『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

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12話

 

 

扉を押し開いた瞬間、湿った冷気が頬に触れた。

扉の向こうの空間に、雨が降っていた。

 

雨粒は細かく、どこかから落ちてくる。だが、落ちてくるはずの天井が見えない。

壁もない。輪郭が掴めないまま、空間だけが奥へ奥へと続いている。

 

足元は、赤紫色に光る何かに覆われていた。水面のように揺れて見えるのに、踏み込んでも靴底が沈む感触はない。ただ、薄い光の膜が床全体に張りついているようだった。

 

『……雨か』

 

『室内なのに……変ね』

 

『雨……?』

 

『ああ。空から水がこうして細かく落ちてくる現象を雨と呼ぶ』

 

『へえ……』

 

見上げる。

雲はない。天井もない。

闇があるだけで、どこから雨が落ちているのか理屈が通らない。雨音だけが近くで鳴っているのに、どこか遠くから響き続けた。

 

『レトロ……』

 

『なんだ?』

 

『これ……止まっちゃった』

 

スーズが懐中時計を差し出してきた。手のひらの中のそれは冷たく、濡れていないのに妙に重い。耳を澄ますと、さっきまで確かにあったはずの微かな刻みが消えている。

 

『何かの拍子に止まったのだろう。本来なら、動くはずもないものだ』

 

『ううん。さっきまで動いてた』

 

スーズが言い切った瞬間だった。

足元の紫色の膜の光に照らされて、私たちの影がふっと増えた。ひとつだった影が二つに割れ、同じ動きを遅れてなぞるみたいに揺らぐ。

 

『きゃ……!』

 

すぐ横でクリスがよろけ、身体が斜めに傾いた。

私は踏ん張ったまま、咄嗟に彼女の肩を掴んで引き上げる。指先越しに伝わる体温が、いつもより薄い。

 

『大丈夫か、クリス』

 

『え、ええ……』

 

返事が終わりきる前に、床が跳ねた。

規則正しい揺れが足首から膝、背骨へと突き上げてくる。揺れるたび、低く大きい音が腹の奥に響いた。

打ち鳴らされるような鈍い音に合わせて、紫の光が床に沿って滲み、闇の奥までしみ込むように広がっていく。

 

私は二人の手を握り、前へ歩き出した。握った指先が震えているのが分かる。自分の手だけは強くして、離れないように締めた。

 

『床が……震えているわ』

 

『揺れは等間隔だ。タイミングを掴んでバランスを取れ』

 

揺れと揺れの隙間を読む。音の間隔を数える。踏み出す瞬間を合わせる。

紫の光の波紋が伸びる先に、壁も出口も見えない。それでも止まれば、揺れだけが身体を奪う。

 

『ん、なんかこの音聞いたことあるかも』

 

『本当か? 何の音だ?』

 

『えっと……ここの音』

 

スーズは懐中時計を握った手を、そのまま自分の胸に当てた。

金属が布越しに鳴り、低い響きの中に、微かな刻みのようなものを探す。

 

『……確かにな』

 

私も胸のあたりに手を当てる。

指の腹に、内側から打つ鼓動が触れた。

 

『……!』

 

揺れが来る。次も来る。

そのたびに、胸の内側が同じ間隔で跳ねる。

 

鼓動が、床の揺れる瞬間とぴったり重なっている。

 

『あ、また動き始めた』

 

スーズが再び手の中の懐中時計を眺める。その目の色が、かつてあの空間で出会ったスーズを思い出させた。

 

 

 

 

『……本当に、この世界は何なのだろう』

 

『不思議ね。どこまで行っても、どこか見たことがあるような……そんな感じがするわ』

 

それからしばらく、床の淡い光だけを頼りに暗闇を歩き続けた。

だが、壁すら見えてこない。どこまで進んでも、空間の輪郭が立たない。

 

雨は降り続けている。

揺れも止まらない。規則正しい震えが足首から伝わり、低い音が腹の奥を叩き続ける。

 

『……このまま進んでも埒が開かない。一旦、引き返す』

 

私が振り向いた、その瞬間だった。

暗闇の中で、白いものが裂けるように開いた。

 

大きな白い口が、二人を捉えようとしていた。

 

『くっ……!』

 

考えるより早く剣を抜き、口と二人の間に身体を滑り込ませる。

刃が紫の光を受け、濡れた空気の中で鈍く光った。

 

『な、何……』

 

クリスの声が、そこで途切れた。

 

揺れに合わせて、口の下側が紫色に縁どられていく。

床の光が、白い輪郭を浮かび上がらせる。

 

その正体は――

 

傷だらけの、真っ白なホオジロザメだった。

 

私は剣を握る手に力を込め、目の前の巨体を押し返そうと踏みとどまった。

刃先が強く押され、腕が震える。口はすぐ目の前で、少しでも踏み外せば歯列に呑まれる距離だった。足元の揺れで踏み外しそうになりながら、それでも前へ出る。

 

押し返すほどに、相手の力が増していく。

まるで、こちらの踏み込みを向こうが吸い上げて、同じだけ押し返してくるように。

 

背後で、濡れた床を踏む小さな足音がした。

 

『スーズ! 何のつもりだ! 離れろ!』

 

振り向く暇もない。私は刃を支点にして、口の縁を押さえ続ける。

 

『大丈夫。私に任せて』

 

スーズの声は妙に落ち着いていた。

彼女はホオジロザメのすぐ傍まで寄り、躊躇いなく掌を伸ばす。

 

指先が白い肌に触れた瞬間、押し返してくる圧がふっと抜けた。

歯の列が、私の刃先から少しだけ離れる。重かった抵抗が、嘘のように軽くなる。

 

スーズは手を離さない。

雨に濡れた背を、撫でるように一定の速さで触れ続けた。

 

『ごめんなさい。もう、置いて行ったりしないから』

 

言葉が落ちると同時に、ホオジロザメは体を押し込むのをやめた。

大きな白い口が、ゆっくりと閉じていく。紫の縁取りも、揺れの波に溶けるように薄まっていった。

 

『……』

 

スーズはそのまま、縋りつくように白い体へ身を寄せた。

雨粒が背中を滑り、床の淡い紫が、輪郭をぼんやり縁取っている。

 

ホオジロザメは動かない。

ただその場で、揺れのリズムに合わせて、ゆっくりと揺れていた。まるで水の中にいるように。

 

『……会いたかった。レトロ』

 

その言葉に引かれるように、ホオジロザメはゆっくりと床へ滲み、淡い紫の光の中へ溶けていった。

気が付けば、足元の揺れも止まっている。

 

スーズがこちらへ向き直る。

瞳には涙が溜まり、落ちる寸前でかすかに震えていた。

 

『ス、スーズ……?』

 

スーズがこちらに歩み寄り、そっと肩の後ろに腕を回した。

触れたところから温もりがじんわり広がり、胸の奥のざわめきが少しずつ鎮まっていった。

 

『……レトロ。遅くなって、ごめん』

 

その声が耳に触れた瞬間、胸の奥が熱く満たされた。

息が勝手に早くなる。喉が詰まり、呼びかけるだけのはずの声が、情けないほど揺れた。

私は彼女の頭に触れ、もう一度目を見つめた。雨に濡れた髪が頬に触れ、腕の中の体温だけがやけに確かだった。

 

『スーズ……本当に……お前なのか?』

 

『うん……』

 

『……馬鹿者。こんなところまで……迎えに来るな』

 

私の言葉とは裏腹に、スーズの腕に力が入る。体が引き合い、胸の奥で鳴っている鼓動が、すぐ近くに感じられた。

 

『私のこと、忘れてない?』

 

『ああ。一日たりともな』

 

『なんだ……私とおんなじじゃん』

 

『……もっと早く、迎えに行ってやるべきだったな』

 

私はスーズの頭から手を離した。

離した途端、指先に残っていた熱が引いていくのが分かった。

 

スーズは辺りを見回した。

見渡す限り、濃い紫に揺れる床がどこまでも続いている。波紋みたいな光が足元から遠くへ滲み、境目も壁も見つからない。

 

『ここは……どこ?』

 

『……分からない。だが、先ほどまでは私の鼓動と連動しているかのように揺れていた』

 

スーズがクリスを見る。

クリスは一瞬だけ口を開きかけて、結局、罰が悪そうに目を逸らした。

 

『やっぱり。クリスさんも……一緒だったんだ』

 

『ス、スーズ様……』

 

クリスが小さく息を呑み、スーズの前へ歩いていく。

雨が肩を濡らしても、彼女は足を止めない。

 

スーズはクリスに真っ直ぐ視線を向けた。その目がクリスの背後を見ているのが、私にも感じられた。

 

『クリスさん。もう、ひとりで抱え込まないでください』

 

『……ごめんなさい』

 

クリスは両手を揃え、深々と頭を下げた。

雨音だけが残り、淡い紫色の光が、彼女の指先の白さを静かに浮かび上がらせる。

 

『はい。貴方の気持ちは届いています』

 

スーズは小さく息を吸い、クリスの下げた頭をじっと見つめた。

返す言葉を選ぶように唇を開きかけて、すぐに閉じる。雨音の隙間に、迷いだけが残った。

 

それでも視線は逸らさない。

握りしめた指先に力が入り、次の瞬間、肩から余計な力がすっと抜けた。

 

スーズは一歩だけ近づき、クリスの前に立つ。

声は丁寧だったが、その奥に、失った時間の棘が薄く混じっていた。

 

『……行きましょう。大佐も、一緒に』

 

『その呼び方はよせと言っただろう』

 

『もうずいぶん前のことだし、忘れたもんね』

 

『ふっ……締まらんやつだ』

 

私は頬の緩みを感じながら、クリスへ体を向けた。

 

『クリス』

 

『は、はい……』

 

私は一度息を吐き、視線だけで前を示す。

 

『一緒に来てくれ』

 

そう言って、クリスの手を強く握った。

細い指が、こちらの掌の中で一瞬だけ固まる。

 

クリスは目を見開いた。だがすぐに、寂しげにほほ笑んだ。

その笑みの形で、彼女が次に何を言おうとしているのかが分かった。

 

だから先に、言葉で押さえ込む。

 

『私には……お前が必要だ。お前の存在だけが、私を形作っている』

 

私は彼女を引き寄せ、頬に触れた。雨の冷たさとは違う温度が、指先に伝わる。

 

クリスの瞳から、涙がこぼれ落ちる。

俯いて拭おうとしても追いつかないまま頬を濡らし、細い声で答えた。

 

『……ええ。わたくしも、貴方がいなければ……自分の形が分からなくなってしまうの』

 

雨に濡れて冷えた手袋が、掌の内側からじんわりと温まっていく。

指先に残っていた冷たさがほどけ、代わりに、確かな重みと脈のような熱が伝わってきた。

 

私はその熱を受け止めながら、言葉を返せずにただ彼女の瞳を見つめていた。

紫の床の淡い光が睫毛の影を落とし、濡れた瞳の奥だけが妙に澄んで見える。

 

『……参りましょう。レトロ』

 

クリスは私の手を離さないまま、雨の中を歩き出した。

紫色の波紋が、前方の一点へ吸い寄せられるように細くなっていく。

 

闇の奥に、段差のような線がいくつも浮かび、床がゆるやかに下へ折れている気配があった。

引かれるように私も続き、スーズも並び、歩調を合わせた。

 

スーズが横から小さく声をかけてきた。

 

『……また、動き出した』

 

彼女の掌の中で揺れるそれは、淡い床の光に縁どられ、雨の気配をまとったまま静かにきらめいていた。

 

 

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