四月最後の金曜日、昼休み。
明日から、ゴールデンウィークが始まる。
教室の空気はすっかり浮き足立っていて、どこに旅行するだの、別荘がどうだの、海外の時差がどうだの、秀知院らしい会話があちこちから聞こえてくる。
私はお弁当を早めに片付けて、生徒会室へ向かった。会計の仕事は、連休前に締めておきたい。
そして、到着。
扉を開けると、空調の効いた涼しい空気と、例の黒い箱——サーバーの、ぶうんという低い唸りが私を出迎えた。
その黒い箱の前に、男子が二人。
石上先輩と、宝月くんだった。
肩を寄せ合い、ツクヨミの画面を覗き込んで、何やらひそひそと話している。こちらには、まるで気づいていない。
「……何してるんですか、二人とも」
「うおっ⁉︎」
石上先輩が、椅子ごと跳ねた。
「し、白銀さん。いや、これは、その、なんでもなくて……」
「石上先輩から、相談を受けていました」
「宝月くん、君はちょっと黙ろうかな⁉︎」
私は画面を覗き込んだ。
『伊井野ミコ様 お誕生日プレゼント 最適解』
…………。
「……五月五日、でしたっけ。会長のお誕生日」
石上先輩は、観念したように天井を仰いだ。
「……連休のど真ん中なんだよ。生徒会もないし、会う理由もない。渡すなら、今日しかない」
なるほど。
それで、男同士の秘密の相談会というわけか。
私は改めて、画面に表示されたツクヨミの『最適解』を読み上げた。
——第一位。高級焼肉食べ放題、一年分。推定消費量、成人男性の二・四倍。伊井野ミコ様の食欲データから算出しました。
——第二位。宝月グループ傘下外食チェーンの、株主優待。年四回。優待券なら、気軽に受け取っていただけるかと。
——第三位。生徒会室への、業務用冷蔵庫の設置。プリンの保管場所が不足していると、ツクヨミが判断しました。
「ずいぶん重いですね」
私の言葉に、石上先輩が両手で顔を覆った。
「そうなんだよ全部重いんだよ……! 焼肉一年分って何だよ。一年間、毎週あいつと焼肉行くのかよ。それもう、プレゼントじゃなくて契約だろ」
「では、株式そのものを譲渡する案も——」
「宝月くん、論外」
私は即座に却下した。
この人は、中等部の頃から何かあるとすぐ株主優待やらを出してくる。
「……白銀さん」
石上先輩が、指の隙間からこちらを見た。
「女子的に、どう……なんすか。何もらったら嬉しいんすか」
女子的に。
そう聞かれて、私の頭に浮かんだのは、去年の秋の、とあるショッピングモールだった。
宝月くんへのプレゼントが選べなくて途方に暮れていた私に、かぐやさんが言ってくれた言葉。
「……値段じゃないんです」
私は、ゆっくりと言った。
「大切なのは、先輩が会長をどう見ているか、だと思います。会長が普段、何を大事にしていて、何に困っているか。それを一番知っているのは、ツクヨミじゃなくて……毎日、隣にいる先輩なんじゃないですか」
石上先輩は、しばらく黙っていた。
「……毎日、隣に」
それから、ぼそりと呟いた。
「……いや、別に隣にはいないっすけどね。あいつ、会長席だし。僕、ソファだし」
そこは否定するんだ。
宝月くんが、ツクヨミの画面をそっと閉じた。
「……学習データが、足りなかったようです」
心なしか、しょんぼりして見えた。
□■□■□
放課後。
生徒会室には、全員が揃っていた。
伊井野会長は会長席で、連休中の各部活の施設使用申請に、黙々と会長印を押している。ぽん、ぽん、ぽん。一定のリズム。石上先輩はソファでゲーム機を握っているけれど、画面はさっきから一度も動いていない。
石上先輩の鞄の中には、小さな箱が入っている。
昼休みのあと、どこかで買ってきたらしい。
中身は、私も知らない。
でもあとは、渡すだけ。
——だったのに。
「会長〜!」
バン、と扉が開いた。
「石上先輩が、会長の誕生日プレゼント用意してるらしいですよ〜」
藤原萌葉が、満面の笑みで飛び込んできた——!
……………。
会長の判子が、空中で止まった。
石上先輩のゲーム機が、ソファに落ちた。
「萌葉ぁ⁉︎」
「え? え? だって、さっき廊下で宝月くんがツクヨミに『石上副会長 伊井野会長への誕生日 最適解』って話しかけてたから、てっきり」
私は、ゆっくりと隣の会計監査を見た。
「……精度の向上を目指しておりまして」
宝月くん、それはダメなことでは?
「え、サプライズだった? ごっめーん! でも知ってた方が嬉しいこともあるし! 会長!」
悪意は、ゼロ。本当に、ゼロ。
それが藤原萌葉という人間の、一番恐ろしいところだ。
「……へえ」
伊井野会長は、ぽん、と判子を書類に下ろした。
「そうなんですか。知りませんでした。別に、興味ありませんけど」
声が、半音高い。
「……いや、別に。用意してねえし」
石上先輩は、ゲーム機を拾い上げた。画面が、逆さまだった。
□■□■□
——ここで、二人の脳内を覗いてみよう。
(プレゼント……石上が、私に……⁉︎ いえ、落ち着くのよミコ。ここで『え、本当?』なんて食いついたら、催促したのと同じ。会長として、あるまじき卑しさ……! 気づかないふり。あくまで、気づかないふり。ただし——受け取る機会は、絶対に逃さない……!)
(最悪だ……今渡したら、藤原妹にバラされたから渡したみたいになる。『言われたから渡した』は一番ダサい。かといって渡さなかったら、連休明けに『結局なかったんだ』って顔をされる。詰んでる。完全に詰んでる……! おのれ呪われし藤原の血族め⁉︎)
——白銀御行と四宮かぐやが去った生徒会室で。伝統は、正しく受け継がれていた。
□■□■□
そこからが、長かった。
「この申請書、もう一度確認しないと」
伊井野会長は、さっき判子を押し終えたはずの書類の束を、もう一度頭からめくり始めた。
「あれ、会長。それ、もう終わってませんでした?」
「念のためです。連休中に事故があったら困りますから」
帰らない。この人、絶対に帰らない気だ。
石上先輩は石上先輩で、ゲーム機の画面を真剣な顔で睨んでいる。電源が入っていないのに。
五時。
五時半。
六時。
窓の外が、だんだんと朱色に染まっていく。萌葉はとっくに飽きて、私の隣でお菓子をつまんでいる。宝月くんは、何も言わずに二人を観察している。
「……膠着状態ですね」
宝月くんが、小声で言った。
「どちらも、先に動いた方が負けだと考えています。互いに損しかない均衡のはずなのですが」
「……知ってる」
私は、小さく息をついた。
知ってる。痛いほど、知ってる。
兄とかぐやさんも、きっとこうだった。
そして、私と悠くんも——同じ。
あの時、どうやって終わらせたんだっけ。
……ああ、そうだ。花火が上がったんだ。
逃げ場のないくらい大きな音で。
「萌葉、宝月くん。帰ろう」
「えー、ここからが面白いところなのに」
「いいから」
私は二人の背中を押して、生徒会室を出た。
扉を閉める。指一本ぶんの隙間を残して。
□■□■□
キーンコーンカーンコーン。
最終下校のチャイムが、校舎に響いた。
伊井野会長の手が、ぴたりと止まる。
生徒会長として。この人は、最終下校時刻を破れない。誰よりも規則を守ってきた人だから。自分で自分を、追い詰めてしまったのだ。
「……最終下校時刻です。帰ります」
会長は鞄を手に取り、扉へ向かった。その背中が、どこかしょんぼりして見えた。
「伊井野」
ドアノブに手がかかったところで、石上先輩が立ち上がった。
鞄から、小さな箱を取り出す。
それを、まっすぐ差し出すでもなく、横を向いたまま、ぶっきらぼうに突き出した。
「……誕生日、連休中だろ。おめでと」
会長は、しばらくその箱を見つめていた。それから、おそるおそる受け取って、包みを開ける。
中に入っていたのは——判子だった。
白い、小さな、丸い判子。印面には、丁寧な書体で『伊井野』と彫られている。
「……判子? 会長印ならあるけど……」
「会長印じゃなくて、お前の判子」
石上先輩は、頭を掻きながら言った。
「お前、毎日あれ押してる時が、一番真剣な顔してるから。……それに、九月で会長じゃなくなっても、使えるやつ」
九月。
会長の任期は、九月まで。誰もがそれを知っているのに、誰も口にしなかった。石上先輩だけが、その先を見ていたのだ。会長じゃなくなった伊井野先輩が、それでも毎日、何かに真剣に判子を押すいつかの未来の日のことを。
「……ありがとう、石上」
会長は、小さな声で言った。
そして、鞄から生徒会日誌を取り出すと、今日の日付の欄に、そっとその判子を押した。
ぽん。
『伊井野』
朱色の、わずかに傾いた印影。
「……早速、使ってみました」
「……おう」
二人とも、こちらからは顔が見えなかった。でも、たぶん、同じくらい赤かったと思う。夕陽のせいということにしておいてあげよう。
「尊い〜……っ」
「っ⁉︎」
隣で叫びかけた萌葉の口を、私は全力で塞いだ。
□■□■□
帰り道。
萌葉は「千花姉ぇに報告しなきゃ!」と、嵐のように走り去っていった。あの親友は一体どこから何まで報告する気なのだろう。
夕焼けの坂道を、宝月くんと二人で歩く。
「……二千八百円、くらいかな」
「判子ですか」
「うん。象牙じゃなくて、樹脂のやつ。彫りは手彫りっぽかったから、そのくらいだと思う」
二千八百円。
ツクヨミが出した焼肉一年分より、ずっと安い。
でも、たぶん、会長は一生使う。
「圭さん」
「なに?」
人通りのない角を曲がったところで、宝月くんが言った。
「圭さんの誕生日は、八月一日ですね」
「……なんで知ってるの」
「中等部の生徒会名簿です。データにありました」
この人、本当にデータが好きだな。
「欲しいものは、ありますか」
私は、考えるふりをした。
欲しいもの。
ないわけじゃない。でも、口に出した途端に、それに値段がついてしまう気がした。
「……麦茶」
「それは、毎日飲んでいます」
「じゃあ、それでいい」
宝月くんは、困ったような顔をした。それから、ポケットから端末を取り出して、何かを打ち込む。
私は、こっそり画面を覗き込んだ。
『圭さん:欲しいものを言わない(要対策)』
「えっ、要対策って何⁉︎」
「学習データが、足りないので」
宝月くんは、昼休みと同じ言葉を、昼休みとは違う顔で言った。
少しだけ、楽しそうな顔だった。
□■□■□
連休明け。
生徒会日誌を開くと、連休前最後の日付の欄に、朱色の印影が一つあった。
その次のページにも。その次のページにも。
連休明け初日の会計報告にまで、私の判子の横に、なぜか『伊井野』の判子が押されていた。数えたら、三十個あった。
会長は、今日も会長印を押している。
ぽん、ぽん、ぽん。
でも時々、会長印を置いて、自分の判子を手に取っては、意味もなく眺めている。
口元が、ずっと緩んでいた。
本日の勝敗:伊井野ミコの勝利
理由:判子一本で、連休明けまでずっとにやけていたため(押印済み書類、三十枚)
次回は10/04(日)00:10(土曜の深夜)に二話投稿します!