七月の終わり、夏休み。
世の中の高校生が海だの山だの留学だのに散っていく季節に、白銀家の予定表は今年もほとんど白紙だった。
父は「夏はパパの配信の書き入れ時」と言ってエアコンの効いた居間に籠もり、私はスーパーの特売チラシに赤ペンで丸をつける。それが、我が家の夏だ。
ただ、今年は一つだけ予定があった。
生徒会の、夏季研修。
研修先は、宝月グループの研究所。対話型AI『ツクヨミ』の開発拠点だ。
交通費、無料。昼食、無料。見学料、もちろん無料。
「圭、研修って何するんだ?」
「社会科見学みたいなもの。ツクヨミの研究所」
「ツクヨミの⁉︎ パパも行きたいっ!」
「保護者の同伴はないの」
「……お土産、よろしくマイドウター」
父は、この世の終わりみたいな顔で配信機材の前に戻っていった。
□■□■□
朝八時。秀知院の正門前。
集合した私たちの前に滑り込んできたのは、真っ白な、角の丸い、窓の大きなバスだった。
運転席に、誰も座っていなかった。
「……宝月くん。これは」
「自動運転のシャトルです。研究所まで、ご案内します」
「運転手は」
「いません」
石上先輩が、一歩後ずさった。
「いや怖っ。乗るの怖っ」
「安全基準は、国の認可を受けているんですか! 事故が起きた時の責任の所在は! 緊急停止ボタンはどこですか!」
伊井野会長が、早速シャトルの周りを一周して点検を始めた。
「未来だ〜! 圭ちゃん、未来だよ未来!」
萌葉だけが、何の迷いもなく一番前の席に飛び乗った。
結局、伊井野会長が非常停止ボタンの位置を三回確認したところで、静かに走り出した。
ハンドルが、勝手に回る。窓の外の景色が、するすると流れていく。
隣に座った宝月くんは、平然と窓の外を眺めていた。
この人にとっては、これが日常なのだ。運転手のいない車も、空間に浮かぶ映像も、世界中の株価を動かすAIも。
私の日常は、九十八円の特売の卵に満たされていたのに。
「……何か、ついていますか」
「別に?」
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研究所は、湾岸の埋立地に建っていた。
全面ガラス張りの、白い建物。正面玄関をくぐると、受付には人の形をした光が立っていた。
『ようこそ、秀知院学園生徒会の皆様。本日はツクヨミがご案内いたします』
空間投影の受付嬢。春に、兄とかぐやさんを我が家と繋いだ、あの技術だ。
「……ホログラムの受付に、ガラス張りの壁」
私は、天井を見上げた。
このガラス一枚で、一体いくらするのだろうか。
考えかけて、やめた。考えたら負けな気がした。
伊井野会長は、データ管理部門で研究員を捕まえて離さなかった。
「学習データの出典は! 個人情報の匿名化は! 第三者機関の監査は受けているんですか!」
「は、はい、それは、その……」
「どうも伊井野会長。うちのコンプライアンス部より手厳しいですね」
「当たり前です!」
宝月くんが、珍しく苦笑いをしていた。
石上先輩は、VRゲームの開発室に足を踏み入れた瞬間、動かなくなった。
「……僕、ここに住みたい」
「石上、見学中」
「住民票、移せないかな」
「いいから次!」
会長に首根っこを掴まれて引きずり出されていく石上先輩は、本当に名残惜しそうだった。
昼食は、社員食堂だった。
入口のカメラが一人一人の顔を読み取って、ツクヨミが体格と活動量から最適な献立を組んでくれるらしい。
『伊井野ミコ様。推定必要量、三人前』
「し、失礼です!」
伊井野会長は顔を真っ赤にして抗議し、それから三人前をきれいに平らげた。
『藤原萌葉様。推奨:デザート三種』
『石上優様。推奨:睡眠』
『白銀圭様。推奨:タンパク質の追加摂取』
……卵が、足りていないらしい。
特売の日を、もう一日狙おうと思った。
□■□■□
事件は、試作機の展示室で起きた。
「ねえねえ、これ何〜?」
萌葉が、部屋の隅にあった大きなパネルに近づいた。
『開発中:対人相性診断モード』という札がかかっている。
「藤原さん、それはまだ調整中の——」
「ポチッとな!」
宝月くんが止めるより先に、萌葉はボタンを押していた。
パネルが光る。天井のカメラが、部屋の中を見回すように動く。
そして、たまたまパネルの正面に並んで立っていた二人を、ぴたりと捉えた。
『伊井野ミコ × 石上優 相性:88%』
…………。
展示室が、しんと静まり返った。
「「誤作動です」」
伊井野会長と石上先輩の声が、きれいに重なった。
重なったことに気づいて、二人同時に反対方向を向いた。
「じゃあ次、圭ちゃんと宝月くん!」
「えっ、ちょ、萌葉⁉︎」
萌葉に背中を押されて、私はパネルの前に押し出された。隣に、宝月くんが立たされる。
カメラが、こちらを向いた。
心臓が、うるさい。
別に、気にしてない。数字なんて、ただの数字だ。AIの試作機の、調整中の、遊びみたいなもので——。
『白銀圭 × 宝月悠 計測中……』
『計測中……』
『計測中……』
いつまでも、終わらない。
『エラー:計測範囲外』
研究員たちが、ざわざわと集まってきた。
「バグか?」
「上限値の設定、どうなってる?」
宝月くんは、パネルの電源をそっと落とした。
「……仕様です」
私は、顔を上げられなかった。
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展示室を出たあと、宝月くんが「ちょっとこちらに」と言って、私を廊下の奥へ連れていった。
突き当たりに、小さな部屋があった。
ガラス張りの研究所の中で、そこだけが、壁も扉も古びていた。中には、黒い箱が一つ。生徒会室に運び込まれたものより、ずっと小さくて、ずっと古い。
「ツクヨミの、最初のサーバーです」
宝月くんは、その箱の表面を、指先でそっと撫でた。
「十二歳の時に、ここで、最初のモデルを組みました」
「……十二歳」
「父の会社の、使われていない計算機を借りて。毎晩、ここに通っていました」
十二歳。それは幼きあの頃。
「数字にできるものは、全部ツクヨミに覚えさせました。株価も、天気も、人の表情も、言葉の意味も」
宝月くんは、少しだけ黙った。
「数字にできないものは、覚えさせ方が、分かりませんでした」
だから、計測範囲外。
さっきのエラー表示が、急に、別の意味を持って見えた。
この人は、ずっと一人で、この部屋で、世界を数字に変えてきたのだ。数字にならないものを、どう扱えばいいのか、誰にも教わらないまま。
「……でも、今は」
宝月くんが、こちらを見た。
「覚えさせ方が分からないものの方が、ずっと多くなりました。中等部に転入してから」
私は、何も言えなかった。
言えないまま、古い黒い箱の、宝月くんが撫でていたのと同じ場所を、そっと撫でた。
ほんのりと、温かかった。
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午後。
見学の最後に、私たちは研究所の最上階に案内された。
ガラス張りの展望フロア。眼下に、研究所の全景と、その向こうの海が広がっている。
そこに、一人の男の人が立っていた。
背の高い、細身の人。仕立てのいいスーツ。銀縁の眼鏡の奥の目が、こちらを値踏みするように静かに動く。笑っていない。
「父です」
宝月くんが、短く言った。
宝月グループ総帥。
時価総額三百兆円の、頂点に立つ人。
伊井野会長が背筋を伸ばし、石上先輩がそっと一歩下がり、萌葉ですら口を閉じた。
総帥の目が、生徒会のメンバーを一人ずつ見ていく。
そして、私のところで止まった。
「……白銀圭さん、だね」
「は、はい」
「もしや、白銀家の。『白銀パパの人生相談チャンネル』の」
…………え?
「娘さんの話は、配信でよく伺っている。しっかり者で、家計を一人で回していて、卵の特売を逃したことがない、と」
パパの、配信。
パパの、配信を、この人が。
その瞬間、私の頭の中で、何かが繋がった。
父がいつも自慢している、毎週の最高額のスーパーチャット。ハンドルネーム『月の石』。
「……もしかして、『月の石』さん……」
「ああ。メンバーシップにも加入している」
総帥は、表情一つ変えずに頷いた。
宝月くんが、生まれて初めて見るような顔で父親を見ていた。知らなかったらしい。
白銀家の家計。もしかして、この人に支えられてた……?
考えかけて、やめた。考えたら、たぶん、もう一生この人の目を見られない。
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「少し、二人で話をしても?」
総帥にそう言われて、私だけが展望フロアに残された。
他のメンバーは、宝月くんの案内で下の階へ降りていった。
ガラスの向こうで、海がきらきらと光っている。
「君に、一つ聞きたいことがある」
総帥は、海を見たまま言った。
「君は、息子をいくらと見積もる?」
心臓が、跳ねた。
三百兆円の人が、私の答えを待っている。
逃げ道を探して、私は、自分が一番得意な場所に逃げ込んだ。
会計の顔に、なった。
「……生徒会の会計監査としての彼は、時給千三百円です」
「……ほう」
「都内の高校生のアルバイトの、平均的な時給です。仕事は正確です。でも、たまにお金で解決しようとするので、その分を差し引いて、千三百円が妥当だと思います」
総帥が、こちらを向いた。
数秒の沈黙。
それから——総帥が、ふっと、息を漏らした。
最初は、咳払いかと思った。
違った。口元を抑え、肩を震わせていた。
笑っている。この人が。
「……千三百円。うちの跡取りが、時給千三百円か」
「あ、あの、失礼だったら——」
「いや」
総帥は、眼鏡を外して、目尻を拭った。
「あれが生まれてから今日まで、息子にそこまで正確な値段をつけた人間は、君が初めてだ」
私は、一つ息を吸った。
ここで終わらせたら、だめだと思った。今言ったのは、半分だけだ。
「でも、それは」
「うん?」
「それは、会計監査の値段で。……悠くんの値段じゃないです」
総帥の手が、止まった。
「悠くんの値段は、私には計れません。計るつもりも、ないです」
ガラスの向こうで、海鳥が一羽、ゆっくりと旋回していた。
総帥は、しばらく私を見ていた。
さっきまでの、値踏みするような目ではなかった。何か、遠いものを見るような目だった。
「……私はね、白銀さん。息子を、ずっと時価で測ってきた」
総帥は、眼鏡をかけ直した。
「それが一番、公平だと思っていた。感情で測れば、甘くなる。数字なら、嘘をつかない。あれも、そう育った。数字で語れることは、何でも数字で語れる子に」
春の生徒会室で、領収書の宛名は読めても理由は読めない、と言った彼の横顔を思い出した。
「君のような人が、あれの隣にいるなら——」
総帥は、そこで言葉を切った。
「……いや。何でもない」
それ以上は、何も言わなかった。
□■□■□
帰りのシャトル。
夕陽が、窓から斜めに差し込んでいた。
伊井野会長と石上先輩は、なぜか通路を挟んで反対側の窓際に座り、互いに外を見ている。相性88%が、まだ尾を引いているらしい。
私は、一番後ろの席にいた。
目を閉じていた。今日は、いろいろありすぎた。
前の方から、小さな声が聞こえた。
萌葉と、宝月くんだった。
二人で、身を寄せ合うようにして、何かを話している。
萌葉の声が、いつもと違った。いつもの、はしゃいだ声じゃない。低くて、静かで、真剣な声。
「……圭ちゃんには、いつ言うの」
目を開けかけて、私は、やめた。
宝月くんが、何か答えた。聞き取れなかった。
萌葉は、それきり黙った。
シャトルは、運転手のいないまま、静かに秀知院へ向かって走り続けた。
□■□■□
その夜。
「圭〜! 聞いてくれ!」
家に帰ると、父が配信機材の前で、両手を挙げて震えていた。
「今日な、月の石さんから、過去最高額のスパチャが来たぞ! しかもメッセージ付き!」
父は、画面を指差した。
『娘さんに、よろしく』
私は、玄関に鞄を置いたまま、天井を仰いだ。
「……パパ。その人、宝月くんのお父さん」
「えっ」
父の顔から、血の気が引いた。
それから、ゆっくりと、また赤くなった。
「……パパ、来週の配信はスーツ着ます」
私は、自分の部屋に入って、布団に倒れ込んだ。
天井を見上げる。
今日一日のことが、ぐるぐると頭の中を回る。
自動運転のシャトル。
三人前の会長。
相性88%。
計測範囲外。
時給千三百円。
それから。
——圭ちゃんには、いつ言うの。
あの言葉だけが、どうしても頭から離れなかった。
本日の勝敗:白銀圭と宝月総帥の引き分け
理由:時給千三百円の査定に、三百兆円の男が笑ってしまったため
次回は10/05(月)00:10(日曜の深夜)に四話投稿して完結します
ラストスパートですので、ぜひ一緒に夜更かししましょう!