『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

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2章 崩れ落ちる灯
5話


 

 

『はぁっ……! はぁっ……!』

 

熱い。目が開かない。音が遠い。

 

背後から、何かが迫っている気配だけがある。

 

『グオォォォ……』

 

息を吸っても、体が言うことをきかない。

 

『くそっ……!』

 

『グオォォォ……』

 

近い。圧が、頭の中を掻き乱す。

 

『グオォォォォォ……』

 

私は何かを間違えたのか。

 

『グオォォォォォ……』

 

――刹那、脚が反応した。体が、動く。

 

見えないまま、暗闇の中を走る。ただ走る。

 

『……グオォ……ォ……』

 

しばらくして、背後の気配が遠のいていった。

 

緩んだ瞬間、私は何かにぶつかった。

 

『きゃ……!』

 

『な、なんだ?!』

 

『もう……レトロ……痛いですわ』

 

目を開いた。クリスの胸元が、目の前にあった。抱えられている。

 

『ひどく……うなされていたわよ』

 

私を抱いたまま、クリスが言う。

 

『あ、ああ……すまない』

 

私は寝台から体を起こし、周囲を見回した。

 

『でも、目が覚めてよかった……あんなに苦しんでいたのに、どれだけ声をかけても起きなかったんですもの』

 

『私は、あの後……どうなったんだ?』

 

『……すぐに医務室に運ばれて検査を受けたわ。結果は……「過労」だと、ドクターが言っていたわ』

 

『過労……?』

 

ここへ来てから、私はほとんど何もしていない。仕事と呼べるものは、手伝い程度だ。

 

『ええ。ここへ来るまでの間に、無理をしなかったかしら?』

 

『……』

 

鉄道の線路沿いを、何日も休まず歩き続けたことが脳裏をよぎる。

 

『おいクリス。目が覚めたら俺を呼べと言ったろ』

 

マンタが部屋へ入ってきた。

 

『あら……ごめんなさいね』

 

クリスは私から離れ、罰が悪そうに身を引いた。

 

マンタがこちらを見る。相変わらず、何を考えているのか分からない目だ。

 

『レトロ。お前は……過労だ』

 

『……ほかの原因は考えられないのか』

 

『今んとこな。検査で分かったが、筋肉や関節にかなり無理をした跡が残っていた。お前、どんだけ無茶したんだ』

 

『やっぱり。また無理をしたのね』

 

『……クリス。悪いが、少しふたりにさせてくれ』

 

マンタは視線だけでこちらを制し、空いた手を小さく振って外を示した。

 

『……どうか、いたしましたか?』

 

『いや。聞きたいことがあるだけだ』

 

『……わかりました。しばらく外します』

 

渋々という様子で、クリスは部屋を後にした。扉が閉まり、廊下の気配が一枚隔てられる。

 

『……行ったか』

 

マンタが小さくつぶやく。

 

『マンタ。原因はなんだ?』

 

『……過労だ。今のところは』

 

カルテを眺めたまま、ドクターが続ける。

 

『まあ、無理もない。お前の事情はよく分かっている』

 

『……私は全身が溶けそうになるほどに熱かった。それを過労だと言うのか』

 

『しょうがねえだろ。今はそれで納得しておけ』

 

『だが……』

 

『すぐに治療できる方法も無い。とにかく薬飲んで寝ろ。そうすりゃいずれ良くなるだろうよ』

 

マンタは引き出しから封筒を取り出し、ベッド脇の台へ置いた。

紙の擦れる音がやけに大きい。

 

ドクターはカルテに書き込みながら言葉を繋いだ。

 

部屋には、ペン先の音だけが残る。

 

『レトロ。あんまり抱え込むなよ。クリスを呼んでくる』

 

マンタが立ち上がる。

 

『待ってくれ』

 

『あ? どうした?』

 

『今は……クリスを呼ばないでくれ』

 

言った瞬間、自分の喉がひどく乾いているのに気づいた。呼んでしまえば、きっと平静を装えなくなる。

 

『医者としては、今のお前をひとりにはしたくないが……まあいいだろう。クリスには俺から言っておく』

 

『ああ……すまない』

 

ドクターが部屋を出て、扉が閉まる。静寂が戻った。

足音が遠ざかり、建物の機械音だけが残る。

 

『はあ……』

 

ひどく疲れた。自分がここまで追い詰められていたとは、思っていなかった。

私はベッドの端に腰を下ろし、額を軽く押さえた。

 

『なーに弱ってんのさ。大佐』

 

『……!』

 

頭の中に、声が響いた。

 

『スーズ……?!』

 

咄嗟に名前を呼ぶ。本人がここにいないと、分かっているのに。

 

『言いたいことは、いろいろあるけどさ……とりあえず、今は休んどきなよ』

 

声は続く。

 

『進み方を忘れたときだけ、思い出してよね』

 

『……そうか。お前は、私のことを忘れずにいてくれているんだな』

 

返事はない。だが、胸の奥がほんの少しだけ軽くなった。

 

『さて……クリスに会いに行くか』

 

私は立ち上がった。上着を羽織り、帽子を深く被る。同時に、体の重さがわずかに抜けたのを感じた。

 

 

 

 

待合室へ戻ると、そこにはただ静かに待つ彼女の姿があった。

小さな水槽の中で、淡い光をまとった小魚が、何事もなかったように泳いでいる。

 

『クリス』

 

『あら……レトロ。もう起き上がっていいの?』

 

私の姿を見て、クリスがすっと立ち上がった。

 

『この通り、問題ない』

 

私は両手を広げてみせる。

 

『……もう。本当に心配したのよ。いきなり倒れたものだから』

 

寂しそうな笑みが、ほんの一瞬だけ揺れた。

 

『でも……よかった。もし、わたくしにできることがあったら……なんでも言って。力になるわ』

 

『ありがとう』

 

静かな時間が落ちた。

水槽の水音だけが、薄く耳に残る。

 

『仕事はいいのか?』

 

壁にかけられた時計へ視線を投げ、私は訊ねた。

 

『今日は、別の方に任せてあるの』

 

『……そうか』

 

『あ! ここに居たのね!』

 

待合室に、弾むような声が響いた。

青い巻き髪の女性が、足早に近づいてくる。

 

『……貴方は』

 

喉の奥が、高く鳴る。

――忘れようとしても、忘れられない輪郭。

 

『あら……お待ちしておりました』

 

クリスが深々と頭を下げた。

 

『クリスちゃん。それに……レトロ。ひさしぶり』

 

胸の奥が冷える。

 

『……お久しぶり…です』

 

彼女は優しく微笑んだ。

 

『そんなにかしこまらないで。ここにいる人は皆、家族みたいなものでしょ?』

 

その言い方が、あまりにも自然で。

私の中で、引き攣れた記憶が勝手にほどけて、また結び直される。

 

『……ですが……』

 

クリスも、同じものを思い出しているらしい。

視線が、ほんのわずかに泳いだ。

 

『うふふ。さて――エントランスへ向かうわね。館長代理として、今日は頑張っちゃうんだから』

 

『……はい。よろしくお願いします』

 

彼女は展示棟の方へ、ぱたぱたと走っていった。

 

『……クリス。彼女は……人間に戻ったのか?』

 

『いいえ。クリス様は…クリーピーのままですわ』

 

『……ようやく自由になれたのに、ここに留まることを選んだのか』

 

『ええ……それほどまでに、あの人のことが忘れられないのでしょう』

 

『……私たちと同じく、か…』

 

水音に混ざって、時計が秒針を刻んでいる。

 

 

 

 

『残りの処置は任せたぞ。俺はレトロの様子でも見に行く』

 

病室の扉が開き、マンタが姿を現した。

 

『マンタ』

 

『おい。何、勝手に起き上がってるんだ。病人はさっさとベッドに戻れ』

 

私の姿を見て、淡々と言い放つ。

 

『薬は飲んだ。体調も、なんともない』

 

『はあ……まあ、それでこそお前と言うべきか』

 

マンタはぶつぶつ独り言を漏らしながら、足取りだけは慎重に廊下を進み、私の様子を一つずつ確かめている。

 

『仕方がない。本来なら俺がここで止めるべきだが……あとはクリスに任せる』

 

白衣の内ポケットから白い封筒を取り出し、クリスへ渡した。

 

『これは……なんでしょうか?』

 

『クリス。もしレトロがまた発作を起こしたら、こいつを飲ませてくれ。説明は中だ』

 

『ええ……かしこまりましたわ』

 

『それと。レトロ』

 

マンタの視線が、私へ移る。

 

『お前、分かってると思うが……無茶だけはするなよ。じゃあな』

 

それだけ言うと、マンタは廊下の奥へ消えた。

 

隣の病室から、フグナースと患者の声が聞こえる。

 

『……ねえ』

 

小さな声で呼ばれ、私は振り向いた。

 

クリスが、いつもよりゆっくりした歩幅で近づいてくる。

 

『……なんだ』

 

私の半歩前で足を止めると、クリスは私を見上げたまま、少しだけ間を置いた。

 

『そろそろ……スーズ様が、お見えになる頃かしら』

 

『スーズが……?』

 

唐突に名前が落ちてきて、思考が白くなる。

 

『……スーズ様は、必ずまたここへ戻ってきますわ。ルル様とご一緒に』

 

『な、何を言っている……?』

 

クリスの尋常ならざる雰囲気に、声が裏返りそうになる。私は思わず一歩退いた。

 

『……うふふ。貴方にとっても、都合のいいことでしょう?』

 

クリスが、さらに一歩、距離を詰める。

 

その瞬間、耳の奥で泡が弾ける音がした。そう感じた。

 

『……レトロ? 何をそんなに怯えているの?』

 

水槽の魚が、激しく泳ぎ回っている。

 

壁時計の秒針も、止まってしまったように見えた。

 

『貴様……!』

 

クリスの影が、鈍く揺れる。

 

私は腰の剣へ手を伸ばし、柄を握り、抜いた。

 

『……なん……だと……?』

 

刃が、ない。

 

柄だけが掌に残り、そこにあるはずの重みが消えている。

 

『ふふ……そんなもの、使わなくていいはずよ……?』

 

クリスが、もう一歩。

 

身体が軽く触れた。そこから冷たさが滲み、ゆっくりと凍り付いていく。

 

『……本当に、大丈夫なの?』

 

目を見開く。

 

クリスが心配そうに、こちらを見つめていた。

 

次の瞬間、腕が回り、私は包み込まれる。

 

『大丈夫よ。スーズ様は……きっと見つかるわ』

 

温かさが、凍えた身体にゆっくり沁み込んでいった。

 

再び音が戻った。止まっていたはずの秒針も、淡々と刻み始める。

水槽の小魚も、ひれを揺らしながらゆったり泳いでいる。

 

『……私は……何をしていた?』

 

『ひどく……震えていたわ。触れると、氷みたいに冷たかった』

 

抱く腕が、確かめるように少しだけ強まった。

 

『……』

 

私は目を伏せた。先ほどの感覚が、まだ残っている。

 

胸の奥で、鼓動だけが暴れていた。

あの石が私の心臓だったのなら。今、私の胸の中で揺れているものは……一体何なのだろう。

 

『落ち着いて……わたくしも、スーズ様も、貴方を置いて行ったりはしないわ。決して』

 

クリスの鼓動が、私の胸に当たっている。弱々しく、それでも止まらない。

私を動かすには、それで十分だった。

 

私はクリスの頬に手を伸ばした。瞳には涙が潤み、今にも零れそうだった。

 

『クリス……ありがとう』

 

クリスの瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。

 

『ええ……いずれ、スーズ様を探しに行くのでしょう?』

 

『……ああ』

 

『その時が来たら、わたくしを連れて行って』

 

その瞳の奥には、先ほど触れた鼓動の強さが透けて見えた。

涙の跡を指先で拭いながらも、クリスは視線を逸らさない。

 

心に張っていた迷いの根だけが、静かに抜け落ちた。

 

『……わかった。なら、今から荷物をまとめるぞ』

 

私は踵を返し、部屋の隅に置いた上着へ手を伸ばした。

 

『も、もう行くの?』

 

クリスが小さく息を呑む。驚きはあるのに、引き止める言葉は出てこない。

 

『そうだ。お前の言葉で決心が着いた。必ず見つけ出す』

 

言い切った途端、胸の奥に残っていた迷いが、綺麗にほどけた気がした。

 

『……もう。しょうがないわね』

 

呆れたように言いながら、クリスの口元がほんの少しだけ緩む。

 

『すまない。だが、一日でも早くスーズを見つけたい』

 

私は上着を抱え直し、落ち着かない指先を無理に止めた。

 

『うふふ。貴方らしいわ』

 

クリスは館内の気配を確かめるように、静かに息を整えた。

 

『でも、引き継ぐことがあるの。警備と、放送、それに……』

 

目を閉じ、数えるように続ける。まるで、この場所での思い出を、ひとつひとつ噛みしめるように。

 

『……ああ。こちらは支度を進めておく。終わったら教えてくれ』

 

 

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