圭の時価は計れない   作:深紫Sιn姉

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13:白銀圭は話したい

「——続いて経済ニュース。宝月グループの時価総額が、傘下企業を含めて三百兆円を突破したらしいぞ〜。対話型AI『ツクヨミ』次世代モデルの発表を受けて、日経平均株価は史上最高値を更新。ちなみにパパの持ち株は七株だ、縁起がよくてね。なお、皆も投資は自己責任で。おっ、早速だが『月の石』さんからスパチャが——」

 

土曜日の朝、八時半。

白銀家のリビングで、父がいつもの調子でカメラに向かって喋っていた。

そして私はそれを聞いて、麦茶のコップを持ったまま固まっていた。

 

三百兆円。

 

……三百兆円?

頭の中で、電卓を叩く。麦茶一本、百円。三百兆円を百円で割ると、三兆本。日本の人口で割ると、一人あたり約二万四千本。毎日一本飲んでも、六十年以上かかる。

 

「圭、顔が会計の顔になってるぞ」

「なってない」

 

なっていた。

そしてその三百兆円の跡取りが、あと三十分で、このマンションの一室にやってくる。

 

 

□■□■□

 

 

話は、木曜日に遡る。

 

「白銀さん。土曜の朝、お時間はありますか」

 

放課後の生徒会室。伊井野会長と石上先輩が、いつものように何かで言い合っているのを横目に、宝月くんが小声で言った。

 

「……なんで?」

「スタンフォードと、つなぎます」

「は?」

「先日、四宮先輩のカップで紅茶を飲んでいた時の白銀さんの顔を見て、そう判断しました」

 

私は、思わず自分の頬を触った。

どんな顔をしていたんだろう。たぶん、ろくでもない顔だ。かぐやさんの名前が出るたびに、私はいつもろくでもない顔になる。

 

「日本の土曜の朝九時は、カリフォルニアの金曜の夕方五時です。お兄さんの講義が終わる時間に合わせました」

「……時差まで調べたの」

「調べたというか、うちの会社の半分はあちらにあるので」

 

さらっと言うな。

 

「……べ、別に、かぐやさんと話したいなんて、一言も言ってないけど」

「はい。言われていません」

「…………」

「なので、俺が勝手にやります。白銀さんは、たまたまその場にいるだけです」

 

この人は、こういう時だけ、私の逃げ道まで先回りして用意してくる。

 

 

□■□■□

 

 

ピンポーン。

九時ちょうど。一秒の狂いもなく、チャイムが鳴った。

 

「おはようございます。お邪魔します」

 

玄関に立っていた宝月くんは、休日なのにきちんとジャケットを着ていて、手には小さな紙袋を一つだけ提げていた。黒塗りの車も、黒いスーツの大人たちも、今日はいない。それだけで、少しほっとする。

 

「お父様、いつもお世話になっております。こちら、つまらないものですが」

「おお、宝月くん! いやいやご丁寧に……って、これ、駅前の和菓子屋の豆大福じゃないか」

「白銀さんが、お好きだと伺ったので」

 

……三百兆円の跡取りの手土産が、一個百八十円の豆大福。

 

中等部の一年間の教育は、無駄ではなかった。

私は心の中で、小さくガッツポーズをした。

 

「で、宝月くん。今日のガジェットは?」

 

父の目が、完全に輝いている。豆大福の比じゃない。

宝月くんは、ジャケットの内ポケットから、手のひらサイズの白い円盤を取り出し、ちゃぶ台の上にそっと置いた。

 

「ツクヨミの、空間投影モデルです。来月、シリコンバレーの開発者会議で発表予定の」

「来月発表の⁉︎」

「なので、お父様。配信は」

「……ダメ?」

「株価が動くので、ダメです」

 

父が、この世の終わりみたいな顔をした。

円盤の縁が、淡く青く光る。

 

「接続します」

 

ふわり、と。

リビングの真ん中に、光の粒が集まり始めた。それは、ゆっくりと人の形になっていく。等身大の、立体の、人の形に。

目つきの悪い、見慣れた男の人。

そして、その隣に——長い黒髪の、とても綺麗な人。

 

「……圭?」

「あら」

 

兄と、かぐやさんが。

海の向こうにいるはずの二人が、まるで目の前にいるかのように立っていた。

 

「お、お兄ぃ……かぐや、さん……」

 

声が、裏返った。

画面越しなら、まだ平気だったと思う。

 

でも、等身大だ。立体だ。手を伸ばせば届きそうな距離に、かぐやさんがいる。私服のかぐやさんが。カリフォルニアの夕陽を背負ったかぐやさんが。

 

「お、おはようございます……じゃなくて、こんばんは……いえ、そちらは夕方だから、その、ご、ごきげんよう……?」

「ふふっ。圭、落ち着いて」

 

かぐやさんが、くすりと笑った。

だめだ。もうだめだ。私の敬語が、音を立てて崩れていく。

 

「すごいな、これ。本当にそこにいるみたいだ」

 

兄が、感心したように周りを見回した。それから、私の横に立っている人物に目を留めた。

 

「……宝月か。勉強法の勝負以来だな。いつも妹が世話に——」

 

そこで、兄の言葉が止まった。

 

「……待て」

 

兄の目が、すうっと細くなる。

 

「なぜ宝月が、うちのマンションに? 土曜の、朝九時に?」

 

——しまった。

 

「こ、これは、宝月くんの会社の機械だから、操作のために来てもらっただけで——」

「それにしては、豆大福があるな。駅前の。圭の好きなやつだ」

 

目ざとい。この兄、こういうところだけ目ざとい。

 

そして、その隣で。

かぐやさんが、扇子で口元を隠していた。いつの間に扇子を出したんだろう。その目が、静かに私と宝月くんを交互に見ている。まるで見透かされているようだ。

 

「ねえ、圭?」

「は、はいっ」

「隣の方とは、今はどういった関係?」

「せ、生徒会の、同僚です!」

「彼氏だぞ」

 

——パパぁ‼︎

 

豆大福を頬張った父が、さらりと言った。

 

「去年の奉心祭からな。パパは最初から気づいてたんだからな」

「パパのバカ‼︎」

 

「……ふふっ。やっぱり、ね」

 

かぐやさんだけが、扇子の向こうで小さく笑っていた。どうやらこの人には、最初から全部お見通しだったらしい。

 

「……やはりな。あの用具室の壁ドンは、計算だったか……!」

 

兄の背後に、ごごご、と地鳴りのような擬音が見えた気がした。ホログラムなのに。

 

 

□■□■□

 

 

「白銀御行さん」

 

先に口を開いたのは、宝月くんだった。

彼は姿勢を崩さないまま、背筋を伸ばし、兄の目をまっすぐに見上げた。

 

「ご挨拶が遅れました。圭さんと、お付き合いさせていただいています。宝月悠です」

 

校内では名前で呼ばない。そう決めたのは私だ。でも、ここは校内じゃない。そして彼は、一度も目を逸らさなかった。

兄は、腕を組んだまましばらく黙っていた。

 

「……宝月グループの時価総額、三百兆円を超えたそうだな」

「はい。今朝の時点で」

「スタンフォードでも、お前の家の名前を聞かない日はない。うちのゼミの教授は、お前の親父さんと対談したことがあるそうだ。シリコンバレーの大物たちが、こぞってツクヨミの話をしている」

 

兄は、一つ息を吐いた。

 

「なら、聞かせてくれ。三百兆円の家の跡取りは——圭を、いくらと見積もる?」

 

部屋が、しんと静まった。

父の豆大福を噛む音すら、止まった。

宝月くんは、短く考えて。それから、とても静かな声で言った。

 

「計れません」

「……ほう」

「俺の家の価値は、毎日、市場が計ってくれます。三百兆円も、明日には百五十兆円かもしれない。値札がつくものは、全部そうです」

 

彼は、ちらりと私を見た。

 

「でも、圭さんは、その外側にいます。値札がつく場所には、最初からいない。……だから、計れません。計らせるつもりも、ありません」

 

…………。

 

私は、両手で顔を覆った。

熱い。顔が、燃えるように熱い。この人は、どうして。兄の前で。かぐやさんの前で。パパの前で。どうしてこういうことを、真顔で言えるんだろう。

 

「……合格ね」

 

かぐやさんの、楽しそうな声がした。

 

「……ま、まあ。及第点だな」

 

兄は、腕を組んだまま、ぷいと横を向いた。耳が赤い。この兄、たぶん、自分も昔似たようなことを言った記憶があるに違いない。

 

 

□■□■□

 

 

「宝月、ちょっと来い。男同士の話がある」

「はい、お兄さん」

「お兄さんと呼ぶな」

 

兄のホログラムが、宝月くんと父を引き連れて、窓際へ移動していった。どうやら投影の範囲を分けられるらしい。技術の無駄遣いだ。

 

ちゃぶ台の前には、私と、かぐやさんだけが残された。

 

「……あの」

「石上くんから、聞きました」

 

先に口を開いたのは、かぐやさんだった。

 

「私のカップで、紅茶を飲んでくれたって」

「か、勝手に、すみません」

「いえいえ」

 

かぐやさんは、柔らかく首を振った。

 

「嬉しかったわ。あの部屋に、ちゃんと続きがあるんだって分かって」

 

その笑顔を見たら、喉の奥に詰まっていたものが、すとんと落ちた。

 

「……かぐやさん」

「はい」

「私、ずっと、ちゃんとお礼が言いたかったんです。プレゼント選びのこと。あの時、かぐやさんが『値段じゃない』って言ってくれたから、私……ちゃんと渡せて。それで、その……」

「知ってたわ」

 

かぐやさんは、くすりと笑った。

 

「奉心祭のあと、あなた、私の前で何度も何か言いたそうにしていたもの。それなのに結局、卒業式まで言わずじまい。……あなたのお兄様に似て、圭も素直じゃないから。似た者同士ね、私たち」

 

似た者同士。かぐやさんと、私が。

 

「それと、九月の選挙」

「……え?」

「出るんでしょう? 顔に書いてあるわ」

 

私は、言葉に詰まった。

まだ、誰にも言っていない。

宝月くんにさえ、『さあね』とはぐらかしたままだ。

 

「宝月家は、四宮にとっては手強い相手。株主総会では、あの家の名前ばかり聞かされたとか」

 

かぐやさんは、窓際で兄に何かを熱弁されている宝月くんを、ちらりと見た。

 

「前に『その男は危険です』なんて言ったけれど、撤回するわ。あの子は家とは別。目を見れば分かる。……いい人を選んだわね、圭」

 

 

□■□■□

 

 

接続が切れて、光の粒がふっと消えた。

狭いリビングに、いつもの静けさが戻ってくる。

白い円盤と、食べかけの豆大福。

 

「……お兄ぃに、何て言われたの」

 

玄関で靴を履く宝月くんに、私は小声で聞いた。

 

「『妹を泣かせたら、スタンフォードから泳いで帰る』と」

「カナヅチなのに……」

「それから、『あいつは、欲しいものほど欲しいと言わないから、気をつけてやってくれ』と」

 

私は、何も言えなかった。

宝月くんは、ドアノブに手をかけて、それから振り返った。

 

「圭さん」

「……何」

「今日、かぐやさんと話せて、よかったですね」

 

——ずるい。

本当に、この人は、ずるい。

 

「……豆大福、ありがとう」

 

それだけ言うのが、精一杯だった。

 

「ええ、それでは。また」

 

ドアが閉まる。

背後で、父がしみじみと呟いた。

 

「……ガチホ決定だな」

 

 

本日の勝敗:白銀圭の勝利

理由:憧れのかぐやさんに、やっとお礼を言えたため(代償として、交際は兄に全部バレた)

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