『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

8 / 16
8話

 

 

『レトロ……行っちゃうの?』

 

玄関の扉に手をかけた瞬間、スーズが心配そうに私を見上げた。

 

『ああ。私は、この世界のことを知る必要がある』

 

ここが何なのか。スーズがなぜここにいるのか。出口はあるのか。

私は扉を開け、外へ目を向ける。やはり、そこには何も無い。光も影も、奥行きすら掴めない空白だけが広がっていた。

 

『なら……私も行く』

 

スーズがぱたぱたと駆け寄ってきて、私の手を握った。

その瞬間、何も無かった景色に、色が差した。

 

『……これは……!』

 

泳ぐ魚たち。波の音。そして、潮の匂い。

さっきまでの空白が嘘のように、世界が息を吹き返す。突如現れたその空間に、私は息をのんだ。

 

『レトロ?どうしたの?』

 

スーズは私の驚いた顔を、不思議そうに眺めている。

 

『……大丈夫だ。行くぞ、スーズ』

 

スーズの手を握りしめたまま、私は再び歩き出した。手を離せば、この色も消えるのか。そんな考えを飲み込み、前へ進むことだけを選んだ。

 

『うん。行こう、レトロ』

 

並んで歩きながら、スーズが私の手を握り返した。

 

 

 

 

『……あら…?』

 

瞼の裏に、かすかな光が滲んだ。

ふと目を開くと、わたくしは見覚えのない場所に立っていた。

 

『ここは……どこでしょう』

 

あたりを見回しても、何も見えない。

感じられるのは、僅かに流れる空気の気配と、空洞のように反響する小さな音だけだった。

 

『……』

 

胸の奥が、ひやりと冷える。

それでも——つい先ほどまで、わたくしは病室にいたはず。眠るレトロの顔を眺めながら、いつの間にか瞼が重くなって……

 

『……眠ってしまったのね。つまりここは、夢の中』

 

夢なら、いつか覚めるはず。そういうもののはず。

 

『……でも……』

 

夢の中だとしても、この不穏な空間に一人でいるのは、やはり、寂しい。

わたくしは、そっと足を運び始めた。足音が小さく返り、空気の揺れだけが、遅れてついてきた。

 

 

 

 

『あ』

 

スーズが私の腕を引っ張り、通路の先に生えているサンゴのもとへ連れていった。

触れられた腕の感覚が、なぜか遅れて胸に残る。

 

あれからスーズと並んで歩きながら、この空間のことを彼女に訊ねてみた。

だが返ってくるのは、首を傾げる仕草ばかりだった。スーズも、何も知らない。

 

知らないのに、迷わない。

知らないのに、当たり前のように歩き、当たり前のように笑う。

 

『おい、スーズ』

 

私は焦りと軽い苛立ちを覚え、窘めようとして声をかけた。

このままでは、何も掴めないまま進むことになる。それがどれほど危険なのか、よく理解していた。

 

『ん』

 

その返事が、過去の姿と重なった。

胸の奥が一瞬で掴まれ、心臓が大きく跳ねる。

 

——ああ、そうだ。

この声を、私は知っている。

 

『……サンゴが、好きなのか』

 

気がつくと、苛立ちは消えていた。

叱る言葉の代わりに、確かめるような問いが口をついて出た。

 

『うん。好き。綺麗だから』

 

スーズはサンゴを眺めたまま、機嫌が良さそうに答える。

指先がふわりと枝先に触れ、色が水の中で揺れて見えた。

 

『……そうか』

 

——どうやらスーズには、私と違って、この空間がずっと水族館のように見えていたらしい。

私の目に色が差したのは、手を握られたあの瞬間からだった。

けれどスーズは、最初から迷いなく“ここ”を見ている。

 

考え事をしていると、スーズがすっと立ち上がった。

さっきまでの熱が、嘘のように途切れる。

 

『もう、いいのか?』

 

『うん。飽きた』

 

飽きた。

その短い一言が、妙に胸に引っかかった。ここが夢だとしても、現実だとしても。

私はまだ、何ひとつ確かめられていないのに。

 

『スーズは……いつからここにいるんだ?』

 

自分でも、探るような声になっているのが分かった。

この空間のことを訊いても、彼女は何も知らない。ならせめて、時間だけでも知りたかった。

 

『んー……わかんない。気がついたら、ここにいた』

 

スーズは眉を寄せて少しだけ考え、それから肩をすくめた。

言い訳ではなく、本当に“空白”なのだと伝わってくる軽さだった。

 

『……私と、同じだな』

 

胸の奥で、張り詰めていたものがわずかに緩む。

手がかりが増えないことへの苛立ちより、同じ場所に落ちた者がいるという事実が先に沁みた。

 

『同じ?』

 

スーズが私の顔を覗き込み、言葉をそのまま繰り返す。

取り残されたくない、という色がほんの少しだけ滲んだ。

 

『ああ。同じだ』

 

私は短く頷いた。

詳しい経緯は、私にも思い出せない。気がつけば、ここにいた。

 

だから今は、同じだと言い切るしかない。

そう告げてやることで、スーズの足が止まらないなら、それでいい。

 

『……そろそろ行こう』

 

言いながら、私は自分の指に力が入っているのを自覚した。

手を離した瞬間に、この色まで失ってしまうのではないか。

そんな不安が、まだ胸の奥に残っている。

 

『うん』

 

スーズは短く頷き、握られた手を握り返してきた。軽い力なのに、確かに意思がある。

 

私は手を握ったまま、再び歩き出す。

この世界のことを、スーズに教えるために。

いや、正しくは、私が見えていなかったものを、スーズの見え方で確かめるために。

 

通路の先で、波の音が少しだけ大きくなった。

同じ場所を歩いているはずなのに、足元の感触が変わっていく。水槽の前を通るたび、光が揺れて、影が生まれる。

 

『ねえ、レトロ』

 

スーズが、ふと思い出したように口を開いた。

 

『なにが同じなの?』

 

私は一瞬だけ言葉に詰まり、それでも視線を前に向けたまま答える。

 

『……ここに来た覚えがないところだ』

 

『……うん。じゃあ、ほんとに同じだ』

 

スーズの声は、妙にあっさりしていた。

けれど、そのあっさりさが、今はありがたかった。立ち止まれば、また不安が戻る。

 

私は歩幅を少しだけ揃え、握った手を離さないまま進んだ。

この空間が水族館に見えるのなら——スーズの目が見ている“展示”の順番を、ひとつずつ辿っていけばいい。

 

 

 

 

『うーん……』

 

あれから、どれほど歩いたのか。

視界はわずかに明るくなり、この場所が、通路と部屋でできているのだと見えてきた。

 

ですが、掴めたのは構造だけで、それ以外には何もない。

目印も、扉の表示も、誰かの気配もない。ただ道が続いていることだけが、今は頼りだった。

 

『……少し、休みましょうか』

 

わたくしは狭い通路の壁にもたれ掛かった。

夢の中のはずなのに、疲労がじわじわと積もっている。息を整えるだけで、胸の奥が重いのが分かる。

目を閉じ、呼吸の数だけを数えて、しばしその場に留まった。

 

『……レトロ……』

 

レトロが目覚めない原因は、分かりません。レトロ自身の問題だと、ドクターは言った。

 

それでも、わたくしも原因の一端を担っている心当たりがあると、そう感じている。

きっとレトロは、また苦しんでいる。この何もない夢の中で。

ならば、この夢の謎を解き明かすことが、わたくしの責任だ。

 

わたくしは壁から背を離し、再び歩き出した。

レトロを長い眠りから、救うために。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。