◇
『はっ……!』
目が覚めた。喉が乾いている。
寝台から身を起こし、反射で自分の腕を確かめる。
怪我はない。血の匂いも、痛みも残っていない。
『……ここは、どこだ?』
見渡しても、部屋には寝台が一つあるだけだった。壁も床も、飾り気のない灰色。
妙に整いすぎていて、生活の気配がない。
私は立ち上がり、寝台に掛けられていた上着を羽織った。 布が肩に落ちる感触だけが、生々しい。
寝台の脇に、鞘ごと剣が立てかけられていた。 剣を手に取り、腰へ下げた。
『……』
音を立てないよう息を殺し、扉を少しだけ開ける。
わずかな隙間から、外を覗いた。
明るい。廊下がまっすぐ伸びている。
私はそのまま扉を開け、外へ出た。反対側はすぐ壁で、この部屋が突き当たりに押し込まれていることが分かる。
廊下を歩き出す。
左右に、等間隔で扉が並んでいた。
耳を澄ますと、扉の向こうから声が漏れてくる。
『……しも……』
『……ぶよ……』
『……ん……き……』
言葉にならない。擦れた音だけが、壁越しに這ってくる。
私は歩みを落とし、聞き取ろうとした。
……途端に、声が止んだ。
しばらく待っても、何も起きない。
扉の向こうに何がいるのかは分からないまま、私は黙って歩き出した。
すぐに突き当たる。
左へ視線を落とすと、下り階段があった。
下から、冷たく湿った空気が流れ上がってくる。
皮膚の上をなぞるような、嫌な冷たさだ。
『……行くか』
階段を降りる。
踊り場で階段は途切れ、その先にもまた廊下が続いていた。
『……また、廊下か』
歩き出す。
さっきより、壁が暗い。光が減っている。
扉の隙間から漏れる声は、近づくほど大きくなる。
『……なこと……しょ……』
『……たい……きみ……』
私は足を止めた。
耳を澄ませた瞬間、また声が消える。まるで、こちらの動きを見ているみたいに。
不快な間だけが伸びる。
『……』
私は音を立てず、歩き出した。
すると背後、さっき通り過ぎた扉の方から、遅れて声が戻ってくる。
『……もう…ま……』
『……うね……よ……』
逃げるように歩き続ける。
突き当たりの右手にも、同じような下り階段があった。
下からは、さらに冷たく、重い湿気が漂ってくる。
胸の奥まで冷える。
私はそのまま、階段を降りた。
降りた先にも廊下がある。
今度は光が弱く、影が濃い。
『ここは……』
自分の声が、壁に吸われて薄く返る。
歩みを進めるほど、左右の扉の向こうの声が増える。だが、もう聞きたくなかった。
視線の先、廊下の突き当たりが見えた。
そこにあるのは壁ではなく、扉だった。
黒く、重厚な扉。金色のドアノブだけが、不自然に光っている。
鍵穴は見当たらない。
私はノブへ手を伸ばしかけた。
そのとき、扉の向こうから、はっきりとした声がした。
『はい、クリスが…ずっと、一緒にいますわ』
心臓が跳ねた。吐き気がする。
考えるより先に、私は扉を開けてしまった。
……しかし、そこには、何もなかった。
あるのは闇だけだ。底の見えない、厚い闇。
『な……なんだ……?』
声が闇に吸い込まれ、戻ってこない。
だが、他に道はない。
私は一歩、踏み込んだ。
『──!』
足が、何にも触れなかった。
体重を預けた瞬間、身体が傾き、重心を失った。
闇の中を落ちていく。
風の音すらない。上下の感覚だけが、胃を引きつらせる。
その途中で、またあの声が聞こえた。
今度は、頭の内側に直接響く。
『……も……て…よ……』
繰り返し、何度も。
『…くも……して…よ……』
繰り返されるたび、音が形を持ち始める。
『…くも…いし…るよ……』
声が徐々に大きくなっていく。
『この声は……!』
忘れもしない。あの記憶。
喉の奥が冷え、指先が勝手に震えた。
『僕も…愛してるよ…クリス…』
次の瞬間。
私の体は、何か硬いものに強く打ち付けられた。
鈍い衝撃が全身を走り、音が遅れて割れた。
視界が白く弾けた。私は、粉々になった。
◇
『……あら。お目覚めになりましたか?』
『……』
瞼を開けた。白い天井。鼻を刺す、消毒液の匂い。
――崩れていく感覚は、確かにあった。なのに、体は動く。
『……もう少し、休んでいても大丈夫ですわ』
『……ここはどこだ?』
『どこって……ああ、お客様は入ったことがありませんでしたね。ここは水族館の医務室ですわ』
『驚きました。急に意識を失われたものだから』
『……後ろの水槽に入ったわけじゃなかったのか』
『うふふ。そんなこと、ありえませんわ』
『……まあ、そうだな』
『さて、わたくしは業務に戻ります。どうか、ご無理はなさらないでくださいませ』
クリスは立ち上がり、静かに部屋を出ていった。
『……夢、だったのか……?』
耳の奥に、あの声が残っている。
私は寝台から降り、かけてあった上着に手を伸ばした。
『……』
夢のような空間で目覚めた時と、同じ位置に上着が掛かっている。手が止まる。
『……まさかな』
上着を羽織る。腰に重みはない。
寝台の脇に、鞘ごと剣が立てかけられていた。
武器を取り、腰へ下げて、廊下へ出た。
明るい。ブラインドの隙間から、細い日差しが差している。どこかで水の流れる音がする。
私は窓に歩み寄り、指でブラインドをわずかに歪めて外を覗いた。
『……』
廊下に囲まれた中庭。中央に小さな噴水があり、水面が淡く揺れている。
振り返る。向かいの壁に、色褪せたポスターが貼られていた。
辛うじて読み取れるのは、『水難事故防止教室』の見出しだけだ。
その横にも、似たようなポスターが何枚か。
どれも同じように劣化していて、本文はほとんど判別できない。
『なぜこんなものを……』
私は歩き出した。
廊下の突き当たり、ロッカーの上に木彫りの魚が置かれている。
『……ずいぶん古いな』
近づいて、ふと気づく。
古い紙も木彫りも、ここまで痛んでいるのに、埃ひとつ落ちていない。
給湯室、手洗いを通り過ぎ、資料室の表示を見つけた。
鍵はかかっていない。
中はやはり、掃除が行き届き、棚は整然としている。
ファイルと分厚い図鑑が、背表紙を揃えて並んでいた。
私はファイルを一つ抜き取り、開く。
『これは……』
生物の写真がまとめられ、日付がマジックで書き込まれている。
無言でページをめくる。どのページも、写真と日付が整然と続く。
次のページをめくった瞬間、手が止まった。
『……』
真っ白で、傷だらけのホオジロザメの写真。そこにも同じく、日付が書かれている。
『あら? ここにいたのね?』
背後から声がした。
『ごめんなさい。放っておいてしまって』
反射的にファイルを閉じ、私は立ち上がった。
『あら……そのアルバム……』
クリスが近づく。
『……動くな』
私は剣を抜いた。切っ先をクリスの喉元へ向ける。
『この記録はなんだ』
クリスは息を呑み、動きを止めた。
『なぜ、私の写真がある。それも何ページにも渡って』
『ま、待って。……落ち着いて。何か勘違いをしているわ』
『ふざけるな。この記録は……』
『もう一度、よく見て。書かれている年を』
『どういう意味だ』
『そのままの意味よ』
『……』
『貴方は本当に……変わらないわね』
クリスは笑った。泣きそうな顔のまま、私ではなく、剣を見て。
『……確かめて。貴方が守っているのは何?』
私は剣をわずかに下げ、さっきのページを開き直した。
頭に浮かぶのは、あの警官が持っていた光る板に表示されていた日付。
『……十二年前、か』
胸の奥で、何かがすとんと落ちる。
『……そのアルバムは、館長がこの水族館に連れてきた展示品を記録したものなの』
『そう…だったのか……』
『ここは、貴方が考えているような場所ではないわ』
『……すまなかった。なら、案内を頼めるか?』
私はファイルを棚に戻した。
『ええ。着いてきて』
廊下を歩きながら、私は周囲に目を走らせた。
『やたら清潔に保たれているな』
『そうでしょう? 思い出の場所ですもの』
クリスが、少しだけ誇らしげに言う。
その時、先の方から無機質な機械音が聞こえてきた。
『……?』
『この先ですわ』
◇
曲がった先には、水槽がいくつも並び、様々な魚が飼育されていた。
機械の音は、絶え間なく水を循環させている音だった。
『あ、館長。ちょっと、聞いてくれる?』
『あら……またドクターに叱られたんですか?』
『そ、そうなんだけど……』
聞き慣れた声が、機械の循環音に混ざって届いた。
『お前は……コウペン!』
『うん? って、レトロ?!』
『うふふ』
クリスが、肩をすくめるように笑う。
『なぜお前がここにいる?』
『なんでって……目が覚めたら、ここにいたっていうか……』
スーズは、あの時確かに石を壊した。クリーピーは全員、消えたはずだ。
『それにしても、見つかってよかった。館長、ずっとレトロを探していたんだよ?』
『コ、コウペンさん……そこまでにしてください……』
クリスは頬を赤らめ、視線を落として言った。
『あ、ごめんごめん。じゃ、俺はこのあとライブがあるからさ。時間あったら、レトロも聴きに来てね』
『あ、ああ……』
コウペンは軽く手を振り、足早に去っていった。
『その……』
『なんだ』
『貴方のこと……探したの』
『……なぜだ?』
そもそも、私がこの世界にいると、なぜ分かったのか。
クリスは正面からこちらを見て、落ち着いた声で告げた。
『……貴方に、謝りたいことがあったから』
循環装置の音が、やけに大きく聞こえる。
『……いまさらか』
『分かっていますわ。遅すぎることくらい』
クリスの視線が外れない。
『言わなくていい。私もお前も、もう充分苦しんだだろう』
『それでも……聞いてほしいの』
クリスが一歩、距離を詰めた。
『……貴方はまだ、苦しんでいるんでしょう?』
もう一歩。
逃げ道が塞がれたわけではないのに、私は動けなかった。
『……どうだかな』
『……貴方のことは、わたくしが一番分かっているわ』
淀みなく言い切る。
『……』
過去の記憶が、口を塞いだ。
『わたくしなんかよりずっと……苦しいはずですわ』
さらに一歩。肩が触れ合う。
『……』
温かい。そこだけが、妙に確かだった。
『……ごめんなさい』
クリスは私の胸に顔を押し当てるようにして言った。顔は見えない。
『……』
私は彼女の頭に触れた。
『……本当に……ごめんなさい……』
震えが、腕の内側まで伝わってくる。
『……お前は、これから何をする?』
私はクリスの背に腕を回した。
『わたくしは……この場所を、守っていきますわ』
返事と同時に、クリスの腕が私を強く抱き返した。
『そうか……』
髪を撫でながら、私は小さく息を吐く。
『……貴方は、何をするの?』
腕に込められる力が、強くなる。
『私は……スーズを探しに行く』
『……そう』
クリスは腕を解き、背を向けた。
『……貴方は、自由ですわ。わたくしのことは、気にしないで』
小さな肩が、小刻みに震える。
『もう…行っていいのよ。貴方の望む場所へ』
震えが大きくなるのが、はっきりと分かった。
堪らず、私は彼女を抱いた。今度は、逃がさないように。
『クリス……!』
『ど、どうして……!』
クリスは離れようと、腕の中でもがく。
『貴方は……やっと…自由になれたのに……どうして……』
消えそうな声だった。
『……これが、私の選択だ』
震える背を、さらに強く抱き締める。
『……』
返事はなかった。だが、震えは少しずつ、収まっていった。
『……お前は、私のことは何でも分かると言ったな』
私は前を見たまま言う。
『……ええ』
クリスは、私の手にそっと触れながら答えた。
『……あいにく、お前の痛みも私にはよく分かる』
温もりを確かめるように、私は続ける。
『それは…なぜ……?』
クリスの声が揺れた。
『お前の痛みは……私の痛みだからだ』
循環音が、遠のく。クリスの肩が浅く上下している。
『わたくしは……貴方をあんなにも……傷つけたのに……』
『……私も、ずいぶんお前を不幸にしてしまったな』
抱く腕に、また力がこもる。
『……わたくしは、幸せでしたわ』
私の手が、温かく濡れる。
『……なら、なおさら離せない』
確かめるように、私は彼女を引き寄せた。
◇
どこかから、音楽が流れてくる。続いて、声が響いた。
『本日もビアンカ水族館へご来館いただき、誠にありがとうございます。
お客様に、お知らせを申し上げます。
当館はまもなく閉館いたします。
お忘れ物のないようお手回り品をご確認のうえ、足元にお気をつけてお帰りください。
本日も、ビアンカ水族館へご来館いただき、誠にありがとうございます。』
『……もうそんな時間か』
ビアンカ水族館の閉館時間は二十時だ。
『ええ』
『そういえば、私がここへ来てから、どの程度経ったんだ?』
『三日くらいかしら』
喉が鳴る。私は、思わず言葉を失った。
『……私は、そんなにも寝込んでいたのか?』
『そうよ。全然目を覚まさなくて……本当に心配したのよ』
クリスは、視線を落としたまま続ける。
『……貴方を追い詰めるような真似をして、ごめんなさい。せっかくここまで、貴方の意思で戻ってきてくれたのに』
『いや……あれは、当然の報いだ』
あの夢の中で何があったのか、私は忘れていなかった。
『……そう。貴方は、そう言うのね』
クリスが、私の腕をゆっくりほどいた。
『そろそろ業務に戻らないといけませんわ。貴方は……今夜はここに泊っていって』
『……そうさせてもらおう』
◇
『……おい』
『なにかしら?』
『なぜ、私の寝台に入ってくる』
寝台から身を起こした瞬間、クリスの身体がこちらへ傾いだ。私は反射的に受け止める。
『なぜって……寝台は、これひとつしかないもの』
『……なら私は別の場所で――』
『だめよ。行かないで』
腕を押さえられ、立ち上がれなかった。
『ここで行かせてしまったら……貴方は戻らない』
私の呼吸が乱れたのを、彼女は見逃さない。
『……今夜は眠れそうにないな』
そもそも私は、眠らなくても問題ない体だ。
それをクリスが知っているのかどうか――確かめる勇気は、今はなかった。
『……貴方も、同じなのね』
暗闇に溶けるような声で、クリスが呟く。
『そういえば、食事は摂らなくてよかったのか?』
どこまで同じなのか。探るように問いかける。
『……ええ。別に、食べてもいいのだけど』
クリスは視線を外し、言葉を選ぶように答えた。
『私と同じだな』
私は彼女を引き寄せ、寝台の端へ腰掛けさせる。
直後、クリスは体重を私へ預けてきた。
『……あの場所が消えた時、わたくしはこの水族館に引き戻されたの』
『同時に……貴方が消えたことも、分かったわ』
クリスが震えているのが、確かに感じられた。
『後悔したの。もっと、貴方と向き合うべきだったって』
クリスはふいに身を離し、寝台から立ち上がって一歩前へ出る。
『……その時になってからでは、遅かったのに』
背を向けているせいで、表情は見えない。
『……』
声だけが、闇へ吸い込まれていく。
『クリス』
私は静かに立ち上がった。
『……まだ苦しいか』
正面へ回り込みながら、訊ねる。
『……ええ』
『……そうか。そうだろうな』
暗闇へ落下していった感覚が、体の奥から蘇った。
――あの声が、再び頭の中で響く。
私はそのまま、彼女を抱き寄せた。
『クリス。私がいる。……私を守ってくれ』
腕に力が入る。震えを隠す気には、もうなれなかった。
『……ここにいて。そうしたら、貴方を守ることができるから』
クリスは抵抗せず、されるがままに答えた。
私たちはそのまま、何も言葉を交わさず、立ち尽くした。
◇