「——続いて経済ニュース。宝月グループの時価総額が、傘下企業を含めて三百兆円を突破したらしいぞ〜。対話型AI『ツクヨミ』次世代モデルの発表を受けて、日経平均株価は史上最高値を更新。ちなみにパパの持ち株は七株だ、縁起がよくてね。なお、皆も投資は自己責任で。おっ、早速だが『月の石』さんからスパチャが——」
土曜日の朝、八時半。
白銀家のリビングで、父がいつもの調子でカメラに向かって喋っていた。
そして私はそれを聞いて、麦茶のコップを持ったまま固まっていた。
三百兆円。
……三百兆円?
頭の中で、電卓を叩く。麦茶一本、百円。三百兆円を百円で割ると、三兆本。日本の人口で割ると、一人あたり約二万四千本。毎日一本飲んでも、六十年以上かかる。
「圭、顔が会計の顔になってるぞ」
「なってない」
なっていた。
そしてその三百兆円の跡取りが、あと三十分で、このマンションの一室にやってくる。
□■□■□
話は、木曜日に遡る。
「白銀さん。土曜の朝、お時間はありますか」
放課後の生徒会室。伊井野会長と石上先輩が、いつものように何かで言い合っているのを横目に、宝月くんが小声で言った。
「……なんで?」
「スタンフォードと、つなぎます」
「は?」
「先日、四宮先輩のカップで紅茶を飲んでいた時の白銀さんの顔を見て、そう判断しました」
私は、思わず自分の頬を触った。
どんな顔をしていたんだろう。たぶん、ろくでもない顔だ。かぐやさんの名前が出るたびに、私はいつもろくでもない顔になる。
「日本の土曜の朝九時は、カリフォルニアの金曜の夕方五時です。お兄さんの講義が終わる時間に合わせました」
「……時差まで調べたの」
「調べたというか、うちの会社の半分はあちらにあるので」
さらっと言うな。
「……べ、別に、かぐやさんと話したいなんて、一言も言ってないけど」
「はい。言われていません」
「…………」
「なので、俺が勝手にやります。白銀さんは、たまたまその場にいるだけです」
この人は、こういう時だけ、私の逃げ道まで先回りして用意してくる。
□■□■□
ピンポーン。
九時ちょうど。一秒の狂いもなく、チャイムが鳴った。
「おはようございます。お邪魔します」
玄関に立っていた宝月くんは、休日なのにきちんとジャケットを着ていて、手には小さな紙袋を一つだけ提げていた。黒塗りの車も、黒いスーツの大人たちも、今日はいない。それだけで、少しほっとする。
「お父様、いつもお世話になっております。こちら、つまらないものですが」
「おお、宝月くん! いやいやご丁寧に……って、これ、駅前の和菓子屋の豆大福じゃないか」
「白銀さんが、お好きだと伺ったので」
……三百兆円の跡取りの手土産が、一個百八十円の豆大福。
中等部の一年間の教育は、無駄ではなかった。
私は心の中で、小さくガッツポーズをした。
「で、宝月くん。今日のガジェットは?」
父の目が、完全に輝いている。豆大福の比じゃない。
宝月くんは、ジャケットの内ポケットから、手のひらサイズの白い円盤を取り出し、ちゃぶ台の上にそっと置いた。
「ツクヨミの、空間投影モデルです。来月、シリコンバレーの開発者会議で発表予定の」
「来月発表の⁉︎」
「なので、お父様。配信は」
「……ダメ?」
「株価が動くので、ダメです」
父が、この世の終わりみたいな顔をした。
円盤の縁が、淡く青く光る。
「接続します」
ふわり、と。
リビングの真ん中に、光の粒が集まり始めた。それは、ゆっくりと人の形になっていく。等身大の、立体の、人の形に。
目つきの悪い、見慣れた男の人。
そして、その隣に——長い黒髪の、とても綺麗な人。
「……圭?」
「あら」
兄と、かぐやさんが。
海の向こうにいるはずの二人が、まるで目の前にいるかのように立っていた。
「お、お兄ぃ……かぐや、さん……」
声が、裏返った。
画面越しなら、まだ平気だったと思う。
でも、等身大だ。立体だ。手を伸ばせば届きそうな距離に、かぐやさんがいる。私服のかぐやさんが。カリフォルニアの夕陽を背負ったかぐやさんが。
「お、おはようございます……じゃなくて、こんばんは……いえ、そちらは夕方だから、その、ご、ごきげんよう……?」
「ふふっ。圭、落ち着いて」
かぐやさんが、くすりと笑った。
だめだ。もうだめだ。私の敬語が、音を立てて崩れていく。
「すごいな、これ。本当にそこにいるみたいだ」
兄が、感心したように周りを見回した。それから、私の横に立っている人物に目を留めた。
「……宝月か。勉強法の勝負以来だな。いつも妹が世話に——」
そこで、兄の言葉が止まった。
「……待て」
兄の目が、すうっと細くなる。
「なぜ宝月が、うちのマンションに? 土曜の、朝九時に?」
——しまった。
「こ、これは、宝月くんの会社の機械だから、操作のために来てもらっただけで——」
「それにしては、豆大福があるな。駅前の。圭の好きなやつだ」
目ざとい。この兄、こういうところだけ目ざとい。
そして、その隣で。
かぐやさんが、扇子で口元を隠していた。いつの間に扇子を出したんだろう。その目が、静かに私と宝月くんを交互に見ている。まるで見透かされているようだ。
「ねえ、圭?」
「は、はいっ」
「隣の方とは、今はどういった関係?」
「せ、生徒会の、同僚です!」
「彼氏だぞ」
——パパぁ‼︎
豆大福を頬張った父が、さらりと言った。
「去年の奉心祭からな。パパは最初から気づいてたんだからな」
「パパのバカ‼︎」
「……ふふっ。やっぱり、ね」
かぐやさんだけが、扇子の向こうで小さく笑っていた。どうやらこの人には、最初から全部お見通しだったらしい。
「……やはりな。あの用具室の壁ドンは、計算だったか……!」
兄の背後に、ごごご、と地鳴りのような擬音が見えた気がした。ホログラムなのに。
□■□■□
「白銀御行さん」
先に口を開いたのは、宝月くんだった。
彼は姿勢を崩さないまま、背筋を伸ばし、兄の目をまっすぐに見上げた。
「ご挨拶が遅れました。圭さんと、お付き合いさせていただいています。宝月悠です」
校内では名前で呼ばない。そう決めたのは私だ。でも、ここは校内じゃない。そして彼は、一度も目を逸らさなかった。
兄は、腕を組んだまましばらく黙っていた。
「……宝月グループの時価総額、三百兆円を超えたそうだな」
「はい。今朝の時点で」
「スタンフォードでも、お前の家の名前を聞かない日はない。うちのゼミの教授は、お前の親父さんと対談したことがあるそうだ。シリコンバレーの大物たちが、こぞってツクヨミの話をしている」
兄は、一つ息を吐いた。
「なら、聞かせてくれ。三百兆円の家の跡取りは——圭を、いくらと見積もる?」
部屋が、しんと静まった。
父の豆大福を噛む音すら、止まった。
宝月くんは、短く考えて。それから、とても静かな声で言った。
「計れません」
「……ほう」
「俺の家の価値は、毎日、市場が計ってくれます。三百兆円も、明日には百五十兆円かもしれない。値札がつくものは、全部そうです」
彼は、ちらりと私を見た。
「でも、圭さんは、その外側にいます。値札がつく場所には、最初からいない。……だから、計れません。計らせるつもりも、ありません」
…………。
私は、両手で顔を覆った。
熱い。顔が、燃えるように熱い。この人は、どうして。兄の前で。かぐやさんの前で。パパの前で。どうしてこういうことを、真顔で言えるんだろう。
「……合格ね」
かぐやさんの、楽しそうな声がした。
「……ま、まあ。及第点だな」
兄は、腕を組んだまま、ぷいと横を向いた。耳が赤い。この兄、たぶん、自分も昔似たようなことを言った記憶があるに違いない。
□■□■□
「宝月、ちょっと来い。男同士の話がある」
「はい、お兄さん」
「お兄さんと呼ぶな」
兄のホログラムが、宝月くんと父を引き連れて、窓際へ移動していった。どうやら投影の範囲を分けられるらしい。技術の無駄遣いだ。
ちゃぶ台の前には、私と、かぐやさんだけが残された。
「……あの」
「石上くんから、聞きました」
先に口を開いたのは、かぐやさんだった。
「私のカップで、紅茶を飲んでくれたって」
「か、勝手に、すみません」
「いえいえ」
かぐやさんは、柔らかく首を振った。
「嬉しかったわ。あの部屋に、ちゃんと続きがあるんだって分かって」
その笑顔を見たら、喉の奥に詰まっていたものが、すとんと落ちた。
「……かぐやさん」
「はい」
「私、ずっと、ちゃんとお礼が言いたかったんです。プレゼント選びのこと。あの時、かぐやさんが『値段じゃない』って言ってくれたから、私……ちゃんと渡せて。それで、その……」
「知ってたわ」
かぐやさんは、くすりと笑った。
「奉心祭のあと、あなた、私の前で何度も何か言いたそうにしていたもの。それなのに結局、卒業式まで言わずじまい。……あなたのお兄様に似て、圭も素直じゃないから。似た者同士ね、私たち」
似た者同士。かぐやさんと、私が。
「それと、九月の選挙」
「……え?」
「出るんでしょう? 顔に書いてあるわ」
私は、言葉に詰まった。
まだ、誰にも言っていない。
宝月くんにさえ、『さあね』とはぐらかしたままだ。
「宝月家は、四宮にとっては手強い相手。株主総会では、あの家の名前ばかり聞かされたとか」
かぐやさんは、窓際で兄に何かを熱弁されている宝月くんを、ちらりと見た。
「前に『その男は危険です』なんて言ったけれど、撤回するわ。あの子は家とは別。目を見れば分かる。……いい人を選んだわね、圭」
□■□■□
接続が切れて、光の粒がふっと消えた。
狭いリビングに、いつもの静けさが戻ってくる。
白い円盤と、食べかけの豆大福。
「……お兄ぃに、何て言われたの」
玄関で靴を履く宝月くんに、私は小声で聞いた。
「『妹を泣かせたら、スタンフォードから泳いで帰る』と」
「カナヅチなのに……」
「それから、『あいつは、欲しいものほど欲しいと言わないから、気をつけてやってくれ』と」
私は、何も言えなかった。
宝月くんは、ドアノブに手をかけて、それから振り返った。
「圭さん」
「……何」
「今日、かぐやさんと話せて、よかったですね」
——ずるい。
本当に、この人は、ずるい。
「……豆大福、ありがとう」
それだけ言うのが、精一杯だった。
「ええ、それでは。また」
ドアが閉まる。
背後で、父がしみじみと呟いた。
「……ガチホ決定だな」
本日の勝敗:白銀圭の勝利
理由:憧れのかぐやさんに、やっとお礼を言えたため(代償として、交際は兄に全部バレた)