◇
『ん……?』
『スーちゃん?どうしたの?』
『今、なんかこの時計が動いたように見えたんだけど……』
『そうなの?でも、壊れちゃったんじゃなかったっけ?』
『うん。あの時海に落としたせいで、もう動かないはず』
『じゃあ、どうして動いたように見えたんだろう…』
『……お前が進み方を忘れたときだけ、思い出せ、か…』
◇
『……クリスさん』
私は受付カウンターの前で立ち止まり、帽子のつばを指先で押さえるようにしてから、ゆっくり顔を上げた。
『あら、レトロ?どうしたの?』
クリスさんは手元の書類を閉じ、柔らかな笑みでこちらを見た。だが、その目だけが一瞬、瞬きを忘れた。
『私は今から、ここを出ます。……今まで本当に、お世話になりました』
言い切ってから、短く息を整え、深く頭を下げた。
『……そう。ついにこの時が来たのね。スーズちゃんを、探しに行くの?』
クリスさんは椅子から立ち上がらず、声だけを落とした。背筋はまっすぐなのに、指先はわずかにカウンターの縁を掴んでいた。
『……はい』
軽く頷いた。視線は逸らさないまま、足元に力を込めた。
『貴方なら、いつかそうすると思っていたわ』
クリスさんは微笑んだまま、息を吐いた。その笑みには、送り出す側の覚悟が滲んでいた。
『……』
返事を探して口を開きかけたが、結局そのまま飲み込んだ。静けさの中で、循環装置の低い音だけが続いた。
『じゃあ……少し、待っていてくれる?渡したいものがあるの』
クリスさんは視線を外し、受付裏の棚へと体を向けた。
『もちろんです』
一歩も動かず、ただ待った。背中越しに、引き出しが開いた小さな音がした。
『……はい、大切にしまっておいてね』
クリスさんが戻り、掌に収まる小さな包みを差し出す。青い封の角が、照明を受けて淡く光った。
『これは……何でしょうか』
私は受け取る前に一度だけ指先を止め、確かめるように見つめた。
『うーん……そうね。貴方が無事に帰ってこられるためのお守り、かしら』
クリスさんは肩をすくめるように、わざと曖昧に笑った。視線は包みではなく、私の顔に向けられていた。
『ど、どういう……』
声がわずかに揺れた。包みに触れた指先が、思いのほか冷えていることに気づいた。
『うふふ。スーズちゃんを迎えに行くんでしょ?早く行ってあげなさい』
クリスさんは言い切って、手を引いた。笑みは崩さないまま、背中だけがほんの少し小さく見えた。
◇
『……待たせた。すまない』
私は足を止め、クリスの前で帽子のつばに指を添えた。息がまだ少し荒い。
『大丈夫よ。貴方が皆に引き留められることは、分かっていたもの』
クリスは責めるでもなく、いつも通りの笑みで私を見上げた。
『ふっ……さて、そろそろ向かうとするか』
私は短く息を吐き、視線を搬入口の方へ向けた。
『最初はどこへ行くの?』
クリスの声は静かだったが、確認する意志だけははっきりしていた。
『まずはこの水族館の最寄り駅だ。スーズが普段利用しているかもしれない。駅員に直接話を聞こう』
言い切ると、迷いを振り払うように一歩外へ踏み出した。
瞬間、潮の匂いと波の音に包まれる。そこに混じって、耳の奥で泡が弾ける音がした。
『……レトロ。ひとつだけ言わせて』
隣を歩くクリスが、少しだけ歩幅を落とした。声は抑えているのに、言葉だけが妙にはっきり届く。
『どうした?』
私は歩みを止めないまま、わずかに顔だけ向けた。
『今はこうして離れるけれど。またいつか、あの水族館へ戻ってほしいの』
言い終える直前、クリスの視線が一度だけ背後へ流れた。振り返らないのに、戻る場所の輪郭だけが強くなる。
『……ああ。スーズを見つけると言っても、消えるわけではない』
自分の声が硬いままだと気づき、語尾を少しだけ落とした。確かめるように、クリスの横顔を見た。
『そう……それなら、良かったわ』
クリスは小さく息を吐き、肩の力を抜いた。けれど安心の形は薄く、まだ何かを飲み込んでいる顔だった。
『……』
私は言葉を継ごうとして、喉の奥でいったん止まった。潮の匂いが、ふいに冷たく感じる。
『クリス。お前は……』
視線を前に戻したまま、続きを探すように口を開いた。
その瞬間、さっきまで当たり前に聞こえていた波の音が、ふっと遠のいた。
『……レトロ?』
私を覗き込む顔が、突然滲んで輪郭を失った。その直後、視界が垂直に落ちる。
『レトロ!』
クリスが私を抱き留め、白い封筒を懐から抜き取った。
封を破り、錠剤を一つ取り出して私の唇の隙間に滑り込ませる。顎に指を添え、噛むよう促した。
『……う……』
寒い。胸の中心が、じわじわ冷たくなっていく。
私は眠りに落ちながら、あの空っぽの水槽へ消えた、泡の行方だけを追っていた。
◇