『空の水槽の灯』   作:玲乃ぱや

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3章 雨の輪郭
9話


 

 

薄暗い医務室の前室で、薬品の匂いだけが静かに残っていた。扉の向こうでは、寝台が二つ、同じ呼吸の間隔で沈黙している。

 

『ドクター。ちょっといいかしら』

 

作業台の上で、紙をめくる音が止まる。ドクターは顔だけを上げた。

 

『……あんたか。なんだ』

 

青い巻き髪の女性は一歩だけ中へ入り、寝台の方へ視線を向けたまま言う。

 

『レトロとクリスちゃん……まだ目覚めないのね』

 

ドクターも同じ方向へ目をやり、短く息を吐いた。

 

『そうだな……』

 

壁の時計の針が、無遠慮に時間だけを刻む。彼女はその音を確かめるように眉を寄せた。

 

『あれからもう、1週間でしょ?大丈夫なの?』

 

ドクターは言い切るように、視線を逸らさず答える。

 

『問題ない。あいつらなら、いずれ目を覚ます』

 

その断言が部屋に落ち、わずかな沈黙が生まれる。彼女は一度だけ唇を結び、言葉を選んで押し返した。

 

『それは……診断の結果?それとも、貴方の願望?』

 

ドクターの指先が、机の端を軽く叩いて止まる。

 

『……どっちもだ』

 

ドクターの短い返答が落ち、医務室の空気がわずかに冷える。彼女は寝台のほうを一度だけ見て、視線を戻した。

 

『……そう』

 

それ以上は追及しない、と決めた声だった。ドクターは、探るように眉を動かす。

 

『もう、いいのか?』

 

『ええ。……ふたりのこと、頼んだわよ』

 

言いながら、彼女は扉の縁に指先を添える。外へ出る気配が、静かに形になる。

 

『……ああ。任せろ』

 

ドクターは頷き、寝台のほうへ静かに視線を戻した。

 

 

 

 

水族館の通路は、薄い水音に満たされていた。床の下から循環の振動が伝わり、湿った空気が肌に絡む。息を吸うたび、どこか消毒液の匂いが混じる。

 

角を曲がった瞬間、視界の先で“それ”が口を開いた。白い歯列が暗がりに浮き、次いで、鈍い縞模様をまとった巨体が滑り出てくる。イタチザメだ。水のない空間を泳ぐように、床すれすれを進んでくる。

 

『……来たか』

 

私は一歩踏み込み、剣を構えた。刃が走る音が短く鳴り、縞がひしゃげる。だが退かない。顎が迫り、私の肩口をかすめた。布が裂け、熱が走る。

 

『っ……』

 

血が滲む。腕を動かすたび、そこだけが引っかかる。

 

呼吸を整え、刃を当てる角度を変えた。前へ押し返す。突進を受け流し、壁際へ追い込み、逃げ道を削っていく。イタチザメは身を捩りながらも執拗に噛み込もうと、私に再び迫ってくる。

 

その瞬間、背後にいるスーズの気配が、やけに近かった。

 

『スーズ、下がれ!』

 

自分でも分かるほど声が荒れた。ここで巻き込むわけにはいかない。巨体が暴れれば、跳ねた一撃で全てが終わってしまう。

 

返事はない。息が詰まる音だけがした。足が床に縫い付けられたまま、動き出せていないのが背中越しに分かる。

 

深く息を吐き、そして息を吸った。

 

『ふっ……!』

 

剣を振る。もう一度。刃が肉を裂く手応え。縞の巨体が嫌がるように身を翻し、距離を取った。

 

私はイタチザメに迫って行った。スーズの前を塞ぐように一歩。さらに一歩。退かせるために、また一歩。肩口の血が床に落ちても、足は止めない。

 

イタチザメが通路の先へ逃げていったのを見届け、スーズの方へ向き直った、その瞬間だった。

 

耳から水音が消えた。潮の匂いが抜け、床の硬さが曖昧になる。視界の輪郭が剥がれるように薄くなる。

 

『……っ!』

 

通路も、水槽も、照明も、ただの無へ落ちた。足元は床のはずなのに、床だと確信できない。手応えだけが、先に消える。

 

それでも、スーズの姿は見えていた。

 

数歩先。水族館の通路にいるはずの位置に、スーズだけが立っている。だが、その周囲の輪郭は薄く、彼女の足元だけが切り抜かれたように浮いて見えた。スーズの口が動く。叫んでいるのだろう。けれど音は届かない。こちらの世界には、何も響かない。

 

突如、黒い影が現れた。複数。近い。気配だけが増える。数が揃うにつれて、動きが揃っていく。囲む。押す。間合いを詰める。

 

剣を振るった。払う。斬る。手応えはある。闇が裂ける感触が、確かに掌に返る。全力で切り払えば、輪郭を失って散っていく。

 

だが、数が多すぎた。

 

一体を払った隙に、別の影が背後へ回り込む。前を退ければ、横からも来る。視界の外から、また増える。切っても切っても、穴が埋まる。私の周りが黒で埋め尽くされていく。

 

『く……っ』

 

刃を戻す前に、背後から私の胸の奥へ、冷たい影が滑り込んだ。

 

次の瞬間、胸郭の内側が灼けた。肩口の痛みとは別に、胸の表面には何の異常もないまま、内側だけが裂けて燃える。息が吸えない。喉が鳴らない。膝が勝手に落ちる。

 

『……っ、は……っ』

 

耳元で、囁きが落ちた。

 

自分の声だった。近すぎる距離で、息を含んだまま言葉が落ちる。

 

「お前はまた、守れない」

 

言葉が刺さった瞬間、指の力が抜けた。剣が傾き、視界が滲む。

 

「捨てろ。楽になれ」

 

痛みが重なる。影が増えていくにつれて、私を嘲る声が重なる。身体が勝手に力を手放そうとする。息が続かない。胸の内側だけが熱を増し、吐いた空気が喉に引っかかる。

 

スーズは、まだそこにいる。見えている。届かないだけだ。

 

私は床を這った。視界は白み、意識が途切れそうになる。それでも、あの位置へ戻ろうと手を伸ばす。影の気配が進路へ回り込む。塞ぐ。押し返す。その意志が、動きとして分かる。

 

『……っ、邪魔を……するな……!』

 

声にならない声で吐き捨て、歯を食いしばって前へ出た。スーズの輪郭が少しだけ濃くなる。距離が詰まる。

 

次の一手で、空気が戻る。匂いが戻る。水音が戻る。

 

水族館が、息を吹き返す。

 

同時に、胸の灼ける痛みが嘘のように引いた。残ったのは汗と荒い呼吸と、肩口の浅い傷だけだ。

 

目の前にスーズがいた。顔色が抜けている。私を見て、息を呑むのが分かった。口を開けている。喉が擦れている。何度も呼んでいたのだろう。

 

『……っ!』

 

私は床に手をついたまま、かすれた声を絞り出した。

 

『……さっきみたいに固まるな。私が言ったら動け』

 

スーズの瞳が揺れる。言葉が追いつかない顔のまま、それでも小さく頷いた。

 

『……もう、やめてよ……』

 

私は答えず、肩口を押さえて立ち上がろうとした。傷が熱を引きずり、息がわずかに乱れる。視線だけは逸らさない。

 

『どこに……行ってたの』

 

スーズの声は掠れていた。指先が落ち着かず、私の袖を掴みかけて、止まる。

 

『……気にするな。お前を守るためだ』

 

言い終える前に、喉の奥が少しだけ詰まった。私は肩口から手を離し、剣の柄を握り直す。

 

『……ごめんなさい』

 

スーズが俯く。謝るべきは私の方だ、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 

 

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