八月一日。
私は、十六歳になった。
朝起きると、スマホに通知が二件届いていた。
一件目は、兄から。
『誕生日おめでとう。欲しいものがあったら言え』
余計なお世話だ。
二件目は、かぐやさんから。
『おめでとう、圭。十六歳の一年が、あなたにとって素敵なものになりますように』
素直に嬉しい。
しかしカリフォルニアは、まだ七月三十一日の昼だ。わざわざ日付を合わせて送ってくれたのだと思うと、なんとも頬が紅くなってしまう。
私は、兄に短く返信した。
『別に、欲しいものなんてない』
返事は、すぐに来た。
『知ってる。だから言ってる』
……むかつく。
私は、スマホを胸に抱えたまま、しばらく布団の上で転がっていた。
居間に出ると、テーブルの上に、小さな包みが置いてあった。
「誕生日おめでとう、圭」
父が、サングラスを装着しカッコつけて言った。
包みを開けると、中から出てきたのは、電卓だった。
ボタンの大きな、太陽電池の、事務用の電卓。
「はあ……ありがと、パパ」
私は、新しい電卓を、そっと胸に抱えた。
□■□■□
誕生日なんて、ただの日付だ。
一年に一度、カレンダーが回ってくるだけ。
特別なことなんて、何もない。
——と、思うようにしている。
「圭、今夜は花火大会だろ? 行かないのか?」
父が、焦げたスポンジに生クリームを塗りながら言った。
「行かない」
「萌葉ちゃんに誘われてたんじゃないのか」
「断った」
浴衣のレンタル、八千八百円。屋台の焼きそば、六百円。電車賃、往復四百二十円。
昨日の夜、スマホで調べて、合計を出して、そっと画面を閉じた。
父が配信を始めてからは、我が家はそこまで困窮しているわけではない。
でも。
……誘ってくれたのは、萌葉だけだった。
私は、スマホを見た。
宝月くんからのメッセージは、まだ一件も来ていない。
既読も何も、そもそも何も来ていない。
知ってるはずなのに。中等部の生徒会名簿で調べて、『要対策』とまで打ち込んでいたくせに。
「……別に、気にしてないけど」
洗面所の鏡に向かって、小さく呟いた。
イレタモワ、を練習したのと同じ鏡だった。
□■□■□
気にしていない。本当に。
ただ、一つだけ、引っかかっていることがある。
夏休みに入ってから、萌葉と宝月くんの様子が、おかしい。
研修の帰りのシャトルで聞いた、あの声。
——圭ちゃんには、いつ言うの。
あれから一週間。
萌葉に遊ぼうと連絡すると、三回に二回は『ごめん今日むり〜!』と返ってくる。宝月くんも、生徒会のない日は、なぜか連絡がつきにくい。
そして、先週。
駅前のカフェの窓際に、二人が並んで座っているのを、私は見てしまった。
向かい合わせで、一つのスマホを覗き込んで、何かを熱心に話し合っていた。
私は、その日、卵を買うのを忘れて帰った。
「……萌葉に限って、それはない」
声に出してみる。
萌葉は、私の大親友だ。中等部の頃から、ずっと隣にいてくれた。宝月くんを副会長に推してくれたのも、萌葉だった。
「……ない、よね?」
鏡の中の私は、ひどく情けない顔をしていた。
十六歳の誕生日の朝に、親友と恋人を疑っている。
最悪だ。白銀圭、最悪の十六歳のスタートだ。
□■□■□
当日、夜。
遠くで、どん、と低い音が鳴った。
花火大会が、始まったらしい。
窓からは、向かいのマンションの壁しか見えない。
音だけが、少し遅れて、腹の底に響いてくる。
父は「娘の誕生日記念配信」と称して、焦げたケーキをカメラの前で食べている。……なにやってるんだか。まあ、大黒柱だからちょっとはありがたいのだけど。
私は、自分の部屋の窓を開けて、ぼんやりと音のする方角を見ていた。
兄とかぐやさんは、海の向こう。
萌葉は、たぶん花火大会。
宝月くんは——知らない。
どん。どん。どん。
音だけの花火は、なんだか、少しだけ寂しい。
その時、スマホが震えた。
萌葉からだった。
『圭ちゃん、下見て!』
……下?
窓から身を乗り出す。
マンションの前の、小さな公園。街灯の下に、人影が四つ。
萌葉が、大きく手を振っていた。
その隣に、伊井野会長と石上先輩。両手いっぱいに、手持ち花火の袋を抱えている。
そして、みんなから一歩離れたところに、宝月くんが立っていた。
「圭ちゃーん! 聞こえるー⁉︎ お誕生日おめでとー!」
萌葉の声が、夜の住宅街に響き渡った。
近所迷惑。
私は、部屋着のまま、サンダルをつっかけて、階段を駆け下りていた。
□■□■□
「はい、これ!」
公園に着くなり、萌葉が紙袋を押しつけてきた。
中には、紺地に白い朝顔の柄の、浴衣が入っていた。
「千花姉ぇのお古! 圭ちゃんに似合うと思って! ほら、あそこの木陰で着替えてきて!」
「え、ちょ、萌葉、なんで——」
「いいから! 主役が部屋着じゃ締まらないでしょ!」
街灯に照らされた木陰で、萌葉に帯を締めてもらいながら、私はおそるおそる聞いた。
「……ねえ、萌葉」
「ん〜?」
「最近、宝月くんと、こそこそしてたのって」
「あ、バレてた?」
萌葉は、くすくす笑った。
「これの準備! 宝月くんったらね、最初、なんて言ったと思う?」
「……」
「『花火大会の打ち上げ枠を、丸ごと買います。一万発です』って」
「……バカなの?」
「でしょ〜? だから私が止めたの」
萌葉は、帯の結び目をきゅっと締めた。
「それじゃ、圭ちゃんは笑わないよって」
うん、一万発は流石に笑えない。
「だから、手持ち花火にしようって。圭ちゃんは、きっとこっちの方が好きだよって」
帯を締める時に、萌葉と目が合った。
私の大親友は、私を、たぶん私よりも知っている。
「……ありがとう、萌葉」
「どういたしまして!」
萌葉は、いつもの笑顔で笑った。
「……それだけ?」
気づいたら、聞いていた。
「シャトルで、宝月くんと話してたのも、これのこと?」
萌葉の手が、一瞬だけ止まった。
「……うん。それだけだよ」
萌葉は、ふっと帯の結び目に目を落とした。
□■□■□
公園に戻ると、石上先輩が花火の袋を開けていた。
「伊井野が、一番高いやつ選んだんすよ」
「派手な方がいいでしょ。誕生日なんだから」
「お前、自分がやりたかっただけだろ」
「……ちなみにこれは、私費です。領収書は切っていません」
伊井野会長が、きっぱりと言った。
生徒会室の、あの三千二百四十円のことを思い出して、つい笑ってしまった。
すると、萌葉と会長と石上先輩が、ばらばらのテンポでハッピーバースデーを歌ってくれた。宝月くんは、鼻歌でごまかしていた。歌は、苦手らしい。
「白銀さん。十六歳、おめでとうございます」
伊井野会長が、改まった口調で言った。
「……十六歳なら、会長選挙にも出られる年ですね」
私は、どこか真剣な様子の会長を見た。
会長は、それ以上何も言わず、手持ち花火に火をつけ始める。
ぱちぱちと、色とりどりの火花が散る。
会長の選んだ一番高い花火は、確かに一番派手で、一番すぐに終わった。
石上先輩が「元取れてねえ」と呟いて、会長に蹴られていた。
遠くで、本物の花火大会の音が、どん、と鳴る。
でも……こっちの花火の方が、ずっといい。
本当に、そう思った。
「あ、飲み物買い忘れた!」
萌葉が、わざとらしく大きな声を出した。
「会長、石上先輩、コンビニ行きましょ!」
「え、私は別に——」
「行きましょ! 行きましょ!」
萌葉は、会長と石上先輩の腕を両脇に抱えて、ずるずると公園の外へ引きずっていった。
去り際に、私に向かって、小さく片目をつぶった。
□■□■□
公園には、私と宝月くんだけが残った。
街灯の下のベンチに、並んで座る。
「圭さん」
宝月くんが、鞄から一冊のノートを取り出した。
どこにでもある、大学ノート。
表紙には、少し曲がった字で、こう書かれていた。
『帳簿』
「会計監査として、一冊だけ、監査してほしい帳簿があります」
私は、そのノートを受け取って、ページをめくった。
日付。項目。金額。
几帳面な罫線の中に、お世辞にも上手いとは言えない、角張った字が並んでいた。
『四月某日 半分こした麦茶 百円』
『四月某日 豆大福 百八十円』
『四月某日 帰り道の坂 〇円』
『六月某日 猫耳 ——』
そして、金額の欄の横には、全部の行に、同じ言葉が書き足されていた。
『時価:計測不能』
六月の猫耳の行にだけ、小さく注釈がついていた。
『(記録禁止のため、心に記録)』
「……っ」
笑おうとしたのに、うまく笑えなかった。
私は、ノートを胸に抱えた。
十六年で、一番の誕生日かもしれない。
本当に、そう思った。
□■□■□
最後に残ったのは、線香花火だった。
一袋、三百円。萌葉が選んだらしい。分かってる。
二人で一本ずつ、火をつける。
小さな、橙色の玉が、ぱちぱちと震えながら膨らんでいく。風が吹いたら、すぐに落ちてしまいそうな、頼りない光。
「圭さん」
「なに」
「言わなければ、いけないことがあります」
宝月くんの声が、少しだけ、いつもと違った。
私は、線香花火から目を離さなかった。
「十月から、向こうに来いと言われています」
ぱち、と。火花が一つ、大きく弾けた。
「父の会社の、米国本社です。次世代AIの部門を、任せたいと」
——圭ちゃんには、いつ言うの。
シャトルの中の、萌葉の声。
……ああ。あれは、このことだったんだ。
私は、線香花火の玉を見つめていた。
アメリカ。
兄が行った場所。かぐやさんが行った場所。
みんな、海の向こうに行ってしまうのだ。
そして、また。
「……そっか」
声が、勝手に出た。明るい声だった。自分でも驚くくらい、普通の声だった。
「すごいね、そんな。……おめでとう、でいいのかな」
「まだ、決めていません」
「決めなよ」
私は、笑った。ちゃんと、笑えていたと思う。
「悠くんの人生なんだから。悠くんが、行きたいなら——」
その先が、続かなかった。
『行かないで』。
たった五文字のはずだった。
喉の、すぐそこまで来ていた。
それなのに、どうしても、出てこなかった。
言ったら、この人の足かせになる。数百兆円の会社と、世界と、この人の未来の前に、私のたった五文字が立ちはだかることになる。
兄を見送った時も、かぐやさんを見送った時も、私は笑って手を振った。だから、今回も——。
ぽとり。
二つの線香花火の玉が、ほとんど同時に、地面に落ちた。
小さな光が、砂の上で、じゅっと消えた。
宝月くんは、何も言わなかった。
私も、何も言わなかった。
遠くで、花火大会の最後の一発が、どん、と鳴った。
□■□■□
「ただいま〜! 飲み物買ってきたよ〜!」
萌葉たちが、コンビニの袋を提げて戻ってきた。
萌葉は、ベンチに並んで座る私たちの顔を見て、一瞬で、全部を察したようだった。
いつもみたいに騒がなかった。
ただ、黙って私の隣に座って、私の手を、ぎゅっと握った。
その手は、少しだけ冷たかった。
□■□■□
その夜。
浴衣を丁寧に畳んで、枕元に置いた。
それから、もう一度、あの帳簿を開いた。
「あれ……?」
最後のページまでめくると、一番下の行に、日付だけが書かれていた。
『八月一日』
項目の欄も、金額の欄も、空白だった。
宝月くんは、この行に何を書くつもりだったのだろう。
私は、ペンを手に取った。
何かを書こうとして、書けなくて、またペンを置いた。
窓の外は、もう静かだった。
本日の勝敗:白銀圭の敗北
理由:一番欲しいものを、最後まで言えなかったため