『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

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6話

 

 

『ん……?』

 

『スーちゃん?どうしたの?』

 

『今、なんかこの時計が動いたように見えたんだけど……』

 

『そうなの?でも、壊れちゃったんじゃなかったっけ?』

 

『うん。あの時海に落としたせいで、もう動かないはず』

 

『じゃあ、どうして動いたように見えたんだろう…』

 

『……お前が進み方を忘れたときだけ、思い出せ、か…』

 

 

 

 

『……クリスさん』

 

私は受付カウンターの前で立ち止まり、帽子のつばを指先で押さえるようにしてから、ゆっくり顔を上げた。

 

『あら、レトロ?どうしたの?』

 

クリスさんは手元の書類を閉じ、柔らかな笑みでこちらを見た。だが、その目だけが一瞬、瞬きを忘れた。

 

『私は今から、ここを出ます。……今まで本当に、お世話になりました』

 

言い切ってから、短く息を整え、深く頭を下げた。

 

『……そう。ついにこの時が来たのね。スーズちゃんを、探しに行くの?』

 

クリスさんは椅子から立ち上がらず、声だけを落とした。背筋はまっすぐなのに、指先はわずかにカウンターの縁を掴んでいた。

 

『……はい』

 

軽く頷いた。視線は逸らさないまま、足元に力を込めた。

 

『貴方なら、いつかそうすると思っていたわ』

 

クリスさんは微笑んだまま、息を吐いた。その笑みには、送り出す側の覚悟が滲んでいた。

 

『……』

 

返事を探して口を開きかけたが、結局そのまま飲み込んだ。静けさの中で、循環装置の低い音だけが続いた。

 

『じゃあ……少し、待っていてくれる?渡したいものがあるの』

 

クリスさんは視線を外し、受付裏の棚へと体を向けた。

 

『もちろんです』

 

一歩も動かず、ただ待った。背中越しに、引き出しが開いた小さな音がした。

 

『……はい、大切にしまっておいてね』

 

クリスさんが戻り、掌に収まる小さな包みを差し出す。青い封の角が、照明を受けて淡く光った。

 

『これは……何でしょうか』

 

私は受け取る前に一度だけ指先を止め、確かめるように見つめた。

 

『うーん……そうね。貴方が無事に帰ってこられるためのお守り、かしら』

 

クリスさんは肩をすくめるように、わざと曖昧に笑った。視線は包みではなく、私の顔に向けられていた。

 

『ど、どういう……』

 

声がわずかに揺れた。包みに触れた指先が、思いのほか冷えていることに気づいた。

 

『うふふ。スーズちゃんを迎えに行くんでしょ?早く行ってあげなさい』

 

クリスさんは言い切って、手を引いた。笑みは崩さないまま、背中だけがほんの少し小さく見えた。

 

 

 

 

『……待たせた。すまない』

 

私は足を止め、クリスの前で帽子のつばに指を添えた。息がまだ少し荒い。

 

『大丈夫よ。貴方が皆に引き留められることは、分かっていたもの』

 

クリスは責めるでもなく、いつも通りの笑みで私を見上げた。

 

『ふっ……さて、そろそろ向かうとするか』

 

私は短く息を吐き、視線を搬入口の方へ向けた。

 

『最初はどこへ行くの?』

 

クリスの声は静かだったが、確認する意志だけははっきりしていた。

 

『まずはこの水族館の最寄り駅だ。スーズが普段利用しているかもしれない。駅員に直接話を聞こう』

 

言い切ると、迷いを振り払うように一歩外へ踏み出した。

 

瞬間、潮の匂いと波の音に包まれる。そこに混じって、耳の奥で泡が弾ける音がした。

 

『……レトロ。ひとつだけ言わせて』

 

隣を歩くクリスが、少しだけ歩幅を落とした。声は抑えているのに、言葉だけが妙にはっきり届く。

 

『どうした?』

 

私は歩みを止めないまま、わずかに顔だけ向けた。

 

『今はこうして離れるけれど。またいつか、あの水族館へ戻ってほしいの』

 

言い終える直前、クリスの視線が一度だけ背後へ流れた。振り返らないのに、戻る場所の輪郭だけが強くなる。

 

『……ああ。スーズを見つけると言っても、消えるわけではない』

 

自分の声が硬いままだと気づき、語尾を少しだけ落とした。確かめるように、クリスの横顔を見た。

 

『そう……それなら、良かったわ』

 

クリスは小さく息を吐き、肩の力を抜いた。けれど安心の形は薄く、まだ何かを飲み込んでいる顔だった。

 

『……』

 

私は言葉を継ごうとして、喉の奥でいったん止まった。潮の匂いが、ふいに冷たく感じる。

 

『クリス。お前は……』

 

視線を前に戻したまま、続きを探すように口を開いた。

その瞬間、さっきまで当たり前に聞こえていた波の音が、ふっと遠のいた。

 

『……レトロ?』

 

私を覗き込む顔が、突然滲んで輪郭を失った。その直後、視界が垂直に落ちる。

 

『レトロ!』

 

クリスが私を抱き留め、白い封筒を懐から抜き取った。

封を破り、錠剤を一つ取り出して私の唇の隙間に滑り込ませる。顎に指を添え、噛むよう促した。

 

『……う……』

 

寒い。胸の中心が、じわじわ冷たくなっていく。

私は眠りに落ちながら、あの空っぽの水槽へ消えた、泡の行方だけを追っていた。

 

 

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