『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

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1章 青の入り口
1話


 

 

 

 

これでいい。彼女は自由を手にした。もう、何も悔いはない。

私は水底へ沈み、彼女が海面へ向かう様を見届けた。

 

私の記憶は、そこで途切れた。

 

 

 

 

「……ここは」

 

私は目を覚ました。理由は分からない。気がついたら、砂と潮の匂いにまみれた浜辺にいた。反射で腰に手をやったが、いつもあるはずの重みがなかった。

波が寄せては引き、濡れた砂が足に貼りつく。だが、冷たさは感じても、震えは来なかった。体が、生き物としての反応を返してこない。

 

ここがどこなのか、私には分からない。見上げれば、空はやけに高い。

振り返れば、海沿いに舗装された道が伸び、その向こうに、人の暮らしがあるらしい気配が滲んでいた。

 

「……外、か」

 

どうやらここは、「外の世界」というものらしい。

私が消える直前、スーズは言っていた。一緒に色々なところに行きたかった、と。

 

私は立ち上がり、歩き出した。砂に足跡が残る。

残るのに、私の内側には何も積もらない。空腹も、疲労も、眠気も来ない。

 

本来なら、生きている限り食事や睡眠が必要になるはずだ。

だが、どうやら私は、そういう身体ではないらしい。身体が訴えてこない代わりに、ひとつだけ、はっきりしていることがある。

 

この世界に、私がただひとりだという冷たい実感だけだ。

 

数日、私はこの世界のことを調べ始めた。

とは言っても、手がかりがあるわけではない。私はただ歩き回り、目にしたものを理解するために、通りすがりの人に片端から聞いて回った。

 

「すまない。ここは、どこだ」

 

最初に声をかけた男は、目を丸くして笑った。

 

「どこって……○○海岸だけど? 大丈夫?」

 

次に声をかけた女は、私の服装を上から下まで眺め、言葉を探しているようだった。

 

「コスプレ? 撮影?」

 

子どもは面白がって近づき、母親に引き剥がされた。母親は謝りもせず、私を避けるように去っていった。

 

皆、目を丸くした。そんなことも知らないのか、と言いたげだったな。まあ、無理もない。

拒まれなかっただけ、まだ良かったと思うべきだろう。

 

会話の中で、私は少しずつ「外の世界の常識」というものを拾っていった。

道の名前。土地の名前。金が必要だということ。移動には「電車」や「車」があること。

そして、人々は当たり前のように、手元の光る板を撫でて情報を得ていること。

 

「それは、何だ」

 

「スマホ。知らないの?」

 

「……そうか」

 

私には持ち合わせがない。持つべき理由すら、今は分からない。

財布も、身分を示すものも、何もない。私は、自分がどれほど「外」に馴染んでいないかを、歩くたびに突きつけられた。

 

……魂だけがここへ留まり、外の世界へ流れ着いたのかもしれない。そう考えた時もあった。

しかし、私の石は確かに壊れた。そこに縫い止められていた私の魂ごと、だ。

ならば私は、何なのだ。漂着物か。残滓か。誤差か。

 

答えは誰もくれない。なら、自分で意味を見つけるしかない。

私は歩き出した。スーズを見つける。そのためだけに、歩き出した。

 

――やがて、この世界の広さを実感した。

水族館で飼育されていた頃から「車」という言葉は聞いていたが、それが必要になるほど、この世界は広かった。

海は海のままだ。だが、陸の上には、海の比ではない数の道がある。分岐し、重なり、途切れない。

 

何せ、初めて外に出たんだ。海の中ではなく、陸の上に。

 

私が記憶している陸の施設は……ビアンカ水族館だけだ。

スーズがそこへ来ていた以上、私はそこへ向かわねばならない。そう決めれば、迷う理由はないはずだった。

 

だが、ここらにいる者たちは皆、「そんな水族館は聞いたことがない」と言った。

一度なら、偶然かもしれない。二度なら、知らないだけかもしれない。

十を超えた時、私の中に嫌な手触りが残った。

 

「……ない? ここには、ないのか」

 

焦りが来た。

ビアンカ水族館はクリスが管理していた。管理者が忽然と姿を消したとなれば、廃館は免れないだろう。

あの場所が閉じる。水槽が割れる。展示が消える。あの通路が、光を失う。

考えたくないのに、最悪の想像だけが滑らかに形を取る。

 

私は交番へ立ち寄り、同じ質問をした。

制服の男は一瞬眉をひそめたが、追い返しはしなかった。手元の光る板を見ながら、指を動かす。

 

「ビアンカ水族館……うーん。聞いたことないな」

 

「……そうか」

 

「でも、水族館ならいくつか候補は出る。君、どこから来たの?」

 

「分からない」

 

「……分からない、か」

 

警官は私の顔を見直し、ため息をひとつついた。

それから手元の光る板を操作し、画面をこちらへ少し傾ける。

 

「“ビアンカ水族館”って名前そのものは出ない。……でも、海沿いに水族館の施設が一つある。ここ」

画面の地図には、海辺の一点に印が付いていた。

名称は別だった。だが、位置と海の線だけが、妙に一致して見えた。

 

「君が言ってるのが本当にそこかどうかは、正直わからない。けど“海沿いの水族館”を探してるなら、今はそこに当たるのが一番早い」

「……そうか」

 

警官は紙とペンを取り出し、路線名と駅名を書き始めた。

最後に、駅名の一つへ丸を付ける。

 

「ここが最寄り。駅を出たら海へ向かって歩け。看板の名前が違っても、建物の形で分かるはずだ」

 

「電車……」

 

「駅まで行って、切符を買う。分からなければ案内する人もいる。……で、君、お金は?」

 

「ない」

 

「……ないのか」

 

警官は紙を折り、私に渡した。

そこには、丸印の横に小さく追記があった。

 

――“海沿いの水族館(名称違いの可能性)”。

 

「これ、行き先の目安。駅で聞きな。……とりあえず、危ないことはするなよ」

 

「……ああ」

 

嫌な予感がした。私は今、何も持ち合わせていない。

鉄道というのは、利用料金がかかる。そういう知識だけはある。

なら、私は乗れない。乗れないなら、歩くしかない。

 

駅まで行き、改札の前に立ったこともある。

機械の前を人が流れ、光る板をかざし、あるいは切符を吸い込ませて、いとも簡単に通り抜けていく。

私は同じように足を出しかけて、止めた。私には、かざすものがない。

 

この線路沿いに歩いていけば、いずれ到着するだろうか。

内心は焦っていた。だが、今はほかに手段がない。

 

私は歩き始めた。警官から貰ったメモと、途中の駅名を確かめながら。

延々と続く鉄道の線路に沿うように。

 

最初は、線路沿いを歩くことに抵抗があった。

金属の柵、踏切、警告の看板。人々は、そこに近づかない。近づかない理由がある。

だが私は、理由より先に、進む必要があった。

 

電車が通った。風圧が頬を撫で、金属の音が腹に響く。

私は反射的に身構えたが、恐怖は遅れて来た。

水族館の檻とは違う。これは、止められない速度の獣だ。

 

駅をいくつも通り過ぎた。

人々は列を作り、改札を抜け、当たり前のように車体へ吸い込まれていく。

私はその流れの外側に立ち、メモの駅名と、看板の文字を見比べた。

 

好奇の目を向けられるのも、もう慣れた。確かに、このような服装をしている者はほとんどいない。

子どもが指をさし、老人が首を傾げ、若者が小声で笑う。

だが、誰も私を止めない。止める理由がないのだろう。私は、ただの変わった旅人に見えている。

 

途中で迷うことはなかった。

今思うと、あの警官が、私に向けてくれた唯一の善意だったのかもしれない。

紙切れ一枚だけで、私はこの広さの中で溺れずに済んでいる。

 

道を歩いていると、見知らぬ生き物が私のそばへやってきた。

四足歩行で尾を持ち、体毛に覆われた不思議な生き物だ。丸い目でこちらを見上げ、音もなく近づく。

ふと腰に手をやった。だが、そこにあるはずの冷たい感触も、掌に馴染んだ重みもない。

 

その生き物はそのまま、立ち止まった私に擦り寄った。

 

『おい。何をしている』

 

私の声に驚いたのかと思ったが、違う。逃げない。むしろ、さらに身体を押し当ててくる。

加害性がないことは理解できた。だが、何のためにその行動を取るのかは分からなかった。

 

通りすがりの女性が笑った。

 

「猫ちゃん、懐いたね」

 

「……ねこ」

 

「うん。ほら、可愛いでしょ」

 

女性は手を振って去っていった。生き物は、私の足元に留まった。

 

『そうか。お前も独りなのか』

 

私は擦り寄る生き物を撫でながら、ひとりごとのように呟いた。

毛は温かい。温かいのに、私の指先には、その温度が届いていないような違和感が残る。

それでも、撫でる手を止められなかった。

 

猫は、しばらく一緒に歩いた。

踏切の前で立ち止まり、遠くの音に耳を立て、私より先に危険を察知する。

だが、次の駅の手前で、ふいに草むらへ消えた。呼び止めても戻らない。

残されたのは、短い温もりの記憶だけだ。

 

それから数日歩き続け、私は、警官のメモで丸が付けられていた駅――その先にある海沿いの施設へ到着した。

 

『……ここか』

 

海沿いに建てられたその施設は、夕闇が落ちかけた景色の中で、確かに光を放っていた。

遠目に見ても分かる。外壁の形。入口の配置。看板の位置。

私は、ここを知っている。知らないはずがない。

 

懐かしい匂いがした。私が泳いでいたのは……すぐそばの海だ。

潮の湿り気と、藻の匂い。波の音が近い。

水族館の灯りが、海面を淡く照らしているように見えた。

 

建物へ近づいた。入り口の扉は、手を触れる前に、ひとりでに開いた。

 

私はそれを見て、この場所が私を拒んでいないのだと、確かに実感した。

同時に、背筋にひやりとしたものが走る。歓迎なのか。招待なのか。回収なのか。

どれでもいい。今は、入るしかない。

 

中に入るとすぐ、暗く長い通路が待っていた。

壁にはクラゲの水槽が等間隔に並び、暗がりを照らすように淡く輝いている。

水槽の明かりが床に落ち、私の影を細く引き伸ばす。足音だけが、やけに響く。

 

そしてその先に、一際明るい部屋が見えた。

 

 

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