『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

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2章 崩れ落ちる灯
5話


◇

 

 

『はぁっ……! はぁっ……!』

 

熱い。目が開かない。音が遠い。

 

背後から、何かが迫っている気配だけがある。

 

『グオォォォ……』

 

息を吸っても、体が言うことをきかない。

 

『くそっ……!』

 

『グオォォォ……』

 

近い。圧が、頭の中を掻き乱す。

 

『グオォォォォォ……』

 

私は何かを間違えたのか。

 

『グオォォォォォ……』

 

――刹那、脚が反応した。体が、動く。

 

見えないまま、暗闇の中を走る。ただ走る。

 

『……グオォ……ォ……』

 

しばらくして、背後の気配が遠のいていった。

 

緩んだ瞬間、私は何かにぶつかった。

 

『きゃ……!』

 

『な、なんだ?!』

 

『もう……レトロ……痛いですわ』

 

目を開いた。クリスの胸元が、目の前にあった。抱えられている。

 

『ひどく……うなされていたわよ』

 

私を抱いたまま、クリスが言う。

 

『あ、ああ……すまない』

 

私は寝台から体を起こし、周囲を見回した。

 

『でも、目が覚めてよかった……あんなに苦しんでいたのに、どれだけ声をかけても起きなかったんですもの』

 

『私は、あの後……どうなったんだ?』

 

『……すぐに医務室に運ばれて検査を受けたわ。結果は……「過労」だと、ドクターが言っていたわ』

 

『過労……?』

 

ここへ来てから、私はほとんど何もしていない。仕事と呼べるものは、手伝い程度だ。

 

『ええ。ここへ来るまでの間に、無理をしなかったかしら?』

 

『……』

 

鉄道の線路沿いを、何日も休まず歩き続けたことが脳裏をよぎる。

 

『おいクリス。目が覚めたら俺を呼べと言ったろ』

 

マンタが部屋へ入ってきた。

 

『あら……ごめんなさいね』

 

クリスは私から離れ、罰が悪そうに身を引いた。

 

マンタがこちらを見る。相変わらず、何を考えているのか分からない目だ。

 

『レトロ。お前は……過労だ』

 

『……ほかの原因は考えられないのか』

 

『今んとこな。検査で分かったが、筋肉や関節にかなり無理をした跡が残っていた。お前、どんだけ無茶したんだ』

 

『やっぱり。また無理をしたのね』

 

『……クリス。悪いが、少しふたりにさせてくれ』

 

マンタは視線だけでこちらを制し、空いた手を小さく振って外を示した。

 

『……どうか、いたしましたか?』

 

『いや。聞きたいことがあるだけだ』

 

『……わかりました。しばらく外します』

 

渋々という様子で、クリスは部屋を後にした。扉が閉まり、廊下の気配が一枚隔てられる。

 

『……行ったか』

 

マンタが小さくつぶやく。

 

『マンタ。原因はなんだ?』

 

『……過労だ。今のところは』

 

カルテを眺めたまま、ドクターが続ける。

 

『まあ、無理もない。お前の事情はよく分かっている』

 

『……私は全身が溶けそうになるほどに熱かった。それを過労だと言うのか』

 

『しょうがねえだろ。今はそれで納得しておけ』

 

『だが……』

 

『すぐに治療できる方法も無い。とにかく薬飲んで寝ろ。そうすりゃいずれ良くなるだろうよ』

 

マンタは引き出しから封筒を取り出し、ベッド脇の台へ置いた。

紙の擦れる音がやけに大きい。

 

ドクターはカルテに書き込みながら言葉を繋いだ。

 

部屋には、ペン先の音だけが残る。

 

『レトロ。あんまり抱え込むなよ。クリスを呼んでくる』

 

マンタが立ち上がる。

 

『待ってくれ』

 

『あ? どうした?』

 

『今は……クリスを呼ばないでくれ』

 

言った瞬間、自分の喉がひどく乾いているのに気づいた。呼んでしまえば、きっと平静を装えなくなる。

 

『医者としては、今のお前をひとりにはしたくないが……まあいいだろう。クリスには俺から言っておく』

 

『ああ……すまない』

 

ドクターが部屋を出て、扉が閉まる。静寂が戻った。

足音が遠ざかり、建物の機械音だけが残る。

 

『はあ……』

 

ひどく疲れた。自分がここまで追い詰められていたとは、思っていなかった。

私はベッドの端に腰を下ろし、額を軽く押さえた。

 

『なーに弱ってんのさ。大佐』

 

『……!』

 

頭の中に、声が響いた。

 

『スーズ……?!』

 

咄嗟に名前を呼ぶ。本人がここにいないと、分かっているのに。

 

『言いたいことは、いろいろあるけどさ……とりあえず、今は休んどきなよ』

 

声は続く。

 

『進み方を忘れたときだけ、思い出してよね』

 

『……そうか。お前は、私のことを忘れずにいてくれているんだな』

 

返事はない。だが、胸の奥がほんの少しだけ軽くなった。

 

『さて……クリスに会いに行くか』

 

私は立ち上がった。上着を羽織り、帽子を深く被る。同時に、体の重さがわずかに抜けたのを感じた。

 

 

◇

 

 

待合室へ戻ると、そこにはただ静かに待つ彼女の姿があった。

小さな水槽の中で、淡い光をまとった小魚が、何事もなかったように泳いでいる。

 

『クリス』

 

『あら……レトロ。もう起き上がっていいの?』

 

私の姿を見て、クリスがすっと立ち上がった。

 

『この通り、問題ない』

 

私は両手を広げてみせる。

 

『……もう。本当に心配したのよ。いきなり倒れたものだから』

 

寂しそうな笑みが、ほんの一瞬だけ揺れた。

 

『でも……よかった。もし、わたくしにできることがあったら……なんでも言って。力になるわ』

 

『ありがとう』

 

静かな時間が落ちた。

水槽の水音だけが、薄く耳に残る。

 

『仕事はいいのか?』

 

壁にかけられた時計へ視線を投げ、私は訊ねた。

 

『今日は、別の方に任せてあるの』

 

『……そうか』

 

『あ! ここに居たのね!』

 

待合室に、弾むような声が響いた。

青い巻き髪の女性が、足早に近づいてくる。

 

『……貴方は』

 

喉の奥が、高く鳴る。

――忘れようとしても、忘れられない輪郭。

 

『あら……お待ちしておりました』

 

クリスが深々と頭を下げた。

 

『クリスちゃん。それに……レトロ。ひさしぶり』

 

胸の奥が冷える。

 

『……お久しぶり…です』

 

彼女は優しく微笑んだ。

 

『そんなにかしこまらないで。ここにいる人は皆、家族みたいなものでしょ?』

 

その言い方が、あまりにも自然で。

私の中で、引き攣れた記憶が勝手にほどけて、また結び直される。

 

『……ですが……』

 

クリスも、同じものを思い出しているらしい。

視線が、ほんのわずかに泳いだ。

 

『うふふ。さて――エントランスへ向かうわね。館長代理として、今日は頑張っちゃうんだから』

 

『……はい。よろしくお願いします』

 

彼女は展示棟の方へ、ぱたぱたと走っていった。

 

『……クリス。彼女は……人間に戻ったのか?』

 

『いいえ。クリス様は…クリーピーのままですわ』

 

『……ようやく自由になれたのに、ここに留まることを選んだのか』

 

『ええ……それほどまでに、あの人のことが忘れられないのでしょう』

 

『……私たちと同じく、か…』

 

水音に混ざって、時計が秒針を刻んでいる。

 

 

◇

 

 

『残りの処置は任せたぞ。俺はレトロの様子でも見に行く』

 

病室の扉が開き、マンタが姿を現した。

 

『マンタ』

 

『おい。何、勝手に起き上がってるんだ。病人はさっさとベッドに戻れ』

 

私の姿を見て、淡々と言い放つ。

 

『薬は飲んだ。体調も、なんともない』

 

『はあ……まあ、それでこそお前と言うべきか』

 

マンタはぶつぶつ独り言を漏らしながら、足取りだけは慎重に廊下を進み、私の様子を一つずつ確かめている。

 

『仕方がない。本来なら俺がここで止めるべきだが……あとはクリスに任せる』

 

白衣の内ポケットから白い封筒を取り出し、クリスへ渡した。

 

『これは……なんでしょうか?』

 

『クリス。もしレトロがまた発作を起こしたら、こいつを飲ませてくれ。説明は中だ』

 

『ええ……かしこまりましたわ』

 

『それと。レトロ』

 

マンタの視線が、私へ移る。

 

『お前、分かってると思うが……無茶だけはするなよ。じゃあな』

 

それだけ言うと、マンタは廊下の奥へ消えた。

 

隣の病室から、フグナースと患者の声が聞こえる。

 

『……ねえ』

 

小さな声で呼ばれ、私は振り向いた。

 

クリスが、いつもよりゆっくりした歩幅で近づいてくる。

 

『……なんだ』

 

私の半歩前で足を止めると、クリスは私を見上げたまま、少しだけ間を置いた。

 

『そろそろ……スーズ様が、お見えになる頃かしら』

 

『スーズが……?』

 

唐突に名前が落ちてきて、思考が白くなる。

 

『……スーズ様は、必ずまたここへ戻ってきますわ。ルル様とご一緒に』

 

『な、何を言っている……?』

 

クリスの尋常ならざる雰囲気に、声が裏返りそうになる。私は思わず一歩退いた。

 

『……うふふ。貴方にとっても、都合のいいことでしょう?』

 

クリスが、さらに一歩、距離を詰める。

 

その瞬間、耳の奥で泡が弾ける音がした。そう感じた。

 

『……レトロ? 何をそんなに怯えているの?』

 

水槽の魚が、激しく泳ぎ回っている。

 

壁時計の秒針も、止まってしまったように見えた。

 

『貴様……!』

 

クリスの影が、鈍く揺れる。

 

私は腰の剣へ手を伸ばし、柄を握り、抜いた。

 

『……なん……だと……?』

 

刃が、ない。

 

柄だけが掌に残り、そこにあるはずの重みが消えている。

 

『ふふ……そんなもの、使わなくていいはずよ……?』

 

クリスが、もう一歩。

 

身体が軽く触れた。そこから冷たさが滲み、ゆっくりと凍り付いていく。

 

『……本当に、大丈夫なの?』

 

目を見開く。

 

クリスが心配そうに、こちらを見つめていた。

 

次の瞬間、腕が回り、私は包み込まれる。

 

『大丈夫よ。スーズ様は……きっと見つかるわ』

 

温かさが、凍えた身体にゆっくり沁み込んでいった。

 

再び音が戻った。止まっていたはずの秒針も、淡々と刻み始める。

水槽の小魚も、ひれを揺らしながらゆったり泳いでいる。

 

『……私は……何をしていた?』

 

『ひどく……震えていたわ。触れると、氷みたいに冷たかった』

 

抱く腕が、確かめるように少しだけ強まった。

 

『……』

 

私は目を伏せた。先ほどの感覚が、まだ残っている。

 

胸の奥で、鼓動だけが暴れていた。

あの石が私の心臓だったのなら。今、私の胸の中で揺れているものは……一体何なのだろう。

 

『落ち着いて……わたくしも、スーズ様も、貴方を置いて行ったりはしないわ。決して』

 

クリスの鼓動が、私の胸に当たっている。弱々しく、それでも止まらない。

私を動かすには、それで十分だった。

 

私はクリスの頬に手を伸ばした。瞳には涙が潤み、今にも零れそうだった。

 

『クリス……ありがとう』

 

クリスの瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。

 

『ええ……いずれ、スーズ様を探しに行くのでしょう?』

 

『……ああ』

 

『その時が来たら、わたくしを連れて行って』

 

その瞳の奥には、先ほど触れた鼓動の強さが透けて見えた。

涙の跡を指先で拭いながらも、クリスは視線を逸らさない。

 

心に張っていた迷いの根だけが、静かに抜け落ちた。

 

『……わかった。なら、今から荷物をまとめるぞ』

 

私は踵を返し、部屋の隅に置いた上着へ手を伸ばした。

 

『も、もう行くの?』

 

クリスが小さく息を呑む。驚きはあるのに、引き止める言葉は出てこない。

 

『そうだ。お前の言葉で決心が着いた。必ず見つけ出す』

 

言い切った途端、胸の奥に残っていた迷いが、綺麗にほどけた気がした。

 

『……もう。しょうがないわね』

 

呆れたように言いながら、クリスの口元がほんの少しだけ緩む。

 

『すまない。だが、一日でも早くスーズを見つけたい』

 

私は上着を抱え直し、落ち着かない指先を無理に止めた。

 

『うふふ。貴方らしいわ』

 

クリスは館内の気配を確かめるように、静かに息を整えた。

 

『でも、引き継ぐことがあるの。警備と、放送、それに……』

 

目を閉じ、数えるように続ける。まるで、この場所での思い出を、ひとつひとつ噛みしめるように。

 

『……ああ。こちらは支度を進めておく。終わったら教えてくれ』

 

 

◇

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