『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

3 / 16
3話

 

 

『はっ……!』

 

目が覚めた。喉が乾いている。

寝台から身を起こし、反射で自分の腕を確かめる。

 

怪我はない。血の匂いも、痛みも残っていない。

 

『……ここは、どこだ?』

 

見渡しても、部屋には寝台が一つあるだけだった。壁も床も、飾り気のない灰色。

妙に整いすぎていて、生活の気配がない。

 

私は立ち上がり、寝台に掛けられていた上着を羽織った。 布が肩に落ちる感触だけが、生々しい。

寝台の脇に、鞘ごと剣が立てかけられていた。 剣を手に取り、腰へ下げた。

 

『……』

 

音を立てないよう息を殺し、扉を少しだけ開ける。

わずかな隙間から、外を覗いた。

 

明るい。廊下がまっすぐ伸びている。

私はそのまま扉を開け、外へ出た。反対側はすぐ壁で、この部屋が突き当たりに押し込まれていることが分かる。

 

廊下を歩き出す。

左右に、等間隔で扉が並んでいた。

 

耳を澄ますと、扉の向こうから声が漏れてくる。

 

『……しも……』

 

『……ぶよ……』

 

『……ん……き……』

 

言葉にならない。擦れた音だけが、壁越しに這ってくる。

私は歩みを落とし、聞き取ろうとした。

 

……途端に、声が止んだ。

 

しばらく待っても、何も起きない。

扉の向こうに何がいるのかは分からないまま、私は黙って歩き出した。

 

すぐに突き当たる。

左へ視線を落とすと、下り階段があった。

 

下から、冷たく湿った空気が流れ上がってくる。

皮膚の上をなぞるような、嫌な冷たさだ。

 

『……行くか』

 

階段を降りる。

踊り場で階段は途切れ、その先にもまた廊下が続いていた。

 

『……また、廊下か』

 

歩き出す。

さっきより、壁が暗い。光が減っている。

 

扉の隙間から漏れる声は、近づくほど大きくなる。

 

『……なこと……しょ……』

 

『……たい……きみ……』

 

私は足を止めた。

耳を澄ませた瞬間、また声が消える。まるで、こちらの動きを見ているみたいに。

 

不快な間だけが伸びる。

 

『……』

 

私は音を立てず、歩き出した。

すると背後、さっき通り過ぎた扉の方から、遅れて声が戻ってくる。

 

『……もう…ま……』

 

『……うね……よ……』

 

逃げるように歩き続ける。

突き当たりの右手にも、同じような下り階段があった。

 

下からは、さらに冷たく、重い湿気が漂ってくる。

胸の奥まで冷える。

 

私はそのまま、階段を降りた。

 

降りた先にも廊下がある。

今度は光が弱く、影が濃い。

 

『ここは……』

 

自分の声が、壁に吸われて薄く返る。

歩みを進めるほど、左右の扉の向こうの声が増える。だが、もう聞きたくなかった。

 

視線の先、廊下の突き当たりが見えた。

そこにあるのは壁ではなく、扉だった。

 

黒く、重厚な扉。金色のドアノブだけが、不自然に光っている。

鍵穴は見当たらない。

 

私はノブへ手を伸ばしかけた。

そのとき、扉の向こうから、はっきりとした声がした。

 

『はい、クリスが…ずっと、一緒にいますわ』

 

心臓が跳ねた。吐き気がする。

考えるより先に、私は扉を開けてしまった。

 

……しかし、そこには、何もなかった。

あるのは闇だけだ。底の見えない、厚い闇。

 

『な……なんだ……?』

 

声が闇に吸い込まれ、戻ってこない。

だが、他に道はない。

 

私は一歩、踏み込んだ。

 

『──!』

 

足が、何にも触れなかった。

体重を預けた瞬間、身体が傾き、重心を失った。

 

闇の中を落ちていく。

風の音すらない。上下の感覚だけが、胃を引きつらせる。

 

その途中で、またあの声が聞こえた。

今度は、頭の内側に直接響く。

 

『……も……て…よ……』

 

繰り返し、何度も。

 

『…くも……して…よ……』

 

繰り返されるたび、音が形を持ち始める。

 

『…くも…いし…るよ……』

 

声が徐々に大きくなっていく。

 

『この声は……!』

 

忘れもしない。あの記憶。

喉の奥が冷え、指先が勝手に震えた。

 

『僕も…愛してるよ…クリス…』

 

次の瞬間。

 

私の体は、何か硬いものに強く打ち付けられた。

鈍い衝撃が全身を走り、音が遅れて割れた。

 

視界が白く弾けた。私は、粉々になった。

 

 

 

 

『……あら。お目覚めになりましたか?』

 

『……』

 

瞼を開けた。白い天井。鼻を刺す、消毒液の匂い。

――崩れていく感覚は、確かにあった。なのに、体は動く。

 

『……もう少し、休んでいても大丈夫ですわ』

 

『……ここはどこだ?』

 

『どこって……ああ、お客様は入ったことがありませんでしたね。ここは水族館の医務室ですわ』

 

『驚きました。急に意識を失われたものだから』

 

『……後ろの水槽に入ったわけじゃなかったのか』

 

『うふふ。そんなこと、ありえませんわ』

 

『……まあ、そうだな』

 

『さて、わたくしは業務に戻ります。どうか、ご無理はなさらないでくださいませ』

 

クリスは立ち上がり、静かに部屋を出ていった。

 

『……夢、だったのか……?』

 

耳の奥に、あの声が残っている。

私は寝台から降り、かけてあった上着に手を伸ばした。

 

『……』

 

夢のような空間で目覚めた時と、同じ位置に上着が掛かっている。手が止まる。

 

『……まさかな』

 

上着を羽織る。腰に重みはない。

寝台の脇に、鞘ごと剣が立てかけられていた。

 

武器を取り、腰へ下げて、廊下へ出た。

 

明るい。ブラインドの隙間から、細い日差しが差している。どこかで水の流れる音がする。

 

私は窓に歩み寄り、指でブラインドをわずかに歪めて外を覗いた。

 

『……』

 

廊下に囲まれた中庭。中央に小さな噴水があり、水面が淡く揺れている。

 

振り返る。向かいの壁に、色褪せたポスターが貼られていた。

辛うじて読み取れるのは、『水難事故防止教室』の見出しだけだ。

 

その横にも、似たようなポスターが何枚か。

どれも同じように劣化していて、本文はほとんど判別できない。

 

『なぜこんなものを……』

 

私は歩き出した。

廊下の突き当たり、ロッカーの上に木彫りの魚が置かれている。

 

『……ずいぶん古いな』

 

近づいて、ふと気づく。

古い紙も木彫りも、ここまで痛んでいるのに、埃ひとつ落ちていない。

 

給湯室、手洗いを通り過ぎ、資料室の表示を見つけた。

鍵はかかっていない。

 

中はやはり、掃除が行き届き、棚は整然としている。

ファイルと分厚い図鑑が、背表紙を揃えて並んでいた。

 

私はファイルを一つ抜き取り、開く。

 

『これは……』

 

生物の写真がまとめられ、日付がマジックで書き込まれている。

無言でページをめくる。どのページも、写真と日付が整然と続く。

 

次のページをめくった瞬間、手が止まった。

 

『……』

 

真っ白で、傷だらけのホオジロザメの写真。そこにも同じく、日付が書かれている。

 

『あら? ここにいたのね?』

 

背後から声がした。

 

『ごめんなさい。放っておいてしまって』

 

反射的にファイルを閉じ、私は立ち上がった。

 

『あら……そのアルバム……』

 

クリスが近づく。

 

『……動くな』

 

私は剣を抜いた。切っ先をクリスの喉元へ向ける。

 

『この記録はなんだ』

 

クリスは息を呑み、動きを止めた。

 

『なぜ、私の写真がある。それも何ページにも渡って』

 

『ま、待って。……落ち着いて。何か勘違いをしているわ』

 

『ふざけるな。この記録は……』

 

『もう一度、よく見て。書かれている年を』

 

『どういう意味だ』

 

『そのままの意味よ』

 

『……』

 

『貴方は本当に……変わらないわね』

 

クリスは笑った。泣きそうな顔のまま、私ではなく、剣を見て。

 

『……確かめて。貴方が守っているのは何?』

 

私は剣をわずかに下げ、さっきのページを開き直した。

頭に浮かぶのは、あの警官が持っていた光る板に表示されていた日付。

 

『……十二年前、か』

 

胸の奥で、何かがすとんと落ちる。

 

『……そのアルバムは、館長がこの水族館に連れてきた展示品を記録したものなの』

 

『そう…だったのか……』

 

『ここは、貴方が考えているような場所ではないわ』

 

『……すまなかった。なら、案内を頼めるか?』

 

私はファイルを棚に戻した。

 

『ええ。着いてきて』

 

廊下を歩きながら、私は周囲に目を走らせた。

 

『やたら清潔に保たれているな』

 

『そうでしょう? 思い出の場所ですもの』

 

クリスが、少しだけ誇らしげに言う。

 

その時、先の方から無機質な機械音が聞こえてきた。

 

『……?』

 

『この先ですわ』

 

 

 

 

曲がった先には、水槽がいくつも並び、様々な魚が飼育されていた。

機械の音は、絶え間なく水を循環させている音だった。

 

『あ、館長。ちょっと、聞いてくれる?』

 

『あら……またドクターに叱られたんですか?』

 

『そ、そうなんだけど……』

 

聞き慣れた声が、機械の循環音に混ざって届いた。

 

『お前は……コウペン!』

 

『うん? って、レトロ?!』

 

『うふふ』

 

クリスが、肩をすくめるように笑う。

 

『なぜお前がここにいる?』

 

『なんでって……目が覚めたら、ここにいたっていうか……』

 

スーズは、あの時確かに石を壊した。クリーピーは全員、消えたはずだ。

 

『それにしても、見つかってよかった。館長、ずっとレトロを探していたんだよ?』

 

『コ、コウペンさん……そこまでにしてください……』

 

クリスは頬を赤らめ、視線を落として言った。

 

『あ、ごめんごめん。じゃ、俺はこのあとライブがあるからさ。時間あったら、レトロも聴きに来てね』

 

『あ、ああ……』

 

コウペンは軽く手を振り、足早に去っていった。

 

『その……』

 

『なんだ』

 

『貴方のこと……探したの』

 

『……なぜだ?』

 

そもそも、私がこの世界にいると、なぜ分かったのか。

クリスは正面からこちらを見て、落ち着いた声で告げた。

 

『……貴方に、謝りたいことがあったから』

 

循環装置の音が、やけに大きく聞こえる。

 

『……いまさらか』

 

『分かっていますわ。遅すぎることくらい』

 

クリスの視線が外れない。

 

『言わなくていい。私もお前も、もう充分苦しんだだろう』

 

『それでも……聞いてほしいの』

 

クリスが一歩、距離を詰めた。

 

『……貴方はまだ、苦しんでいるんでしょう?』

 

もう一歩。

 

逃げ道が塞がれたわけではないのに、私は動けなかった。

 

『……どうだかな』

 

『……貴方のことは、わたくしが一番分かっているわ』

 

淀みなく言い切る。

 

『……』

 

過去の記憶が、口を塞いだ。

 

『わたくしなんかよりずっと……苦しいはずですわ』

 

さらに一歩。肩が触れ合う。

 

『……』

 

温かい。そこだけが、妙に確かだった。

 

『……ごめんなさい』

 

クリスは私の胸に顔を押し当てるようにして言った。顔は見えない。

 

『……』

 

私は彼女の頭に触れた。

 

『……本当に……ごめんなさい……』

 

震えが、腕の内側まで伝わってくる。

 

『……お前は、これから何をする?』

 

私はクリスの背に腕を回した。

 

『わたくしは……この場所を、守っていきますわ』

 

返事と同時に、クリスの腕が私を強く抱き返した。

 

『そうか……』

 

髪を撫でながら、私は小さく息を吐く。

 

『……貴方は、何をするの?』

 

腕に込められる力が、強くなる。

 

『私は……スーズを探しに行く』

 

『……そう』

 

クリスは腕を解き、背を向けた。

 

『……貴方は、自由ですわ。わたくしのことは、気にしないで』

 

小さな肩が、小刻みに震える。

 

『もう…行っていいのよ。貴方の望む場所へ』

 

震えが大きくなるのが、はっきりと分かった。

 

堪らず、私は彼女を抱いた。今度は、逃がさないように。

 

『クリス……!』

 

『ど、どうして……!』

 

クリスは離れようと、腕の中でもがく。

 

『貴方は……やっと…自由になれたのに……どうして……』

 

消えそうな声だった。

 

『……これが、私の選択だ』

 

震える背を、さらに強く抱き締める。

 

『……』

 

返事はなかった。だが、震えは少しずつ、収まっていった。

 

『……お前は、私のことは何でも分かると言ったな』

 

私は前を見たまま言う。

 

『……ええ』

 

クリスは、私の手にそっと触れながら答えた。

 

『……あいにく、お前の痛みも私にはよく分かる』

 

温もりを確かめるように、私は続ける。

 

『それは…なぜ……?』

 

クリスの声が揺れた。

 

『お前の痛みは……私の痛みだからだ』

 

循環音が、遠のく。クリスの肩が浅く上下している。

 

『わたくしは……貴方をあんなにも……傷つけたのに……』

 

『……私も、ずいぶんお前を不幸にしてしまったな』

 

抱く腕に、また力がこもる。

 

『……わたくしは、幸せでしたわ』

 

私の手が、温かく濡れる。

 

『……なら、なおさら離せない』

 

確かめるように、私は彼女を引き寄せた。

 

 

 

 

どこかから、音楽が流れてくる。続いて、声が響いた。

 

『本日もビアンカ水族館へご来館いただき、誠にありがとうございます。

お客様に、お知らせを申し上げます。

当館はまもなく閉館いたします。

お忘れ物のないようお手回り品をご確認のうえ、足元にお気をつけてお帰りください。

本日も、ビアンカ水族館へご来館いただき、誠にありがとうございます。』

 

『……もうそんな時間か』

 

ビアンカ水族館の閉館時間は二十時だ。

 

『ええ』

 

『そういえば、私がここへ来てから、どの程度経ったんだ?』

 

『三日くらいかしら』

 

喉が鳴る。私は、思わず言葉を失った。

 

『……私は、そんなにも寝込んでいたのか?』

 

『そうよ。全然目を覚まさなくて……本当に心配したのよ』

 

クリスは、視線を落としたまま続ける。

 

『……貴方を追い詰めるような真似をして、ごめんなさい。せっかくここまで、貴方の意思で戻ってきてくれたのに』

 

『いや……あれは、当然の報いだ』

 

あの夢の中で何があったのか、私は忘れていなかった。

 

『……そう。貴方は、そう言うのね』

 

クリスが、私の腕をゆっくりほどいた。

 

『そろそろ業務に戻らないといけませんわ。貴方は……今夜はここに泊っていって』

 

『……そうさせてもらおう』

 

 

 

 

『……おい』

 

『なにかしら?』

 

『なぜ、私の寝台に入ってくる』

 

寝台から身を起こした瞬間、クリスの身体がこちらへ傾いだ。私は反射的に受け止める。

 

『なぜって……寝台は、これひとつしかないもの』

 

『……なら私は別の場所で――』

 

『だめよ。行かないで』

 

腕を押さえられ、立ち上がれなかった。

 

『ここで行かせてしまったら……貴方は戻らない』

 

私の呼吸が乱れたのを、彼女は見逃さない。

 

『……今夜は眠れそうにないな』

 

そもそも私は、眠らなくても問題ない体だ。

それをクリスが知っているのかどうか――確かめる勇気は、今はなかった。

 

『……貴方も、同じなのね』

 

暗闇に溶けるような声で、クリスが呟く。

 

『そういえば、食事は摂らなくてよかったのか?』

 

どこまで同じなのか。探るように問いかける。

 

『……ええ。別に、食べてもいいのだけど』

 

クリスは視線を外し、言葉を選ぶように答えた。

 

『私と同じだな』

 

私は彼女を引き寄せ、寝台の端へ腰掛けさせる。

直後、クリスは体重を私へ預けてきた。

 

『……あの場所が消えた時、わたくしはこの水族館に引き戻されたの』

 

『同時に……貴方が消えたことも、分かったわ』

 

クリスが震えているのが、確かに感じられた。

 

『後悔したの。もっと、貴方と向き合うべきだったって』

 

クリスはふいに身を離し、寝台から立ち上がって一歩前へ出る。

 

『……その時になってからでは、遅かったのに』

 

背を向けているせいで、表情は見えない。

 

『……』

 

声だけが、闇へ吸い込まれていく。

 

『クリス』

 

私は静かに立ち上がった。

 

『……まだ苦しいか』

 

正面へ回り込みながら、訊ねる。

 

『……ええ』

 

『……そうか。そうだろうな』

 

暗闇へ落下していった感覚が、体の奥から蘇った。

――あの声が、再び頭の中で響く。

 

私はそのまま、彼女を抱き寄せた。

 

『クリス。私がいる。……私を守ってくれ』

 

腕に力が入る。震えを隠す気には、もうなれなかった。

 

『……ここにいて。そうしたら、貴方を守ることができるから』

 

クリスは抵抗せず、されるがままに答えた。

 

私たちはそのまま、何も言葉を交わさず、立ち尽くした。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。