『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

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15話

 

 

廊下を歩きながら、クリス様はわたくしの半歩先を進んだ。館内のざわめきは遠く、足音だけが一定の間隔で響く。

すれ違う魚頭の視線が一瞬こちらへ向いて、すぐ逸れる。そのたびに、わたくしは肩を引き、姿勢を整え直した。

 

『急にごめんね。大事な話があるの。着いてきて』

 

振り返らずに言われたのに、声だけが背中側へ回り込んだ気がした。柔らかな声音のまま、言葉が歩調を決めて、わたくしを前へ運んでいく。

 

『何の……お話なのでしょう』

 

問いかけた瞬間、喉がひりつく。返事そのものより、返事が来るまでの数歩が長い。わたくしは歩幅を合わせることだけに集中して、呼吸の乱れを飲み込んだ。

 

『うーん、そうね。その場所で、お話ししましょうか』

 

クリス様は少しだけ首を傾け、曖昧に笑った。廊下で口にする内容ではない、とそれだけで分かる。わたくしは小さく頷き、指先を握ったまま離せなかった。

 

しばらく歩いても、核心は出てこなかった。曲がり角を二つ過ぎ、空調の冷気が肌に当たり続ける。沈黙が伸びるたび、靴底の音だけが目立っていく。耐えきれず、わたくしは口を開いた。

 

『……わたくしの……名前についてでしょうか……』

 

声が乱れないようにしたつもりだったが、語尾がほどけた。言い終えた瞬間、胸の奥で何かが小さく縮み、息が短くなる。

 

『……うん。でも、怖がらなくても大丈夫』

 

クリス様が、立ち止まった先にある扉を示した。見慣れたはずの扉なのに、その日は取っ手までが遠く見えた。

 

扉の向こうへ足を踏み入れる。紙と木の匂い、掃除で馴染んだワックスの気配が、いつものまま残っている。

けれど、閉められた扉の音が背中で鳴った瞬間、廊下の空気が途切れた。

 

『……館長室、でございますか?』

 

確認する声が、自分でも思ったより高い。机の角や棚の背表紙が、やけにくっきり見える。

 

『ええ。貴方が毎日、お掃除してくれてる場所ね』

 

クリス様は室内を一度だけ見回し、わたくしの方へ視線を戻した。その言い方に押されて、息がひとつ長く抜けた。

 

『はい……もしかして、隣の部屋のことですか』

 

言いながら、自然に壁際へ視線が走る。館長室の隣に、小さな扉があることをわたくしは知っている。掃除のたびにそこを拭くのに、鍵穴は沈黙したままで、鍵はどこにもなかった。

触れるほど、指先に「ここまでだ」と線が引かれる気がして、わたくしは長い間、見ないふりを続けていた。

 

『そうよ。貴方はきっと、これをずっと探していたでしょう?』

 

クリス様が手のひらを開いた。金属の小さな光が、照明を受けて薄くきらめく。鍵だった。指先が反射で動きかけ、わたくしは手を腿に押しつけて止めた。

 

『これは最初から、貴方の物よ』

 

クリス様が鍵を取り出し、わたくしに手渡した。掌に乗った瞬間、思ったより冷たく、重い。重さがそのまま、指の付け根へ沈み込む。

 

『本当はレトロが帰って来たら渡そうと思ってたのだけど……ごめんなさい。スーズちゃんの件もあって、渡すのが遅れちゃったわね』

 

さらりと言われたのに、「遅れた」という音だけが耳に残った。わたくしは鍵を握り直し、指先の冷えを確かめるように息を吸う。

 

『い、いいえ……ありがとうございます』

 

お礼を言うしかなかった。口にした瞬間、声がわずかに震え、わたくしは唇を噛んで整えた。

 

『それじゃあ、入りましょうか』

 

クリス様の声が柔らかく落ちる。促され、わたくしは隣の扉の前へ立った。鍵穴は静かで、こちらの手元だけを見ているようだった。

 

わたくしは鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回した。ドアノブの中で重い金属音が響き、錠が外れる。

ノブに手をかけたところで、暗い水の匂いがふいに蘇る。ひとりで立っていた感覚、呼ばれない時間。

けれど今は、背中に人の気配がある。わたくしは肩を落とさず、指に力を入れた。

 

扉が軋んで開く。

 

『ここは……』

 

言葉が勝手に漏れた。中は館長室の半分もないほどの狭さで、空気がうっすら曇っている。光が届きにくい角に埃が薄く積もり、触れていない時間だけが残っていた。

 

『ここはね。資料室に移動させる前のアルバムや資料が置いてある場所なの』

 

クリス様は棚に指を滑らせ、平積みされたアルバムの埃を軽く払って広げた。紙の擦れる音が、狭い部屋の中でやけに大きい。

 

そこには魚たちの写真が収められている。どれもわたくしの見たことのないものだった。知らないはずなのに、ページをめくるたび、指先が一拍遅れてついてくる。

自分の知らないビアンカ水族館が、確かにここにあった。

 

『懐かしいわ……あの人がいた頃を、思い出すわね』

 

クリス様の声が、ほんの少しだけ沈む。アルバムの上を滑る指先が、写真の角で止まった。埃を払う動きは丁寧なのに、そこだけ、手がゆっくりになる。

 

わたくしはページの中の魚たちを見つめたまま、相槌を探して口を閉じた。紙の匂いとインクの色が近く、胸の奥へ届く。

指先に力が入り、ページの端がわずかに撓んだ。

 

クリス様は小さく息を吐いて、次のページをめくる。写真に収められた水面の光が、薄暗い部屋の中で妙に眩しく見えた。

 

喉がまた乾く。「あの人」という言葉だけが先に落ち、名前のないまま残った。

 

『……あった』

 

クリス様の声が少しだけ低くなった。見つけたページを開いたまま、わたくしへ差し出す。

 

アルバムがわたくしの手元へ移る。視線が吸い寄せられ、指が勝手に写真の縁をなぞった。

 

『……これは……わたくし、でしょうか』

 

クリオネの写真だった。笑ってはいない。けれど今よりも、もっと何も知らない目をしている。

 

『ええ』

 

短い肯定で、部屋の空気が固まる。写真の隅にマジックで日付が書かれている。それを見た瞬間、レトロと出会った日のことが、輪郭だけ先に浮かぶ。

言葉の温度、差し出された手の距離、呼ばれた名前。まだ、全部が新しかった日。

 

『その写真……取り出して、裏面を見てみて』

 

クリス様の指先が、写真の角をそっと示した。わたくしは頷き、台紙を傷つけないように慎重に写真を抜き取る。紙が離れる感触が、乾いた音として指に残る。

 

裏返した。

 

『……館長は、私へのプロポーズが上手く行ったら、貴方に名前を付けようとしていたみたいなの』

 

言葉が静かに落ちる。説明というより、しまってあった手紙を机の上に置かれたみたいだった。

 

裏面には、塗りつぶされた名前がいくつも並んでいた。黒が重なり、迷いの跡だけが濃い。けれど『クリス』の文字だけは消されていない。小さく下線が引かれていて、最後にそこへ決めたのだと分かった。

 

視界が滲み、写真の文字が揺れた。息を吸おうとして、喉の奥が詰まる。わたくしは口元を押さえ、声が漏れないように肩を丸めた。

頬を伝うものが、止まらない。

 

あの時、この石に願ったまま置いてきたものが、今になって指先へ戻ってくる。逃がさないまま、息と一緒に崩れていく。

 

今になって差し出されたのに、胸の奥の空白が勝手に埋まっていく。肩の力が抜け、膝がわずかに揺れた。

 

『……クリスちゃん。ずっと、寂しかったでしょう……ずっと、ひとりで過ごして』

 

クリス様がわたくしを優しく抱き寄せた。腕の中で、震えが細かく続く。わたくしは頷くしかなく、首の付け根に熱が集まった。

 

『……はい……』

 

絞り出した声は掠れて、言葉になりきらない。それでも、音として外へ出た。

 

『今まで我慢した分、ここでいっぱい泣いて。私が見ていてあげるから』

 

その言葉で、息がほどけた。押し込めていたものが、呼吸のたびに外へ溢れる。

わたくしは写真を握りしめたまま、堪えるのをやめた。

 

 

 

 

日が落ちて、展示室の人波が薄くなっていく。照明は水面の揺れを強く映し、床に波紋みたいな影を落としていた。空調の低い唸りと、どこかの水槽から響く濾過の音が一定のリズムで続く。

足音はさっきより遠くまで響き、天井の高い空間に吸われていった。

 

私たちは、その静けさの中で今日の続きを歩いていた。売店の明かりが遠くに滲み、館内放送が流れる気配もない。通路を曲がった先で、空の大水槽が視界に入る。

青い照明が水を底から照らし、満ちた水だけが静かに発光していた。生き物の影はない。なのに、水は水のままそこにいて、器としての存在感だけが残っている。

足が自然に止まり、呼吸だけが遅れた。

 

『もうこんな時間か。人も減るわけだな』

 

大佐の声が、いつもより小さく響く。壁にかけられた時計の針は十九時を指していた。

 

『キティちゃんとニコくんは、まだ帰らなくても大丈夫?』

 

ルルがのんびりと首を傾ける。

 

『ええ。今日は遅くなるって、家に連絡入れてあるから』

 

キティはあっさり言って、肩をすくめた。けれど視線は通路の奥へ一度だけ泳いでから戻る。

 

『そうなんだ~。ならもう少し、一緒に居られるね~』

 

ルルの声が柔らかく落ちた瞬間、ニコの気配が跳ねた。空気を蹴って前へ出るみたいに、大佐へ向き直る。

 

『お、おいお前』

 

『なんだ』

 

大佐は短く返し、視線だけでニコを受け止める。

 

『お、お前……スーズの何なんだ』

 

言った途端、ニコの目が揺れる。自分の言葉に自分で驚いた顔だ。

 

『……何と言われてもな』

 

大佐は困ったように眉を寄せる。言葉を選ぶ沈黙が、妙に重い。

 

『スーちゃんの隣に、居たいよね。ルルにも、その気持ちすっごくわかるよ~』

 

ルルが笑顔で頷いた瞬間、

 

『こら、ニコ。アンタいい加減にしなさい』

 

キティの手刀がニコの頭に落ちた。乾いた音がして、ニコの頭がわずかに揺れる。

 

『いて』

 

短い悲鳴が、水槽前の空気を少しだけ軽くする。

 

私は黙って水槽を見ていた。ガラスの向こうは暗く、光が泳いでいるだけで、何もいないように見える。

それでも視線が外れなかった。揺らぎだけが残り、そこに“空ではない場所”を作っている。

 

『そんなこと言ってないで、展示に集中しなよ』

 

私が言うと、ニコが勢いよく振り返る。

 

『姉ちゃん!なにすんだよ!』

 

『うるさいわね。静かに展示を見なさいよ』

 

自分の声が硬く出た。言葉で距離を作るみたいに。

 

『でもこの水槽、何もいないじゃんかよ!』

 

ニコが水槽を指さす。指先はガラスの直前で止まった。

 

『……いるよ。よく見て』

 

私の声だけが静かだった。

 

『え?どこだよ?』

 

ニコの目が水槽の中を走る。岩陰も、底も、上も。けれど、暗さと揺らぎだけ。

ニコの息がガラスを薄く曇らせた。

 

『……』

 

私は答えずに、同じ一点を見続けた。

 

『……スーズ?本当になんかいるのか?』

 

勢いの消えた声だった。

 

『……さあね。ニコも、大人になったらきっと見えるよ』

 

視線は逸らさないまま言う。

 

『お、お前だってまだ大人じゃないくせに……』

 

言い返しはしたけど、声はもう強がりに寄りきらない。

 

『さ、二階に行こ。波の水槽見に行きたいし』

 

私は左へ向き、売店の灯りが見える方向へ歩き出した。

 

『うん、行こ行こ~。ルルも、波の水槽見たいかも~』

 

ルルがすぐ後ろをついてくる。

 

『あ!待てスーズ!』

 

ニコが駆け出し、靴底が床を叩く音がぱたぱたと続いた。

 

『ニコ、走らないの!転ぶわよ!』

 

キティが追いかけるように足を速めた。

 

背後で、ほんの少しだけ間が落ちる。

私は階段の手前で立ち止まり、振り返った。まばらな人が行き交う中、大佐は最後まで水槽に手を当ててガラス越しの暗がりを見つめていた。指先だけが動かず、何かの温度を確かめるみたいだった。

指先の下で、ガラスが薄く冷えている。その向こうにあるのは水だけのはずなのに、確かめるように手を離さなかった。

 

 

 

 

『……』

 

言葉にしようとして、喉がうまく動かなかった。視界の端がまだ滲んでいて、瞬きをするたび、頬のあたりが熱いままだった。指先で目の下を拭うと、湿り気だけが残り、呼吸だけが少し遅れて整っていく。

 

『落ち着いた?クリスちゃん』

 

クリス様の声は、いつもより低くて静かだった。わたくしは小さく頷き、もう一度だけ目元を押さえてから顔を上げる。

 

『はい……』

 

返事の最後が掠れた。けれど、クリス様は責めるような顔をしない。目を細めて、椅子の背に軽く体重を預けた。

 

『良かった。……スーズちゃんたちは今頃どうしてるかしらね』

 

壁の時計に視線が移る。針は二十時を少し回っていた。外はもう暗いはずなのに、この部屋の明かりは白く、消毒液の匂いだけが薄く残っている。

 

『……きっと今頃、帰り道ですわ。ルル様とキティ様を先に落ち着かせて、無事に帰れるように……それだけを考えて、急いでいるはずです』

 

口にしながら、わたくしは指を揃え直した。

 

『どうかしらね。ひとり、気が気じゃない人が混ざっていそうだけど』

 

クリス様は困ったように笑って、けれど笑い切らずに息を吐いた。わたくしの指が、膝の上で無意識に強く握られる。

 

『……行ってあげて。あの子を……レトロを、救ってあげて』

 

頼みというより、預ける声だった。

 

わたくしは背筋を伸ばし、深く息を吸う。頷くと、息の向きがひとつに揃った。

 

『……はい。ありがとうございました』

 

立ち上がると、椅子の脚が小さく鳴った。扉へ向かう数歩で、足音が落ち着いていく。取っ手に手を掛けて最後に振り返ると、クリス様は何も言わずに頷いていた。

 

そうして、わたくしは部屋を出た。

 

 

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