◇
『レトロ……行っちゃうの?』
玄関の扉に手をかけた瞬間、スーズが心配そうに私を見上げた。
『ああ。私は、この世界のことを知る必要がある』
ここが何なのか。スーズがなぜここにいるのか。出口はあるのか。
私は扉を開け、外へ目を向ける。やはり、そこには何も無い。光も影も、奥行きすら掴めない空白だけが広がっていた。
『なら……私も行く』
スーズがぱたぱたと駆け寄ってきて、私の手を握った。
その瞬間、何も無かった景色に、色が差した。
『……これは……!』
泳ぐ魚たち。波の音。そして、潮の匂い。
さっきまでの空白が嘘のように、世界が息を吹き返す。突如現れたその空間に、私は息をのんだ。
『レトロ?どうしたの?』
スーズは私の驚いた顔を、不思議そうに眺めている。
『……大丈夫だ。行くぞ、スーズ』
スーズの手を握りしめたまま、私は再び歩き出した。手を離せば、この色も消えるのか。そんな考えを飲み込み、前へ進むことだけを選んだ。
『うん。行こう、レトロ』
並んで歩きながら、スーズが私の手を握り返した。
◇
『……あら…?』
瞼の裏に、かすかな光が滲んだ。
ふと目を開くと、わたくしは見覚えのない場所に立っていた。
『ここは……どこでしょう』
あたりを見回しても、何も見えない。
感じられるのは、僅かに流れる空気の気配と、空洞のように反響する小さな音だけだった。
『……』
胸の奥が、ひやりと冷える。
それでも——つい先ほどまで、わたくしは病室にいたはず。眠るレトロの顔を眺めながら、いつの間にか瞼が重くなって……
『……眠ってしまったのね。つまりここは、夢の中』
夢なら、いつか覚めるはず。そういうもののはず。
『……でも……』
夢の中だとしても、この不穏な空間に一人でいるのは、やはり、寂しい。
わたくしは、そっと足を運び始めた。足音が小さく返り、空気の揺れだけが、遅れてついてきた。
◇
『あ』
スーズが私の腕を引っ張り、通路の先に生えているサンゴのもとへ連れていった。
触れられた腕の感覚が、なぜか遅れて胸に残る。
あれからスーズと並んで歩きながら、この空間のことを彼女に訊ねてみた。
だが返ってくるのは、首を傾げる仕草ばかりだった。スーズも、何も知らない。
知らないのに、迷わない。
知らないのに、当たり前のように歩き、当たり前のように笑う。
『おい、スーズ』
私は焦りと軽い苛立ちを覚え、窘めようとして声をかけた。
このままでは、何も掴めないまま進むことになる。それがどれほど危険なのか、よく理解していた。
『ん』
その返事が、過去の姿と重なった。
胸の奥が一瞬で掴まれ、心臓が大きく跳ねる。
——ああ、そうだ。
この声を、私は知っている。
『……サンゴが、好きなのか』
気がつくと、苛立ちは消えていた。
叱る言葉の代わりに、確かめるような問いが口をついて出た。
『うん。好き。綺麗だから』
スーズはサンゴを眺めたまま、機嫌が良さそうに答える。
指先がふわりと枝先に触れ、色が水の中で揺れて見えた。
『……そうか』
——どうやらスーズには、私と違って、この空間がずっと水族館のように見えていたらしい。
私の目に色が差したのは、手を握られたあの瞬間からだった。
けれどスーズは、最初から迷いなく“ここ”を見ている。
考え事をしていると、スーズがすっと立ち上がった。
さっきまでの熱が、嘘のように途切れる。
『もう、いいのか?』
『うん。飽きた』
飽きた。
その短い一言が、妙に胸に引っかかった。ここが夢だとしても、現実だとしても。
私はまだ、何ひとつ確かめられていないのに。
『スーズは……いつからここにいるんだ?』
自分でも、探るような声になっているのが分かった。
この空間のことを訊いても、彼女は何も知らない。ならせめて、時間だけでも知りたかった。
『んー……わかんない。気がついたら、ここにいた』
スーズは眉を寄せて少しだけ考え、それから肩をすくめた。
言い訳ではなく、本当に“空白”なのだと伝わってくる軽さだった。
『……私と、同じだな』
胸の奥で、張り詰めていたものがわずかに緩む。
手がかりが増えないことへの苛立ちより、同じ場所に落ちた者がいるという事実が先に沁みた。
『同じ?』
スーズが私の顔を覗き込み、言葉をそのまま繰り返す。
取り残されたくない、という色がほんの少しだけ滲んだ。
『ああ。同じだ』
私は短く頷いた。
詳しい経緯は、私にも思い出せない。気がつけば、ここにいた。
だから今は、同じだと言い切るしかない。
そう告げてやることで、スーズの足が止まらないなら、それでいい。
『……そろそろ行こう』
言いながら、私は自分の指に力が入っているのを自覚した。
手を離した瞬間に、この色まで失ってしまうのではないか。
そんな不安が、まだ胸の奥に残っている。
『うん』
スーズは短く頷き、握られた手を握り返してきた。軽い力なのに、確かに意思がある。
私は手を握ったまま、再び歩き出す。
この世界のことを、スーズに教えるために。
いや、正しくは、私が見えていなかったものを、スーズの見え方で確かめるために。
通路の先で、波の音が少しだけ大きくなった。
同じ場所を歩いているはずなのに、足元の感触が変わっていく。水槽の前を通るたび、光が揺れて、影が生まれる。
『ねえ、レトロ』
スーズが、ふと思い出したように口を開いた。
『なにが同じなの?』
私は一瞬だけ言葉に詰まり、それでも視線を前に向けたまま答える。
『……ここに来た覚えがないところだ』
『……うん。じゃあ、ほんとに同じだ』
スーズの声は、妙にあっさりしていた。
けれど、そのあっさりさが、今はありがたかった。立ち止まれば、また不安が戻る。
私は歩幅を少しだけ揃え、握った手を離さないまま進んだ。
この空間が水族館に見えるのなら——スーズの目が見ている“展示”の順番を、ひとつずつ辿っていけばいい。
◇
『うーん……』
あれから、どれほど歩いたのか。
視界はわずかに明るくなり、この場所が、通路と部屋でできているのだと見えてきた。
ですが、掴めたのは構造だけで、それ以外には何もない。
目印も、扉の表示も、誰かの気配もない。ただ道が続いていることだけが、今は頼りだった。
『……少し、休みましょうか』
わたくしは狭い通路の壁にもたれ掛かった。
夢の中のはずなのに、疲労がじわじわと積もっている。息を整えるだけで、胸の奥が重いのが分かる。
目を閉じ、呼吸の数だけを数えて、しばしその場に留まった。
『……レトロ……』
レトロが目覚めない原因は、分かりません。レトロ自身の問題だと、ドクターは言った。
それでも、わたくしも原因の一端を担っている心当たりがあると、そう感じている。
きっとレトロは、また苦しんでいる。この何もない夢の中で。
ならば、この夢の謎を解き明かすことが、わたくしの責任だ。
わたくしは壁から背を離し、再び歩き出した。
レトロを長い眠りから、救うために。
◇