「八咫の鏡(やたのかがみ)?」
終業後の喫煙室で高畑の口から出た道具の名前に秋人は眉根を寄せた。
八咫の鏡はかつて神話の中で神の姿を写した神器として有名な物だ。魔法使いたちにとっては同名の魔法具の方が馴染み深い。
あらゆるものの真実を写す鏡。
それが一部の魔法先生の中で流行っているらしいという噂話。
「変身魔法や外見の誤魔化しはそもそも学園で非推奨だからただの話題として流行っているみたいだね」
高畑の話に適当な相槌を返す。
魔法具の持ち込みは制限こそあれど必要なら申請をすることで持ち込める。誰かが必要として持ち込みそのまま楽しい話題としているのだろう。
宙へ吹き上げた白煙が空気に澱んで消える。
話は変わるけれど。高畑からこの後に飲みに行かないかと誘われ秋人は快諾した。先日の夜間警備から日が経ち腕も癒えている。何より互いにこの後に厄介な仕事は控えておらず明日は共に休日だ。絶好の飲み会日和。
何を飲もうか、何を食べようか。そういえばいつかの礼に奢ってもらえるんだったか。
互いに笑い合いながら喫煙室を出た二人の前に、何人かの「魔法先生」が立ち塞がった。
敵意は向けられていないが何の用だろうか。
何か魔法関連での厄介事でもあったのか。高畑の問いに魔法先生の一人が笑って答える。
その一人は、秋人にとって嫌な覚えのある教師だった。よくよく見れば背後に控える魔法先生たちにも知った顔がある。
誰も彼も、高畑を英雄と見るがゆえに秋人よく思わない人たちだ。
「お二人にも今話題の鏡を試していただきたくて」
八咫の鏡。そう言って男が取り出したのは女性が使うような手鏡。
高畑と秋人の返事を待たず、男は二人へ鏡を向けた。
高畑から見る鏡面に写るのは変わらない自分と――。
隣の存在を確認するためにわずかに視線が横へ逸れた瞬間。
鏡面の中心から放射状にヒビが入った。
その場に居た全員が驚く間にヒビは広がり鏡面は砕け散り床に落ちていく。高く乾いた硝子の砕ける音が夜の中に響き渡る。
「え、な、鏡に何をした!」
強い口調と人差し指を向けられた秋人は首を傾げる。
「何で俺なんだよ……。『何もしてない』のは全員見てただろ」
「そんなはずはない! この鏡には、お前の正体が、」
「僕が見たのは一瞬だったけど、写ってたのは間違いなくただの秋人くんだったよ」
激昂する男と秋人の間へ僅かに足を進めた高畑の言葉にその場に居た教師たちは全員が視線を逸らした。
そんなはずない。
納得できない言葉と、割れた鏡の破片を残し集まっていた教師はそれぞれ秋人を睨むように一瞥すると足早に逃げていった。
「秋人くん、飲み会は掃除をしてからでも――秋人くん?」
散らばった鏡の欠片は小さく景色をまともに写すことすら出来ない。
八咫の鏡。真実を写す鏡。
箒を持ってこようかと話しかける高畑に、秋人は短なため息で返した。
「何でお前が嘘を吐くんだ」
鏡に写る真実は先の高畑の言葉とは異なる。一瞬秋人の視界にも写った鏡の中。よく知る自分の姿と、纏わりつくような夜と異なる黒い影。
一瞬だとしてもほとんど同じ視点から見ていた高畑は分かっているはずだ。普通ではないものが写っていたと。
「……今日は、僕の部屋で飲もうか」
あくまで普段と変わらない高畑。秋人は再びため息をつくと掃除道具を近くの教室から拝借し、高畑と共に鏡を片付けた。
無言のまま外で酒と肴を調達し高畑の部屋に着く頃には夕方を越えた夜になっていた。
単身男性の一人部屋にしては大きく何より整った部屋の中心に買い込んだ酒を置くと「で?」と立ったまま秋人が言葉を発した。
「あの状況だと色々聞きたいのは僕の方なんだけどね」
「それは俺の質問に答えたら話す」
「うーん、君の姿が見たままでなくとも僕は今の関係が好きだから。それに僕は君が真面目だけど失礼な人っていうのを知ってる。君が僕をただの魔法使いとしか見ないのと同じように、僕は君をただ友人と思ってる」
ビニール袋から音を立てて酒を取り出し並べ、机を中心に向かい合うよう置いたままの座布団の片方へ腰を落とすと納得をしていないのか眉間に皺を寄せたままの秋人が座る。
部屋で飲むのは久しぶりだね。変わらない口調で話しかければ高畑の向かいで彼は無言のまま一本の缶を手に取り開けた。追いかけるように一本を手に取り「乾杯」の声にようやく秋人は小さく同じ言葉を返した。
アルコールの独特な香りと喉を焼く感覚。特に強い酒を好む秋人のために購入された度数の強い酒を彼は一気に煽り飲んだ。
「この身体は、間違いなく『人』の物だ」
ふと、独り言のように話し始めた秋人は高畑にとっては珍しい真剣な顔をしていた。
「だがこの身体の本来の持ち主は幼くして事故で死んだ。孤児で身寄りもない子供でな。人の身体を探していた俺にとって、ちょうどよかった」
「君は……」
「魔法使いが『魔族』と呼ぶそれだ。人に興味を持つ変わり者だがな」
「……ただの魔族がそこまで出来るとは思えない。爵位を持っていたとしても」
「爵位は無い、と言っていいんだろうか」
早々に一本空にした秋人はつまみの菓子に手を伸ばし、指先に残った菓子の欠片を舐めとった。
どこか子供らしさを感じる雰囲気は消え、滲む艶美から逃げるように高畑もまた酒を煽った。
「同族は俺を『陛下』と呼ぶ」
聞こえた言葉に喉を通りかかった酒が逆流し咳き込んだ。慌てて口を手で押さえるも溢れた雫が押さえる手に付着する。
汚いなあ。笑いながら向かいから差し出されたティッシュで吹き出した雫を拭いとる。
「力だけがある名ばかりの存在さ」
「だとしても」
「だとしたら、何だ? 俺を消したいか? 魔族の情報を引き出したいか?」
「違う。ああもう、状況を飲み込むから少し待ってほしい」
「良いとも。ついでに手を洗ってこい」
言われるままに席を立ち手を洗い、先ほどの言葉を頭の中で復唱する。秋人は魔族と名乗り、同じ魔族に陛下と呼ばれていることを明かした。
魔族の長。
人に敵意がない魔族も居るが多くは敵対し、麻帆良学園は襲撃に晒されることもあるため敵と認識されていることがほとんどだ。
人の家で酒を勢いよく空け、相手の分など考えることなくつまみに手を伸ばす彼が?
彼の正面へ座り直せば気安い「おかえり」という言葉が高畑を迎える。
「君は、どうして麻帆良学園に?」
麻帆良学園を守る教師としての質問に秋人から気安い雰囲気が少しだけ消える。
「コチラで魔法使いが集まる場所に興味があった。それに、そうだな。俺は学生時代も麻帆良で過ごしてる。単に『楽しかった』のさ」
「興味のために人の身体を使っているのかい?」
「そう。死の冒涜と言われるかもしれないが、『人として』生きてみたかった。俺を崇めたり敬う奴等はウンザリ、この辺りはお前も似た感覚があるだろ?」
「……そうだね。でも今、僕はこの学園の教師だ。その事情を学園に話すことになる」
「っはは、分かってて全て話したんだ。好きにしろよ。俺はようやくタカミチに全て話せて気分が良い。俺はお前と敵対しない。お前が全てを暴露して俺を討伐対象にしてもこの意思は変わらない」
こともなげに討伐対象にされてもと口にする彼は子供のよう。先ほど一瞬見えた艶美が嘘のように「つまみ足りなかったかもな」とビニール袋に残る酒の肴をあさる彼はいつも通り。
いつも通り高畑の「友」でしかない。
張り詰めた体の力を抜いた。
「もし学園を追い出されたら?」
「その時考えるさ。最悪アチラでも生きていける」
「明日、学園長が居るから話してしまおうか。僕も行くよ」
「明日な、明日。酒とつまみの追加買いに行かないか?」
机の上で空になった缶と菓子の袋。部屋に充満しているであろうアルコールの匂いに覆われながら、高畑は買ってこようか、と笑った。
お互いにある程度酒が入り、暖かく軽い足取りで二人は夜を明かすための酒とつまみを買いに出かけた。
翌朝。
高畑は頭の中を締め付けるような痛みと自分の体に圧し掛かる重みという不快感で目を開いた。部屋に残るアルコールの匂いで眉間に皺が出来る。体を起こそうと力を込めて仰向けに眠る自分の上に別の誰かの半身が乗っていることに気付く。
秋人くん。声をかけると当の本人は唸り声を上げて這うように身体を動かすと上から退いて隣に寝転がり直した。
「頭いてえ、吐きそう」
「ちょっと。ベッドの上は駄目だからね、せめてお手洗いに行って、ほら」
「待て待て揺さぶるなマジで吐く」
「学園長に先触れは出しておくから先に水を浴びておいで。着替えは僕のを使えばいいから」
うぅん。返事か唸りか分からない音を漏らしてもそもそと動くと壁伝いに浴室へと向かっていった。
脱衣所の扉が開く音がして高畑は部屋の窓を全開にした。多少昨夜のうちに掃除をしたもののアルコールの匂いが鼻の奥か部屋に残っている。彼が出てきたら自分も身ぎれいにしてからでないと外に出られない。
昨日の出来事、八咫の鏡の事もある。
出来る限り人目を避けるに越したことは無いだろう。
学園長へは魔法を用いた先触れを出し、部屋の中を見回す。昨夜は結局秋人が夜更けまで強い酒を飲み続け追加で購入した酒も全て飲んでしまった。泥酔した彼から真剣な話の続きを聞くことが出来るわけもなく、せめて早めに寝ようと提案したところ酔っ払いの彼に押し倒され退けることも出来ず共に寝た。
案の定彼は二日酔い。あの状態の彼を学園長の元へ連れて行き真面目な話をすることが出来るのか。
気休めに冷えた水を机の上に用意すると頭にタオルをかぶせた秋人が横から水を取った。
「髪。シャツの前も閉じなさい」
「水飲んでからー」
学生のようなだらしない答えを返した秋人は水を一気に飲み干すとコップを戻し、タオルで荒々しく髪を拭き始めた。前が開いた白いシャツから覗く彼の鍛えられた身体、脇腹から腹にかけて大きな傷跡がある。
「その傷跡は」
「――この身体の死因。事故で結構抉れてたんだ」
「その体のことは聞いても良いのかな」
「構わない、と言いたいところだが不幸の記憶を話す許可をもう本人にもらえない。悪いな」
「いや、僕が不躾だった」
ある程度髪を乾かした秋人はシャツの前を閉じて窓際へと寄った。昼前の風が濡れて重い彼の髪を揺らす。
「気分は楽になったみたいだね」
「吐こうと思えばいつでもいけるぞ。根性で平静を保ってるからな」
「……吐くならお手洗いで。僕もシャワーを浴びてくる」
昨夜の話が夢なんじゃないかと思うよ。ため息交じりに吐き捨てて脱衣場に向かった高畑を見送り秋人は改めて外を見る。
ここは教員寮の一室。高畑の部屋。他の教員と然程変わらないこの部屋に自炊の影はない。
彼の忙しさが理由のひとつ。秋人が知る高畑という魔法使いは恐ろしく強い、そして頭が良く、何より他にない実績がある。ここではないもうひとつの世界、魔法世界での実績だ。詠唱魔法が使えないという大きな枷すら今は彼の英雄譚を飾る装飾に過ぎない。
過度な尊敬や憧れ、崇拝には覚えがあった。だから近付いたのかもしれない。
近付かなければこんな事態にならず、疑われることも嫌われることもなく人として過ごせたかもしれない。
ただ、それはもうどうでも良い。
秋人は外を眺めながら再び頭に乗せたタオルを動かした。
自分を「友」として、そして時に聞き分けのない子供のように扱ってくる高畑は人である自分にとって至極大切な存在だ。
だからこそ。先日のように迷惑をかけたり不利になるような原因に自分がなり得るのは癪だ。
麻帆良学園の学園長。その人もまた魔法使いの中では最高位に強く頭が良い。表向き穏やかで朗らかな学園長だが、争いになれば異なる顔が見えることだろう。
最悪の事態になった場合、高畑へ話したように敵対のつもりはないが傷なく逃げ切れるだろうか。
「行けるかい?」
正体を告げてなお友として接してくれるこの男を振り切れるだろうか。
「ああ、行こうか」
人であることを捨てれば選択肢は倍以上になるが。
先に部屋を出た高畑を確認し秋人はシャツの上から傷跡のある脇腹へ手を置いた。
せめてこの身体の寿命までは。