『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

11 / 16
11話

 

 

『姉ちゃん!どうしたんだよ急に!』

 

ニコの手を引きながら、人通りの少ない狭い通路の手前で立ち止まる。

 

『……ニコ。あの青い髪の女の人に近づかないで』

 

口にした瞬間、思ったより硬い声が出た。喉の奥が引っかかって、言葉がつるりと滑らない。

 

『青い髪って……受付のお姉さんのことか?なんでだよ?』

 

『とにかく、絶対着いて行ったりしたらダメだから!』

 

理由を続けようとして、唇が止まった。息を吸っても、言うべき言葉が見つからない。指先が落ち着かず、ニコの手を握る力だけが強くなる。

 

『そんなに怒るなよー。って、お?クラゲの森……ここだったのか』

 

ニコは案内に目を向け、そのまま暗い通路に入っていった。

 

背中に向けて伸ばしかけた手を、途中で引っ込める。遅れて、自分も一歩踏み出していた。足音が、狭い壁に吸われるみたいに小さくなる。

 

『ちょっとニコ!どこ行くのよ!』

 

踏み込んだ瞬間、青白い光が視界いっぱいに広がった。水の匂い。静かな水音。肩の奥に溜まっていた力が、ほんの少しだけ抜けるのが分かる。

その抜け方が嫌で、手のひらをぎゅっと握り直した。

 

『……すっげー……キレイだな……』

 

『ほんとね……相変わらずだわ……』

 

“相変わらず”って口にしてから、自分の言い方に気づく。言葉だけが先に馴染んで、あとから現実が追いかけてくるみたいだった。アタシはすぐに、視線を水槽の縁に戻した。

 

『ミズクラゲ……なんか、スーズのやつにそっくりだな』

 

その言葉が耳に入った途端、背中がひゅっと冷える。

同じ光なのに、さっきより薄く、硬く見える。丸い影が揺れるたび、目が勝手に追ってしまうのが腹立たしい。

 

口を開きかけて、閉じた。舌が動かない。喉が乾いて、息の出し方がぎこちなくなる。アタシはそれをごまかすみたいに、ガラスの向こうへ視線を滑らせた。

 

クラゲの傘が、ふわりと開く。明かりが揺れて、ガラスの向こうの暗さが一瞬だけ形を変えた。

逸らそうとした目が、同じ場所に縫い止められる。まばたきの回数だけが増える。

 

ニコが通路の方へ向き、その場で大きく手を振って呼びかける。

 

『あっ!おーい!二人とも!こっちだ!』

 

声が割り込んで、肩が小さく跳ねた。反射で振り向きかけて、途中で止まる。浅い息が漏れそうになって、唇を噛んだ。

 

『ニ、ニコ?なによ、突然……』

 

通路の向こうで手を振る小さな影が見えた。あの調子のまま、距離だけが一気に縮まってくる。

 

『お、ガキンチョ。それに、キティも。ひさしぶり』

 

アタシは思わず背筋を伸ばして、肩を整えた。頬の熱が上がりそうで、顎に力を入れる。

 

『ニコくん、キティちゃん、ひさしぶり~』

 

ルルがふわっと寄ってくる。頬に触れそうな距離で、反射的に半歩引いた。引いた足をすぐ止めて、何事もなかったみたいに立ち直る。

 

『ちょ、ちょっとルル?!いきなり近すぎるわよ!』

 

声が尖って、通路に残る。自分でも驚いて、言い終わりの音を飲み込むみたいに口を閉じた。

 

『ええ~?そうかなあ。こんな感じじゃなかったっけ?』

 

スーズがアタシの顔を見て、口角をわずかに上げた。

 

『相変わらずだな、みんな』

 

その一言で、場の温度が少し戻る。アタシは水槽の方へ視線が流れそうになるのを、壁の暗い方へ逸らした。

 

『ア、アンタたち、LIMEで忙しいって言ってたじゃない……』

 

言いながら、語尾が揺れたのが分かった。指先が落ち着かず、袖をつまんで離す。

 

『なんだ、まだ聞いてなかったのか』

 

スーズが呆れたように小さくため息を吐いた。

 

『え?どういうことよ』

 

返事を待つ間、喉がやけに乾く。舌が上手く回らなくて、唾を飲み込む音だけが耳に近い。

 

『ごめん、姉ちゃん。その、最近元気なかったから……びっくりさせたくて……LIMEでスーズたちに、ここで落ち合おうって頼んだんだ』

 

ニコが視線を外して笑った。その仕草を見た瞬間、言葉の続きが引っかかる。アタシは咄嗟に、水槽の光の方へ逃げそうになる目を、無理やり戻した。

 

『これ。ニコがグループまで作った』

 

スーズがスマホの画面をアタシに見せた。そこには「どこ」「クラゲの森。姉ちゃんもいる」とやり取りの履歴があった。

 

『えへへ~。ニコくんは、とってもお姉ちゃん思いだね~』

 

ルルの声が柔らかい。アタシはそれに合わせる顔が作れなくて、顎を上げて表情を整えた。

 

『な、なによ!来るなら最初から言いなさいよ!』

 

言い終わったあと、短い沈黙が落ちた。アタシは慌てて息を吸い直し、口角だけを持ち上げる。

 

『あ、姉ちゃん!どこ行くんだよ!おい!』

 

背中に声が当たる。返事を作ろうとして、間に合わない。腕が軽く引かれた気がして、アタシは肩をすくめる。振り向けば、また顔が追いつかない。

 

『まったく……キティも変わんないな』

 

スーズのその言い方に、足が一瞬だけ鈍る。

止まらないまま、息を吸い直して、言葉を探す。

 

人の流れから外れるように歩幅を上げた、そのとき。

 

『――!』

 

アタシはさっきの青髪の女性とすれ違った。彼女はそのまま、通路の奥……スーズたちの方へ向かっていく。

 

『ま、待ちなさい!アンタ、スーズに何するつもりなのよ!』

 

アタシは追いついて彼女の腕を掴み、引き止めた。

 

『ク、クリス……さん……?どうして……』

 

スーズは言葉を続けられず、ただ女性を見ていた。まばたきが一つ遅れて落ちる。

 

『スーちゃんの、お知り合いのひと?』

 

『……スーズちゃん。待っていたわ。……ちょっとだけ、いいかな』

 

スーズは返事を急がず、女性を見つめたまま、言葉を探していた。

 

『な、なに……?どういうことなの……?』

 

困惑するアタシを横目に、スーズが息を小さく吸う。

 

『……はい。教えてください。あれから、何があったんですか』

 

返事を待つ間、展示室のざわめきが妙に遠く聞こえた。通路の人波が肩をかすめ、背中を押す。アタシは反射でニコの位置を確かめ、ルルがきょとんとした顔でスーズを見上げているのが視界の端に入る。

 

『じゃあ、場所を変えようかしら。ついてきてもらえる?お友達も一緒に』

 

青髪の女性は柔らかい笑みを崩さないまま、通路の奥を指先で示した。客席側からは見えにくい扉が一つ、壁際に紛れるようにあった。

 

『分かりました。みんな、ついてきて』

 

アタシたちはスーズの後ろについて、水族館のバックヤードに入っていった。

 

 

 

 

扉の向こうは薄暗く、機械の音だけが近い。私は視線を前に固定した。

 

暗がりの中を歩いていると、キティが私の横に寄ってきた。

 

『ちょっとスーズ。どうなってるの?この人と知り合いなの?』

 

『うん。大佐の……大切な人』

 

『え?レトロの?』

 

『そ。だから、信じて大丈夫』

 

『ふーん……アンタがそういうなら……』

 

『足元に気をつけてね。ここよ』

 

クリスさんが白いドアを開け、明かりをつけた。通路に光が漏れ、入口に貼り付けられた白いプラ板が淡く光る。それには「応接室」と書かれていた。

部屋に入ると、茶色いソファが木のテーブルを挟むように向かい合わせに置かれている。壁際には灰色の棚があり、中には綺麗に何かの資料が並んでいた。

 

クリスさんは私たちに向き直り、続けた。

 

『少しだけ、ここで待っていてもらえる?』

 

『……はい。分かりました』

 

私は小さく頷いた。

 

クリスさんはそれを聞いて微笑み、ニコに目を向けた。

 

『……ニコくん。あちらに面白いものがあるのですが、ご一緒に見に行きませんか?』

 

『え、でもスーズは……』

 

ニコが私の方をチラッと見た。

 

『……ニコ。私たちは大切な話があるから、クリスさんと一緒にいて』

 

『そ、そっか……スーズがそう言うなら、俺もそうする』

 

ニコはわざと明るい声を作って、クリスさんの方へ寄った。

 

『うふふ。では、参りましょうか』

 

『スーズ……終わったら、すぐ連絡しろよな』

 

部屋の入口まで行ったニコが一度だけ振り返り、胸の奥に押し込むような小さい声で言い残して、廊下へ消えた。扉が静かに閉まる。

 

その隙間を埋めるように、部屋の外から聞き覚えのある低い声が落ちてきた。

 

『……行ったか』

 

声の主が、次の瞬間には姿を現した。青い髪の白衣の男が部屋へ入ってくる。キティとルルはその姿を見た途端、表情を強張らせる。

 

『う、嘘……足が……』

 

『スーちゃん、この人……お医者さん?』

 

『あ、貴方は……ドクター……』

 

白衣の男は返事の代わりに片手を軽く上げると、私を足元から頭まで、診るように一度なぞった。間を置かず、淡々と言う。

 

『久しぶりだな、スーズ。元気そうだな』

 

『は、はい……おかげさまで』

 

『まあ、三人とも座ってくれ。ここからは俺が説明する』

 

ドクターはそう言ってソファの脇に立ち、こちらを一度、測るように見渡した。

私たちは促されるまま奥のソファに腰を下ろす。

それを確認してから、ドクターは手前側のソファにゆっくり腰を下ろした。

 

私の横では、キティが背筋を固めたまま膝の上で手を握りしめている。ルルは私の肩口を見て、言葉を飲み込む気配だけを残した。私自身も、座ったはずなのに足元が落ち着かない。

視線が逃げ道を探してしまうのを、無理に前へ戻した。

 

『さて……まずは、俺がここへ戻ってきた経緯について話すか。といっても、まだ理由はわかっていないがな』

 

淡々とした声だった。慰めでも脅しでもない。だからこそ、余計に現実味が増して、喉の奥が乾く。

 

『……私が石を壊したのに、なぜ貴方はここに……』

 

ドクターは私の視線を正面から受け止め、ほんの一瞬だけ目を細めた。次に出てきた言葉は、感想ではなく、報告だった。

 

『……俺たちクリーピーは、たしかにあの空間と一緒に消えた。俺もそれは覚えている。だが次の瞬間、俺はこの場所で目を覚ました。大方、他のやつらも同じだろう』

 

「消えた」という断言が、胸の奥を冷やした。なのに「目を覚ました」と続く。理解が追いつかないまま、頭の中だけが先に走る。もし他も同じなら、ここにはどれだけの“残り”がいるんだ。

 

その考えに触れた瞬間、私は耐えきれなくなった。大佐のことだけが、視界の中心に残る。

 

『大佐は。大佐はどうなったんですか』

 

声が、自分でも分かるくらい焦っていた。机の上に肘をつくような勢いで身を乗り出しそうになって、膝の上の手を強く握って止めた。聞き逃したら終わる気がして、瞬きすら惜しい。

 

ドクターは私の方へ視線を向け、短く息を吐いた。叱るというより、熱を冷ますみたいな間だった。

 

『まあ落ち着け。あいつもここにいる』

 

その一言で、胸の中に溜まっていたものが一度だけほどけた。けれど次の瞬間、ほどけた分だけ不安が別の形に変わる。「いる」と聞いただけでは、まだ足りない。見て、声を聞いて、確かめないと。

 

『会わせてください。どこにいるんですか』

 

頼み口調のはずなのに、ほとんど命令みたいに出てしまった。キティが小さく息を呑む音がして、ルルが私の袖を掴みかけて止める。けれど私は引けなかった。ここで引いたら、また何かを失う気がした。

 

ドクターは数拍だけ黙り、何かを天秤にかけるように視線を落とした。それから、決めたように顔を上げる。

 

『……分かった。案内する』

 

言い終えると同時に、空気が次の動きへ向かって傾いた。背中の強張りは解けないまま、それでも身体の奥に「立つ」ための力だけが残る。

 

ドクターが部屋の出口へ向かう。私たちも遅れないように立ち上がり、黙ってその背中を追った。

廊下に出た瞬間、さっきまでの薄暗さが嘘みたいに照明が点いている。白い光が床に伸び、足音が乾いて響いた。

 

部屋の前の空間には、水色の長椅子がいくつも並んでいた。待たされるための場所だと、一目でわかる配置だった。

壁際には本棚が収まっていて、背表紙が揃いすぎるくらい綺麗に並んでいる。その上には小さな水槽が置かれていて、水面の揺れが天井に薄い影を落としていた。

静かなはずなのに、胸の鼓動だけがやけにうるさく感じる。

 

『ここは……病院、なのかしら』

 

水色の長椅子と、壁際の本棚、その上の小さな水槽を見渡しながら、キティが小さく息を呑んだ。

 

『そうだ。クリーピーのための病院、だな』

 

ドクターはそれだけ言うと、椅子の間を抜けて先に歩き出す。私たちは黙って付いていった。

 

廊下を右に曲がり、いくつかの扉の前を通り過ぎる。ほどなくして、ドクターがひとつの扉の前で足を止めた。

 

『……ここだ。あいつの部屋は』

 

『え……』

 

喉が鳴った。扉の向こうが急に近く感じて、呼吸が浅くなる。

 

『レトロは……眠ってる。いつ目を覚ますかは、今はわからん。だが、危険な状態じゃない』

 

ドクターは扉の前に立ったまま、取っ手に手を掛けて、ほんの一瞬だけ中の気配を確かめるように耳を澄ませた。

次いで、確認が済んだと言わんばかりに指を離し、扉を塞がない位置へ半歩だけ退く。視線は私を見ないまま、扉と、その向こうを守るように留まっていた。

 

危険じゃないと言い切られたのに、安心はまだ形にならない。

胸の奥に溜めていた息が、遅れて少しだけ落ちる。喉の奥で言葉がせり上がる。どのくらい眠っているのか、なぜ眠っているのか、レトロは本当にそこにいるのか。

けれどここで聞けば、扉の向こうが遠のく気がした。私は黙って頷き、懐中時計の硬い縁を掌に押し当てて、指先の震えだけを押さえ込む。

 

ドクターは壁に背を預けるようにして立ち、通路の先に一度だけ目をやった。

 

『……俺はここで待っているから、お前が来たことをあいつに教えてやってくれ』

 

その言葉を聞いた瞬間、手の中の懐中時計が微かに震えた。蓋の奥で歯車が回る気配はあるのに、針だけが動かない。静かな廊下で、その矛盾がやけに重く残った。

 

『……わかりました。ルルとキティは、ここにいて』

 

二人の顔を見て言い切る。腕に力を入れて、足が止まらないようにした。

 

『う、うん……スーちゃん、大丈夫?』

 

『……大丈夫。行ってくるね、ルル』

 

私は懐中時計を握り直し、取っ手に触れたまま息を整える。針は止まったままなのに、掌の奥で駆動だけが規則正しく脈打っていた。

その揺れが、止まっていないと教えるみたいで、私の心を落ち着かせた。

 

私はそのまま扉を押し開け、病室へ入った。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。