◆
重苦しい湿り気を帯びた六畳一間のアパートに、安っぽい缶チューハイのプルタブを起こす音が響いた。炭酸の泡が弾ける音すら神経を逆撫でするほど、三条文子の精神はささくれ立っている。
生理痛特有の、下腹部を万力で締め上げられるような鈍痛が波のように押し寄せ、彼女は煎餅布団の上で小さく体を丸めた。スマートフォンのブルーライトが厚化粧を落としきれていない彼女の顔を青白く照らし出し、眼球の裏側をじりじりと焼いている。
画面上のタイムラインには育児の大変さをアピールする女たちの投稿と、それに対して見当違いなアドバイスを送る男たちのリプライが溢れ返っていた。指先から伝わる熱はそのまま高ぶり続ける脳髄の温度と同期しているようで不快な汗が首筋を伝う。コンビニで買ってきた鎮痛剤の空き箱が飲みかけのぬるいペットボトルと共に床に転がっているのが視界の端に入った。
女に生まれたというだけでなぜ毎月のように内臓を雑巾絞りにされる痛みを甘受しなければならないのか。生殖という種の保存システムはあまりにも欠陥だらけでその皺寄せは常に片方の性だけに偏っている。
──「仕事が辛い、満員電車が苦痛だ、そんな些末な愚痴が視界に入るたびに、奥歯が砕けそうなほど噛み締めてしまう」
入力フォームに叩き込む親指の動きには殺意にも似た熱情が宿っていた。文子にとってSNSの投稿ボタンは理不尽な世界に向けて引き金を引く唯一の手段だった。論理も倫理もない、あるのは自分だけが損をしているという被害妄想と、他者へのどす黒い呪詛のみ。
──「男が金玉の中で子供育てて、睾丸切開で子供を産んでくれよ。苦しいことばかり女に押し付けるな!」
送信ボタンを押した瞬間、指先から放たれた電子信号はサーバーの海へと呑み込まれていく。数秒と経たずに通知欄が震え、見知らぬ同性たちからの共感を示すハートマークが積み重なっていった。承認欲求が満たされるのと同時に、腹の底に溜まっていた鉛が少しだけ軽くなる錯覚を覚える。
だが不意に、視界の端で部屋の空気が揺らぎ、粒子状のノイズが走ったような気がした。めまいかと思い、重たい瞼を擦るが耳鳴りのような高周波音が脳の深層を直接掻き回してくる。そして──文子は意識を失った。
◆
翌朝、目覚めた時の世界は何も変わっていないように見えて、決定的に変質していた。カーテンの隙間から差し込む朝日は昨日と同じ角度で埃を照らし、隣人の生活音も相変わらず壁を透過してくる。しかし違和感は何気なくつけたテレビのニュース番組から、毒ガスのように滲み出していた。
アナウンサーが淡々とした口調で読み上げる原稿には聞き慣れない、けれど妙に馴染む単語が並んでいる。
──「……現在、妊娠八ヶ月を迎えた郷田義春首相は公務の合間を縫って都内の泌尿器科産科を受診されました」
郷田首相は言うまでもなく男性だ。それが妊娠八ヶ月? 文子の脳が情報の処理を拒絶し、寝ぼけているのか、あるいは質の悪いブラックジョークの番組なのかと疑った。だが画面の向こうの彼らは至極真面目な顔つきで陰嚢の拡張に伴う皮膚のケアについて熱弁を振るっていた。
──「医師団によると、陰嚢の拡張具合は順調であり、双子の胎児も元気に育っているとのことです」
リモコンを握る手が震え、チャンネルをザッピングしても、どの局も似たような話題で持ちきりだ。世界は一夜にして、生物学的な常識を根底から覆していた。
外の空気を吸えば、この悪夢のような妄想も晴れるだろうと、着の身着のままアパートを飛び出した。駅へと続く商店街の雑踏はいつも通りの活気に満ちているはずが行き交う人々のシルエットが歪なことに気づく。すれ違ったサラリーマン風の男の股間はまるでバスケットボールでも隠し持っているかのように異様に膨れ上がっていた。彼は大きくなったそれを専用のサスペンダーで吊り上げ、苦痛と幸福がない交ぜになった表情で大きなお腹ならぬ大きな股間を愛おしそうに撫でている。
タツノオトシゴという生物がいるが彼らはオスが育児嚢という袋の中で卵を孵化させ、稚魚を出産することで知られている。この世界はどうやら、人間という種に対して、そのタツノオトシゴ方式を強制的にインストールしたらしい。精巣という臓器は精子を作る工場から、胎児を育む子宮代わりの揺り籠へと、その機能を拡張させていた。そのグロテスクとも言える光景を周囲の誰もが当たり前の日常として受け入れている事実こそが何よりも恐ろしかった。
◆
駅のホームに滑り込んできた電車に乗り込むと、優先席の風景が一変していることに言葉を失う。以前であれば、妊婦や高齢者が座るべきその場所に、股間を巨大化させた男たちがずらりと並んで腰掛けていた。彼らは互いの膨らみを気遣いながら、胎動の激しさや、尿道の圧迫感について井戸端会議に花を咲かせている。
「見てくれよ、この血管の浮き出方。三人目の貫禄だろう?」
「いやあ、素晴らしい。俺なんてまだ一人目だからタマの皮が突っ張って痛くてね。でも、この痛みが俺を父親にするんだ」
吊り革に捕まって揺られているのはかつて弱者として守られていたはずの女たちだった。その表情には同情も庇護の欲求もなく、ただ無関心な疲労だけが張り付いている。足元のヒールが不安定に揺れ、誰かが席を譲ってくれるのを待つような視線を投げかけても、男たちは自身の股間に夢中で気づきもしない。出産という、生命を賭した大事業を担う性が逆転したことで社会的な配慮のベクトルもまた、完全に反転してしまっていた。
職場に着いてからも、その疎外感は加速する一方で息をする場所さえ見つからない。給湯室で交わされる話題の中心は育休を取得する男性社員たちの引き継ぎや、男性専用の母乳パッドの性能比較だった。かつては女性社員同士の結束を強めていた出産や育児の話題から、女たちは完全に排除されている。それどころか、生殖の負担から解放された女たちには男たちの分まで労働を担うことが期待されていた。
上司は膨らんだ股間をさすりながら、申し訳なさそうにするでもなく、当然の権利として早退を告げてくる。
「部長、無理をしないでください! 会議は俺たちが進めますから、横になって睾丸マッサージを受けてください!」
若手社員が駆け寄り、部長を労るその輪の中に、文子の居場所はなかった。以前なら「生理休暇」や「体調不良」で得られていた配慮はすべて男性たちに移行していた。産む性としての聖性すら剥奪された女はただ労働力を提供するだけの、代えの利く歯車へと成り下がっている。
昼休み、逃げるように入ったカフェで隣の席に座ったカップルの会話が耳に飛び込んできた。どうやら別れ話のようだがその内容はかつての常識では到底理解し難いものだった。男の方が涙ながらに、子供を産めない体質の女とはこれ以上付き合えないと訴えている。彼は自分の家系を残すために、質の良い精子を提供してくれる別の男性パートナーを探すと宣言した。
そう、この世界では男の体内で子供が育つ以上、卵子という不確定な要素はもはや必須ではないのかもしれない。IPS細胞技術の応用か、あるいは神の悪戯による生物学的改変か、男同士の遺伝子だけで次世代を残すことが可能になっていた。女という性別は生殖という生物の根源的な営みにおいて、完全に蚊帳の外へと追いやられてしまったのだ。目の前の女性は何も言い返すことができず、ただ冷めたコーヒーの黒い水面を見つめていた。
◆
季節が巡り、街路樹が色づく頃には社会の構造変革はさらに深刻なフェーズへと突入していた。女性向けの割引サービス、レディースデー、女性専用車両、それら全ての優遇措置が撤廃された。生物学的な弱者、保護すべき対象は重たい命をその股間に宿す男たちであるという合意形成が社会全体で完了してしまったからだ。
街コンや婚活パーティーといった市場も様変わりし、健康な睾丸を持つ男と、経済力のある男のマッチングが主流となっていた。女たちは愛玩動物としての価値か、あるいは純粋な労働力としての価値しか見出されなくなっている。かつて「産む機械」と揶揄された言葉があったが今や女は「産まない機械」として、社会の隅で錆びついていくしかなかった。
SNSを開けば、かつて自分が投稿したような呪詛の言葉を今度は男たちが吐き出しているのを目にする。けれど、そこには社会的な連帯と、手厚い支援というセーフティネットが存在していた。孤独なのはその輪に入れない女たちだけだ。
◆
ある冬の夜だ。文子は冷え切ったアパートの一室でコンビニ弁当の容器を前に呆然としていた。暖房をつける余裕もなく、吐く息が白く濁って、虚空へと消えていく。もうずいぶんとこんな調子だった。
派遣切りの通告を受け、再就職もままならないまま困窮し、そして今に至る。
人件費削減の煽りを受けた際、真っ先に切り捨てられたのは育休取得の予定がない、つまり社会的再生産に寄与しない独身女性たちだった。
社会の維持に必要なのは次世代を産み育てる男たちであり、消費するだけの女はリストラの対象として合理的だと判断されたのだ。
皮肉なことに、かつて自分が望んだ「苦しいことを男に押し付ける世界」は完璧な形で実現していた。男たちは股間を切り裂く痛みに耐え、つわりに苦しみ、産後うつに悩まされている。だがその苦痛の対価として、彼らは生命の創造主としての地位と、社会からの尊厳を手に入れた。苦痛を押し付けたはずの女たちは苦痛と共にあった特権も、存在意義も、すべて手放してしまっていたのだ。
薄暗い部屋の隅でスマートフォンの画面が最期の灯火のように光っている。過去の自分の投稿を表示させ、その短い文章を指でなぞる。いいねの数はあの時のまま止まっていた。誰もこの投稿を覚えてなどいないし、そもそも世界が改変されたことになど、誰も気づいていない。ただ自分だけがかつての理を記憶したまま、新しい理の中で窒息しようとしている。
腹の底からこみ上げてくるのは笑いなのか、嗚咽なのか、自分でも判別がつかなかった。平等を求めた果てに手に入れたのは完全なる無価値という名の平等だった。女であることの苦しみから解放された先には女であることの喜びも、意味も、何一つ残されてはいなかった。
視界が霞み、指先の感覚が失われていく中でふと、かつて憎んでいた生理痛の痛みが懐かしく愛おしいもののように思えた。それは少なくとも、自分が生きて、命を繋ぐ可能性を持っていたことの、確かな証だったのだから。
冷たい床に横たわりながら、最後に見たのは通知の来ない真っ黒な画面に映り込んだ、抜け殻のような自分の顔だった。
◆
翌日、アパートの大家が鍵を開けたとき、部屋には冷たくなった文子の亡骸があった。検死の結果、死因は栄養失調よる衰弱と断定されたが誰もその死を深く悼む者はいなかった。ニュースにもならなかったのはこの世界において、生産性のない「産まない性」の死など、日常茶飯事の出来事に過ぎないからだ。
遺品整理業者が淡々と部屋を片付ける中、ふとスマートフォンの画面が点灯したような気がした。しかしそれは西日が画面に反射しただけだった。都市の中心部にある巨大なモニュメントは初めて男性が出産に成功した記念碑だという。睾丸を模したその球体を見上げながら、通りがかりの男性カップルが微笑み合っている。「次は君の番だね」「ああ、怖いけど、楽しみだよ」彼らの会話に、女性の入り込む隙間は一ミリもない。
・
・
・
ある日、歴史の教科書からは「母」という単語が消えた。言葉が消えれば、概念が消える。概念が消えれば、存在そのものが透明になっていく。文子がかつて存在した証はあのSNSのサーバーの奥底、消去されたデータの残骸の中に、1と0の羅列として永遠に埋葬されている。
(了)