『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

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16話

 

 

水族館の最寄り駅は、海沿いの道を少し歩いた先にあった。

街灯の輪が途切れ途切れに伸び、足元のアスファルトが鈍く光る。波の音が背中側で一定に鳴り、風がコートの裾を引いた。

 

駅の入口が見えてきたところで、キティがふと思い出したみたいに顎を上げた。歩きながら、スマホを持っていないほうの手で私を指す。

 

『あ、スーズ。アンタ、LIMEくらいすぐ返しなさいよ』

 

私は返事の代わりに鼻で短く息を吐いて、ポケットの中のスマホを指先で押しやる。取り出しはしない。

 

『えー。返事したらすぐ返してくるじゃん』

 

『それが会話でしょ。まったく』

 

キティは歩調を落とさず言い切る。私は一度だけ頷く。

 

『冗談。次からは、なるべく返す』

 

改札の前まで来ると、駅の明かりが頭上から落ちてきて、海側の暗さが背後へ押しやられる。ICの読み取り音が規則的に鳴り、人の流れが肩をかすめていった。私はそこで足を止め、ルルも隣で立ち止まる。

 

『じゃあ、私たちはここで』

 

『ん、アンタたちはまだ残るの?』

 

キティが振り返る。

 

『うん。ちょっとだけ、海を見ようと思って』

 

『そう……あ、いけない。電車の時間に間に合わなくなっちゃうわ』

 

キティは電光掲示板を見上げ、視線を戻すとすぐ改札側へ体を向けた。

 

『キティちゃん、ニコくん。また一緒に来ようね~』

 

ルルは大きなウミウシのぬいぐるみを抱えたまま、片手をゆっくり振った。

 

『ええ。じゃあね、スーズ、ルル。また誘うわね』

 

ニコが一歩前に出て、私のほうへ言葉を投げてくる。

 

『スーズ。今度俺んちに来い。ケーキ買いに』

 

私はニコの頭の高さに合わせて少しだけ身を屈め、手を軽く上げた。

 

『ルルと行くよ。近いうちに』

 

『よし、姉ちゃん、走るぞ!』

 

『あ!待ちなさいニコ!』

 

ニコは改札を抜けて階段を上がり、キティも追いかけて上へ消えた。足音が段を踏むたび、金属の響きが短く跳ねる。

 

私たちは改札を離れて駅の出口へ歩いていく。自動ドアが開くと風が一気に入り込み、髪が頬に触れた。私は襟元を押さえ、短く息を吐く。

 

『はーあ。やかましかった』

 

『にぎやかで楽しかったね~』

 

出口を抜けると駅の音が薄まり、波の音が近づく。

 

『……スーちゃん、レトロさんに挨拶しなくて良かったの?』

 

ルルはぬいぐるみを抱え直してから、こちらを見た。私は返事をする前に改札の方向へ視線だけ戻し、それから海側へ向け直す。

 

『うん。別に来ようと思えばすぐ来れるし』

 

駅を後にし、浜辺に向かって歩き出した。街灯の輪から外れるほど、足元の砂の気配が増えていく。

 

 

 

 

駅の明かりが背中で小さくなり、足元がアスファルトから砂に変わった。

靴底が沈むたび、乾いた粒が擦れて音を立てる。波は暗い向こうで砕け、引く音が一定の間隔で戻ってくる。潮の匂いが、息を吸うたび喉の奥へ入ってきた。

 

星は多い。雲は薄く、ところどころがにじんで見える。

私は波打ち際の手前を選んで歩いた。濡れた砂の境目は黒く、足を寄せると冷えが靴の縁を叩く。

 

『スーちゃん』

 

『うん?』

 

ルルは海のほうを見たまま、歩幅を合わせてくる。

 

『ひさしぶりの水族館、楽しかったね~』

 

『うん』

 

『ルル、とっても幸せかも』

 

『うん』

 

ルルは少しだけ顔を上げ、私の横顔を覗く。

 

『スーちゃんは……幸せ?』

 

私は波の白い筋を追って、返さない。波がもう一度寄せたところで口を開く。

 

『……うん』

 

『そっかあ。じゃあルルも、もっと幸せ~』

 

『……ルル』

 

『スーちゃん?』

 

私はポケットの上から懐中時計を指先で押さえ、一度だけ肩を落とした。

 

『……ありがと。ずっと、近くにいてくれて』

 

ルルは小さく笑って、歩きながら袖口を揺らした。

 

『えへへ~。それは、スーちゃんも同じかも~』

 

『……そうだね』

 

波音に混じって、砂を踏む別の足音が重なる。

視界の奥、街灯の届かない砂浜に影がひとつ立っていた。輪郭だけが揺れて、すぐこちらへ向き直る。

 

『あ、スーちゃん、誰かいるみたい』

 

影は気づいたように歩いてくる。砂の上でも歩調が崩れない。近づくほど、帽子の形が分かった。

 

『……やはりお前たちだったか』

 

『大佐。どうしてここに』

 

大佐は私たちの横まで来て、足を止める。視線は海のほうへ流れたままだ。

 

『こうして夜の海を眺めるのが、私の日課なんだ』

 

ルルが一歩だけ後ろへ下がり、私の肩越しに海と砂を見回す。

 

『……スーちゃん。ルル、あっちの座れそうな所にいるね』

 

少し先に流木が横たわっているのが見えた。私は頷く。

 

『うん。ありがとう』

 

ルルはぬいぐるみを抱え直し、手をひらひらさせて暗いほうへ離れていった。足跡が、波打ち際から少し離れた砂へ続いていく。私は揺れるぬいぐるみのシルエットを見送った。

 

大佐は海のほうを見たまま言う。

 

『……もう夜も遅い。帰らなくていいのか』

 

『平気。明日も休みだし』

 

大佐は一度だけ顎を引き、波の白さを目でなぞる。

 

『……お前は、これからやりたいことはあるのか?』

 

私は砂を一度踏み固め、半歩だけ位置をずらした。

 

『あるよ。私、海の生き物のこと、もっと知りたくなった』

 

『……』

 

大佐は返さない。帽子のつばに影が落ちる。私は続ける。

 

『これから勉強して、海のこと、ちゃんと研究したい』

 

波が砕ける音が一段大きくなって、言葉の切れ目を埋めた。

 

『……そうか。お前らしいな』

 

私は大佐の横へ視線を上げる。海のほうを向いたまま、動かない。

 

『大佐は……これからどうするの?』

 

『ここに残る。誰かが進み方を忘れたときに、立ち止まれる場所を守りたい』

 

私は頷き、足元の砂を靴先で軽くならす。音が小さく鳴り、波音に混じって消えた。

 

『そっか』

 

口にしてから、息をひとつ吐いた。視線を上げきれず、波の白い筋を追って間を置く。

 

『……ねえ、大佐』

 

大佐は返事を急がない。海を見たまま、肩だけがわずかに動く。

 

『なんだ』

 

私は言い出す前に、もう一度だけ砂を踏み直した。踵が少し取られる。

 

『また、来るね』

 

大佐は少しだけこちらへ顔を向け、すぐ海へ戻す。帽子のつばが風に揺れ、視線だけが波の方へ落ちたままだ。

 

『いつでも来い。私はここにいる』

 

『……ありがと』

 

『気をつけて帰れ。もう、溺れるなよ』

 

『うん』

 

私は一度だけ頷き、足元の濡れた砂へ視線を落とした。波が引く音が近づいて、靴の先を冷えがかすめる。

 

『……あ、最後に』

 

私はポケットの中で冷えた金属を探り、掌に出した。

壊れた懐中時計は外側の傷が増えたまま、重さだけは変わらない。私は一度握り直してから、大佐の手に押し当てる。

 

『やっぱりこれは、大佐が持ってて』

 

大佐は受け取って掌の上で裏返す。沈黙がひとつ落ちる。

 

『いいのか?』

 

『うん。私を……ここまで連れて来てくれたお礼』

 

大佐の口元が、ほんの少しだけ上がった。

 

『ふっ……そのお礼が、壊れた時計か』

 

『……うん。いらない?』

 

『いいや。お前がくれた。だから大切だ』

 

そう言って上着のポケットにしまった。布が擦れる音が小さく鳴る。

 

『……レトロ』

 

名前を呼ぶと、大佐の肩が一瞬だけ止まった。

次の瞬間、腕が伸びてきて、私は引き寄せられる。胸元に当たる布が冷たくて、潮の匂いが近くなる。

 

『スーズ』

 

帽子のつばが髪に触れた。私は腕を持ち上げ、背中側へ回す。強くは抱き返さない。ほどけない程度に留める。

 

『また会おうね』

 

『ああ』

 

波の音だけが、会話の隙間を埋め続けていた。

 

 

 

 

足音が遠ざかっていく。

私はその背に声を掛けず、海の方を向いたまま立っていた。波が引くたび、湿った砂が低く鳴る。

上着のポケットの上を指先で押さえる。布越しに、柔らかい輪郭と温もりだけが、指先に残った。

私は息を吐き、踵を返した。海から目を離して、暗い方へ歩き出す。

 

 

 

 

照明が落ちた展示室は、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。

歩くたび、足音が水槽の青い光に混じって反響し、ガラスと水の面を伝って戻ってくる。

 

スーズたちと別れた後、私はいつものように、あの水槽へ向かった。

 

館長がいないことも、あの空間で起きたことも、視線を逸らした瞬間に背中へ貼りついてくる。

それでも確かめるように、足が勝手にここへ来る。

 

水槽の前には、すでにクリスがいた。

 

隣に立っても、彼女は青い光に縁取られたまま、何も言わない。

じっと、水の奥を見つめていた。空であるはずの場所に、まだ何かの形が浮いているみたいに。

 

しばらくして、ようやく彼女の唇が動いた。声は小さく、乾いた展示室にすっと通る。

 

『……クリス様から聞いたわ。館長は、わたくしを「クリス」と名付けようとしてくださっていたの。でも……あの日、館長が亡くなってしまって……それを知るのは、今日になってしまった』

 

言い終えたあとも、彼女は水槽から目を離さなかった。

青い光が頬を薄く照らし、まぶたの縁だけが僅かに震えている。

 

『わたくしは、もう何も知らないままの、名も無きクリオネではいられない』

 

私は唾を飲んだ。口の中が乾き、舌が上手く動かない。吐き出した息が冷たい。

 

『……クリス。ひとつ、はっきりさせたいことがある』

 

彼女はようやくこちらを向いた。瞳は揺れているのに、逸らさない。

 

『お前は今、私を見ているのか』

 

言葉が喉を擦り、少し遅れて声になる。返事を待つ間、指先が落ち着かず、掌の内側が熱を帯びた。

 

『それとも……私の背後を見ているのか』

 

青い光の中で、私の影がガラスに薄く映る。輪郭が呼吸に合わせてわずかに揺れた。

 

『私は、お前の幸福を心から望んでいる。だが……お前が私の過去だけをなぞるのなら、私はここを去らねばならない』

 

言い切った途端、息がひとつ引っかかった。歯の奥が痛む。

 

彼女の肩が、ほんの僅かに沈んだ。小さな動きなのに、目が離れない。

 

『……それが貴方の幸せなら、わたくしは止めないわ』

 

止めない、と言いながら、言葉の端がかすかに揺れる。私の視線は外れない。

 

沈黙が落ちる。水槽の向こうで水流が低く鳴り、泡の細い音が混じった。

 

『答えてくれ。ずっと抑えてきた。お前に触れたいと何度思ったことか……それでも、恐ろしかった』

 

言い終わりきらないうちに息がひっかかった。腕が動く前に、喉の奥が固くなる。

 

彼女は一拍、息を吸った。胸元の布がわずかに持ち上がり、すぐ戻る。

それから、きっぱり言った。

 

『レトロ。わたくしは……貴方の幸福のためなら、命だって差し出していい。それが、わたくしの答えよ』

 

私は瞬きを一つ遅らせた。言葉がそのまま空気に沈み、耳の奥へ残る。

 

彼女は先に踏み込んだ。ためらいを削ぐように、低く、繰り返す。

 

『貴方が選ぶの』

 

クリスが一歩近づいた。体が触れそうになり、思わず腕が少し動いてしまう。

 

クリスはそれを見逃さなかった。私の手を取り、自分の頬に当てた。目を閉じ、ゆっくりと存在を確かめている。

 

その温度が、ガラス越しの冷たさと違うことだけが、やけに鮮明だった。

指先の力が抜け、手の重みが頬へ預けられる。

 

『……貴方が選ぶの』

 

呼吸が浅くなる。胸の奥が熱を拾い、息が追いつかないのに、足は引けなかった。

 

彼女は目を閉じたまま、声を落とした。

 

『……わたくしは、貴方の過去を見ているわ。でも、それは貴方の輪郭を確かめるためよ』

 

頬に当てられた手に、わずかな力が加わる。指先が熱を拾う。

 

『貴方が今ここにいて、こうしてわたくしに触れている。その意味を……確かめたいの』

 

私は目を逸らせなかった。視界の端で、水面の反射が小さく揺れている。

 

彼女はそこで、私の沈黙を見抜くように言った。

 

『……貴方も、同じでしょう?』

 

答えようとして、喉の奥が詰まる。その一瞬の遅れが、そのまま空気に出た。

 

彼女は静かに息を吐き、言葉を鋭くしないまま押し切る。

 

『……貴方のことなら、わたくしは……何でも知っているわ。貴方が知らない、貴方自身のことさえ』

 

その一言が落ちたあと、展示室の音が遠くなった気がした。足元がわずかに浮く。

彼女の指が、私の手を逃がさないまま、ほんの僅かに力を増した。

 

私は顎を一度だけ落とした。

 

『……認めよう。私は、お前の傷ばかりを見ている。お前が報われないことに耐えられず、救うことばかりを考えてきた』

 

唇が乾いて、言葉の切れ目がざらつく。それでも止めなかった。

 

『その傷は私には癒せないと分かっている。それでも私は……あの日からずっと、お前に触れたかった』

 

言い終えた瞬間、肩がわずかに落ちた。代わりに腕だけが熱い。

 

彼女は少しだけ眉を寄せた。

それから、声を揺らさずに言う。

 

『……いつまでも、わたくしの傷に触れていて。わたくしが、わたくしであるために』

 

私は呼吸をひとつ飲み込み、目を閉じかけて踏みとどまった。

頬の温度が、逃げるなと言っている。

 

『……残酷だ。そんなことをすれば、傷が広がっていく。お前も、私も』

 

喉の奥に苦いものが残る。水槽の青い光が、瞳の裏を冷たく撫でた。

 

『それでも』

 

彼女はうなずいた。小さな動きなのに、確かだった。

 

『それでいいの。痛みも幸福も抱えたまま、わたくしは貴方を愛しているから』

 

その言葉に、息が一度止まる。吐くと、震えが少し遅れて出た。

 

私は最後の確認を口にした。声が掠れないように、ゆっくりと。

 

『……永遠に続く苦しみの中で、それでも私を選ぶと言うのか』

 

『ええ。わたくしは、貴方を選ぶわ』

 

返事はすぐに返ってきた。速さが、こちらの躊躇だけを残す。

 

『……わかった。この痛みを抱えながら、私はいつまでもお前と共に在る。そう誓う』

 

言い切った瞬間、私の腕が動いた。私はクリスを抱き寄せた。

 

『クリス……』

 

背中越しに、彼女の呼吸が震えているのが分かった。私の胸も同じように揺れていて、どちらのものか区別がつかない。

 

水の流れの中で生まれた泡が、水面へ上がって行く。

空の水槽の青い光が、僅かに揺れた。

 

 

 

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