『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

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7話

 

 

レトロは研究棟の医務室の中、白い灯りの下に寝かされていた。

 

『……やっぱり、こうなったか』

 

ドクターは診察台の脇で足を止め、眠ったままのレトロの顔を一度だけ確かめた。

呼吸は浅いが乱れていない。脈を取り、瞳孔の反応を見てから、ようやく小さく息を吐く。

 

『ド、ドクター……レトロは……』

 

クリスはレトロの肩を支えたまま、視線だけをドクターに向けた。指先が微かに震えている。

 

『心配するな。命に関わる状態じゃない。……だがな』

 

ドクターはカルテに視線を落とし、ペン先を止めたまま言葉を選ぶ。安心させるのは先だが、軽く済む話でもない。

 

『……あの薬を飲ませたのか?』

 

顔は上げない。問いだけが、低く真っ直ぐに飛ぶ。

 

『え、ええ。中に入っていた指示通りに……』

 

クリスは白い封筒を握りしめ、頷いた。指示書の文面を思い出すように、唇が一度だけ噛まれる。

 

『……なら、数日はこのままだな』

 

ドクターは短く書き込みを入れ、椅子に腰を掛け直した。寝息の間隔を耳で測るように、視線はレトロから外れない。

 

『ど、どうして……ですか……』

 

クリスの声が掠れる。封筒の角が折れそうなほど、力が入った。

 

『あの薬は精神を強く抑制する。……本人が、ちゃんと認めるまでだ。戻ってこれねえかもな』

 

ドクターは言い切ってから、わずかに口を結んだ。薬で沈められるのは症状だけで、原因そのものは本人の中に残る。

 

『……まあ、助かってよかったと思ってくれ』

 

慰めというより、現実の落とし所だった。診察室には機械の小さな駆動音と、眠るレトロの呼吸だけが残る。

 

 

 

 

『……あれ、やっぱり』

 

『絶対に動いてる。中から音するし』

 

『うーん……?針は動いてないのに』

 

『……あ、止まった。なんなの……?』

 

 

 

 

寒い。瞼が開かない。泡の音が聞こえる。ここは……水の中か?

 

体も動かない。されるがままに、私はゆっくりと流されていく。

 

私はなぜ、あの場所を離れられないのだろうか。

 

『……』

 

私は、死んだのか? クリスが飲ませた薬は何だったんだ?

頭の中で、何かが引っかかっていた。

 

考えながら流され続ける。やがて、瞼の向こうに光が見えた。

 

『ここは……』

 

見渡すと、岩や砂、小魚、海藻が見える。

 

『ああ……』

 

私は理解した。忘れもしない、この景色。これは水槽の中だ。

 

十二年前のビアンカ水族館。

私はホオジロザメの姿のまま、展示水槽の水を漂っていた。ガラスの向こうには来館者の影が揺れている。

そのすぐそば、並んだもうひとつの小さな水槽に、淡い光をまとったクリオネが浮かんでいた。

 

私はガラスへ口を寄せ、小さく呼びかけた。

 

『……クリス』

 

『あら、レトロ……? クリス様を、探しているの?』

 

『……いや。お前に話しかけている』

 

『わたくしに……?』

 

——この時のクリスは、まだ名も無きクリオネだ。

 

『ああ。ひとつ、聞いてもいいか?』

 

『ええ。何が聞きたいのかしら』

 

『お前は……ひとつだけ願いが叶うなら、何を望む?』

 

『……そうですわね。わたくしは……館長と、クリス様の末永い幸せを望みますわ』

 

クリオネは小さく目を伏せるように、優しく微笑んで願いを告げた。

息が詰まった。ありえないはずの熱が、視界を滲ませ、水に溶けていく。

 

『もしかして、深海の石を知っているの?』

 

『……いや。その話は聞いたこともない。ただ、お前が何を考えているのか、知りたくてな』

 

『なら……貴方の願いも教えてほしいわ。貴方は、何を望むのかしら』

 

『……』

 

私は黙り込んだ。ここで何を告げるべきか、記憶を巡らせていた。叶うはずがないと分かっているのに。

 

『私は……皆が幸せなら、それでいい』

 

『……そう。とても素敵な、願いですわね』

 

その時、水槽を照らす青い光が、照明とは思えないほど一瞬だけ強くなった。

私はたまらず目を閉じたが、瞼の裏まで真っ青に染まった。

 

私ははっとして、あの懐中時計を探した。しかし、ひれの付け根も腹も探ってみても、それは見つからなかった。

 

『レトロ? 何をしているの?』

 

『……何でもない』

 

今の青は何だ? 石がどこかにあるのか?

それとも……まだ夢の中にいるのか?

 

『あら……館長に、クリス様。会いに来てくれたのね』

 

ふたりは何か会話をしながら、クリオネの水槽を仲睦まじく眺めている。

 

『……この幸せが、ずっと永遠に続けばいいのに』

 

クリオネが、どこか寂しそうに呟いた。

 

次の瞬間、視界が青で埋め尽くされた。

 

『なんだ……?!』

 

目を開けても、青い光が広がるだけだった。

 

『くっ……!』

 

私は二人の姿を見失わぬよう、ガラスへ近づいた。だが、眩しさに包まれ、何も見えない。

 

『わたくしを、人間にして!!!!!!』

 

眩い光の中、叫びが刺さってくる。

それは、この水槽の中ではない。ガラスの向こう、あの小さな水槽の“外側”からだと、なぜか分かった。

 

同時に、この光の向こう側で何が起きているのか、理解してしまった。

 

『やめろ!!』

 

ただ叫んだ。止めたかった。

それなのに、私の声は水に溶けるだけで……私は、またしても何もできなかった。

 

光が収まるにつれて、視界を取り戻す。

水の重さが消え、床の冷たさが足裏に戻った。

 

『……』

 

私は見知らぬ場所にいた。先ほどの水槽の中ではない。

生暖かい風が、私を包む。暗い通路の先は、闇に飲まれて見えない。

 

私は立ち上がり、帽子を被り直した。

 

『……行くか』

 

腰に携えた剣を確かめ、歩き出す。

 

 

 

 

この場所は、どうやら私が知る水族館の裏通路ではないようだ。

歩きながら、曲がり角や扉の位置を記憶と照らし合わせて確かめていく。だが、どれも噛み合わない。あるはずの扉が壁になっていた。

 

『……ここも通れない、か』

 

ここまでかなり歩いてきたはずなのに、クリーピーはおろか魚の一匹にすら出合わない。

水音も聞こえてこない。ここは一体……何だ?

 

『……進むしかないな』

 

そう呟いて振り向くと、曲がり角の奥へ白い影が吸い込まれていくのが見えた。

輪郭が薄く、白く霞んだ背中——それでも、誰かの“後ろ姿”だった。

 

私はこの空間のことを知るために、その影を追いかけた。

 

しかし曲がり角に辿り着く頃には、その影は行方をくらませていた。

徒労感に覆われ、ふと足元へ視線を下ろす。何かが光を反射した。

 

『……間違いない』

 

私はそれを拾い上げた。針が十一時八分で止まっている。

中央にあったはずの石は、あの時砕け散ったせいか、欠片も残っていなかった。

 

『……』

 

私はそれを内ポケットにしまい、再び歩き出した。これがなぜここに落ちているのかは分からない。

だが、あの白い影を追えば必ず何かが分かる——そう、確信していた。

 

 

 

 

しばらく通路を歩くと、急に視界が開けた。

同時に、四角い建物が暗がりの中に浮かび上がる。

 

周囲はじわじわと暗さを増し、この場所そのものが危険へ傾いていくのを肌で感じた。

 

『これは……家か?』

 

私は玄関らしい扉の前に立ち、耳を澄ませる。中からは何も返ってこない。

ドアノブに手をかけ、慎重に力を込めた。——鍵はかかっていなかった。

 

扉の向こうには、小さな部屋が広がっていた。

足を踏み入れた途端、温かさで胸の奥がほどける。理由は分からない。ただ、懐かしい。

 

『……もう、夜か』

 

私は窓の外が闇へ沈んでいくのを、黙って眺めていた。

体が眠気と空腹を訴えてくる。それでも私は、眠るわけにはいかなかった。

 

剣を握り締めたまま部屋の隅にしゃがみ込んでいると、窓の外がいつの間にか、ぼんやりと灰色に染まっていた。

日が沈む前の景色と、何も変わらない。

窓に映っているのは、何もない空間だけだった。

 

私は疲労を引きずるように、部屋の外へ出た。

薄暗い。それでも、寒さはなかった。

 

この先に、何が待っているのか。

私はそれを確かめるために、再び歩き出した。

 

 

 

 

ドクターが病室の扉をそっと開けた。

 

『……お?』

 

朝日が淡く差し込む部屋の中。

寝台の脇で、クリスが体を預けるように眠っている。レトロの寝息に紛れるほど、静かな呼吸だった。

 

『……手のかかるやつだ』

 

ドクターは小さく漏らし、クリスの背にブランケットをそっとかけた。

それきり何も言わず、扉を静かに閉めて部屋を後にした。

 

 

 

 

『……何もない』

 

この世界はどうなっている。昨日から随分歩いてきた。それなのに、あるのは何もない部屋と狭い通路だけ。

あの時見た白い影も、もう見えない。

 

『はあ……』

 

私は通路の端に背を預け、座り込んだ。

疲労と空腹が限界を越え、意識が薄くなる。瞼が落ちていく。持ち上げる力が残っていない。

 

——途切れる、その直前。

すぐ横を何かがすり抜けた気配がした。

 

私は跳ねるように立ち上がり、抜けた先へ視線を走らせた。

 

『……スー……ズ……?』

 

目を疑った。疲れが見せた幻かもしれない。

それでも、この訳の分からない空間に、彼女の後ろ姿だけがはっきり浮かんでいた。

 

『待ってくれ! スーズ!』

 

私はがむしゃらに追った。

そしてついに、白く霞んだ影、その背に追いついた。

 

『スーズ!』

 

私はスーズの肩を掴んだ。

 

振り向いたスーズは、私を不思議そうに見つめていた。

 

『……君は……だれ……?』

 

胸の奥を針で刺されたように痛んだ。全身が、灼けるように熱い。

それでも、この手を離すわけにはいかなかった。

 

『……なんなの?』

 

スーズは私の手を払いのけ、そのまま去ろうとした。

 

『ぐっ……!』

 

体の熱がさらに強まり、私はその場にうずくまった。

ここで行かせてはいけない。なのに、体が動かない。

 

その時、すぐそばに気配が寄った。

 

『大丈夫……?』

 

スーズがしゃがみ込み、心配そうにこちらを覗き込んでいる。

その視線を受けたまま、私は意識を手放した。

 

 

 

 

私は瞼を開いた。眼前に、私を覗き込むスーズの心配そうな顔が広がる。

 

『……あ』

 

スーズは、目を覚ました私に気づくと、ほっとしたように明るく笑った。

だが私は、その笑みを見て確信した。

 

違う。私の知るスーズではない。

 

両足にはヒレのような靴。胸元のリボンは赤い。

 

『目が覚めたの? よかった』

 

顔も声も、すべて同じに見える。

それなのに、気配だけが彼女ではない、と告げていた。

 

『心配したんだよ。目の前で急に倒れて』

 

『……すまない。助かった』

 

『えへへ。ここね、私のおうち』

 

スーズはまた、何でもないことのように笑って答えた。

 

私は上体を起こし、周囲を確かめた。昨晩、身を寄せたあの家の中だ。窓の外は相変わらず暗く、時間の流れだけが曖昧だった。

 

『……お前は、何者だ』

 

『……わかんないの』

 

『なんだと……?』

 

『わかんない。ずっと、ひとりで寂しかった』

 

その言い方が妙に幼くて、胸の奥がざらついた。私は言葉を継げず、視線だけを彼女のヒレのような靴と、赤いリボンへ落とす。

 

『……』

 

スーズは私の沈黙を怖がるでもなく、少し首を傾げた。

 

『ねえ……君は、誰? どうしてここにいるの?』

 

『……私はレトロ』

 

名乗った瞬間、スーズの表情がわずかに明るくなる。

 

『レトロ……君はなんで、ここにいるの?』

 

『……わからない』

 

『え……?』

 

『私も……なぜここにいるのか、分からない』

 

『……そっか』

 

スーズは、胸の奥に溜めていた息をほどくように呟いた。肩がほんの少し下がる。

 

『……なぜそんなに嬉しそうなんだ』

 

『だって……君が来てくれたから』

 

その言葉が、部屋の静けさの中で妙に重く残った。

 

『……突然だが、私はお前の名前を知っている』

 

『……なんで? どうしてわかるの?』

 

『お前の名は……スーズだ』

 

スーズは一度だけ瞬きをして、まるで確かめるように自分の胸元へ指を置いた。

 

『スーズ……スーズ……うん。いい名前』

 

胸の中が、じわりと熱くなる。同時に、何かが胸に繰り返し当たっていることに気が付いた。

私は手を伸ばし、服の内側を探った。指先が固い金属に触れる。

針は十一時八分のまま動いていない。なのに、耳を澄ますまでもなく分かった。内部だけが、確かに動いている。

小さな音と震えが、掌に伝わってくる。

 

『それは……』

 

『お前が去った跡に落ちていたんだが、お前のか?』

 

『ううん……多分、違う。けど……見たことある、かも』

 

スーズは懐中時計をじっと見つめた。赤いリボンの下で喉が小さく動き、言葉を探すように視線が揺れる。

 

『……触ってみるか?』

 

『え……? いいの……?』

 

『ああ。針は止まったままだ……壊れているはずだがな』

 

私は懐中時計を掌の上で一度だけ転がしてから、スーズの前へ差し出した。

スーズは恐る恐る両手を伸ばし、受け取った瞬間、指先をきゅっとすぼめるようにしてそれを抱えた。

 

『……どうだ?』

 

『うーん……』

 

そう言いながら、スーズは手に持った懐中時計をじっと眺め直した。

角度を変えるたび、金属の縁がわずかに光を返す。

その揺れに合わせて、胸の奥が同じリズムで引かれる気がした。

 

『……それは、お前に預ける』

 

『どうして……? 君の、大切なものなんじゃないの?』

 

『逆だ』

 

『え……?』

 

『……私の大切なものだから、お前に持っていてほしい』

 

スーズは懐中時計を胸元に引き寄せ、しばらく黙った。

それから小さく頷く。

 

『……うん。わかった』

 

スーズは懐中時計を胸元に抱えたまま、指先でそっと縁をなぞった。

 

『……さて。そろそろ動かねばな』

 

私は床に手をつき、ゆっくり立ち上がる。

窓の外はいつの間にか薄く明るみを取り戻していた。

 

上着を羽織り直した瞬間、胸の奥に居座っていた熱と重さが引いていることに気づく。

呼吸が深く入る。足元のふらつきもない。

空っぽだったはずの内側が、いつの間にか満ちていた。

 

 

 

 

その夜。ドクターが病室の扉をそっと開けた。

 

『クリス』

 

ドクターが、眠っているクリスの肩を揺さぶった。

 

『……おいおい。どうなってやがる』

 

ドクターは深くため息をつく。寝台に預けられた体は熱もなく冷たくもなく、ただ重い。

呼吸はある。それが余計に厄介だった。

 

『担架を持ってこい。こいつを隣の部屋へ運んでくれ』

 

『『ラジャーーーー!!!』』

 

廊下の向こうから返事が跳ね返り、足音がばたばたと近づいてくる。

ほどなくして扉が開き、担架を抱えたシマフグとトラフグが雪崩れ込んできた。

 

それでもクリスは、眉ひとつ動かさない。レトロの寝台に体を預けたまま、目を覚まさない。

 

ドクターはその光景を一瞥し、歯噛みするように息を吐いた。

 

フグナースのふたりがクリスの体を支え、寝台からそっと引き剥がす。

布が擦れる音だけが短く鳴り、担架が軋んだ。

 

運ばれていく背を見送ってから、ドクターは寝台の脇へ戻る。

眠っているレトロの顔を横目に見て、言葉の続きを飲み込んだ。

 

『……レトロ』

 

返事は返らない。ドクターは唇を結び、扉へ向かう。

 

『……頼むぞ』

 

小さく吐き捨てるように呟き、ドクターは部屋を後にした。

 

 

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