◇
レトロは研究棟の医務室の中、白い灯りの下に寝かされていた。
『……やっぱり、こうなったか』
ドクターは診察台の脇で足を止め、眠ったままのレトロの顔を一度だけ確かめた。
呼吸は浅いが乱れていない。脈を取り、瞳孔の反応を見てから、ようやく小さく息を吐く。
『ド、ドクター……レトロは……』
クリスはレトロの肩を支えたまま、視線だけをドクターに向けた。指先が微かに震えている。
『心配するな。命に関わる状態じゃない。……だがな』
ドクターはカルテに視線を落とし、ペン先を止めたまま言葉を選ぶ。安心させるのは先だが、軽く済む話でもない。
『……あの薬を飲ませたのか?』
顔は上げない。問いだけが、低く真っ直ぐに飛ぶ。
『え、ええ。中に入っていた指示通りに……』
クリスは白い封筒を握りしめ、頷いた。指示書の文面を思い出すように、唇が一度だけ噛まれる。
『……なら、数日はこのままだな』
ドクターは短く書き込みを入れ、椅子に腰を掛け直した。寝息の間隔を耳で測るように、視線はレトロから外れない。
『ど、どうして……ですか……』
クリスの声が掠れる。封筒の角が折れそうなほど、力が入った。
『あの薬は精神を強く抑制する。……本人が、ちゃんと認めるまでだ。戻ってこれねえかもな』
ドクターは言い切ってから、わずかに口を結んだ。薬で沈められるのは症状だけで、原因そのものは本人の中に残る。
『……まあ、助かってよかったと思ってくれ』
慰めというより、現実の落とし所だった。診察室には機械の小さな駆動音と、眠るレトロの呼吸だけが残る。
◇
『……あれ、やっぱり』
『絶対に動いてる。中から音するし』
『うーん……?針は動いてないのに』
『……あ、止まった。なんなの……?』
◇
寒い。瞼が開かない。泡の音が聞こえる。ここは……水の中か?
体も動かない。されるがままに、私はゆっくりと流されていく。
私はなぜ、あの場所を離れられないのだろうか。
『……』
私は、死んだのか? クリスが飲ませた薬は何だったんだ?
頭の中で、何かが引っかかっていた。
考えながら流され続ける。やがて、瞼の向こうに光が見えた。
『ここは……』
見渡すと、岩や砂、小魚、海藻が見える。
『ああ……』
私は理解した。忘れもしない、この景色。これは水槽の中だ。
十二年前のビアンカ水族館。
私はホオジロザメの姿のまま、展示水槽の水を漂っていた。ガラスの向こうには来館者の影が揺れている。
そのすぐそば、並んだもうひとつの小さな水槽に、淡い光をまとったクリオネが浮かんでいた。
私はガラスへ口を寄せ、小さく呼びかけた。
『……クリス』
『あら、レトロ……? クリス様を、探しているの?』
『……いや。お前に話しかけている』
『わたくしに……?』
——この時のクリスは、まだ名も無きクリオネだ。
『ああ。ひとつ、聞いてもいいか?』
『ええ。何が聞きたいのかしら』
『お前は……ひとつだけ願いが叶うなら、何を望む?』
『……そうですわね。わたくしは……館長と、クリス様の末永い幸せを望みますわ』
クリオネは小さく目を伏せるように、優しく微笑んで願いを告げた。
息が詰まった。ありえないはずの熱が、視界を滲ませ、水に溶けていく。
『もしかして、深海の石を知っているの?』
『……いや。その話は聞いたこともない。ただ、お前が何を考えているのか、知りたくてな』
『なら……貴方の願いも教えてほしいわ。貴方は、何を望むのかしら』
『……』
私は黙り込んだ。ここで何を告げるべきか、記憶を巡らせていた。叶うはずがないと分かっているのに。
『私は……皆が幸せなら、それでいい』
『……そう。とても素敵な、願いですわね』
その時、水槽を照らす青い光が、照明とは思えないほど一瞬だけ強くなった。
私はたまらず目を閉じたが、瞼の裏まで真っ青に染まった。
私ははっとして、あの懐中時計を探した。しかし、ひれの付け根も腹も探ってみても、それは見つからなかった。
『レトロ? 何をしているの?』
『……何でもない』
今の青は何だ? 石がどこかにあるのか?
それとも……まだ夢の中にいるのか?
『あら……館長に、クリス様。会いに来てくれたのね』
ふたりは何か会話をしながら、クリオネの水槽を仲睦まじく眺めている。
『……この幸せが、ずっと永遠に続けばいいのに』
クリオネが、どこか寂しそうに呟いた。
次の瞬間、視界が青で埋め尽くされた。
『なんだ……?!』
目を開けても、青い光が広がるだけだった。
『くっ……!』
私は二人の姿を見失わぬよう、ガラスへ近づいた。だが、眩しさに包まれ、何も見えない。
『わたくしを、人間にして!!!!!!』
眩い光の中、叫びが刺さってくる。
それは、この水槽の中ではない。ガラスの向こう、あの小さな水槽の“外側”からだと、なぜか分かった。
同時に、この光の向こう側で何が起きているのか、理解してしまった。
『やめろ!!』
ただ叫んだ。止めたかった。
それなのに、私の声は水に溶けるだけで……私は、またしても何もできなかった。
光が収まるにつれて、視界を取り戻す。
水の重さが消え、床の冷たさが足裏に戻った。
『……』
私は見知らぬ場所にいた。先ほどの水槽の中ではない。
生暖かい風が、私を包む。暗い通路の先は、闇に飲まれて見えない。
私は立ち上がり、帽子を被り直した。
『……行くか』
腰に携えた剣を確かめ、歩き出す。
◇
この場所は、どうやら私が知る水族館の裏通路ではないようだ。
歩きながら、曲がり角や扉の位置を記憶と照らし合わせて確かめていく。だが、どれも噛み合わない。あるはずの扉が壁になっていた。
『……ここも通れない、か』
ここまでかなり歩いてきたはずなのに、クリーピーはおろか魚の一匹にすら出合わない。
水音も聞こえてこない。ここは一体……何だ?
『……進むしかないな』
そう呟いて振り向くと、曲がり角の奥へ白い影が吸い込まれていくのが見えた。
輪郭が薄く、白く霞んだ背中——それでも、誰かの“後ろ姿”だった。
私はこの空間のことを知るために、その影を追いかけた。
しかし曲がり角に辿り着く頃には、その影は行方をくらませていた。
徒労感に覆われ、ふと足元へ視線を下ろす。何かが光を反射した。
『……間違いない』
私はそれを拾い上げた。針が十一時八分で止まっている。
中央にあったはずの石は、あの時砕け散ったせいか、欠片も残っていなかった。
『……』
私はそれを内ポケットにしまい、再び歩き出した。これがなぜここに落ちているのかは分からない。
だが、あの白い影を追えば必ず何かが分かる——そう、確信していた。
◇
しばらく通路を歩くと、急に視界が開けた。
同時に、四角い建物が暗がりの中に浮かび上がる。
周囲はじわじわと暗さを増し、この場所そのものが危険へ傾いていくのを肌で感じた。
『これは……家か?』
私は玄関らしい扉の前に立ち、耳を澄ませる。中からは何も返ってこない。
ドアノブに手をかけ、慎重に力を込めた。——鍵はかかっていなかった。
扉の向こうには、小さな部屋が広がっていた。
足を踏み入れた途端、温かさで胸の奥がほどける。理由は分からない。ただ、懐かしい。
『……もう、夜か』
私は窓の外が闇へ沈んでいくのを、黙って眺めていた。
体が眠気と空腹を訴えてくる。それでも私は、眠るわけにはいかなかった。
剣を握り締めたまま部屋の隅にしゃがみ込んでいると、窓の外がいつの間にか、ぼんやりと灰色に染まっていた。
日が沈む前の景色と、何も変わらない。
窓に映っているのは、何もない空間だけだった。
私は疲労を引きずるように、部屋の外へ出た。
薄暗い。それでも、寒さはなかった。
この先に、何が待っているのか。
私はそれを確かめるために、再び歩き出した。
◇
ドクターが病室の扉をそっと開けた。
『……お?』
朝日が淡く差し込む部屋の中。
寝台の脇で、クリスが体を預けるように眠っている。レトロの寝息に紛れるほど、静かな呼吸だった。
『……手のかかるやつだ』
ドクターは小さく漏らし、クリスの背にブランケットをそっとかけた。
それきり何も言わず、扉を静かに閉めて部屋を後にした。
◇
『……何もない』
この世界はどうなっている。昨日から随分歩いてきた。それなのに、あるのは何もない部屋と狭い通路だけ。
あの時見た白い影も、もう見えない。
『はあ……』
私は通路の端に背を預け、座り込んだ。
疲労と空腹が限界を越え、意識が薄くなる。瞼が落ちていく。持ち上げる力が残っていない。
——途切れる、その直前。
すぐ横を何かがすり抜けた気配がした。
私は跳ねるように立ち上がり、抜けた先へ視線を走らせた。
『……スー……ズ……?』
目を疑った。疲れが見せた幻かもしれない。
それでも、この訳の分からない空間に、彼女の後ろ姿だけがはっきり浮かんでいた。
『待ってくれ! スーズ!』
私はがむしゃらに追った。
そしてついに、白く霞んだ影、その背に追いついた。
『スーズ!』
私はスーズの肩を掴んだ。
振り向いたスーズは、私を不思議そうに見つめていた。
『……君は……だれ……?』
胸の奥を針で刺されたように痛んだ。全身が、灼けるように熱い。
それでも、この手を離すわけにはいかなかった。
『……なんなの?』
スーズは私の手を払いのけ、そのまま去ろうとした。
『ぐっ……!』
体の熱がさらに強まり、私はその場にうずくまった。
ここで行かせてはいけない。なのに、体が動かない。
その時、すぐそばに気配が寄った。
『大丈夫……?』
スーズがしゃがみ込み、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
その視線を受けたまま、私は意識を手放した。
◇
私は瞼を開いた。眼前に、私を覗き込むスーズの心配そうな顔が広がる。
『……あ』
スーズは、目を覚ました私に気づくと、ほっとしたように明るく笑った。
だが私は、その笑みを見て確信した。
違う。私の知るスーズではない。
両足にはヒレのような靴。胸元のリボンは赤い。
『目が覚めたの? よかった』
顔も声も、すべて同じに見える。
それなのに、気配だけが彼女ではない、と告げていた。
『心配したんだよ。目の前で急に倒れて』
『……すまない。助かった』
『えへへ。ここね、私のおうち』
スーズはまた、何でもないことのように笑って答えた。
私は上体を起こし、周囲を確かめた。昨晩、身を寄せたあの家の中だ。窓の外は相変わらず暗く、時間の流れだけが曖昧だった。
『……お前は、何者だ』
『……わかんないの』
『なんだと……?』
『わかんない。ずっと、ひとりで寂しかった』
その言い方が妙に幼くて、胸の奥がざらついた。私は言葉を継げず、視線だけを彼女のヒレのような靴と、赤いリボンへ落とす。
『……』
スーズは私の沈黙を怖がるでもなく、少し首を傾げた。
『ねえ……君は、誰? どうしてここにいるの?』
『……私はレトロ』
名乗った瞬間、スーズの表情がわずかに明るくなる。
『レトロ……君はなんで、ここにいるの?』
『……わからない』
『え……?』
『私も……なぜここにいるのか、分からない』
『……そっか』
スーズは、胸の奥に溜めていた息をほどくように呟いた。肩がほんの少し下がる。
『……なぜそんなに嬉しそうなんだ』
『だって……君が来てくれたから』
その言葉が、部屋の静けさの中で妙に重く残った。
『……突然だが、私はお前の名前を知っている』
『……なんで? どうしてわかるの?』
『お前の名は……スーズだ』
スーズは一度だけ瞬きをして、まるで確かめるように自分の胸元へ指を置いた。
『スーズ……スーズ……うん。いい名前』
胸の中が、じわりと熱くなる。同時に、何かが胸に繰り返し当たっていることに気が付いた。
私は手を伸ばし、服の内側を探った。指先が固い金属に触れる。
針は十一時八分のまま動いていない。なのに、耳を澄ますまでもなく分かった。内部だけが、確かに動いている。
小さな音と震えが、掌に伝わってくる。
『それは……』
『お前が去った跡に落ちていたんだが、お前のか?』
『ううん……多分、違う。けど……見たことある、かも』
スーズは懐中時計をじっと見つめた。赤いリボンの下で喉が小さく動き、言葉を探すように視線が揺れる。
『……触ってみるか?』
『え……? いいの……?』
『ああ。針は止まったままだ……壊れているはずだがな』
私は懐中時計を掌の上で一度だけ転がしてから、スーズの前へ差し出した。
スーズは恐る恐る両手を伸ばし、受け取った瞬間、指先をきゅっとすぼめるようにしてそれを抱えた。
『……どうだ?』
『うーん……』
そう言いながら、スーズは手に持った懐中時計をじっと眺め直した。
角度を変えるたび、金属の縁がわずかに光を返す。
その揺れに合わせて、胸の奥が同じリズムで引かれる気がした。
『……それは、お前に預ける』
『どうして……? 君の、大切なものなんじゃないの?』
『逆だ』
『え……?』
『……私の大切なものだから、お前に持っていてほしい』
スーズは懐中時計を胸元に引き寄せ、しばらく黙った。
それから小さく頷く。
『……うん。わかった』
スーズは懐中時計を胸元に抱えたまま、指先でそっと縁をなぞった。
『……さて。そろそろ動かねばな』
私は床に手をつき、ゆっくり立ち上がる。
窓の外はいつの間にか薄く明るみを取り戻していた。
上着を羽織り直した瞬間、胸の奥に居座っていた熱と重さが引いていることに気づく。
呼吸が深く入る。足元のふらつきもない。
空っぽだったはずの内側が、いつの間にか満ちていた。
◇
その夜。ドクターが病室の扉をそっと開けた。
『クリス』
ドクターが、眠っているクリスの肩を揺さぶった。
『……おいおい。どうなってやがる』
ドクターは深くため息をつく。寝台に預けられた体は熱もなく冷たくもなく、ただ重い。
呼吸はある。それが余計に厄介だった。
『担架を持ってこい。こいつを隣の部屋へ運んでくれ』
『『ラジャーーーー!!!』』
廊下の向こうから返事が跳ね返り、足音がばたばたと近づいてくる。
ほどなくして扉が開き、担架を抱えたシマフグとトラフグが雪崩れ込んできた。
それでもクリスは、眉ひとつ動かさない。レトロの寝台に体を預けたまま、目を覚まさない。
ドクターはその光景を一瞥し、歯噛みするように息を吐いた。
フグナースのふたりがクリスの体を支え、寝台からそっと引き剥がす。
布が擦れる音だけが短く鳴り、担架が軋んだ。
運ばれていく背を見送ってから、ドクターは寝台の脇へ戻る。
眠っているレトロの顔を横目に見て、言葉の続きを飲み込んだ。
『……レトロ』
返事は返らない。ドクターは唇を結び、扉へ向かう。
『……頼むぞ』
小さく吐き捨てるように呟き、ドクターは部屋を後にした。
◇