『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

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4話

 

 

『ねえ、レトロ』

 

『なんだ?』

 

私たちの足音と、声だけが響く。

閉館後の展示室。暗闇の中で、水槽だけが青く光り、魚がその光を反射して泳いでいる。

 

『あの時間に帰りたいとは、思わないかしら?』

 

クリスはクマノミを眺め、水槽のガラスを指先でなぞりながら言った。

 

『……思わないな』

 

クマノミはイソギンチャクの陰へ、すっと隠れていった。

 

『……もし、貴方が疲れた時は。またここへ戻ってきて』

 

クリスは歩き出す。

 

『……ああ』

 

あの空間でのやり取りを思い出しながら、私はその隣に並んだ。

 

『……』

 

青い光に照らされ、私たちは立ち止まった。

天井まで伸びる巨大な水槽。やはり、ここには何もいない。

 

『……懐かしいわね。貴方がここで泳いでいて。わたくしも、その隣に展示されていた』

 

両手をガラスに添え、中を覗き込みながらクリスが呟く。

 

『……そうだな』

 

あの頃の記憶が蘇る。クリスと初めて出会った日の記憶が。

 

『……』

 

それっきり、彼女は黙り込んだ。

 

『……クリス?』

 

『ごめんなさい。何でもないわ』

 

水槽の中で泡が揺れる。

浮かんだと思った瞬間、流れにほどかれて消えていく。

 

クリスがこちらへ向き直った。

 

『行かないで』

 

真剣な面持ちが青く照らされる。視線が、私の足を縫い付けた。

 

『──!』

 

空の水槽の奥から迫る気配に、私は反射的に振り向いた。

だが…やはり、そこには何もいない。

 

『……行かないで』

 

背中へ、クリスの手が伸びる。

私は水槽から目を離せなかった。

 

泡がまた現れ、小さく崩れ、すぐ消える。

流れの中で生まれ、抗えず揉まれ、最後にはほどけていく。

 

『……』

 

答えなければならない。そう分かっているのに、声が出ない。

懐かしい青に照らされて、私はただ水槽を見ていた。

 

『……何も言わないで』

 

沈黙を破ったクリスの声は、不思議なくらい落ち着いていた。

 

『……すまない』

 

私は視線を水槽の底へ落とす。

わずかに砂が溜まった岩場が、淡く見えた。

 

私はガラスに触れた。

 

『……変わらないな』

 

指先に伝わる冷たさを確かめるように、言葉を落とす。

 

『……ここだけは、変わらないわ』

 

クリスも水槽へ向き直り、私と同じように底を見つめた。

 

『……クリス』

 

『なあに?』

 

『……』

 

あの闇が、あの声が、再び私の心に広がっていく。

息が浅くなる。胸が、ひりつく。体が、凍り付き始める。

 

『……レトロ?』

 

覗き込む視線が、心配で揺れた。

 

『いや。大丈夫だ』

 

私は息を整え、彼女へ向き直る。

 

『……どうかした?』

 

『……私は、ここへ留まる』

 

『え……?』

 

『お前をひとりにしたくない。どうしても』

 

クリスは瞳を閉じ、俯いた。

 

『……そう。それが、貴方の選択なのね』

 

空の水槽の内側で、水の流れが音を立てる。

底に滞留していた砂が、わずかに舞った。

 

『……レトロ。わたくしはこの場所を守りますわ。迷った人が……ここで立ち止まれるように』

 

俯いたまま、クリスは続けた。

 

青い光が揺れ、私たちの影も揺らいだ。

 

『……これは停滞じゃない。希望だ』

 

クリスが顔を上げる。

その目が、まっすぐこちらを捉えた。

 

『……分かっているわ。貴方が、わたくしよりずっと…先を歩いていることくらい』

 

『……ならば、これからは共に歩いてゆくとしよう』

 

『……ええ。お願いいたしますわ』

 

クリスの瞳から、一粒だけ涙がこぼれた。

 

『……』

 

私は水槽へ向き直る。

そこには、青い光だけが広がっていた。

 

 

 

 

眩しい。カーテンが引かれる音がした。

 

『レトロ。おはようございますわ』

 

『ん……』

 

『もう。まだ眠いの?』

 

クリスが顔を覗き込み、ふっと息を落とす。

 

『……ああ』

 

『仕方がないわね。でも、起きなきゃだめよ』

 

『……分かっている。少し、疲れただけだ』

 

ここはビアンカ水族館。私は今、この館で警備員として働いている。

 

『わたくしはオープン準備に行きますわ。貴方も、あとで来るのよ』

 

『……分かっている』

 

『それと。紅茶を淹れてあるから、ちゃんと飲むのよ』

 

言い置いて、クリスは足早に部屋を出て行った。

 

『おう、レトロ』

 

入れ替わるように、男の低い声が廊下から響く。

 

『マンタ』

 

『調子はどうだ?』

 

私は、この体の異変を彼に診てもらっていた。

 

『……元に戻った。以前のように』

 

スーズを探す上で都合がよかった“異変”は、今は形を潜めている。

 

『いいことだな』

 

ドクターは目を閉じ、短く言った。

 

『……しかしまあ、こんなことになるとはなあ』

 

この世界でも彼は変わらず、深海の石とクリーピーの研究を続けている。

 

『お前の石は確かに壊れたはずなんだが……お前も俺たちも、外に出てこれた理由がわからねえ』

 

原因は、ドクターにも分からないらしい。

 

『まあ……でもよ。見ようによっては……いいことだ』

 

言葉を慎重に選んでいるのが、声音で分かった。

 

『……そうだな』

 

スーズは今、どこにいるのだろう。何をしているのだろう。

 

『さて。お前も仕事だろ? さっさと行けよ。じゃあな』

 

マンタは部屋を出て行った。

 

『……今は考えても仕方がないか』

 

耳の中で、泡が消えていく音がした。私は立ち上がり、身支度を始めた。

 

 

 

 

廊下へ出た瞬間、二つの人影が勢いよく迫ってきた。

 

『レトロだー!!』

『レトロー!!』

 

『おはようございまーす!!』

『おはようございナース!!』

 

『シマフグとトラフグ。相変わらず元気そうだな』

 

『おいお前ら。早く来い』

 

隣の部屋の中から、マンタの声が飛ぶ。

 

『『せんせえ~~~!!』』

 

『こら。廊下は走るな。何度言えばわかるんだ』

 

『ふっ……』

 

私はエントランスへ向けて歩き出した。

 

『はー疲れたなあ……早く帰りたいなあ……』

 

スーツ姿の魚頭のクリーピーが、ビジネスバッグを抱えて行き交っている。

 

その足元では、小さなヤドカリが列をなして行進していた。

 

『……本当に戻ってきたんだな。あの日常が』

 

信じられなかった。マンタやコウペンだけじゃない。あの空間にいた者たちが、この場所で“日常”を過ごしている。――スーズたちを除いて。

 

歩きながら、私はあの時に言い遺した言葉を思い出す。

 

「忘れてもいい」

 

あれは、言い訳だったのか。願いだったのか。

 

『あら、遅かったわね』

 

エントランスの光が、目に刺さる。パンフレットを整えながら、クリスが振り向いた。

 

『……お前が早すぎるんだ』

 

オープンまで、まだ二時間もある。

 

『でも、やることはたくさんありますわ』

 

クリスは受付裏のロッカーからモップを二本取り出し、片方を私に差し出した。

 

『……いつも通り、あの廊下を掃除すればいいんだな?』

 

『ええ。お願いするわね』

 

『わかった』

 

私は受付を抜け、入口側の廊下へ入る。

 

『はあ……やるか』

 

私は疲労を感じながら、モップを床へ下ろし、ゆっくりと押す。擦れる音が、静かな館内に伸びた。

 

壁に埋め込まれた水槽の中で、クラゲが気ままに漂っている。流れに逆らわずに。

 

『……』

 

スーズは私のことを忘れていないだろうか。あの懐中時計を、まだ持っているだろうか。

 

『……』

 

どれだけ考えても、答えは出ないと分かっている。なのにこの場所にいると、勝手に思い出してしまう。

 

『……こんなものか』

 

小さく息を吐き、床の隅まで目で追って確認する。汚れは残っていない。

 

私は受付へ戻った。

 

『クリス、終わったぞ』

 

『あら、早いわね。それなら次は――』

 

言いかけて、クリスは展示室の方へ視線をやった。クリーピーたちが忙しなく、開店準備をしているのが見える。

 

『……もう、やることはなさそうだが』

 

『そうねえ……』

 

『……ぐっ……!』

 

胸の奥を、鋭い針で突かれたような痛みが走った。息が詰まり、私は膝をつく。

 

『レ、レトロ……!?』

 

体の中が燃えるみたいに熱い。視界が滲み、影が何重にも重なって見えた。

 

『レトロ!しっかりして! 今、ドクターを――!』

 

クリスが屈み、目線が合う。手が私の肩に触れた――その感触だけが、やけに鮮明だった。

 

次の瞬間、記憶が途切れた。

 

 

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