『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

13 / 16
4章 空の水槽の灯
13話


 

 

ルルは膝を抱えるようにして座り、指先で自分の袖口をくるくるといじっていた。

前室の奥には寝台が二つ並び、レトロとクリスは同じ呼吸の間隔で沈黙している。布越しに上下する胸の動きだけが、ここが現実だと主張していた。

 

静かなはずの場所なのに、耳の奥だけが落ち着かない。遠くで水が滴るような音がして、時間が伸びていく。

 

『……スーちゃん、遅いね』

 

キティは返事をしながらも、視線は入口のほうに釘づけだった。肩がこわばって、呼吸が浅い。待つことが怖いのに、動くのも怖い。

一度だけ、寝台の方へ目をやって、すぐに逸らした。

 

『そうね……』

 

ドクターは二人の視線の揺れを一度だけ見て、口の中で短く舌打ちした。焦りを見せれば余計に不安にさせると分かっているから、声の調子だけは崩さない。

それでも、胸の内側で嫌な予感が膨らんでいくのを止められない。

 

『……俺が様子を見てくる。二人とも、ここで待っていてくれ。寝台には近づくな』

 

言い終えると同時に踵を返し、前室の奥へ足を向けた。湿った空気が濃くなる。照明の届かない隅が増え、どこかで水の匂いがする。嫌に冷たい。

 

寝台の並ぶ壁際、その陰を回り込んだ瞬間、ドクターの足が止まった。

 

そこに、スーズがいた。寝台の陰に、壁へもたれかかるように座り込んでいる。目は開いていない。呼びかけても、返るはずの反応が見当たらない。

 

『……スーズ……!?』

 

喉の奥が詰まる。考える前に身体が動き、駆け寄って肩を掴む。

触れた感触が軽い。生きている温度はあるのに、意識が遠い。

 

『おい、しっかりしろ!』

 

呼吸を確かめ、顔色を見て、唇を噛む。

次の瞬間、怒りとも焦りともつかない感情が腹の底に沈んだ。……この感じを、知っている。

 

『……またか』

 

スーズの手の中の懐中時計が刻む音が、壁の時計の音と同じ間隔で重なって聞こえた。

 

背後から慌てた足音が駆けてきて、ルルがスーズの名前を呼ぶ声が跳ねた。

恐怖の輪郭が、ようやく二人にも届いてしまった。

 

『スーちゃん……!!』

 

キティは膝をつき、スーズの肩に触れて揺すってみる。強くしたくないのに、指先に力が入る。

返事がないことが、指を通してはっきり伝わってくる。

 

『スーズ!!……ダメね……起きない』

 

ドクターは一度だけ目を閉じ、息を整えた。

言葉にしてしまえば残酷だと分かっている。それでも、条件を示さなければ二人はもっと壊れる。

 

『……レトロが夢から覚めるまでは、このままだ』

 

ルルの顔が真っ青になる。キティの喉が小さく鳴った。

ドクターは二人の反応を受け止めたまま、視線を逸らさずに続ける。祈りではなく、説明として。

 

『薬を飲んだのはレトロだけだ。引き戻す切っ掛けを握ってるのも、あいつだ』

 

ルルは息を呑み、キティの指先がスーズの袖を離せなくなる。理解したくないのに、理解してしまう。

針音だけが薄く続く。止まらない拍が、余計に現実味を奪っていく。

 

『……信じて待つしかない。俺はダンボの所へ行ってくる』

 

言い切ると、ドクターは踵を返しかけて、途中で動きを止めた。軽率に背を向ければ、二人の恐怖が一気に膨らむのが分かっていたからだ。

息を吸い直し、声の調子だけは崩さないまま、最後の線引きを口にする。

 

『二人とも、外へ出てくれ。君たちも巻き込まれるかもしれない』

 

ルルは反射的にスーズへ身を寄せかけ、キティは「嫌」と言いかけて唇を噛んだ。それでも、今ここで離れることが、二度と戻れない別れに繋がる気がした。

ドクターはその迷いを待たない。短く、確かな動作で扉の方角を示す。

 

ルルは一度だけスーズの顔を見てから、震える指を引いた。キティが先に立ち、二人は扉の外へ押し出されるように出る。

扉が閉まる音がして、針音が少しだけ遠のいた。

 

ドクターは振り返らないまま、廊下へ踏み出した。ダンボのいる方へ、足音を殺して急ぐ。

 

 

 

 

階段を下りきった先は、暗闇ではなかった。

深い紫で塗り固めたような空間に、青白い光がところどころ滲んでいる。輪郭は見えるのに、距離感だけが掴めない。

三人分の足音が、少し遅れて戻ってくる。硬い床を踏んでいるはずなのに、水の底を歩いているみたいな響きだった。

 

『……静かだな』

 

『……うん』

 

言葉を落とした瞬間、静けさがいっそう濃くなる。

広い通路を進むと、空中で光がいくつも揺れていた。近づくほど、それが漂っているのが分かる。

 

『ミズクラゲ……ですわね』

 

壁の端々から伸びる光の柱に照らされ、淡い輪郭が浮かぶ。触れたら消えてしまいそうなくらい薄いのに、数だけは妙に多い。

 

『……この先が、最深部か』

 

通路はだんだん狭まり、最後には三人が並んでやっと収まる幅になった。

行き止まりのように、白い扉が立っている。紫の中でそこだけが不自然に白い。

 

大佐がドアノブに手をかけ、回す。けれど途中で止まり、金属が小さく鳴った。

 

『……開かない。鍵がかかっているようだ』

 

近づいて見ても、扉に鍵穴はない。取っ手も飾り気がなく、ただ滑らかな白が続いているだけだ。

そのとき、ふっと大佐の上着の内側から、微かな光が漏れているのに気づいた。拍のように、静かに明滅している。

 

『大佐、それ』

 

『ああ。忘れていたな』

 

大佐は懐から青い包みを取り出した。布をほどくと、平たいヘラのような道具が現れる。縁が薄く、先端がわずかに丸い。

 

『オープナー……か?』

 

『多分。ちょっと貸して』

 

私は受け取り、手の中で重さを確かめる。

同時に、懐中時計がかすかに揺れた。掌の奥で、規則正しい振動だけが残っている。

 

裏面の隙間にオープナーを差し込み、慎重に力を加える。

抵抗が一瞬だけ強まり、次いで、ふっと抜けた。

 

中蓋には、何も刻まれていなかった。裏蓋と同じ位置にある切り欠きにオープナーを差し込み、ゆっくりと持ち上げる。

 

中蓋がわずかに開き、細い隙間から青い光が差し込む。光は濃く、深く、まるで中身のほうが外より正しいみたいに見えた。

 

『……そっか。これが……鍵だったんだ』

 

『スーズ?』

 

『……見て。二人とも』

 

私は時計の内部を二人に向けた。

緻密に組み上げられたパーツはどれも深い青に染まり、ミズクラゲの光を受けて白くきらめく。その間に、石がいくつも噛み合うように収まっている。

 

『全て……深海の石、ですか?』

 

『……恐らくはな。どれも、ひび割れているようだが』

 

ひびの走る小さな石の列の中で、ひときわ大きいものが目についた。

私はそこに指をかけ、ゆっくり外して掌に乗せる。――温かい。冷えた空気の中で、それだけが熱を持っていた。

規則的に瞬くように、静かに光っている。

 

『これは……割れてないみたい』

 

『……三つ目の石、か』

 

『……ええ』

 

その瞬間、石が一度だけ強く光った。

 

『うわ……!』

 

見覚えのある深い青が、視界を塗りつぶす。音が遠のき、足元の感覚まで薄れる。

 

次の瞬間、光が止んだ。

 

『……扉が開いている』

 

白い扉が、ほんの少しだけ開いていた。隙間の向こうは見えない。ただ、奥へ続く気配だけが流れ込んでくる。

 

『こ、この石の力……なのかしら』

 

『……進もう。この先に何があるのか、確かめる』

 

『……わかった』

 

私は、手に握っていた石を元の位置にはめ込み、中蓋を戻した。

その上から裏蓋を閉じる。カチッと音がして、蓋が確かに噛み合った。

すると鼓動が再び、懐中時計の内側を震わせ始めた。

 

大佐は帽子を被り直した。

一度だけ息を整え、白い扉に手をかける。その動作が、さっきよりもゆっくりになる。

 

扉が開く。

 

 

 

 

次の部屋は、狭かった。

さっきと同じ深い紫色の壁と天井、床に囲まれている。入口からでも奥の壁が見えるほどで、空気の逃げ場がない。

 

足を踏み入れた瞬間、雨音が遠のいた。代わりに、呼吸と衣擦れがやけに大きく聞こえる。

通路は細く、三人が並ぶには窮屈だ。肩が触れそうな距離で前へ進むしかない。

 

狭い通路の奥に、縦長の水槽が立っていた。

あの時、私が過去の記憶の中で見た、クリオネが展示されていた水槽。それが、形のまま目の前にある。

水槽の中は暗い。それでも、青白い光が底のほうから薄く立ち上り、確かに水が満ちているのが分かる。

 

水面は静かだった。

揺れていないのに、見つめているとこちらの視界だけが僅かに揺らぐ。

まるで、奥へ引き込まれるための縦穴のように。

 

『ここが……一番奥?』

 

『……そのようだな』

 

『あれは……何かしら?』

 

突如、背筋を刃で撫でられたような寒気が走った。

反射的に息を呑んだ、その次の瞬間。

 

ぴし、と乾いた音がして、水槽のガラスに細い亀裂が走った。

亀裂は迷いなく広がり、ひびの中心がぱちんと弾ける。穴が開いた。

 

光を吸い込む黒い影が、水槽の穴から溢れた。

それは水のようにとめどなく広がり、床へ落ちるより先にこちらへ伸びる。重力を無視して、狙いを定めた指のように。

 

黒い水が足首を舐め、膝を越え、腰へ絡みつく。冷たさが皮膚を刺すのに、濡れている感覚だけが薄い。

衣服の上を滑っているのに、内側へ染み込んでくる。呼吸を奪う圧だけが増えていった。

 

耳元で、吐息の混ざった囁きが落ちてくる。

 

「……壊した。お前が」

 

言葉が胸骨の内側に突き刺さった。

心臓を直接握り潰されるような痛みが走り、胸の奥が灼ける。熱いのに、指先は冷えていく。

 

「奪った。全て」

 

喉が締まる。息を吸っているはずなのに、肺に空気が入らない。

視界の端が滲み、輪郭が剥がれていく。足元の感覚も遠い。

 

「忘れて……赦されろ」

 

囁きが、胸に空いた穴へ流れ込んでくる。

拒めない。塞げない。抗う力だけが抜けていく。身体は凍り付いたように動かず、ただ沈む。

 

目の前で、大佐とクリスさんも同じように黒い水に呑まれていた。

大佐の帽子の縁が傾き、クリスさんの白い指先が一瞬だけ浮かび、それから黒に消える。

三人とも声を上げる余裕すらなく、暗い水の中で、互いの姿だけがかろうじて繋がっていた。

 

『なに……これ……』

 

私はもがいた。

視界の端から闇が這い上がり、まぶたの裏まで黒く塗りつぶされていく。それでも必死に抜け出そうとして、喉を震わせ、声にならない息を吐いた。

 

指先が何かに触れた。

何かは分からない。けれど、そこだけが現実のように確かな硬さを持っていた。

 

私は全力を振り絞り、それを握り込んだ。

 

手の中で、それが揺れている。

規則正しく、ひとつひとつ、刻むたびに動きが掌へ伝わる。

次の瞬間、胸の奥に閉じ込められていた空気が解けた。息が吸える。

 

「もう一度……」

 

吐息の混ざった声が、再び背筋をなぞる。冷たさが骨の内側へ入り込んでくる。

私は大きく息を吸い込み、叫ぶように言い放った。

 

『勝手なこと言うな!!』

 

濁った視界が、ほんの少しだけ晴れる。

黒い膜の向こうで、青い光がまだ消えていないのが見えた。

 

『何でもかんでも! 全部私のせいにして!』

 

声を叩きつけるたび、胸を刺していた痛みがわずかに引く。

凍えていた身体が、外側から温まっていく。指先に血が戻る感覚がした。

 

『あの場所にいた全員を救いたかった! 本当は!』

 

喉の奥が熱くなり、涙が浮く。それでも言葉を噛み殺さず、押し出す。

握ったものはまだ掌の中で揺れている。一定の間隔で、私の今を繋ぎ止めてくれるみたいに。

 

『レトロだけじゃない! クリスさんだって! 他のみんなだって!』

 

弱気にならないように、喉を絞った。声が掠れても止めない。

黒い水が、私の腰のあたりで揺らいだ。絡みつく圧が、ほんの僅かにほどける。

 

『だけど! ああするしかなかった!』

 

胸の奥に溜め込んでいたものが、叫びと一緒に外へ流れ出ていく。

痛みが罪の形を失い、ただの熱へ変わっていった。

 

『私が……壊すしか……』

 

言い切れなかった。

目が潤み、歯を食いしばった瞬間、握り込んでいた拳がほどける。掌の感触が抜け、揺れが遠のく。

 

闇がまた、戻ろうとしていた。

 

『スーズ!!』

 

白く鋭い声が飛んだ。

 

『レト……ロ……?』

 

『私が分かるか! 目を逸らすな!』

 

濁った視界の暗闇を裂くように、白い姿がはっきりと見えた。赤い瞳が、私の一番奥まで真っすぐ届く。

 

『……そこに、いるの……』

 

『……お前は、本当に……』

 

その瞳の縁に涙が溜まっているのが分かった。気づけば、体を刺していた痛みが引いていた。

 

大佐は片腕でクリスさんの肩を支え、ぐらつく足を踏み直して立っている。クリスさんも息を整えながら、こちらへ顔を上げた。

 

『スーズ様は……わたくしが守りますわ』

 

二人の背後は、無数の黒い影に埋め尽くされている。それでも互いの肩を支え合い、揺れながらも踏みとどまっていた。

 

『レトロ……! クリスさん……!』

 

私は足に力を入れて立ち上がり、二人へ駆け寄った。触れた瞬間に消えてしまわないか確かめるように、精一杯抱きしめる。雨の冷たさと違う体温が、腕の中に戻ってきた。

 

安堵しかけた瞬間、足元の床が、音もなく沈んだ。硬いはずの感触が抜け、身体が宙へ放り出される。

 

『スーズ!』

 

落ちていく私を見上げる形で、二人が同時に手を伸ばした。大佐の指先が届きかける。クリスさんの白い手が、その少し後ろで揺れる。

 

その時、間にある距離が一気に広がった。

見上げた天井の闇に、ガラスみたいな亀裂が走り、青い光が薄紙みたいにめくれて世界が静かに剥がれ落ちていった。

 

二人の姿は急速に小さくなり、残った青の輪郭に飲まれていく。最後に見えたのは、大佐の赤い瞳だけだった。

 

『……また……会えたのにな……』

 

声が、情けないほど震えた。

 

胸の内側から、堰を切ったように感情が溢れ出す。この水族館に来てからの時間が、ひとつひとつ、遅れて追いついてくる。怖かったことも、嬉しかったことも、守りたかった顔も。

それが私にとってどれほどの重みだったのか、今になって痛いほど分かった。

 

次の瞬間、全身が強く受け止められた。

 

水だ。

 

衝撃で肺の空気が押し出され、遅れて息苦しさが喉を締める。冷たさが肌を刺し、視界がぶわりと揺らいだ。腕を動かそうとしても、水の抵抗が重く絡みつく。

 

私は水の中で、必死に口を開いた。

 

息が、入ってこない。

 

水が喉に流れ込み、咳が弾けた。

咳き込むほど水が入り、肺が焼けるように痛い。

 

腕を掻いても、身体が前に進まない。

どちらが上か分からず、青い光だけが遠のいていく。

 

鼓動だけが耳の奥で大きく鳴った。

 

『レトロ……』

 

声にしたつもりで、泡だけが零れる。

 

視界の端から黒が滲み、手足の感覚がほどけていった。

冷たさも痛みも遠のいて、代わりに、耳の奥だけが妙に冴える。

 

水の向こうから、声がする。

割れて、欠けて、形にならないまま――それでも、呼んでいる。

 

『…ちゃん』

 

次が重なる。少しだけ近い。

 

『…ス…ちゃん』

 

息を吸いたいのか、声に応えたいのかも分からない。

それでも、名前だけが胸の底で引っかかる。

 

『…スーちゃん~…』

 

最後は、輪郭のない呼び声になって流れ込んできた。

 

『ス~~ちゃん~~』

 

その声に引き上げられるように、水の冷たさが途切れた。

喉の奥に残った苦さと一緒に、消毒液の匂いが鼻を刺す。視界に白い光が滲み、耳の奥の水音が薄れていった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。