心は、無感情な金色の瞳で高藤を見返す。彼の背中には《天照》が静かに鎮座していた。
「高藤殿。失礼ながら、あなたの『剣の王』としての理想は、既に過去の遺物です。あなたの剣が持ちうる可能性は、私の《八鏡》によって全て計算済みです。あなたの最適解は、三秒後の敗北です」
挑発ではない。それは、剣心にとって、ただの事実の通告だった。彼の伐刀絶技《八鏡》は、既にこの戦場の全てを解析し尽くしている。
高藤の持つ《 風花》の魔力操作の癖、彼の心拍数、体幹の僅かなブレ、そして彼が最も得意とする風魔術(サイレントエア)の起動までの秒数。全てが、勝利の計算式に組み込まれていた。
「──騎士たるもの、最後まで理想を追うのが務めだ! その傲慢な計算を、私の剣が打ち破ってくれる!」
高藤は激昂し、霊装を構えた。闘技場の空気が、彼の魔力によって振動し始める。
(高藤聖悟。戦闘開始から二秒で《風の剣舞(テンペスト・ブレード)》を起動し、初撃は私の右肩を狙う。その一瞬、彼の体勢が前に傾き、心臓の真上が無防備になる。これが、最適解への道筋)
剣心の脳内では、無数のシミュレーションが、わずか数ミリ秒の間に処理された。彼の意識は、人間的な感情から切り離され、勝利のための機械と化していた。
新宮寺黒乃が、煙草を揉み消して合図を出す。
「始めろ」
ドォン!
高藤は、開始と同時に地面を蹴り、一気に剣心との間合いを詰めた。彼の剣技は、淀みなく、美しかった。風を纏った《風花》は、その名の通り、まるで優雅な風の剣舞を舞っているかのようだ。
高藤の剣が、予測通り、剣心の右肩を狙う。剣心の剣は、まだ抜かれていない。
観客席から、悲鳴が上がる。
「黒鉄! なぜ動かない!」
だが、その瞬間、世界が剣心のために最適化された。
高藤の剣が彼の右肩に到達する直前、剣心は、最小限の動きでその一撃を紙一重で回避した。その回避は、風の軌道を読み切り、「風がない空間」を移動したかのように見えた。
回避と同時に、剣心は背中の《天照》を一閃。
黄金の光を帯びた刀身は、高藤の防御をすり抜けた。高藤が最も自信を持つ剣術の技術をもってしても、この一撃は不可視だった。なぜなら、その一撃は、高藤の防御の意図すら生じる前に、存在しないはずの隙間を突いていたからだ。
《八鏡》は、高藤の魔力、筋肉、思考、その全てから、「彼が絶対に防御できない一点」を計算し、その一点のみを狙って発動された。
ザシュ!
音はしなかった。ただ、高藤の体から、魔力が急激に霧散する気配がした。
高藤の霊装《風花》は、その柄が握られたまま、彼の心臓の真上、胸元の制服の僅かな隙間を突かれ、魔力回路の中核を寸断されていた。
剣心は、刀身から黄金の光を消し、静かに納刀した。その動作に、一切の乱れはない。
高藤は、数秒間、自分が何をされたのか理解できなかった。彼は剣を構えたまま立ち尽くし、やがて、カクンと膝をつき、霊装《風花》は光の粒子となって消滅した。
「……私の、剣は……」
高藤は、敗北の理由もわからず、呆然と呟いた。
剣心は、勝者に許された感情の爆発も、安堵の息遣いも見せず、ただ高藤を見下ろした。
「高藤殿。三秒での敗北と計算いたしました。結果は二・七秒。誤差の範囲内です」
彼は、勝敗を感情ではなく計算結果として処理した。
観客席は、静寂に包まれた。誰もが、何が起きたのか理解できなかった。ただ、『史上最強』の怪物が、また一人、強者を、その完璧な計算によって、無慈悲に葬ったという事実だけが残った。
剣心は、闘技場から静かに立ち去ろうとした。その時、彼の脳裏に、高藤の最後に見た驚愕と絶望の表情が焼き付いた。
(また、やってしまった)
剣心は、自分の才能が、他者の努力や理想を、ただの数字として処理してしまうことに、吐き気を覚えた。
高藤の剣は美しかった。その剣には、彼が『剣の王』を目指すために捧げた、情熱と努力が詰まっていた。だが、剣心は、その全てを「最適解ではない」という一言で、無価値にしてしまった。
彼の《八鏡》は、剣心を勝利へと導く。しかし、それは同時に、剣心から人間的な感情を奪い、彼を孤独な怪物へと変える。
(私は、彼らのように、自由な剣を振りたい)
観客席から、再び黒乃理事長の声が響いた。
「見事な勝利だ、黒鉄 剣心。お前は、この学園の絶対的な基準だ。誰もお前を破ることはできないだろう」
その言葉は、剣心の耳には最大級の呪いとして響いた。
絶対的な基準。 それは、彼の存在が、揺るぎない鎖によって固定されていることを意味する。
剣心は、その場で霊装《天照》の柄を強く握りしめた。彼の心は、その勝利の完璧さに反比例して、冷え切っていた。
剣心が闘技場から立ち去る際、観客席の一点に視線が引きつけられた。
黒鉄 一輝。
彼は、剣心の完璧な勝利を目の当たりにしながらも、他の生徒たちのような恐怖や畏敬の目を向けていなかった。
彼の目は、探求者の目だった。
「凄いな、剣心君。まさか、一瞬で高藤先輩を破るとは」
一輝は、正直な感想を漏らした。だが、その声のトーンは、ステラのような不快感や、他の生徒のような絶望とは違う、純粋な好奇心に満ちていた。
「あいつの剣は、まるで透明ね。私でも、何が起きたのか完全に理解できなかったわ」ステラは苛立ちを隠せない。
「透明、か。そうだね。でも、彼の剣は、あまりにも綺麗すぎる。まるで、完成されすぎた定規みたいだ」一輝は、腕を組みながら呟いた。
「定規?」
「うん。彼は、勝利という目的地に、最短距離で、一切のブレなく線を引くことができる。だけど、剣士の剣は、もっと不完全で、曲がりくねって、熱を持つものじゃないかと思うんだ」
一輝は、剣心の中に、自分の剣に似た純粋な剣への愛を、微かに感じ取っていた。しかし、その愛が、何らかの巨大な力によって抑圧されているようにも見えた。
(剣心君。君の剣は、誰のために振られているんだ?)
一輝は、剣心が高藤に発した「三秒後の敗北」という冷徹な通告を思い出す。その計算の完璧さは、彼自身の『一刀修羅』のような、命を燃やした覚悟とは、あまりにもかけ離れていた。
剣心は、一輝のその『計算外の視線』を感じ取った。彼の《八鏡》は、一輝の眼差しに込められた純粋な探究心を、『唯一予測できないイレギュラー』として処理する。
(黒鉄 一輝。あなただけは、私を怪物として見ない)
剣心は、一輝に視線を合わせることなく、闘技場を後にした。彼の背中に輝く《天照》は、まるで、逃れることのできない太陽のように、重く、彼を縛り付けていた。
彼は、自分の鎖を断ち切るために、自由な剣を持つ一輝の存在を、深く渇望するのだった。
(続く)