『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

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14話

 

 

私は、ゆっくり目を開けた。

 

天井。白い壁。薄いカーテン。

そのすぐそばに、ルルの顔があった。泣きそうな目なのに、笑おうとしている。

 

「スーちゃん……! よかったぁ……」

 

返そうとして、声が喉で引っかかった。唇が乾いて、舌が重い。

それでも指先だけは動いたらしく、ルルが息を呑む。

 

「今、動いたかも……!」

 

その横に、大佐が立っていた。帽子のつばが影を落としているのに、赤い瞳だけが真っすぐこちらを刺してくる。

反対側ではクリスさんが寝台の縁に手を添え、胸の上下を小さく整えていた。

 

「……ようやく目覚めたか。死に損ない」

 

突き放すみたいな言い方なのに、最後だけ、わずかに震えて聞こえた。

帽子の影で表情は読めない。それでも視線だけは逸らさない。

 

「……スーズ様……」

 

喉が鳴る。

言葉より先に、胸の奥のざわめきがせり上がってきて、視界が滲んだ。

 

そのとき、廊下の足音が近づき、扉が勢いよく開いた。

 

「ドクター、早く! スーズが目を開けたの!」

 

キティの声に続いて、ドクターが入ってくる。視線が一瞬で寝台へ落ち、次いで三人の位置を確かめるように動いた。

 

「……スーズ、気分はどうだ」

 

ルルは私の手を離さない。キティは肩で息をしながら、ドクターのすぐ横に立つ。

大佐とクリスさんはその場を動かず、私が戻ったことだけを確かめるように静かに見下ろしていた。

 

「無理しないで、スーちゃん……」

 

ルルの指が、私の手をぎゅっと握り直す。

その温度が確かで、胸の奥に溜まっていたものが少しだけほどけた。

 

「ん……」

 

返事は掠れて、喉の奥に貼りついた。

それでも息だけはゆっくり吸える。頷こうとして、首が思った以上に重いことに気づく。

 

「見た感じ、問題なさそうだな。また何かあったら呼べ」

 

「……わたくしも、外でお待ちしていますね」

 

「あ、ちょっとクリス! 待ちなさいよ! まだ話は終わってないんだから!」

 

部屋の中の足音が、ひとつ、またひとつ、順番に外へ向かっていった。

 

「スーちゃん……また、来るからね」

 

ルルが名残惜しそうに、私の手から指をほどく。

離れていくぬくもりが怖くて、咄嗟に呼び止めたくなる。

 

「ルル……ありがと」

 

喉の奥が痛いのに、その言葉だけははっきり出た。

ルルの目が一瞬大きくなって、すぐに照れたみたいに細くなる。

 

「……どういたしまして」

 

ルルは立ち上がり、扉の前へ立った。そして微笑んだまま振り返り、病室を後にした。

 

「ドクター、僕の『ウルトラハイパー入眠性☆ダンボちゃん特製いい夢見れる眠り薬』どうだった?」

 

「ダンボ。今回はどうしようもなくお前の薬に頼ったが……まあ、感謝している」

 

「ふふん。そうでしょ。やっとドクターも僕のこと認める気になったかな?」

 

廊下から、にぎやかな声が遠ざかっていく。

 

「……スーズ」

 

大佐は帽子のつばを深く下げた。顔を隠したまま、私の枕元へ一歩近づく。

 

「待って」

 

言った瞬間、自分の声が震えているのが分かった。

大佐の肩が、ほんのわずかに止まる。

 

「それを言うのは、私の方」

 

言葉の端が掠れて、うまく強がれない。

それでも、今だけは目を逸らしたくなかった。

 

「……おかえり。レトロ」

 

帽子の影の奥で、息を呑む気配がした。

次いで、ごく小さく肩が落ちる。張っていたものがほどけたみたいに。

 

「……ただいま」

 

大佐の手が、私の頬に触れた。涙がこぼれ、震える手袋にしみ込んでいく。

 

「……泣いてるの」

 

掠れた声で、私は言った。

大佐はすぐに手を引っ込め、つばを押さえながら背を向ける。帽子の影に顔を沈めるようにして、呼吸を一度だけ整えた。

 

「……お互い様だろう」

 

帽子の影に隠れた横顔が、少しだけ強ばっている。

 

「……素直じゃないんだから」

 

そう言って笑おうとしたのに、声の端がまだ震えていた。

私は頬を拭い、大佐の背に向けて、短く息を吐く。

 

大佐は振り向かないまま、帽子のつばを押さえた指先だけを少し緩めた。

それが返事の代わりに見えて、私はそれ以上言えなくなる。

病室の外の声は遠のき、残ったのは、呼吸と、時計の小さな刻みだけだった。

 

 

 

 

病室の会話がひと段落して、私たちは水族館の職員用スペースに集まっていた。

消毒液の匂いがまだ鼻の奥に残っているのに、ここでは潮の気配が混じる。壁のどこかで配管が低く鳴り、遠くの水音が一定の間隔で響いた。

 

ここに至るまでの経緯は、すでに一度、互いにかいつまんで共有している。

誰がどこで目を覚ましたのか、何を見て、何を聞いたのか。細部を辿ればきりがないから、今は要点だけを揃える――そんな空気が、椅子の軋みや呼吸の間に沈んでいた。

 

ルルは椅子の端を握りしめ、キティは落ち着かない足で床を擦っている。

大佐は帽子のつばに指を添えたまま黙り、クリスさんは背筋を正して私の隣に座っていた。誰も口には出さないのに、全員が同じ一点――「なぜ戻れたのか」へ意識を寄せているのが分かる。

 

ドクターは皆の顔を順に見渡し、短く息を吐いてから口を開いた。

 

「……そこでだ。俺はひとつ、仮説を立てた。あの空間はたしかに消滅したが、このビアンカ水族館の意思が、消えた俺たちをここへ引き戻したのではないかと」

 

ドクターの言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が一段重くなる。説明がつかない、という結論だけが先に胸に残った。

 

「でもそれじゃあ、あまりに非科学的じゃない?」

 

クリスさんの声は軽く聞こえるのに、突くところは鋭い。私は思わず息を浅くして、次の言葉を待った。

 

「それは認めるが……もはやそうでもなければ説明がつかない。そもそもクリーピーという存在自体が非科学的という話にもなってしまう」

 

反論を封じるみたいに、ドクターは淡々と言い切った。机上の理屈じゃ追いつかない現実が、いま目の前にある。

 

「待て。それなら、私だけが遠い場所で再び生まれた話はどうなる」

 

大佐の声が少し硬くなる。あの浜辺の話が出ると、空気がまた揺れる気がした。

 

「……大佐がいたのは、どこの海岸なの?」

 

口にした瞬間、胸の奥がざわついた。場所が分かれば、偶然か必然か、どちらかに寄る。

 

「たしか……○○海岸だと、通りがかった男が言っていたな」

 

その地名を聞いた途端、記憶の匂いが立ち上がる。潮の気配と、波の音が、ほんの一瞬だけ耳の奥に戻った。

 

「そこ……私がルルと一緒に海を眺めてた場所」

 

言ってしまってから、喉が少し締まる。重なるのが怖いのに、重なってほしい気持ちもあった。

 

「うん。○○海岸なら、スーちゃんとルルもたまに行くよね」

 

ルルは当たり前みたいに頷く。その「当たり前」が、逆にこの状況の異常さを際立たせた。

 

「そうだったのか……」

 

大佐の声が、わずかに落ちる。知らなかった事実が、静かに刺さったみたいに。

 

「レトロ。お前は、スーズの持つ懐中時計に引き寄せられたのかもしれないな」

 

懐中時計、という単語に指先が反射で強ばる。あの針音が、また胸の内側で鳴り始めそうだった。

 

「あ、そういえば大佐。ポケットの青い包みは?」

 

言いながら、私は大佐の上着の内側に目をやった。あの青い布は、ずっと気づかないふりをしていたものに見えたから。

 

「ん?ああ……」

 

大佐は上着の内側に指を差し入れ、青い布包みを取り出した。指先で結び目をほどく動きが、妙に慎重だ。

ほどけた布の中から、硬い感触が転げ出る。掌に落ちたそれは、場違いなほど軽い。

 

包みを開くと、そこには……カエルのキーホルダーが入っていた。

 

「……なんだこれは」

 

一拍、沈黙が落ちる。ドクターの眉がわずかに動き、ルルが「え?」と小さく息を漏らした。

私はキーホルダーを見つめたまま、困惑と可笑しさの間で口元を揺らす。こんなものが、あの青い包みの中に……

 

「あら?レトロ、今ごろ開けたの?」

 

クリスさんの声には、知っていた響きが混じっていた。私はその温度差に、いっそう状況が現実だと思い知らされる。

 

「……まあ、無事に帰って来れただけ良しとするか」

 

「うふふ。『貴方が無事に帰ってこられるためのお守り』って、あの時言ったでしょ?」

 

そう言って、クリスさんはいつもの顔で微笑んだ。

 

大佐はそれ以上深追いせず、カエルを布に戻して包み直した。

けれど指先だけが、ほんの少しだけ名残惜しそうに、緑の輪郭をなぞっていた。

 

私ははっとして、懐中時計を取り出した。もう動いていない。裏蓋を確かめても、あの時の切り欠きはどこにもなかった。

 

 

 

 

扉を出た瞬間、空気が少しだけ軽くなった。薬品の匂いと静けさが遠のき、代わりに館内のざわめきと、人の気配が押し戻してくる。

 

足音が近づいてくる。次の瞬間、駆ける勢いのまま、声がぶつかった。

 

『あ!おいスーズ!終わったら連絡しろって言っただろ!今まで何してたんだよ!』

 

ニコだ。肩が上下している。怒鳴りつけるくせに、視線だけは私の顔から離れない。

 

『ごめん。話が長引いた』

 

それ以上は出てこなかった。口を開けば、余計なものまでこぼれそうで。

 

『ふん、別にいいし。お前がいない間にイルカにも乗せてもらったし、ご飯も食べたし、お土産も先に買ってもらったしな』

 

そっぽを向いて、早口で並べ立てる。なのに、言い終わるたびにこちらを盗み見るみたいに一瞬だけ目が戻る。私は息を吸って、喉の奥に引っかかったものを飲み込んだ。

 

『ニコくんは元気だね~』

 

ルルの声が挟まって、張っていた糸が少しゆるむ。私もようやく、息を吐けた。

 

『あ、あの……ニコの相手をしてくれて、ありがとうございました……それに、あんなこと言っちゃって……』

 

キティが小さく頭を下げる。声が揺れている。俯いた髪の隙間から、目だけが落ち着きなく動いた。

 

『うふふ、キティちゃん。これくらいお安いご用よ』

 

クリスさんが柔らかく笑って受け止める。笑い方が崩れないのが、逆に眩しい。ここだけが、何事もなかったみたいに整っている。

 

私はみんなの顔を一度ずつ追った。目が合う。頷きが返る。ルルの指が私の袖を掴み、すぐに離れる。キティの肩がようやく少し下がる。視線を戻した先に、ニコがまだいる。

 

『ルル。戻る前に……ちょっとだけ、大佐と話してきてもいいかな』

 

言いながら、通路の奥へ目をやった。さっきまでいた部屋とは違う、ひとつ隔てた空気がある。そこだけ、音が吸われているみたいだった。

 

『え?レトロさんと?』

 

ルルが目を丸くする。返事を待つ間の短さが、逆に長い。

 

『うん』

 

頷くだけで済ませた。口を足せば、足元がずれる気がした。

 

『その必要はない』

 

返ってきた声は、思ったより近い。大佐が通路の陰から姿を見せる。視線が真っ直ぐで、硬い。

 

胸の奥がひやりとする。言葉の形が、こちらに伸びてくる前に切られたみたいだった。

 

『うふふ。わたくしたちも、失礼いたしますわね』

 

クリスさんが、場の角を撫でるように微笑んだ。誰かに断るというより、自然に余白を作ってくれる声だった。

 

『あら、レトロに、クリスちゃん。おかえりなさい』

 

別の方向から、同じ名前の声が重なる。振り向くと、そこにもう一人のクリスさんがいた。さっき隣で笑っていた余裕とは違う温度で、当たり前の顔をして迎えてくる。

 

同じ顔が並ぶ。目が一度、迷ってから落ち着く。ざわめきだけが、何事もなく流れ続けていた。

 

『大佐。もう、ドクターの話は終わったの?』

 

大佐の肩がわずかに下がる。力が抜けたというより、抜いていい場所を見つけたみたいに。

 

『ああ。お前たちのもとへ早く行けと言われているようだった』

 

そう言いながら、大佐は視線を一度だけ私に寄せた。責めるでも、慰めるでもない。促す温度だけが残る。

 

『レトロ。ちょっとだけクリスちゃんとお話させてもらえる?その間、みんなを頼むわね』

 

その声は、通路のざわめきの上にきれいに乗った。クリスさんは迷いなく一歩前へ出て、大佐の正面に立つ。頼む相手は大佐なのに、視線は私たちを一度だけ確かめてから戻っていった。

 

『わ、わたくし……ですか?』

 

呼ばれたのが自分だと気づいて、もう一人のクリスさんが瞬きを増やす。足が止まり、指先が宙で迷う。私の隣でルルが小さく息を吸い、キティの肩が硬くなるのが分かった。

 

『ええ、お任せください』

 

大佐は頷き、私たちと通路の奥の間に立つ位置取りで、半歩だけ前に出た。ニコの視線が大佐へ移り、尖っていた口が少しだけ引っ込む。

 

『ありがとう。クリスちゃんも、お時間いいかしら?』

 

クリスさんは返事を受けてから、今度はもう一人のクリスさんへ向き直る。呼び方と間の取り方だけで、相手の輪郭が別のものになる。

 

『は、はい……構いませんが……』

 

背筋を正したまま頷く。了承の言葉なのに、声がわずかに上ずって語尾が揺れた。視線が一度だけ落ちて、すぐに戻る。

 

『緊張しないで。怖い話じゃないわ』

 

微笑んだまま、クリスさんは歩幅を合わせるように隣へ寄る。慰める調子なのに、「怖い」という音だけが、妙に耳の奥に残った。

 

私は大佐の背中越しに二人を見送りながら、ルルとキティが通路の流れに飲まれない位置へ、足を半歩ずらした。

 

 

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