暗い洞穴。蜥蜴と蝙蝠の棲家。
広大な空間には恐竜の骨格標本、巨大なモービル、飛行機などが並び、まるで地下の博物館だった。
歴代のスーツは執事の手で丁重に管理され、整然と保管されている。
ここでバットマンは日夜、ゴッサム・シティで起きる犯罪の情報を集めていた。
だが、それはいつもの話だ。
今、洞穴の空気は別物だった。怒れる鋼鉄の男が、肩を張って立っている。
「いったいこれはどういうことなんだ、バットマン!!」
「スーパーマンか。何のことだ」
怒りに任せて内壁が叩かれ、洞穴が震えた。
バットマンはモニターから視線を外し、赤と青の男を見上げる。
「何かあったのか?」
「何かあったどころじゃない!!
君は、自分が何をしようとしているのかわかっているのか!?」
叩きつけられたのは分厚い書類。
ここ数日のバットマンの行動記録だった。
無表情で一枚拾い上げ、目を通す。ブルース・ウェインの双眸が細められた。
「死者の蘇生について調べただけだ。
ラーズ・アル・グールの手の内を知ることにも繋がる。
……それにしても。信頼を重んじる君が、こんな真似をするとはな。ショックだよ」
「よく言う! 僕が見抜けないと思っているのか!?
ダミアンを蘇らせようとしているんだろう!!」
「……違う。方法を“確認”しているだけだ。
念のためだ。あの子の素性は知っているだろう。
生ける屍として利用される危険を潰しておきたい」
「ふざけるなっ!!」
スーパーマンは誤魔化されない。
倫理と道徳の守護者。加えて、類まれなる知性もある。
神のような男。地を這い、金と時間を積んでようやく空を飛べる自分とは、根本が違う。
「……邪魔をするな」
「邪魔? 友人が道を踏み外すのを止めるのが邪魔だと言うのか。
よく考えるんだ、バットマン。君の気持ちはわかる。でも、それは何も生み出さない。
やめるべきだ。僕達にとって──禁断の果実だよ」
怒りを抑え、スーパーマンは努めて穏やかに言葉を選ぶ。
「そもそも、あのヴィクトルという男の世界から戻ってからだ。
君はずっとおかしい。挙動不審は君の専売特許だとしても、
アルフレッドが本気で思案するレベルは異常だ」
「……アルフレッドの小言はいつものことだ」
「当たり前だろう!! みんな君を心配しているんだ!!」
バットマンは眉間を指で押さえた。
鬱陶しいのが正直なところだ。だが今日は、その“いつも”が癪に障る。
「……一人では足りないだろう」
スーパーマンは言葉を継いだ。
「ダミアンを蘇らせて、それで終われるか?
次はディックの両親。ジェイソン、ティムの親御さん。
最後には君の両親の死すら、“なかったこと”にする」
その時、反対側から緑の光が差し込んだ。
グリーン・ランタンが立っている。
この男なら、監視をすり抜けてここに来るのも不可能ではない。
「なるほど。最初から二人がかりか」
「本当は、こんなことはしたくなかった」
スーパーマンが低い声で言う。
「念のためだ。君がどれほど危険か、誰もが知っている」
端から信用していなかったくせに。
鼻で笑いたかったが、ブルースは堪えた。疲れているのかもしれない。
「バットマン、気持ちはわかる」
ハル・ジョーダンが口を開く。
「俺もコーストシティが壊滅した時、同じことを考えた。
だがやめろ。死を否定すれば、心に悪魔が入り込む。
操られた俺と戦ったあんたなら、わかるだろう」
左右から説教。
ノイズが増えただけだ。バットマンは舌打ちしたが、ハルは止まらない。
「最初は正直、あんたを馬鹿にしてた。
ただの人間が何をリーダー気取りだって。
でも今はわかる。あんたは、人間の勇気と知性と忍耐の象徴だ」
彼は心と絆を力に変えて戦う。
理屈より信念で押してくる。子供は憧れるだろう。
だがバットマンは、その“綺麗さ”を理解できない。
「夢を壊すな。誰もが誇れるヒーローでいてくれ。
それを、ディック達も望んでいる」
虫酸が走るほど臭い台詞だ。
けれど、憎めない。──それが腹立たしい。
バットマンは椅子から立ち上がり、暗闇の中でハルに手を差し出した。
握手を求めた。
ハルは安堵したように笑い、その手を力強く握った。
心と絆の男。だからこそ、扱いやすい。
死角を縫って、もう一方の手の注射器を首筋に突き立てる。
液体を注ぎ込むと、ハルは白目を剥き、口元に泡を浮かべて倒れた。
「ハル! 何をしたんだ、バットマン!!」
「大したことじゃない。自白剤だ。通常の十倍。だが発狂はしない」
バットマンは淡々と言う。
「彼の精神力の強さは知っているだろう」
殺しはしない。
自分はヴィクトルとは違う。
子供のために、誰の命も奪わない。
──だから、まだ狂っていない。
スーパーマンにも弱点はある。
信頼の証として託されたそれが、今は武器になる。
ブルースは懐から緑の宝石を取り出した。
弾丸も毒も通らない男。誰もが“無敵”と呼ぶ。
だが彼は、倫理と道徳に縛られている。
その縛りが隙になる。心は恐怖に弱い。
バットマンは一足で距離を詰めた。
スーパーマンにとっては蟻の速度だ。
青の男が拳を振り上げる。
だから、まずは偽物を投げた。
緑の石が視界を割り、スーパーマンの動きが一瞬だけ鈍る。
その隙にバットマンは地面を転がり、拳を紙一重でかわした。
衝撃で仮面が捲れ、素顔が露わになる。
たった一撃でこの有り様だ。
笑えて仕方がない。
もし自分にこの力があれば──
いや、今は考えるな。
起き上がったバットマンは“本物”を取り出した。
クリプトナイト。
万一自分が暴走した時のために託されていた、唯一の天敵だ。
翳すだけで、スーパーマンの顔に怯えが走る。
その恐怖が、今はありがたい。
バットマンは渾身の一撃でスーパーマンを殴り飛ばした。
鋼鉄の男は、呆気なく倒れた。
「……待て、ブルース!!」
「本気なのか?」
「調べるだけだ。すでに当たりも付けてある」
「嘘をつくな」
スーパーマンは妙な時に頑固だ。
バットマンは振り返らず歩き出した。
「僕達には越えてはいけない一線がある」
震える声が背中に刺さる。
「僕はこの星の“養子”だ。青空も木々も大地も、君達のものだ。
自分を人間だと信じて育ってきた。それでも疎外感を覚えない日はない」
バットマンはクリプトナイトを拾うべきか迷い、
そのまま置いた。せめてもの詫びだ。
殺さない距離に置き、誰かが来るのを待たせる。
「だから僕は、冴えない眼鏡をかけてクラーク・ケントに成りすまし、
悪と戦い続ける。君達の友人でいたいからだ。
踏み込んではいけない領域がある。その境界線があるから、僕達は怪物にならずに済む」
汗まみれで、顔面蒼白のスーパーマンが、紫色の唇を震わせる。
「やめてくれ、ブルース。それは、楽園からの追放だ」
ブルースの心は動かなかった。
むしろ、わずかに蔑む感情すらある。
超人と人間では、初めから見える世界が違いすぎた。
「クラーク。君と私では見えるものが違う。
超人の目には世界が楽園に映るかもしれない。
だが私にとって、この世界は汚穢と不正に満ちた煉獄だ」
バットマンは歩みを止めない。
迷いのない足取りは、正気の証なのかもしれない。
「神に誓ってそれを言えるのか?」
「私は神を信じない」
「なら、君の義息やバーバラ達に言えるのか?
君を慕う若者達の目を見て、この世界は汚れきっていると、本当に言えるのか?
守るべき法も理も、真に在りはしないと言えるのか?」
当たりはすでに付けてある。
背後のノイズにこれ以上構う気はない。
バットマンは歩き続ける。夜闇へ飛び立つ羽へと。
「答えろ、ブルース!!」
答えはない。
ヴィクトルの仮面の向こうには自分がいて、
その下には銃で穴だらけにされたアルフレッドやディック、ジェイソン、ティム、
バーバラ達や、スーパーマン達がいる。
毎晩、毎晩、そんな夢を見る。
そこから逃れるには、試練しかないと結論づけた。
自分は決して、子供のために誰かを殺しはしない。
聖書は信仰しないが、人は禁断の果実を前にしても耐えられるはずだ。
克己力があるはずだ。
だから、バットマンは夜空へ飛び立った。
薄暗く息苦しい洞穴をバットウィングで抜けると、
眼下にゴッサム・シティが広がっている。
そこはいつものバットケイブと何ら変わらない、昏く、息の詰まる場所に見えた。