◇
『姉ちゃん!どうしたんだよ急に!』
ニコの手を引きながら、人通りの少ない狭い通路の手前で立ち止まる。
『……ニコ。あの青い髪の女の人に近づかないで』
口にした瞬間、思ったより硬い声が出た。喉の奥が引っかかって、言葉がつるりと滑らない。
『青い髪って……受付のお姉さんのことか?なんでだよ?』
『とにかく、絶対着いて行ったりしたらダメだから!』
理由を続けようとして、唇が止まった。息を吸っても、言うべき言葉が見つからない。指先が落ち着かず、ニコの手を握る力だけが強くなる。
『そんなに怒るなよー。って、お?クラゲの森……ここだったのか』
ニコは案内に目を向け、そのまま暗い通路に入っていった。
背中に向けて伸ばしかけた手を、途中で引っ込める。遅れて、自分も一歩踏み出していた。足音が、狭い壁に吸われるみたいに小さくなる。
『ちょっとニコ!どこ行くのよ!』
踏み込んだ瞬間、青白い光が視界いっぱいに広がった。水の匂い。静かな水音。肩の奥に溜まっていた力が、ほんの少しだけ抜けるのが分かる。
その抜け方が嫌で、手のひらをぎゅっと握り直した。
『……すっげー……キレイだな……』
『ほんとね……相変わらずだわ……』
“相変わらず”って口にしてから、自分の言い方に気づく。言葉だけが先に馴染んで、あとから現実が追いかけてくるみたいだった。アタシはすぐに、視線を水槽の縁に戻した。
『ミズクラゲ……なんか、スーズのやつにそっくりだな』
その言葉が耳に入った途端、背中がひゅっと冷える。
同じ光なのに、さっきより薄く、硬く見える。丸い影が揺れるたび、目が勝手に追ってしまうのが腹立たしい。
口を開きかけて、閉じた。舌が動かない。喉が乾いて、息の出し方がぎこちなくなる。アタシはそれをごまかすみたいに、ガラスの向こうへ視線を滑らせた。
クラゲの傘が、ふわりと開く。明かりが揺れて、ガラスの向こうの暗さが一瞬だけ形を変えた。
逸らそうとした目が、同じ場所に縫い止められる。まばたきの回数だけが増える。
ニコが通路の方へ向き、その場で大きく手を振って呼びかける。
『あっ!おーい!二人とも!こっちだ!』
声が割り込んで、肩が小さく跳ねた。反射で振り向きかけて、途中で止まる。浅い息が漏れそうになって、唇を噛んだ。
『ニ、ニコ?なによ、突然……』
通路の向こうで手を振る小さな影が見えた。あの調子のまま、距離だけが一気に縮まってくる。
『お、ガキンチョ。それに、キティも。ひさしぶり』
アタシは思わず背筋を伸ばして、肩を整えた。頬の熱が上がりそうで、顎に力を入れる。
『ニコくん、キティちゃん、ひさしぶり~』
ルルがふわっと寄ってくる。頬に触れそうな距離で、反射的に半歩引いた。引いた足をすぐ止めて、何事もなかったみたいに立ち直る。
『ちょ、ちょっとルル?!いきなり近すぎるわよ!』
声が尖って、通路に残る。自分でも驚いて、言い終わりの音を飲み込むみたいに口を閉じた。
『ええ~?そうかなあ。こんな感じじゃなかったっけ?』
スーズがアタシの顔を見て、口角をわずかに上げた。
『相変わらずだな、みんな』
その一言で、場の温度が少し戻る。アタシは水槽の方へ視線が流れそうになるのを、壁の暗い方へ逸らした。
『ア、アンタたち、LIMEで忙しいって言ってたじゃない……』
言いながら、語尾が揺れたのが分かった。指先が落ち着かず、袖をつまんで離す。
『なんだ、まだ聞いてなかったのか』
スーズが呆れたように小さくため息を吐いた。
『え?どういうことよ』
返事を待つ間、喉がやけに乾く。舌が上手く回らなくて、唾を飲み込む音だけが耳に近い。
『ごめん、姉ちゃん。その、最近元気なかったから……びっくりさせたくて……LIMEでスーズたちに、ここで落ち合おうって頼んだんだ』
ニコが視線を外して笑った。その仕草を見た瞬間、言葉の続きが引っかかる。アタシは咄嗟に、水槽の光の方へ逃げそうになる目を、無理やり戻した。
『これ。ニコがグループまで作った』
スーズがスマホの画面をアタシに見せた。そこには「どこ」「クラゲの森。姉ちゃんもいる」とやり取りの履歴があった。
『えへへ~。ニコくんは、とってもお姉ちゃん思いだね~』
ルルの声が柔らかい。アタシはそれに合わせる顔が作れなくて、顎を上げて表情を整えた。
『な、なによ!来るなら最初から言いなさいよ!』
言い終わったあと、短い沈黙が落ちた。アタシは慌てて息を吸い直し、口角だけを持ち上げる。
『あ、姉ちゃん!どこ行くんだよ!おい!』
背中に声が当たる。返事を作ろうとして、間に合わない。腕が軽く引かれた気がして、アタシは肩をすくめる。振り向けば、また顔が追いつかない。
『まったく……キティも変わんないな』
スーズのその言い方に、足が一瞬だけ鈍る。
止まらないまま、息を吸い直して、言葉を探す。
人の流れから外れるように歩幅を上げた、そのとき。
『――!』
アタシはさっきの青髪の女性とすれ違った。彼女はそのまま、通路の奥……スーズたちの方へ向かっていく。
『ま、待ちなさい!アンタ、スーズに何するつもりなのよ!』
アタシは追いついて彼女の腕を掴み、引き止めた。
『ク、クリス……さん……?どうして……』
スーズは言葉を続けられず、ただ女性を見ていた。まばたきが一つ遅れて落ちる。
『スーちゃんの、お知り合いのひと?』
『……スーズちゃん。待っていたわ。……ちょっとだけ、いいかな』
スーズは返事を急がず、女性を見つめたまま、言葉を探していた。
『な、なに……?どういうことなの……?』
困惑するアタシを横目に、スーズが息を小さく吸う。
『……はい。教えてください。あれから、何があったんですか』
返事を待つ間、展示室のざわめきが妙に遠く聞こえた。通路の人波が肩をかすめ、背中を押す。アタシは反射でニコの位置を確かめ、ルルがきょとんとした顔でスーズを見上げているのが視界の端に入る。
『じゃあ、場所を変えようかしら。ついてきてもらえる?お友達も一緒に』
青髪の女性は柔らかい笑みを崩さないまま、通路の奥を指先で示した。客席側からは見えにくい扉が一つ、壁際に紛れるようにあった。
『分かりました。みんな、ついてきて』
アタシたちはスーズの後ろについて、水族館のバックヤードに入っていった。
◇
扉の向こうは薄暗く、機械の音だけが近い。私は視線を前に固定した。
暗がりの中を歩いていると、キティが私の横に寄ってきた。
『ちょっとスーズ。どうなってるの?この人と知り合いなの?』
『うん。大佐の……大切な人』
『え?レトロの?』
『そ。だから、信じて大丈夫』
『ふーん……アンタがそういうなら……』
『足元に気をつけてね。ここよ』
クリスさんが白いドアを開け、明かりをつけた。通路に光が漏れ、入口に貼り付けられた白いプラ板が淡く光る。それには「応接室」と書かれていた。
部屋に入ると、茶色いソファが木のテーブルを挟むように向かい合わせに置かれている。壁際には灰色の棚があり、中には綺麗に何かの資料が並んでいた。
クリスさんは私たちに向き直り、続けた。
『少しだけ、ここで待っていてもらえる?』
『……はい。分かりました』
私は小さく頷いた。
クリスさんはそれを聞いて微笑み、ニコに目を向けた。
『……ニコくん。あちらに面白いものがあるのですが、ご一緒に見に行きませんか?』
『え、でもスーズは……』
ニコが私の方をチラッと見た。
『……ニコ。私たちは大切な話があるから、クリスさんと一緒にいて』
『そ、そっか……スーズがそう言うなら、俺もそうする』
ニコはわざと明るい声を作って、クリスさんの方へ寄った。
『うふふ。では、参りましょうか』
『スーズ……終わったら、すぐ連絡しろよな』
部屋の入口まで行ったニコが一度だけ振り返り、胸の奥に押し込むような小さい声で言い残して、廊下へ消えた。扉が静かに閉まる。
その隙間を埋めるように、部屋の外から聞き覚えのある低い声が落ちてきた。
『……行ったか』
声の主が、次の瞬間には姿を現した。青い髪の白衣の男が部屋へ入ってくる。キティとルルはその姿を見た途端、表情を強張らせる。
『う、嘘……足が……』
『スーちゃん、この人……お医者さん?』
『あ、貴方は……ドクター……』
白衣の男は返事の代わりに片手を軽く上げると、私を足元から頭まで、診るように一度なぞった。間を置かず、淡々と言う。
『久しぶりだな、スーズ。元気そうだな』
『は、はい……おかげさまで』
『まあ、三人とも座ってくれ。ここからは俺が説明する』
ドクターはそう言ってソファの脇に立ち、こちらを一度、測るように見渡した。
私たちは促されるまま奥のソファに腰を下ろす。
それを確認してから、ドクターは手前側のソファにゆっくり腰を下ろした。
私の横では、キティが背筋を固めたまま膝の上で手を握りしめている。ルルは私の肩口を見て、言葉を飲み込む気配だけを残した。私自身も、座ったはずなのに足元が落ち着かない。
視線が逃げ道を探してしまうのを、無理に前へ戻した。
『さて……まずは、俺がここへ戻ってきた経緯について話すか。といっても、まだ理由はわかっていないがな』
淡々とした声だった。慰めでも脅しでもない。だからこそ、余計に現実味が増して、喉の奥が乾く。
『……私が石を壊したのに、なぜ貴方はここに……』
ドクターは私の視線を正面から受け止め、ほんの一瞬だけ目を細めた。次に出てきた言葉は、感想ではなく、報告だった。
『……俺たちクリーピーは、たしかにあの空間と一緒に消えた。俺もそれは覚えている。だが次の瞬間、俺はこの場所で目を覚ました。大方、他のやつらも同じだろう』
「消えた」という断言が、胸の奥を冷やした。なのに「目を覚ました」と続く。理解が追いつかないまま、頭の中だけが先に走る。もし他も同じなら、ここにはどれだけの“残り”がいるんだ。
その考えに触れた瞬間、私は耐えきれなくなった。大佐のことだけが、視界の中心に残る。
『大佐は。大佐はどうなったんですか』
声が、自分でも分かるくらい焦っていた。机の上に肘をつくような勢いで身を乗り出しそうになって、膝の上の手を強く握って止めた。聞き逃したら終わる気がして、瞬きすら惜しい。
ドクターは私の方へ視線を向け、短く息を吐いた。叱るというより、熱を冷ますみたいな間だった。
『まあ落ち着け。あいつもここにいる』
その一言で、胸の中に溜まっていたものが一度だけほどけた。けれど次の瞬間、ほどけた分だけ不安が別の形に変わる。「いる」と聞いただけでは、まだ足りない。見て、声を聞いて、確かめないと。
『会わせてください。どこにいるんですか』
頼み口調のはずなのに、ほとんど命令みたいに出てしまった。キティが小さく息を呑む音がして、ルルが私の袖を掴みかけて止める。けれど私は引けなかった。ここで引いたら、また何かを失う気がした。
ドクターは数拍だけ黙り、何かを天秤にかけるように視線を落とした。それから、決めたように顔を上げる。
『……分かった。案内する』
言い終えると同時に、空気が次の動きへ向かって傾いた。背中の強張りは解けないまま、それでも身体の奥に「立つ」ための力だけが残る。
ドクターが部屋の出口へ向かう。私たちも遅れないように立ち上がり、黙ってその背中を追った。
廊下に出た瞬間、さっきまでの薄暗さが嘘みたいに照明が点いている。白い光が床に伸び、足音が乾いて響いた。
部屋の前の空間には、水色の長椅子がいくつも並んでいた。待たされるための場所だと、一目でわかる配置だった。
壁際には本棚が収まっていて、背表紙が揃いすぎるくらい綺麗に並んでいる。その上には小さな水槽が置かれていて、水面の揺れが天井に薄い影を落としていた。
静かなはずなのに、胸の鼓動だけがやけにうるさく感じる。
『ここは……病院、なのかしら』
水色の長椅子と、壁際の本棚、その上の小さな水槽を見渡しながら、キティが小さく息を呑んだ。
『そうだ。クリーピーのための病院、だな』
ドクターはそれだけ言うと、椅子の間を抜けて先に歩き出す。私たちは黙って付いていった。
廊下を右に曲がり、いくつかの扉の前を通り過ぎる。ほどなくして、ドクターがひとつの扉の前で足を止めた。
『……ここだ。あいつの部屋は』
『え……』
喉が鳴った。扉の向こうが急に近く感じて、呼吸が浅くなる。
『レトロは……眠ってる。いつ目を覚ますかは、今はわからん。だが、危険な状態じゃない』
ドクターは扉の前に立ったまま、取っ手に手を掛けて、ほんの一瞬だけ中の気配を確かめるように耳を澄ませた。
次いで、確認が済んだと言わんばかりに指を離し、扉を塞がない位置へ半歩だけ退く。視線は私を見ないまま、扉と、その向こうを守るように留まっていた。
危険じゃないと言い切られたのに、安心はまだ形にならない。
胸の奥に溜めていた息が、遅れて少しだけ落ちる。喉の奥で言葉がせり上がる。どのくらい眠っているのか、なぜ眠っているのか、レトロは本当にそこにいるのか。
けれどここで聞けば、扉の向こうが遠のく気がした。私は黙って頷き、懐中時計の硬い縁を掌に押し当てて、指先の震えだけを押さえ込む。
ドクターは壁に背を預けるようにして立ち、通路の先に一度だけ目をやった。
『……俺はここで待っているから、お前が来たことをあいつに教えてやってくれ』
その言葉を聞いた瞬間、手の中の懐中時計が微かに震えた。蓋の奥で歯車が回る気配はあるのに、針だけが動かない。静かな廊下で、その矛盾がやけに重く残った。
『……わかりました。ルルとキティは、ここにいて』
二人の顔を見て言い切る。腕に力を入れて、足が止まらないようにした。
『う、うん……スーちゃん、大丈夫?』
『……大丈夫。行ってくるね、ルル』
私は懐中時計を握り直し、取っ手に触れたまま息を整える。針は止まったままなのに、掌の奥で駆動だけが規則正しく脈打っていた。
その揺れが、止まっていないと教えるみたいで、私の心を落ち着かせた。
私はそのまま扉を押し開け、病室へ入った。
◇