六月。
秀知院学園には、毎年この時期に欠かせない行事がある。
パリの姉妹校との、交流会だ。
向こうの生徒会の代表団が来日し、一週間ほど授業や行事を共にする。初日の夜には、こちらの生徒会主催で歓迎パーティを開くのが習わしだ。
「——というわけで、歓迎パーティの企画を決めます」
伊井野会長が、ホワイトボードの前で胸を張った。
「格式ある秀知院の名に恥じぬよう、立食形式で、ドレスコードは制服。日本の文化を紹介する展示と、茶道部による——」
「はいはーい! 仮装パーティがいいと思いまーす!」
萌葉が、会長の言葉を元気よく遮った。
「か、仮装……?」
「千花姉ぇの代の時も、仮装でやったんだって! すっごく盛り上がったって言ってた!」
伊井野会長の顔が、ぴくりと揺れた。
藤原先輩。千花姉ぇ。この会長にとって、それは魔法の言葉だ。
「……藤原先輩が、やったのなら」
「やったー!」
「た、ただし!」
会長は、ホワイトボードにきゅきゅっと大きく書いた。
『露出禁止』
「風紀を乱す仮装は、私が一つ残らず取り締まります」
さすが元風紀委員。そこは譲らないらしい。
□■□■□
「圭ちゃんは、猫!」
翌日の放課後。萌葉が私の頭に、何かをすぽっと被せた。
銀色の、ふわふわの、三角の。
「……何これ」
「猫耳! 圭ちゃんの髪色に合わせて、銀色にしてみました! これは決定事項です!」
「却下」
「決定事項です!」
「却下!」
私は猫耳を外そうとした。外そうとして、ふと視線を感じた。
宝月くんが、こちらを見ていた。
何を考えているか分からない、いつもの真顔。ただ、瞬きを一回もしていない。
「……何、その顔」
「いえ」
「何か言いたいことあるなら言って」
「記録しても、いいですか」
「ダメ‼︎」
私は猫耳を引き剥がして、萌葉の頭に押しつけた。
どうして皆、私に猫をやらせたがるんだろう。かぐやさんも、昔、生徒会で猫耳をつけたことがあるらしい。兄が、なぜかその話だけは饒舌にする。
「ちなみに宝月くんは執事ね! 石上先輩は吸血鬼!」
「僕もやんの⁉︎」
「全員参加です」
伊井野会長が、きっぱりと言った。
「……私も、やるので」
小さな声で付け足した会長の手には、なぜか婦警の帽子が握られていた。
取り締まる気満々だ。
□■□■□
問題は、猫耳だけではなかった。
「圭ちゃん、フランス語できる?」
「……できない」
私は、図書室で借りてきた『はじめてのフランス語』を抱えて、机に突っ伏した。
秀知院の特待生として、英語には自信がある。
でも、フランス語は授業にない。
向こうの代表団も日本語は少しは話せるらしいけれど、せめて挨拶くらいは、ちゃんとしたい。
「じゃあ、私が教えてあげる!」
萌葉が、どんと胸を叩いた。
「うちはね、外交パーティとか慣れっこなの。フランスの人に喜ばれる挨拶、教えてあげる」
「……本当に?」
「本当本当! えっとね——」
萌葉は、私のノートにさらさらと書いた。
『Il est à moi』
「イレタモワ。意味は、『よろしくお願いします』! 相手の目をまっすぐ見て、胸を張って言うのがポイントだよ」
「イレタモワ……」
「そうそう! 自信満々に言えば言うほど、フランスの人は喜ぶから!」
イレタモワ。イレタモワ。
私はその夜、家の洗面所の鏡に向かって、何度も練習した。
「イレタモワ」
胸を張って。目をまっすぐ見て。
「圭、何を唱えてるんだ。呪文か?」
「フランス語。よろしくお願いします、って意味なの」
「ほう。……イレタモワ、ねえ」
父は、首を傾げながらスマホで何かを調べ始めた。
「圭、これ——」
「パパ、邪魔しないで。今、集中してるから」
「……いや、まあ、いいか。若いっていいなあ」
父は、なぜか生温かい目をして去っていった。
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パーティ当日。
秀知院の大ホールは、シャンデリアと、仮装した生徒たちで埋め尽くされていた。
魔女、海賊、天使、侍。制服の上に思い思いの小物を足しただけの子もいれば、明らかにオーダーメイドの衣装を持ち込んでいる子もいる。
さすが秀知院。仮装の予算感が、一般家庭とは一桁違う。
そして私は、銀色の猫耳をつけていた。
結局、つけていた。
萌葉に「会計が仮装しないと、会長の顔が立たないよ?」と言われて、伊井野会長の婦警帽を見たら、断れなかったのだ。
「……似合ってます」
執事服の宝月くんが、隣でぽつりと言った。
燕尾服に白手袋。奉心祭のカフェの時と、ほとんど同じ格好。あの時と同じで、悔しいくらい似合っている。
「記録はダメだからね」
「心に、記録しました」
「うーん、それもダメ」
ホールの壇上には、大きなスクリーンが設置されていた。
宝月グループからの『寄付』で、ツクヨミの同時通訳システムが導入されている。会場のあちこちに置かれたマイクが拾った会話は、日本語とフランス語の字幕になって、リアルタイムでスクリーンに流れる仕組みだ。
伊井野会長は「国際交流の円滑化のため」という一文を契約書に書き足して、判子を押していた。もちろん、自分の判子で。
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「Bonsoir! はじめまして、ニッポンのみなさん」
パリの代表団を率いて現れたのは、金色の髪をゆるく巻いた、背の高い女の子だった。
クロエ・ド・ヴァランシエンヌ。
向こうの生徒会長で、フランスの老舗ブランドを束ねる巨大グループの令嬢だという。歩くたびに、ホールの空気が変わる。仮装は、たぶんしていない。存在そのものが、すでに仮装みたいなものだから。
クロエさんは、壇上で伊井野会長と握手を交わした。
それから、まっすぐ——宝月くんの方へ歩いてきた。
「あなたが、ユウ・ホウゲツ? 会いたかったわ」
流暢な日本語だった。
「宝月グループのAI、ツクヨミ。私のメゾンにぜひ取り入れたいの。父も、あなたのお父様とお話ししたがっているわ」
「ええ、光栄です」
二人が、握手を交わす。
その瞬間、ホールの隅で、カシャカシャとシャッターの音が鳴った。席に紛れていた、どこかの記者らしい。
「……今の握手の写真一枚で、明日のパリ市場の株価は三パーセント動くでしょうね」
クロエさんが、くすりと笑った。
「では、フランス式のご挨拶を」
クロエさんが、宝月くんの肩にそっと手を添えた。
そして、その頬に、自分の頬を寄せようと——。
『ビズ』。
フランスの、頬を寄せ合う挨拶。
知識としては知っている。
挨拶だ。ただの挨拶。
文化の違い。国際交流。
なのに、身体が勝手に動いていた。
私は、二人の間に割り込んでいた。猫耳のまま。
「あ、あの!」
クロエさんが、目を丸くする。
ホール中の視線が、私に集まる。
心臓がうるさい。何か言わなきゃ。
何か、ちゃんとした挨拶を。
秀知院の生徒会メンバーとして。
——そうだ。練習したじゃないか。鏡の前で、何度も。
胸を張って。目をまっすぐ見て。
「イ、イレタモワ!」
言えた。完璧な発音だった、と思う。
クロエさんの動きが、ぴたりと止まった。
そして、壇上のスクリーンに、ツクヨミの字幕が浮かび上がった。
『Il est à moi』
『——彼は、私のものです』
…………。
ホールが、しんと静まり返った。
シャンデリアの光が、やけに眩しい。誰かのグラスの氷が、からん、と鳴った。
……彼は、私のものです?
私は、ゆっくりと、スクリーンを見上げた。それから、ゆっくりと、ホールの隅を見た。
萌葉が、スマホをこちらに向けて構えていた。
満面の笑みで。親指を立てて。
「萌葉ぁぁぁ‼︎」
クロエさんが、お腹を抱えて笑い出した。
「あはははっ! なんて素敵な宣戦布告! ねえ、あなた、お名前は?」
「し、白銀、圭、です……。ここ秀知院学園の生徒会の、会計の……」
「ケイ! 可愛いわ。でも、そんなに睨まなくても大丈夫よ。ビズは、ただの挨拶だもの。ほら、もう一回だけ——」
クロエさんが、からかうように、もう一度宝月くんに顔を寄せた。
「ゆ、悠くんに触らないでっ!」
また、口が勝手に動いた。
スクリーンに、新しい字幕が流れる。
『悠くんに触らないで』
『Ne touchez pas à Yu』
日本語とフランス語で、丁寧に。
終わった。
校内では名前で呼ばない。私が提案して、私が決めたルールを。全校生徒と、パリの代表団と、記者の前で。私が、自分で。二か国語で。
ホールのあちこちから、悲鳴とも歓声ともつかない声が上がった。
私は、恐る恐る隣を見た。
宝月くんは、何も言っていなかった。
ただ、困ったように苦笑いしていた。
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「マドモワゼル・シャ」
笑いすぎて涙を拭いながら、クロエさんが私の前に屈んだ。
猫さん、という意味らしい。
「一つだけ、聞かせて。商売人の娘として、どうしても気になるの」
クロエさんは、宝月くんをちらりと見てから、悪戯っぽく片目をつぶった。
「彼の値段は、いくら?」
私は、真っ赤な顔のまま、それでも、まっすぐ答えた。
「……月よりも高く」
クロエさんは、満足そうに立ち上がった。
「Parfait」
ホールに、拍手が起こった。
何の拍手なのかは、考えたくなかった。
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ちなみに。
騒ぎの裏で、婦警帽の伊井野会長は、ずっと仮装の取り締まりに回っていた。
「石上。マント、曲がってる」
「……別にいいだろ、吸血鬼なんだから」
「よくない。風紀の問題」
会長は背伸びをして、石上先輩のマントの留め具を直した。直し終わってから、一秒だけ、手が止まった。
「……何だよ」
「……なんでもない。似合ってない」
「お前、今の一秒は何だったんだよ」
萌葉のスマホには、その一秒もしっかり記録されていた。
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翌朝。
校内の掲示板には、マスメディア部の号外が貼り出されていた。
『生徒会会計、御曹司の所有権を主張——二か国語で』
写真付きだった。猫耳付きだった。
私は、生徒会室の机の下に潜り込んでいた。
「萌葉ぁ……どうして……」
「だって、どうせいつかバレるでしょ? だったら、一番かわいい形がいいじゃん!」
萌葉は、悪びれもせずに笑った。
悪意は、ゼロ。被害は、甚大。
「それに見て、この動画! 圭ちゃん、めちゃくちゃかっこいい顔してるよ!」
見せられた画面の中の私は、猫耳をつけて、真っ赤な顔で、それでもまっすぐ前を見ていた。
「圭さん」
机の上から、声が降ってきた。
顔を出すと、宝月くんが、生徒会室の真ん中で普通に私を呼んでいた。
「……校内では、名前で呼ばない約束でしょ」
「その約束は、昨日、圭さんが自分で破りましたので」
「…………」
「二か国語で」
「言わなくていい!」
私は机の下から這い出して、乱れた髪を直した。
もう、隠す意味なんて、どこにもないのだ。
「……もう。好きに呼べば」
本日の勝敗:白銀圭の敗北
理由:「よろしくお願いします」のつもりで、所有権を主張したため(二か国語で‼︎)