1.処刑のゴング
「始め!」
審判の声が落ちた刹那、世界から音が消えた。
観客が瞬きをするよりも速く、黒鉄剣心の姿が掻き消える。
《
一輝の重心移動、筋肉の収縮、視線の揺らぎ。五感から得られる膨大な
「──ッ!」
一輝の反応は遅れた。いや、万全の状態であっても反応できたかどうか。
固有霊装《
鮮血が舞う。
一輝の身体が独楽のように回転し、リングの床に叩きつけられた。
「……ぐ、あっ……!」
激痛が神経を焼き切る。ただでさえ拷問で衰弱した身体に、Sランクの魔力を纏った一撃はあまりに重い。
会場から悲鳴が上がる。それは試合ではない。一方的な
剣心は追撃の手を緩めない。
立ち上がろうとする一輝の太腿を、無慈悲に鞘で打ち砕く。
防御しようと上げた一輝の腕を、蹴り飛ばしてガードをこじ開ける。
「立ちなさい、黒鉄一輝。これで終わりですか」
剣心の声は冷徹だ。
だが、その剣筋は一輝の急所を──心臓や頸動脈を──わずかに、紙一重で逸らしていた。
殺しはしない。だが、生かしてはおかない。
徹底的に痛めつけ、心を折り、騎士としての尊厳を剥ぎ取る。それが「オーダー」だからだ。
(……もっとだ。もっと絶望してください)
剣心は心の中で叫ぶ。
私の計算を超えてくれ。この程度の痛みで折れるなら、君はその程度の男だったということだ。
さあ、立て。立って、私を否定してみせろ!
2.最強の証明
「が、ぁ……はっ……」
一輝は何度もマットに這いつくばった。
視界は血で赤く染まり、左足の感覚がない。
観客席からは「もうやめろ」「見てられない」という声が聞こえ始める。
「……私の計算では、次の3手で君の意識は完全に断たれます」
剣心は一輝を見下ろし、冷淡に告げる。
「右脇腹への突き。左膝の粉砕。そして顎への蹴り上げ。回避確率は0.00%。……
それは事実だった。
《八鏡》が見せる未来において、一輝が剣心に触れる未来は一つも存在しない。
だが。
「……はは、相変わらず……几帳面だな、剣心君は」
一輝は、血の泡を吹きながら笑った。
その瞳は、絶望の淵にありながら、少しも濁っていない。
「……何がおかしいのです」
「嬉しいんだよ。……君が、手加減なしで……俺を殺しに来てくれているのが、分かるから」
一輝は《陰鉄》を杖代わりに、ふらつきながらも立ち上がる。
「君は優しいから……本来なら、こんな役回り、一番嫌がるはずだ。……でも、君は迷わず剣を振るっている。それが、俺への敬意だって……分かるから」
分かっているのか。
私が、どんな想いで君を斬っているのか。
「だったら……応えなきゃ、男じゃないよな」
一輝の身体から、燻るような熱気が立ち昇る。
限界を超えた心臓が、早鐘を打つ。
一日の魔力をわずか一分で使い果たす、諸刃の切り札。
「……《
青白い鬼火のような魔力が、一輝の全身を包み込む。
身体能力の数倍化。痛覚の遮断。
今の彼に残された、最後の生命の炎。
3.計算外の領域
「……来ますか」
剣心は《八鏡》の出力を極限まで高める。
身体能力が上がろうと、動きが速くなろうと、関係ない。
情報さえあれば、演算できる。
一輝が消えた。
ドームの床が爆ぜる音よりも速く、剣心の懐に潜り込む。
(速い──だが、見える!)
《八鏡》は一輝の斬撃の軌道を完全に予測していた。
右斜め下からの斬り上げ。
剣心は最小限の動きで《天照》を合わせ、弾き返そうとする。
ガギィッ!!
金属音が響き、火花が散る。
剣心の目が見開かれた。
弾けない。
予測通りの軌道、予測通りのタイミングだったはずだ。なのに、重さが違う。
(予測より、重い……!?)
一輝は、剣心の防御を力ずくでこじ開けようとしていた。
いや、違う。彼は剣心の「予測」を逆手に取っている。
剣心が「ここで受ける」と予測したポイントに、あえてさらに深く踏み込み、全体重を乗せて押し込んできたのだ。
「おおおおおッ!!」
一輝の咆哮。
剣心の身体がわずかに後退する。
「史上最強」が、Fランクに押された。
会場の空気が一変する。
「……っ、やりますね!」
剣心は初めて感情を露わにし、剣を振り払う。
攻防が加速する。
一輝の猛攻は、神速の領域に達していた。
だが、剣心もまた最強。一輝の速度に適応し、さらにその先を読み始める。
予測:左からの薙ぎ払い → 対処:バックステップで回避
予測:突き → 対処:刃で逸らす
(やはり、私の演算からは逃れられない!)
剣心は冷静さを取り戻す。
《一刀修羅》の制限時間は短い。
あと三十秒。二十秒。
時間を稼げば、一輝は自滅する。
だが、剣心は守りに入らなかった。
そんな無粋な真似はできない。
彼が命を削っているなら、私も命を懸けて迎え撃つ。
「決着をつけましょう、黒鉄一輝!!」
「ああ……行くぞ、剣心君!!」
4.掌握される未来
残り時間、十秒。
互いに最後の一撃を放つ構え。
剣心の《八鏡》が、一輝の
彼が狙うのは、おそらく最強の突き、第一秘剣《
あらゆる生体情報が、その予兆を示している。
(……見えた)
一輝の筋肉が収縮する。視線、呼吸、魔力の練り上げ。
全てが「正面からの突き」を示唆している。
その速度は音速に迫るだろう。だが、来る場所が分かっていれば、Sランクの反応速度でカウンターを合わせられる。
勝率、100.00%。
剣心は《天照》を構え、迎撃の態勢──必殺のカウンターの軌道を描く。
一輝が地面を蹴った。
剣心の脳裏に弾き出された「未来」通り、一輝が正面から突っ込んでくる。
剣心はその未来に向かって、刃を振り下ろす。
「これで──終わりです!」
剣心の刃が、一輝の首を捉える──はずだった。
ブンッ!
剣心の《天照》が斬り裂いたのは、虚空だった。
手応えがない。
一輝の姿が、剣心の目の前で蜃気楼のように揺らぐ。
(なッ……!?)
剣心の思考が凍りつく。
なぜだ。私の《八鏡》は完璧だった。
彼の筋肉の動きも、魔力の流れも、間違いなく「そこ」に踏み込む予兆を示していた。
違う。
「予兆を示していた」のではない。
「予兆を見せられていた」のだ。
《
一輝は、剣心が「情報を読み取って予測する」能力者であることを逆手に取った。
自身の筋肉の緊張、視線、殺気。それらすべての情報をコントロールし、剣心に「正面からの突きが来る」という“偽りの未来”を信じ込ませたのだ。
剣心が斬ったのは、一輝が作り出した「
実体の一輝は、剣心の
「計算しすぎなんだよ……剣心君ッ!!」
一輝の声が、剣心の懐深で響く。
それは、データと理屈に縛られた怪物を解放する、泥臭くも温かい一撃の合図。
5.自由への一太刀
剣心は、がら空きになった自分の胴体と、そこに踏み込む一輝を見ながら、驚愕の中でどこか安堵していた。
ああ、そうか。
私の《八鏡》は、過去のデータから未来を導く。
だが君は、その因果すら騙し、今この瞬間を書き換えてみせた。
(……負けましたよ、私の……最高の
剣心は防御できない。
一輝の全身全霊、魔力のすべてを込めた突きが、剣心の胸元へと突き刺さる。
「第一秘剣──《犀撃》ッ!!!」
ドォォォォォォンッ!!!
衝撃波がドームの天井を揺らし、後方の壁が円形に吹き飛んだ。
Sランクの防御魔力ごと、剣心の身体が弾き飛ばされる。
霊装《天照》が光の粒子となって砕け散った。
それは同時に、彼を縛り付けていた「分家」という名の鎖が断ち切られた瞬間でもあった。
ドサリ。
床に倒れ伏す剣心。
その口から鮮血が溢れる。
だが、薄れゆく意識の中で、彼が見たのは天井の照明──いや、今まで見たこともないほど眩しい「自由」の光だった。
「……見事、です……」
その言葉を最後に、最強の怪物は静かに目を閉じた。
直後、一輝もまた、《一刀修羅》の反動により、糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。
だが、彼は倒れる寸前、剣心の方へと這うように手を伸ばし、力尽きた。
ダブルノックダウン。
しかし、誰の目にも勝者は明らかだった。
先に相手の「計算」を、そして「運命」を超えたのは、
会場を支配していた沈黙は、やがて地鳴りのような、割れんばかりの大歓声へと変わっていく。
それは、黒鉄家の呪縛が終わったことを告げる、祝福の音色だった。
(続く)