◇
扉を押し開いた瞬間、湿った冷気が頬に触れた。
扉の向こうの空間に、雨が降っていた。
雨粒は細かく、どこかから落ちてくる。だが、落ちてくるはずの天井が見えない。
壁もない。輪郭が掴めないまま、空間だけが奥へ奥へと続いている。
足元は、赤紫色に光る何かに覆われていた。水面のように揺れて見えるのに、踏み込んでも靴底が沈む感触はない。ただ、薄い光の膜が床全体に張りついているようだった。
『……雨か』
『室内なのに……変ね』
『雨……?』
『ああ。空から水がこうして細かく落ちてくる現象を雨と呼ぶ』
『へえ……』
見上げる。
雲はない。天井もない。
闇があるだけで、どこから雨が落ちているのか理屈が通らない。雨音だけが近くで鳴っているのに、どこか遠くから響き続けた。
『レトロ……』
『なんだ?』
『これ……止まっちゃった』
スーズが懐中時計を差し出してきた。手のひらの中のそれは冷たく、濡れていないのに妙に重い。耳を澄ますと、さっきまで確かにあったはずの微かな刻みが消えている。
『何かの拍子に止まったのだろう。本来なら、動くはずもないものだ』
『ううん。さっきまで動いてた』
スーズが言い切った瞬間だった。
足元の紫色の膜の光に照らされて、私たちの影がふっと増えた。ひとつだった影が二つに割れ、同じ動きを遅れてなぞるみたいに揺らぐ。
『きゃ……!』
すぐ横でクリスがよろけ、身体が斜めに傾いた。
私は踏ん張ったまま、咄嗟に彼女の肩を掴んで引き上げる。指先越しに伝わる体温が、いつもより薄い。
『大丈夫か、クリス』
『え、ええ……』
返事が終わりきる前に、床が跳ねた。
規則正しい揺れが足首から膝、背骨へと突き上げてくる。揺れるたび、低く大きい音が腹の奥に響いた。
打ち鳴らされるような鈍い音に合わせて、紫の光が床に沿って滲み、闇の奥までしみ込むように広がっていく。
私は二人の手を握り、前へ歩き出した。握った指先が震えているのが分かる。自分の手だけは強くして、離れないように締めた。
『床が……震えているわ』
『揺れは等間隔だ。タイミングを掴んでバランスを取れ』
揺れと揺れの隙間を読む。音の間隔を数える。踏み出す瞬間を合わせる。
紫の光の波紋が伸びる先に、壁も出口も見えない。それでも止まれば、揺れだけが身体を奪う。
『ん、なんかこの音聞いたことあるかも』
『本当か? 何の音だ?』
『えっと……ここの音』
スーズは懐中時計を握った手を、そのまま自分の胸に当てた。
金属が布越しに鳴り、低い響きの中に、微かな刻みのようなものを探す。
『……確かにな』
私も胸のあたりに手を当てる。
指の腹に、内側から打つ鼓動が触れた。
『……!』
揺れが来る。次も来る。
そのたびに、胸の内側が同じ間隔で跳ねる。
鼓動が、床の揺れる瞬間とぴったり重なっている。
『あ、また動き始めた』
スーズが再び手の中の懐中時計を眺める。その目の色が、かつてあの空間で出会ったスーズを思い出させた。
◇
『……本当に、この世界は何なのだろう』
『不思議ね。どこまで行っても、どこか見たことがあるような……そんな感じがするわ』
それからしばらく、床の淡い光だけを頼りに暗闇を歩き続けた。
だが、壁すら見えてこない。どこまで進んでも、空間の輪郭が立たない。
雨は降り続けている。
揺れも止まらない。規則正しい震えが足首から伝わり、低い音が腹の奥を叩き続ける。
『……このまま進んでも埒が開かない。一旦、引き返す』
私が振り向いた、その瞬間だった。
暗闇の中で、白いものが裂けるように開いた。
大きな白い口が、二人を捉えようとしていた。
『くっ……!』
考えるより早く剣を抜き、口と二人の間に身体を滑り込ませる。
刃が紫の光を受け、濡れた空気の中で鈍く光った。
『な、何……』
クリスの声が、そこで途切れた。
揺れに合わせて、口の下側が紫色に縁どられていく。
床の光が、白い輪郭を浮かび上がらせる。
その正体は――
傷だらけの、真っ白なホオジロザメだった。
私は剣を握る手に力を込め、目の前の巨体を押し返そうと踏みとどまった。
刃先が強く押され、腕が震える。口はすぐ目の前で、少しでも踏み外せば歯列に呑まれる距離だった。足元の揺れで踏み外しそうになりながら、それでも前へ出る。
押し返すほどに、相手の力が増していく。
まるで、こちらの踏み込みを向こうが吸い上げて、同じだけ押し返してくるように。
背後で、濡れた床を踏む小さな足音がした。
『スーズ! 何のつもりだ! 離れろ!』
振り向く暇もない。私は刃を支点にして、口の縁を押さえ続ける。
『大丈夫。私に任せて』
スーズの声は妙に落ち着いていた。
彼女はホオジロザメのすぐ傍まで寄り、躊躇いなく掌を伸ばす。
指先が白い肌に触れた瞬間、押し返してくる圧がふっと抜けた。
歯の列が、私の刃先から少しだけ離れる。重かった抵抗が、嘘のように軽くなる。
スーズは手を離さない。
雨に濡れた背を、撫でるように一定の速さで触れ続けた。
『ごめんなさい。もう、置いて行ったりしないから』
言葉が落ちると同時に、ホオジロザメは体を押し込むのをやめた。
大きな白い口が、ゆっくりと閉じていく。紫の縁取りも、揺れの波に溶けるように薄まっていった。
『……』
スーズはそのまま、縋りつくように白い体へ身を寄せた。
雨粒が背中を滑り、床の淡い紫が、輪郭をぼんやり縁取っている。
ホオジロザメは動かない。
ただその場で、揺れのリズムに合わせて、ゆっくりと揺れていた。まるで水の中にいるように。
『……会いたかった。レトロ』
その言葉に引かれるように、ホオジロザメはゆっくりと床へ滲み、淡い紫の光の中へ溶けていった。
気が付けば、足元の揺れも止まっている。
スーズがこちらへ向き直る。
瞳には涙が溜まり、落ちる寸前でかすかに震えていた。
『ス、スーズ……?』
スーズがこちらに歩み寄り、そっと肩の後ろに腕を回した。
触れたところから温もりがじんわり広がり、胸の奥のざわめきが少しずつ鎮まっていった。
『……レトロ。遅くなって、ごめん』
その声が耳に触れた瞬間、胸の奥が熱く満たされた。
息が勝手に早くなる。喉が詰まり、呼びかけるだけのはずの声が、情けないほど揺れた。
私は彼女の頭に触れ、もう一度目を見つめた。雨に濡れた髪が頬に触れ、腕の中の体温だけがやけに確かだった。
『スーズ……本当に……お前なのか?』
『うん……』
『……馬鹿者。こんなところまで……迎えに来るな』
私の言葉とは裏腹に、スーズの腕に力が入る。体が引き合い、胸の奥で鳴っている鼓動が、すぐ近くに感じられた。
『私のこと、忘れてない?』
『ああ。一日たりともな』
『なんだ……私とおんなじじゃん』
『……もっと早く、迎えに行ってやるべきだったな』
私はスーズの頭から手を離した。
離した途端、指先に残っていた熱が引いていくのが分かった。
スーズは辺りを見回した。
見渡す限り、濃い紫に揺れる床がどこまでも続いている。波紋みたいな光が足元から遠くへ滲み、境目も壁も見つからない。
『ここは……どこ?』
『……分からない。だが、先ほどまでは私の鼓動と連動しているかのように揺れていた』
スーズがクリスを見る。
クリスは一瞬だけ口を開きかけて、結局、罰が悪そうに目を逸らした。
『やっぱり。クリスさんも……一緒だったんだ』
『ス、スーズ様……』
クリスが小さく息を呑み、スーズの前へ歩いていく。
雨が肩を濡らしても、彼女は足を止めない。
スーズはクリスに真っ直ぐ視線を向けた。その目がクリスの背後を見ているのが、私にも感じられた。
『クリスさん。もう、ひとりで抱え込まないでください』
『……ごめんなさい』
クリスは両手を揃え、深々と頭を下げた。
雨音だけが残り、淡い紫色の光が、彼女の指先の白さを静かに浮かび上がらせる。
『はい。貴方の気持ちは届いています』
スーズは小さく息を吸い、クリスの下げた頭をじっと見つめた。
返す言葉を選ぶように唇を開きかけて、すぐに閉じる。雨音の隙間に、迷いだけが残った。
それでも視線は逸らさない。
握りしめた指先に力が入り、次の瞬間、肩から余計な力がすっと抜けた。
スーズは一歩だけ近づき、クリスの前に立つ。
声は丁寧だったが、その奥に、失った時間の棘が薄く混じっていた。
『……行きましょう。大佐も、一緒に』
『その呼び方はよせと言っただろう』
『もうずいぶん前のことだし、忘れたもんね』
『ふっ……締まらんやつだ』
私は頬の緩みを感じながら、クリスへ体を向けた。
『クリス』
『は、はい……』
私は一度息を吐き、視線だけで前を示す。
『一緒に来てくれ』
そう言って、クリスの手を強く握った。
細い指が、こちらの掌の中で一瞬だけ固まる。
クリスは目を見開いた。だがすぐに、寂しげにほほ笑んだ。
その笑みの形で、彼女が次に何を言おうとしているのかが分かった。
だから先に、言葉で押さえ込む。
『私には……お前が必要だ。お前の存在だけが、私を形作っている』
私は彼女を引き寄せ、頬に触れた。雨の冷たさとは違う温度が、指先に伝わる。
クリスの瞳から、涙がこぼれ落ちる。
俯いて拭おうとしても追いつかないまま頬を濡らし、細い声で答えた。
『……ええ。わたくしも、貴方がいなければ……自分の形が分からなくなってしまうの』
雨に濡れて冷えた手袋が、掌の内側からじんわりと温まっていく。
指先に残っていた冷たさがほどけ、代わりに、確かな重みと脈のような熱が伝わってきた。
私はその熱を受け止めながら、言葉を返せずにただ彼女の瞳を見つめていた。
紫の床の淡い光が睫毛の影を落とし、濡れた瞳の奥だけが妙に澄んで見える。
『……参りましょう。レトロ』
クリスは私の手を離さないまま、雨の中を歩き出した。
紫色の波紋が、前方の一点へ吸い寄せられるように細くなっていく。
闇の奥に、段差のような線がいくつも浮かび、床がゆるやかに下へ折れている気配があった。
引かれるように私も続き、スーズも並び、歩調を合わせた。
スーズが横から小さく声をかけてきた。
『……また、動き出した』
彼女の掌の中で揺れるそれは、淡い床の光に縁どられ、雨の気配をまとったまま静かにきらめいていた。
◇