『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

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10話

 

 

『はっ…… はっ……』

 

息が上がり、脚がもつれそうになって、床を蹴るたびに視界が揺れた。

何も無い、ただ長くて暗い通路をひたすら走り抜けた。

 

背後を振り返ると、黒い影が迫っている。見ている間にも、数が増えているのが分かった。

距離が縮むのが、音より先に伝わってくる。

 

「また……縋るのね?」

 

耳元で、吐息を含んだ声が鳴り響いた。

 

得体の知れない寒気が背筋を走り、同時に喉が詰まった。何者かは分からない。けれど、捕まってはいけないという感覚だけが、胸の内側で形になる。

 

『はぁっ……! はぁっ……!』

 

「誰も来ないわ。貴方が殺したのよ」

 

足が重い。息が浅くなる。視界の端で影が伸び、床を這うように、次々とわたくしに追いついた。

 

「いいじゃない……いつものように抱き寄せれば」

 

胸の奥が灼けただれ、鋭利な痛みに膝が折れそうになる。

 

「何度繰り返しても……貴方は選ばれない」

 

もう……限界……

 

『クリス!!』

 

鋭い声が前方から飛び、わたくしを取り囲む影の気配が一瞬だけ揺らいだ。

 

『しっかりしろ!!』

 

次の瞬間、腕を掴まれた。引かれる力で身体が前へ傾き、転びそうになるのをなんとか堪えた。

 

『レトロ……? 貴方……なの……?』

 

レトロの姿は、真っ黒に埋め尽くされていた。

先ほどの黒い影にまみれて、それでもわたくしを離すまいと、力強くそこに在った。

 

わたくしは突如、腕を刺されたような痛みを覚えた。そこから鈍い圧が広がり、冷えていく。

 

『貴方……なの……ね……』

 

『クリス!!』

 

わたくしはその場で崩れた。同時に、白い影に包まれた。

眩い光が瞳に刺さり、反射で目を閉じた。歪んだ囁きが、そこで途切れた。

 

『この……光は……ああ……』

 

薄れゆく意識の中、波の音が耳の奥へ滲み込む。

潮の匂いが遅れて、喉の奥まで満ちていった。

 

――――――

 

病室の照明は落とされ、モニターの電子音だけが淡く続いていた。

 

寝台の上のクリスは目を閉じたまま、腕だけが小さく跳ねる。指がシーツを掴み、留置針のラインが引かれてテープがきしんだ。ピッ、ピッ、と音の間隔が詰まる。

 

ドクターは椅子から立ち上がり、寝台の脇へ寄った。

 

『……フグナース。腕を押さえろ。肘の内側。動かすな』

 

『『アイアイサーーー!!』』

 

シマフグとトラフグが膝をつき、クリスの前腕と肘を寝台に沈めるように固定した。腕の跳ねが抑え込まれ、ラインの揺れが止まる。

 

ドクターは接続部に指を添え、アルコール綿で一度拭く。シリンジを繋ぎ、親指でゆっくり押した。

 

冷たい圧が、管の中をわずかに動く。

 

乱れていた間隔が戻りはじめる。クリスの指の力がほどけ、喉の引っかかりが一つ、長い息に変わった。

 

『……よし。そのまま、固定を続けろ』

 

フグナースは手を離さず、目だけで頷いた。部屋にはまた、規則正しい電子音が残った。

 

――――――

 

『……ん……』

 

冷たい床の感触が、先に戻ってきた。頬の下に丸めた上着があり、指先が布を探って掴む。

 

『クリス! 目覚めたか!』

 

近くで、レトロの声が落ちた。

 

『……レトロ……? 貴方……なの……?』

 

掠れた声が、わたくしの喉から出たことに遅れて気づく。視界の端がまだ白い。

 

『ああ。私だ。動けるか』

 

『……大丈夫……ですわ。けれど……』

 

わたくしはゆっくり息を吸い直した。潮の匂いが喉の奥に残り、そこへ消毒液の薄い匂いが重なる。瞼の裏には、黒い影がまだ貼りついていた。

 

『……さっきまで……追われていましたの。黒い影に……』

 

言葉にした瞬間、背中が冷えた。

 

レトロの表情が変わる。息が一度だけ止まり、床に置かれた剣へ視線が落ちる。

 

『……あれにか』

 

『ええ……増えて、囲んで……息が……。それで……貴方の声がして……腕を掴まれて……』

 

思い出すほど、胸の内側が灼ける感覚が戻りそうで、わたくしは言葉を切った。

 

『……ここは……?』

 

レトロは短く周囲へ視線を走らせた。

 

窓がひとつ。玄関の扉がひとつ。壁と床だけの、がらんとした空間だった。

 

『……スーズの家だ』

 

『ス、スーズ様の……家……? どういうこと……?』

 

起き上がろうとして、わたくしは止まった。部屋の隅に、気配がある。床に座った影が、肩を揺らした。

 

『えへへ』

 

『……っ』

 

場違いな笑い声に、息が止まる。

 

『……スーズ……様……?』

 

呼びかけに、その影は首を傾げただけだった。理解する顔ではない。

 

『……誰なの?』

 

声が幼い。けれど、軽さの奥に不安定さがある。

 

わたくしの指先が、無意識に上着の端を強く掴んだ。

 

『レトロ……これは……』

 

『こいつは……スーズだ』

 

『どうしてスーズ様が……ここに? それにこのお姿は……』

 

一歩踏み出しかけ、止まる。近づいていいのか分からない。怖いのに、放っておけない。

 

『……ああ。間違いない。……クリーピー化している』

 

『な、なぜ……』

 

『分からない』

 

レトロは言い切ってから、影へ視線を戻す。逃げ道のない部屋で、その存在だけがこちらを見ていた。

 

『だが、彼女は記憶を失っている。自分の名前すら覚えていなかった』

 

『……そんな……』

 

黒い影。光。潮の匂い。現実に戻った途端に現れた、見慣れない姿のスーズ様。

 

『……黒い影は……スーズ様と関係が?』

 

『それも分からない。だが、あれは私も襲われた。お前が見たというなら……また近くにいる』

 

床のスーズ様が、突然こちらを見て笑った。

 

『ねえ』

 

呼びかける先が定まらない。視線だけが、レトロとわたくしの間をふらふらと往復する。

 

わたくしは、なるべく静かに息を整えた。声の高さを落として、刺激を減らす。

 

『……わたくしは、クリスです。貴方は……』

 

スーズ様は明るく笑い、嬉しげに答えた。

 

『……スーズ、って名前。レトロが……つけてくれた』

 

噛みしめるように告げられた言葉が胸に刺さり、喉がきゅっと鳴った。

 

『……よろしくお願いいたします。スーズ様』

 

『……クリス、さん。こちらこそ……よろしく』

 

『……ええ』

 

わたくしは頷いた。窓の薄い光と玄関の暗がりを視界の端で確かめながら、スーズ様から目を離さない。

 

『レトロ。わたくし……分からないことだらけなの。でも、ひとつだけ』

 

『なんだ』

 

『貴方がここにいる。それが現実なら……今は、それでいい』

 

言った直後、息がわずかに震えた。泣けば、スーズ様が揺れる気がして、わたくしは笑みだけを形にした。

 

床のスーズ様が、その息の揺れに反応したのか、ふいに顔を上げる。

 

『……泣いてるの?』

 

『いいえ。大丈夫ですわ』

 

自分の声が、どこまで本当かは分からなかった。

 

――――――

 

『ルル。一緒に行こう』

 

『え?一緒に、って……どこに?』

 

『行きたい場所があるの』

 

――――――

 

『……スーズ。出発前に言っておく』

 

玄関の前で立ち止まり、私は振り返った。床に座っていたスーズが、瞬きをしてこちらを見上げる。

 

『うん?』

 

『外に出たら、私のそばを離れるな』

 

言い切って、念のため距離を測るように、私は一歩だけ近づいた。

スーズも小さく頷いて、すっと距離を詰めた。

 

『うん』

 

『私が合図したら、すぐ動け。迷ったり、立ち止まったりするな』

 

声は低く抑えた。驚かせれば、また揺れる。

 

『……うん。わかった』

 

『頼む。怖ければ、私の後ろにいればいい』

 

スーズの肩が少し緩み、口元がほどける。

 

『えへへ……ありがとう、レトロ』

 

私は頷き、玄関の取っ手に手をかけた。

 

『よし。では、発つとしよう』

 

扉を開く。潮の匂いを含んだ風が家の中へ流れ込み、上着が小さく揺れた。

 

一歩、外へ出る。空気が湿り、青い光が肌に落ちる。目の前には、展示通路が続いていた。

 

背後で、クリスが息を整える気配がする。

 

『ええ。参りましょうか』

 

私たちはそのまま、再び水族館へ足を踏み入れた。

 

――――――

 

『今日で二徹目か……さすがに……眠いな……』

 

そう呟いて、ドクターは病室へ入った。消毒薬の匂いが喉の奥に残り、薄いモニターの光が壁を青く染めている。足音を殺す必要もないはずなのに、自然と歩幅が小さくなった。

 

『……お前らのを見張るのも仕事のうち、か……』

 

椅子に腰かけ、寝台の二つを見比べる。レトロも、クリスも、目を閉じたまま動かない。呼吸の上下だけが、かろうじて「生きている」を示していた。

 

ドクターは、首の後ろを揉んでから、視線をモニターへ移した。

 

『……ん?』

 

心拍数が、いつもよりほんの少しだけ高く見えた。瞬きをして、もう一度数字を追う。記録表の欄へ目を滑らせ、直近の値と照らし合わせる。しかし、変化はない。

 

『……まあ、こんだけ疲れていれば、見間違いもするか』

 

自分に言い聞かせるように息を吐く。腕を組んだまま、規則正しい心拍センサーの音を聞く。ピッ、ピッ、と一定の間隔で鳴るたびに、意識の端が引きずられていく。

 

起きていろ。見張れ。そう思うのに、瞼の裏が重い。視界が一瞬だけ滲み、次の瞬間にはまた数字が整う。その繰り返しが、妙に心地よくなってしまう。

 

椅子の背に体重が預けられ、首がわずかに前へ落ちた。腕を組んだ姿勢のまま、マンタは抗うことをやめるように、静かに眠りへ沈んだ。

 

部屋に残ったのは、二つの寝台と、変わらない呼吸。そして、規則正しい電子音だけだった。

 

――――――

 

昼前の光が眩しい。入口のガラスがきらりと光っていた。

波の音に混ざって、聞き慣れた声がする。

 

『……おっ!ここだな!』

 

ニコはスマホを手に持ったまま、入口の看板を見上げていた。退院したばかりとは思えないほど、目がきらきらしている。

 

『アンタ相変わらずね。元気そうで何よりだわ』

 

私は口元が緩んでいくのを感じて、軽く息を吐いた。

 

『いいじゃん。ずっと来たかったんだしさ』

 

ニコはずっと入院していた。つい最近退院し、念願だったこのビアンカ水族館へ、私と一緒に来ている。

 

『……そうね。はあ、閉まる前に来られてよかったわよ』

 

そう言いかけた瞬間だった。潮風が、急に強くなる。波の音も一段と膨らんで、私の声だけを攫うように消した。

 

『ん?なんか言った?』

 

ニコが首を傾げる。私は視線を逸らし、言葉を切る。

 

『なんでもないわよ!早く行きましょ!』

 

叫ぶみたいに言った途端、嘘みたいに風と波音が静かになった。残ったのは、私の声の反響だけだった。

 

『なんだ。姉ちゃんも楽しみだったのかよ』

 

ニコがいたずらっぽく笑う。

 

『もう!!行くわよ!!』

 

私は半歩もたつかないように、入口へ向かって歩き出した。自動ドアが近づく気配に合わせて開き、潮の匂いに混ざって冷えた空気が流れてくる。

 

私はそのまま、エントランスに入っていった。

 

『あ!姉ちゃん!待てよ~!』

 

背中で聞こえた声が、すぐ後ろまで迫る。ニコもつられて、この建物に吸い込まれていった。

 

――――――

 

『あら……こんにちは。ビアンカ水族館へようこそ』

 

エントランスの自動ドアが開き、ひんやりした空気が頬に触れた。受付のカウンターには、見知らぬ青い巻き髪の女性が立っている。

 

ニコがアタシの横をすり抜けて受付へ駆け寄り、カウンターに手をついて大声で言った。

 

『大人一枚、子ども一枚!』

 

『ちょっと、ニコ。……すみません、失礼な言い方して』

 

『うふふ。お気になさらないでください。少々お待ちいただけますか? ただいまチケットをご用意いたしますわ』

 

『……え?』

 

その語尾が、耳の奥を刺した。ありえない。ここで聞くはずがない。胸の奥が冷たくなる。

 

女性は背後の棚から水色のチケットを二枚取り出し、裏面にスタンプを押した。乾いた音が二つ、静かに響く。

 

『お待たせいたしました。どうぞごゆっくり、海の神秘をご堪能くださいませ』

 

差し出されたチケットを受け取った、その瞬間。彼女の視線が、アタシに留まった気がした。笑顔は崩れないのに、目だけがこちらを確かめるみたいに。

 

『ん? 姉ちゃん? どうかした?』

 

ニコが不思議そうに見上げている。

 

『……何でもないわ』

 

自分でも、声が震えているのが分かった。

 

『ふーん……? まあ、いっか。行こうぜ』

 

そう言ってニコは先に展示室へ入っていった。受付の女性は、まだ笑顔のままこちらを見送っている。胸を刺す既視感から逃げるように、アタシはニコの背中を追った。

 

――――――

 

水族館のまっすぐな通路の先に、大きな扉があった。通路の両脇では水槽がせり出し、狭まった空間の中で、色も形も違う魚たちが無言でこちらを向いている。

青い光が肌を冷たく染める。その中を、私たちは奥の扉へ向かって歩き出した。

 

『……ずいぶん雰囲気が変わったな』

 

『ええ。先ほどまではどこも暗くて……水槽も小さく、まばらでしたわね』

 

隣を歩くクリスが、細い声で答える。

 

『レトロ……』

 

スーズが妙に慌てた様子で、私の手を強く握った。

 

『どうした? スーズ』

 

『私……怖い』

 

握る力がさらに強まる。私は、その手を強く握り返した。

 

『……この先に何かがありそうだな』

 

扉の前で足を止め、背後を確かめる。通路を狭めていた水槽の中から魚の姿が消え、残った泡だけがゆらゆら昇っていた。さっきまで規則的だった泡の列が、どこか不揃いに揺れて見える。

 

『開けるぞ』

 

私は取っ手に手をかけ、音を立てないようにゆっくり押し開けた。隙間の向こうに、濃い青が広がる。視界のほとんどを巨大な水槽が占め、魚の影が宙に漂っている。海の中へ一歩、踏み込むみたいだった。

 

私たちは部屋へ足を踏み入れた。足元は厚いガラスで、その下を魚が滑るように泳いでいく。二歩、三歩。水の揺れが足裏に遅れて伝わる。

次いで、背後で扉が重く閉まる音がした。

 

そこは大部屋の展示室だった。壁も天井も水槽の青に染まり、部屋と水の境目が曖昧になる。

 

『……美しいわね』

 

迫力に押されるように、クリスが見上げて呟いた。

 

『そうだな……』

 

今まで様々な展示を見てきたが、ここまで大きな水槽は見たことがなかった。

 

『わあ……』

 

スーズも天井を見上げていた。囲まれているのは水槽だけではない。光の反射までがこちらを包み、視界の奥行きが狂っていく。

 

背中を撫でるような視線を感じ、私は振り返る。

 

『……』

 

先ほどの扉は消えていた。そこには水槽がはめ込まれ、魚たちがガラスの向こうでゆっくり身を翻す。時おり、こちらを測るような目が光った。

 

『……行こう。ここは危険かもしれない』

 

後戻りはできない。私はスーズの手を引き、クリスの歩幅も確かめながら、部屋の奥へ向かって歩き出した。

 

――――――

 

奥へ進むにつれて、魚の影が散り、暗がりへ吸い込まれるように消えていく。

嫌な予感がした。胸の奥が冷え、背筋に薄い痺れが走る。耳の奥で、水の音だけが妙に大きくなる。

 

『……二人とも。走る準備をしておけ。何かが来る』

 

『う、うん……』

 

足裏に力を込め、歩幅を少しだけ広げる。ガラスの下で水が揺れ、光がゆっくり流れる。部屋の端まで数十歩。前方に、青く照らされた廊下が滲むように見えた。

 

その瞬間、背中がぞわりと粟立った。空気が押されるように重くなり、すぐ背後で水を裂く気配がする。反射で振り向き、目を凝らす。

 

――何もいない。

 

見えるのは青い壁面と、泡が静かに昇るだけだ。

だが、泡の筋が一瞬だけ乱れた。水槽のどこかで、波が立ったように光が歪む。見えない何かが、こちらの背後をなぞった気がした。

 

『……行くぞ』

 

私は二人を前に押し出すように進ませ、背後へ体を半歩残したまま歩く。

 

『急ぎましょう。貴方はそのまま、後ろを見ていて』

 

クリスがそう言って、私とスーズの手を優しく掴んだ。

私は後ろ向きのまま引かれながら進み、視線だけを背後に据える。

 

ガラス床の終端が近づく。足元の硬い反発がふっと途切れ、滑り止めの柔らかな絨毯の感触が戻った。段差は小さいが、材質の違いがはっきり分かる。

ほどなくして、クリスの指が私の手からほどける。

 

『……もう、大丈夫かしら』

 

私は前に向き直った。クリスとスーズが、不安そうにこちらを見ている。

 

『……たぶんな。だが、まだ安心できない。急ぐぞ』

 

私は二人の前に体を差し入れるように歩き出し、廊下の角を曲がる。曲がり角の先は見通しが利かない。足音を殺し、呼吸の乱れも抑えた。

背後へ意識を張りつめたまま、迫ってきた気配の正体を探りつつ、そのまま先へ進んだ。

 

 

 

 

水族館は昼前から賑わいを見せ、展示室も人波で満ちていた。

あちこちで子どもの弾んだ声が跳ね、ガラス越しの水槽を指さしながら魚の名前を呼ぶ会話が途切れなく耳に入る。

 

『姉ちゃん! こいつ、背中にトゲついてる!』

 

ニコは水槽の前で立ち止まるなり、指先でガラスを叩きそうな勢いで身を乗り出して叫んだ。

 

『ニコ……うるさいわよ』

 

アタシが小声で釘を刺しても、本人は聞こえないふりで、魚の動きに合わせて指を滑らせている。

アタシとニコは並んで水槽を覗き込み、流れる人の肩や鞄に押されながら、展示の前を少しずつ進んでいた。

 

その時、ふっと背後から柔らかな女性の声が差し込んだ。

 

『こちらはトゲチョウチョウウオ、です。サンゴ礁の浅い海で暮らしていて、藻や小さな生き物をついばむ雑食なんです。背びれの後ろが糸のように伸びるのが、最大の特徴ですわ』

 

『へー! お姉さん、物知りだな!』

 

ニコが振り返って目を丸くする。

その瞬間、背中の奥が冷えた。人波のざわめきが遠のいて、耳の内側だけが妙に冴える。

忘れたふりをしていたはずの映像が、ガラスの反射みたいにちらついた。

 

『な、なに……なんで、ついてくるの……?』

 

声が思ったより細くなって、自分でも気づいて舌がもつれる。

鞄の紐を握る指に力が入った。足が半歩、勝手に引く。

 

アタシの呟きが届かなかったのか、女性は楽しげに目尻をゆるめ、ゆっくり頷いた。

 

『うふふ。こちらの水族館のことなら、何でも知っていますわ』

 

その言い方が、引っかかった。

この水族館のことを、どこまで、何として言っているのか。

アタシは視線を逸らせないまま、反射で口を開いてしまう。

 

『……どこまで、知っているの……?』

 

それを聞いた女性は笑顔のまま、淡々と告げた。

 

『そうですわね……どのお魚が、どんな経緯でここへ来たのか。当時の様子まで、お答えできますわ』

 

彼女の声は柔らかいのに、耳の奥に残った。周囲は子どもの歓声と水槽の循環音で満ちているはずなのに、その一言だけが妙にくっきり浮く。

 

『あ! あっちにタツノオトシゴがいる!』

 

ニコが少し離れた水槽を指さして、身体を半歩前へ乗り出した。人波の隙間から、ガラス越しの光がちらつく。

 

『……タツノオトシゴ、ですか。あちらは……』

 

女性が視線を滑らせ、言葉の続きを息のように溜めた。その間が、やけに長い。

背後で聞こえるはずのざわめきが遠のいて、喉の奥が乾く。

 

血の気が引いた。胸の奥で鼓動が一段跳ね上がり、指先が冷えていく。あの記憶が、今の匂いと音に重なって、視界の端を薄く曇らせた。

 

『うわっ! ね、姉ちゃん? なにすんだよ!』

 

反射で、アタシはニコの腕を掴んで引いた。強く引きすぎた、と頭では分かるのに、手が止まらない。肩がぶつかり、誰かの「すみません」という声が背中をかすめる。

 

人込みの中へ、紛れるように逃げ込んだ。水槽の光が背後で途切れ途切れに揺れ、彼女の声だけがまだ近くにある気がして、アタシは振り返れなかった。

 

 

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