『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

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2話

 

 

そこへ足を踏み入れた瞬間、時が止まった。

 

『あら、お客様ですか? 少々、お待ちくださいませ』

 

白い照明が床に落ち、暗い通路とは別世界のように眩しい。水が循環する低い音だけが、一定の間隔で鳴っていた。

彼女はカウンターの中で屈み、何かを探しながらそう言った。

聞き慣れたその声が、私の胸を激しく揺さぶった。

 

ここにいるはずがない。

あの空間で過ごした十二年の記憶が、いまも私の内側を塞いでいる。

 

『……こんばんは。ビアンカ水族館へようこそ』

 

立ち上がり、私の姿を見た彼女は、柔らかく微笑んだ。まるで、初めて会った客に向ける顔だ。

カウンターの上には案内板とパンフレットが整然と並び、受付は営業中の体裁だけを保っている。だが、周囲に客の姿はない。

 

時が、再び動き始めた。

私は受付カウンターへ歩み寄り、彼女の胸ぐらを掴みかけた。指先が届く直前で止まる。触れてしまえば、ここが現実だと認めることになる。それが、恐ろしかった。

 

『あら……怖いですわ。警察をお呼びしましょうか?』

 

『クリス……! なぜここにいる……!』

 

『なぜって……』

 

私は息を飲んだ。次に続く言葉が何であるのか、いくつもの想像が頭を駆け巡る。

 

『やめろ。続きを言うな』

 

私がここまで歩いてきた意味ごと、崩される気がした。私は反射的に、その言葉を遮ってしまった。

 

『……レトロ。ここへ来るのは……初めてよね?』

 

初めてなわけがない。私は以前、この水族館で飼育されていた。私と共に過ごした彼女が、それを知らぬはずがない。

 

『何のつもりだ。まさか、忘れたとは言うまいな』

 

『違うわ。展示される側じゃなくて、鑑賞する立場として――という意味よ』

 

正直、拍子抜けだった。

クリスからは、以前のような不気味さがまるで感じられない。なのに、安心できない。

 

『……』

 

『もしかして、また私が何かを企んでいると思っているの?』

 

『……そう捉えるのが自然だろう』

 

私は忘れていない。私があの場所で生き続けたことで、何が起きたのかを。

もし、ここで同じ悲劇が繰り返されているのなら――私は、それを止めねばならない。

 

『……そうよね。わたくしも、そう思うわ』

 

またこの感覚だ。破けそうな胸の内で、何かが叫んでいる。

 

『ク、クリス……?』

 

『うふふ……どうしたの? 早く行きましょう?』

 

クリスはカウンターの中から深い青のチケットを一枚取り出し、スタンプを押した。乾いた音が、広い受付にやけに響いた。

 

『貴方の分のチケットは、わたくしが用意するわね。貴方は特別ですもの』

 

返事はできなかった。喉が、うまく動かない。

 

『……プレミアムチケットをお持ちのお客様は、バックヤードツアーやイルカとの遊泳体験、年間パスポートへの無料切り替えなど、様々な特典を受けることが可能ですわ』

 

笑顔のまま、クリスは続けた。案内文句だけが整然と口から出てくる。ここに客がいなくても、彼女は手順を外さない。

 

『そして、館長であるわたくし……クリスが、専属で水族館をすみずみまでご案内いたします』

 

言い終わると、クリスはカウンターから外に出て、私の手を掴んだ。

その手は、恐ろしいほどに冷たかった。冷たさが皮膚を越え、骨に触れるような感覚がする。指先から、力が抜けていく。

 

『ま、待て……お前……』

 

『……お客様。本日は……ごゆっくり、お楽しみくださいませ』

 

私は抵抗できなかった。振りほどけばいいはずなのに、身体が言うことを聞かない。

クリスは私の手を引き、暗い通路とは反対の方向へ歩いていった。

 

 

 

 

『ここからは、ご自由に水槽をご覧ください』

 

『……クリス』

 

『はい、レトロ様。なんでございましょう?』

 

『……その薄気味悪い態度をやめろ』

 

『やめろ、と仰られましても……お客様に失礼な態度は取れませんわ』

 

周囲に客の姿はない。店内放送も、笑い声もない。

それでも、水の循環音と潮の匂いだけは、以前と同じようにここにあった。場の気配だけは、何も変わっていない。

 

『それでは、お魚のご説明をさせていただきますね』

 

クリスが、柔らかい笑顔に戻った。水槽の前で立ち止まり、展示札へ視線を落とす仕草を見せる。

 

『……いや、いい。この魚は私も知っている』

 

『あら……失礼いたしました。では、お次はどちらへ向かわれますか?』

 

『奥へ向かう。着いてこい』

 

私は水族館の奥へ歩き出した。

 

『はい、かしこまりました』

 

ただ、私たちの足音だけが響いていた。

背後に、冷たい手の感触が残っている。握られた場所だけが、ずっと冷えていた。

 

 

 

 

『ここか』

 

私は、見上げるほどに大きな水槽の前で立ち止まった。天井まで伸びるガラスの面が、青い光を返している。

水槽の中には、何もない。

水だけが静かに満ち、揺らぎのない青が、異様なほどあるように見えた。空白が、水の形を借りてそこに居座っている。

 

水槽の脇には、展示札の跡だけが残っていた。外されたままの金具が、光を鈍く反射している。

 

『お客様?』

 

『……クリス。さっきの言葉の続きを……教えてくれ』

 

『……お客様がわたくしに、「なぜここにいる」とお聞きになられたことに、お答えすればよろしいのですか?』

 

『答えろ』

 

『……わたくしは……』

 

まただ。またあの感覚だ。

息が浅い。目の前が白くぼやける。耳の奥で、水の音だけが大きくなる。

私は思わず、膝をついた。

 

『貴方のために、ここにいるのよ』

 

ひどく冷えた声が、私の胸を貫いた。

 

私は息を整え、立ち上がって彼女に向き直った。

 

クリスは黙って、こちらを見ている。

 

彼女の目は冷ややかだった。何を言いたいのか、私は瞬時に理解した。

私がここに戻ってきたこと自体が、彼女にとって罪の証拠なのだと。

 

『私は――』

 

答えなければならない、と直感して口を開いた瞬間、クリスが一歩近づき、言葉を割り込ませた。

 

『貴方のせいで、わたくしはここにいるのよ』

 

背筋が凍りついた。

私は反射的に一歩後ろへ下がる。

 

背中が、水槽のガラスに触れた。

ひやりとした感触が、背骨に沿ってじわりと広がる。

 

クリスは黙ったまま、さらに前へ出た。

身体が触れ合った。逃げ場がない距離だった。

 

『……レトロ』

 

彼女の身体は冷え切っていた。

声が出ない。喉が固まった。身体が……動かない。

 

『まだ……わからない? わたくしが、なぜここにいるか』

 

彼女はさらに一歩、前に出た。

同時に、背中に当たっていたはずのガラスが、抵抗を失った。硬い感触が、ぬるりとほどける。

 

私は反射的に、背中へ体重を預けた。

踏みとどまろうとしたが、もう遅かった。

水槽が口を開けている。青い水面が、底へ引きずり込む穴のように見えた。

 

次の瞬間、私は水槽に飲み込まれた。

水は容赦なく私を包み、鼓膜を叩いた。冷たさが肺に突き刺さる。

息を吸おうとして、水を吸った。喉が灼ける。泡が視界を白く裂く。音が遠い。

 

手足が、言うことを聞かない。身体の輪郭がほどけていく。

 

冷たい。

 

『そうか……お前は……こんなにも……』

 

続きが出ない。

言葉が、喉の奥で砕けた。

 

薄れゆく意識の中で、私はここで過ごした日々のことを思い返していた。

 

 

 

 

『なぜ、私を助ける』

 

『貴方に死なれたら困るもの』

 

クリスは私の腕に包帯を巻きながら答えた。

巻き終えたはずなのに、血がじわりと滲む。

 

『手当など必要ない。すぐ治る』

 

包帯を巻く手が止まった。

次の瞬間、彼女は結び目をきつく締め直し、私の腕を逃げない位置に固定した。

 

『だめよ。治るまで、ここにいて』

 

 

 

 

『……なぜ、私を助ける』

 

『貴方に死なれたら困るもの』

 

クリスは私の身体に触れながら答えた。

指先が傷口をなぞった瞬間、遅れて熱い痛みが走り、膝がわずかに沈む。

 

『……これくらい、石の力でどうとでもなる』

 

私は胸元へ手を伸ばしかけた。

傷を塞ぐ手段がある。そう思った瞬間、クリスの手が私の手首を掴み、動きを止めた。

 

『だめよ。その力を使うのは。回数が限られているんだから』

 

 

 

 

『……なぜ……私を助ける』

 

『貴方に死なれたら困るもの』

 

クリスは、私の頭を撫でながら答えた。

視界が暗く瞬きが遅れる。呼吸が浅く、喉の奥で息が引っかかった。

 

『ふん……良いんだぞ。ここで殺しても』

 

頭を撫でる手が止まった。

彼女の指が私の顎に掛かり、顔を上げさせる。逃げる余地のない角度だった。

 

『だめよ。貴方はいつか、わたくしに殺されるべきなの』

 

言い切って、彼女は撫でる代わりに、頭を抱え込むように支えた。肩口が引き寄せられ、顎が上を向いたまま固定される。

私は一度だけ身を捩ったが、動いたのは痛む側だけで、逃げる方向は残らなかった。

 

『だけどそれは、今じゃない。わたくしが許すまで、死なないで』

 

 

 

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