◇
そこへ足を踏み入れた瞬間、時が止まった。
『あら、お客様ですか? 少々、お待ちくださいませ』
白い照明が床に落ち、暗い通路とは別世界のように眩しい。水が循環する低い音だけが、一定の間隔で鳴っていた。
彼女はカウンターの中で屈み、何かを探しながらそう言った。
聞き慣れたその声が、私の胸を激しく揺さぶった。
ここにいるはずがない。
あの空間で過ごした十二年の記憶が、いまも私の内側を塞いでいる。
『……こんばんは。ビアンカ水族館へようこそ』
立ち上がり、私の姿を見た彼女は、柔らかく微笑んだ。まるで、初めて会った客に向ける顔だ。
カウンターの上には案内板とパンフレットが整然と並び、受付は営業中の体裁だけを保っている。だが、周囲に客の姿はない。
時が、再び動き始めた。
私は受付カウンターへ歩み寄り、彼女の胸ぐらを掴みかけた。指先が届く直前で止まる。触れてしまえば、ここが現実だと認めることになる。それが、恐ろしかった。
『あら……怖いですわ。警察をお呼びしましょうか?』
『クリス……! なぜここにいる……!』
『なぜって……』
私は息を飲んだ。次に続く言葉が何であるのか、いくつもの想像が頭を駆け巡る。
『やめろ。続きを言うな』
私がここまで歩いてきた意味ごと、崩される気がした。私は反射的に、その言葉を遮ってしまった。
『……レトロ。ここへ来るのは……初めてよね?』
初めてなわけがない。私は以前、この水族館で飼育されていた。私と共に過ごした彼女が、それを知らぬはずがない。
『何のつもりだ。まさか、忘れたとは言うまいな』
『違うわ。展示される側じゃなくて、鑑賞する立場として――という意味よ』
正直、拍子抜けだった。
クリスからは、以前のような不気味さがまるで感じられない。なのに、安心できない。
『……』
『もしかして、また私が何かを企んでいると思っているの?』
『……そう捉えるのが自然だろう』
私は忘れていない。私があの場所で生き続けたことで、何が起きたのかを。
もし、ここで同じ悲劇が繰り返されているのなら――私は、それを止めねばならない。
『……そうよね。わたくしも、そう思うわ』
またこの感覚だ。破けそうな胸の内で、何かが叫んでいる。
『ク、クリス……?』
『うふふ……どうしたの? 早く行きましょう?』
クリスはカウンターの中から深い青のチケットを一枚取り出し、スタンプを押した。乾いた音が、広い受付にやけに響いた。
『貴方の分のチケットは、わたくしが用意するわね。貴方は特別ですもの』
返事はできなかった。喉が、うまく動かない。
『……プレミアムチケットをお持ちのお客様は、バックヤードツアーやイルカとの遊泳体験、年間パスポートへの無料切り替えなど、様々な特典を受けることが可能ですわ』
笑顔のまま、クリスは続けた。案内文句だけが整然と口から出てくる。ここに客がいなくても、彼女は手順を外さない。
『そして、館長であるわたくし……クリスが、専属で水族館をすみずみまでご案内いたします』
言い終わると、クリスはカウンターから外に出て、私の手を掴んだ。
その手は、恐ろしいほどに冷たかった。冷たさが皮膚を越え、骨に触れるような感覚がする。指先から、力が抜けていく。
『ま、待て……お前……』
『……お客様。本日は……ごゆっくり、お楽しみくださいませ』
私は抵抗できなかった。振りほどけばいいはずなのに、身体が言うことを聞かない。
クリスは私の手を引き、暗い通路とは反対の方向へ歩いていった。
◇
『ここからは、ご自由に水槽をご覧ください』
『……クリス』
『はい、レトロ様。なんでございましょう?』
『……その薄気味悪い態度をやめろ』
『やめろ、と仰られましても……お客様に失礼な態度は取れませんわ』
周囲に客の姿はない。店内放送も、笑い声もない。
それでも、水の循環音と潮の匂いだけは、以前と同じようにここにあった。場の気配だけは、何も変わっていない。
『それでは、お魚のご説明をさせていただきますね』
クリスが、柔らかい笑顔に戻った。水槽の前で立ち止まり、展示札へ視線を落とす仕草を見せる。
『……いや、いい。この魚は私も知っている』
『あら……失礼いたしました。では、お次はどちらへ向かわれますか?』
『奥へ向かう。着いてこい』
私は水族館の奥へ歩き出した。
『はい、かしこまりました』
ただ、私たちの足音だけが響いていた。
背後に、冷たい手の感触が残っている。握られた場所だけが、ずっと冷えていた。
◇
『ここか』
私は、見上げるほどに大きな水槽の前で立ち止まった。天井まで伸びるガラスの面が、青い光を返している。
水槽の中には、何もない。
水だけが静かに満ち、揺らぎのない青が、異様なほどあるように見えた。空白が、水の形を借りてそこに居座っている。
水槽の脇には、展示札の跡だけが残っていた。外されたままの金具が、光を鈍く反射している。
『お客様?』
『……クリス。さっきの言葉の続きを……教えてくれ』
『……お客様がわたくしに、「なぜここにいる」とお聞きになられたことに、お答えすればよろしいのですか?』
『答えろ』
『……わたくしは……』
まただ。またあの感覚だ。
息が浅い。目の前が白くぼやける。耳の奥で、水の音だけが大きくなる。
私は思わず、膝をついた。
『貴方のために、ここにいるのよ』
ひどく冷えた声が、私の胸を貫いた。
私は息を整え、立ち上がって彼女に向き直った。
クリスは黙って、こちらを見ている。
彼女の目は冷ややかだった。何を言いたいのか、私は瞬時に理解した。
私がここに戻ってきたこと自体が、彼女にとって罪の証拠なのだと。
『私は――』
答えなければならない、と直感して口を開いた瞬間、クリスが一歩近づき、言葉を割り込ませた。
『貴方のせいで、わたくしはここにいるのよ』
背筋が凍りついた。
私は反射的に一歩後ろへ下がる。
背中が、水槽のガラスに触れた。
ひやりとした感触が、背骨に沿ってじわりと広がる。
クリスは黙ったまま、さらに前へ出た。
身体が触れ合った。逃げ場がない距離だった。
『……レトロ』
彼女の身体は冷え切っていた。
声が出ない。喉が固まった。身体が……動かない。
『まだ……わからない? わたくしが、なぜここにいるか』
彼女はさらに一歩、前に出た。
同時に、背中に当たっていたはずのガラスが、抵抗を失った。硬い感触が、ぬるりとほどける。
私は反射的に、背中へ体重を預けた。
踏みとどまろうとしたが、もう遅かった。
水槽が口を開けている。青い水面が、底へ引きずり込む穴のように見えた。
次の瞬間、私は水槽に飲み込まれた。
水は容赦なく私を包み、鼓膜を叩いた。冷たさが肺に突き刺さる。
息を吸おうとして、水を吸った。喉が灼ける。泡が視界を白く裂く。音が遠い。
手足が、言うことを聞かない。身体の輪郭がほどけていく。
冷たい。
『そうか……お前は……こんなにも……』
続きが出ない。
言葉が、喉の奥で砕けた。
薄れゆく意識の中で、私はここで過ごした日々のことを思い返していた。
◇
『なぜ、私を助ける』
『貴方に死なれたら困るもの』
クリスは私の腕に包帯を巻きながら答えた。
巻き終えたはずなのに、血がじわりと滲む。
『手当など必要ない。すぐ治る』
包帯を巻く手が止まった。
次の瞬間、彼女は結び目をきつく締め直し、私の腕を逃げない位置に固定した。
『だめよ。治るまで、ここにいて』
◇
『……なぜ、私を助ける』
『貴方に死なれたら困るもの』
クリスは私の身体に触れながら答えた。
指先が傷口をなぞった瞬間、遅れて熱い痛みが走り、膝がわずかに沈む。
『……これくらい、石の力でどうとでもなる』
私は胸元へ手を伸ばしかけた。
傷を塞ぐ手段がある。そう思った瞬間、クリスの手が私の手首を掴み、動きを止めた。
『だめよ。その力を使うのは。回数が限られているんだから』
◇
『……なぜ……私を助ける』
『貴方に死なれたら困るもの』
クリスは、私の頭を撫でながら答えた。
視界が暗く瞬きが遅れる。呼吸が浅く、喉の奥で息が引っかかった。
『ふん……良いんだぞ。ここで殺しても』
頭を撫でる手が止まった。
彼女の指が私の顎に掛かり、顔を上げさせる。逃げる余地のない角度だった。
『だめよ。貴方はいつか、わたくしに殺されるべきなの』
言い切って、彼女は撫でる代わりに、頭を抱え込むように支えた。肩口が引き寄せられ、顎が上を向いたまま固定される。
私は一度だけ身を捩ったが、動いたのは痛む側だけで、逃げる方向は残らなかった。
『だけどそれは、今じゃない。わたくしが許すまで、死なないで』
◇