圭の時価は計れない   作:深紫Sιn姉

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18:白銀圭は出馬したい

九月一日。始業式。

 

体育館の壇上に、伊井野会長が立った。

 

「——以上をもって、第六十九期生徒会の任期満了に伴う、生徒会長選挙の実施を公示します。立候補の受付は、本日から一週間です」

 

ざわ、と体育館が揺れた。

 

秀知院の生徒会長選挙。

兄が初めて会長に選ばれたのは、高等部一年の、秋だった。

 

私は、膝の上で拳を握った。

 

 

□■□■□

 

 

放課後。

私は、生徒会室の机に、一枚の紙を広げていた。

 

『生徒会長選挙 立候補届』

 

氏名欄に、白銀圭、と書く。字が、震えた。

 

理由なら、いくらでも言える。

 

兄と同じ、一年生の秋だから。

かぐやさんたちの『続き』を守りたいから。

伊井野会長の生徒会を、繋ぎたいから。

 

全部、本当だ。

でも、本当は、もう一つある。

 

会長になれば、副会長を指名できる。

 

指名すれば、それは、ここにいてほしいという意味になる。十月から海の向こうへ行くかもしれない人を、この部屋に繋ぎとめる、正当な理由になる。

 

『行かないで』と言えない私が、『副会長になって』なら。

 

……ずるい。

ずるいのは、私の方だ。

 

ペン先が、立候補届の上で止まった。

 

「圭さん」

 

顔を上げると、宝月くんが立っていた。

 

「推薦人の欄、空いていますね」

「……うん」

「俺の名前を、書いてもいいですか」

 

宝月くんは、いつもの涼しい顔で、ペンを取り出した。

 

何も知らないみたいな顔で。

私が、この紙にどんなずるい気持ちを書き込もうとしているのか、何も知らないみたいな顔で。

 

「お願い、します」

 

宝月くんは、推薦人の欄に、角張った下手な字で、自分の名前を書いた。

 

 

□■□■□

 

 

事件は、受付三日目に起きた。

 

「立候補届を、確認します」

 

生徒会室にて。

伊井野会長が、選挙管理の責任者として、提出された書類を読み上げていた。

 

「一年、白銀圭さん。推薦人、宝月悠くん」

 

ここまでは、いい。

 

「そして同じく、一年」

 

ここまでは、よかった。

 

——そう、ここまでは。

 

「一年、藤原萌葉さん。推薦人——」

 

私は、ゆっくりと振り返った。

萌葉が、ソファの上で、にこにこと手を振っていた。

 

「えへへ。私も出るね、会長選挙!」

 

…………。

 

「……萌葉」

「うん?」

「なんで」

「ひみつ〜」

 

萌葉は、いつもの顔で笑った。

 

いつもの顔、だった。

 

 

□■□■□

 

 

翌日から、萌葉との選挙戦が始まった。

 

そして私は、思い知ることになった。

 

藤原家が、どういう家なのかを。

 

朝……正門の前に、萌葉が立っていた。

揃いの桜色のはっぴを着た応援団を、ずらりと後ろに従えて。

 

「おはようございまーす! 一年、藤原萌葉です! みんなの萌葉、みんなの生徒会! よろしくお願いしまーす!」

 

一人一人の目を見て、名前を呼んで、握手をする。

相手の部活も、委員会も、好きなお菓子まで覚えている。中等部から上がってきた生徒は、ほぼ全員が萌葉の知り合いだった。

 

藤原家は、政治家の家系だ。

選挙のノウハウが、血の中に流れている。

 

「……勝てる、の?」

 

私は、生徒会室の机に突っ伏した。

 

計算なら、誰にも負けない。

予算案を作らせたら、学年で一番だと思う。

 

「どうしたら……」

 

でも、知らない人の目を見て、笑って、名前を呼ぶことが、私にはできない。

中等部の時は、それで良かった。誰も対立候補がいなかったから。

 

 

□■□■□

 

 

追い打ちは、別の方向から来た。

 

「白銀さん。これ……嫌でしょうけど」

 

石上先輩が、スマホの画面を見せてきた。

 

校内の匿名掲示板だった。

 

『御曹司の金で選挙を買う気だろ』

『推薦人が宝月グループの跡取りって、もう答え出てる』

『金持ちの彼氏がいると、選挙も楽でいいよね』

 

私は、画面から目を逸らした。

 

交流会で、全校の前で、あんなことをしたからだ。

みんな、私と宝月くんのことを知っている。そして、宝月くんの家が、どれだけのお金を持っているかも。

 

「……宝月くん」

 

伊井野会長が、静かに口を開いた。

 

「選挙管理の責任者として、通告します。選挙期間中、宝月くんは、白銀さんの選挙活動に一円も使わないこと」

「一円も、ですか」

「一円もです。ポスターの紙代も、ペン代も。疑いを持たれる行為は、全て禁止します」

 

厳しい。

でも、それが一番正しいことも、分かっていた。

 

「……分かりました」

 

宝月くんは、一拍置いてから、頷いた。

 

「では、ツクヨミで全校生徒の投票傾向を予測して、最適な——」

「禁止です」

 

伊井野会長の、静かで厳かな声が響いた。

 

その日のうちに、会長は萌葉の陣営にも、同じ確認に行ったらしい。

桜色のはっぴは、千花姉ぇが高等部の文化祭で使ったお古。ポスターは、美術部の友達が描いてくれたもの。

どちらも、費用はゼロ円だった。

 

藤原家は、お金ではなく、人で選挙をする家なのだ。

 

 

□■□■□

 

 

翌朝。

掲示板に、私の選挙ポスターが貼られていた。

 

模造紙に、マジックの手書き。

 

『白銀圭 生徒会長候補 一円単位で、みんなの生徒会を守ります』

 

字が、下手だった。

角張っていて、大きさがばらばらで、『候補』の『補』の字が、少しだけ間違っていた。

 

あの、帳簿と同じ字だった。

 

「……模造紙と、マジックは」

「美術部から、余っていたものを譲っていただきました。ゼロ円です」

 

隣に立っていた宝月くんが、どこか誇らしげに言った。

 

「生まれて初めて、ポスターを手で書きました。……思っていたより、難しいものですね」

 

萌葉の、プロが作ったみたいな桜色のポスターの隣で、それは、ひどく不格好だった。

 

不格好で、下手で、字まで間違っていて。

 

「ああ——」

 

私は、誰にも見られないように、こっそりスマホで写真を撮った。

 

 

□■□■□

 

 

宝月くんの選挙活動は、それからも続いた。

 

お金を使えない。ツクヨミも使えない。

だから彼は、朝、正門に立った。

萌葉の桜色の応援団の反対側に、一人で。

 

「おはようございます。白銀圭を、よろしくお願いします」

 

ぎこちない。握手のタイミングが、絶妙にずれている。相手の名前を、全然覚えていない。

 

でも、三日目くらいから、様子が変わり始めた。

 

「宝月くん、思ったより普通の人だね」

「御曹司って、もっと偉そうかと思ってた」

 

足を止めて、話しかけてくる生徒が、一人、二人と増えていった。

私は、その横で、ぎこちなく頭を下げることしかできなかった。

 

私だって、何もしていなかったわけじゃない。

 

昼休みには教室を回り、放課後には部活の見学に顔を出した。予算の使い方を説明する資料も作った。一円単位で、去年と今年の差額まで計算して。

 

でも、資料を差し出すと、みんな困ったように笑った。

 

「白銀さん、すごいね。……でも、ちょっと難しいかな」

 

握手をしようとして、相手の手のどこを握ればいいのか分からなくなった。名前を呼ぼうとして、呼ぶ前に相手が通り過ぎていった。萌葉なら、三秒でできることだった。

 

一度だけ、二年生の先輩に、まっすぐ聞かれた。

 

「白銀さんって、お兄さんみたいな会長になりたいんですか?」

 

答えられなかった。

 

なりたい、と言えばよかったのかもしれない。違う、と言えばよかったのかもしれない。

どちらを言っても、嘘になる気がした。

 

先輩は、私の沈黙を見て、申し訳なさそうに去っていった。

 

私は、新しい電卓を握りしめたまま、廊下に立ち尽くしていた。

 

「圭さん」

 

どれくらい、そうしていたんだろう。

気づいたら、宝月くんが隣に立っていた。手には、私が作った予算の資料を持っている。

 

「この資料、俺は分かりやすいと思います」

「……それは、悠くんが会計監査だからでしょ」

「はい。毎日、圭さんの帳簿を見ているので」

 

宝月くんは、資料の端を指でなぞった。

 

「一円単位で、誰のお金がどこに行くのか、全部書いてある。こんなに正直な予算案は、学生じゃ滅多にあるものではありません」

 

私は、小さく笑った。

笑ったら、少しだけ、目の奥が熱くなった。

 

---

 

夕方の廊下には、もう誰もいなかった。

聞くなら、今だと思った。

 

「ねえ、悠くん。十月——」

「はい」

 

宝月くんが、静かにこちらを向いた。

 

十月から、どうするの。

アメリカに、行くの。

 

喉まで出かかった言葉を、私は、飲み込んだ。

 

聞いてしまったら、答えが返ってくる。答えが返ってきたら、私はまた、笑って『おめでとう』と言わなければいけなくなる。

 

「……ううん。なんでもない」

「……そうですか」

 

宝月くんは、それ以上、何も聞かなかった。

 

二人で並んで、夕陽の差す廊下を、黙って歩いた。

 

九月の残りの日数を、私は、頭の中で数えないようにしていた。

 

 

□■□■□

 

 

その頃、生徒会室は、冷戦状態だった。

 

「……お前、どっちの味方なんだよ」

 

ある日の放課後。書類を片付けながら、石上先輩が言った。

 

「白銀さん、明らかに苦戦してるだろ。少しくらい、助言してやっても」

「できません」

 

伊井野会長は、手を止めずに答えた。

 

「私は、選挙管理の最終責任者です。誰の味方でもない会長なの」

「白銀先輩の妹だぞ。僕らが、どれだけあの人に世話になったか」

「分かってる」

 

会長の手が、止まった。

 

「分かってるから、ちゃんとしたいの。……最後なんだから」

 

最後。

 

その言葉に、石上先輩も、黙った。

 

九月で、伊井野会長の任期は終わる。

誰もが知っていて、誰も口にしなかったことが、生徒会室の空気の中に、ぽつんと落ちた。

 

「……終わったあとのことは、考えてんのかよ」

 

石上先輩が、ぼそりと言った。

 

会長は、答えなかった。

ただ、机の上の、自分の判子を、指先でそっと撫でた。

 

 

□■□■□

 

 

選挙戦の、折り返しの日。

 

マスメディア部が、非公式の支持率調査を号外に載せた。

 

『藤原萌葉 六十二%』

『白銀圭 三十八%』

 

数字は、嘘をつかない。

 

その日の夕方、私は、正門の前で萌葉を待っていた。

 

応援団を解散させて、一人で歩いてきた萌葉は、私を見つけると、いつもの顔で手を振った。

 

「圭ちゃん! 一緒に帰る?」

「……萌葉」

 

私は、正面から、萌葉を見た。

 

「なんで、出たの」

 

萌葉は、小さく首を傾げた。

 

それから、珍しく、笑うのをやめた。

 

「圭ちゃん、中等部の時、誰とも戦ってないでしょ」

 

心臓を、まっすぐに掴まれた気がした。

 

中等部の、生徒会長選挙。

立候補したのは、私一人だった。対立候補が現れなくて、信任投票で、そのまま会長になった。

 

「高等部に上がった日、圭ちゃん言ってたよね。『入れてください』なんて言えるわけないって。あれ、中等部の会長だったことに、本当は自信がないからでしょ」

「……」

「圭ちゃんはね、自分がちゃんと選ばれたことがあるって、まだ信じてないんだよ。だから、欲しいものを欲しいって言えないの」

 

萌葉の顔が、よく見えなかった。

 

「私ね、圭ちゃんが本物の会長になるところ、見たいんだ。誰かに譲ってもらったんじゃない、ちゃんと勝ち取った会長」

 

萌葉は、いつもの笑顔に戻った。

 

「だから、本気で倒しにいくね。手加減しないよ?」

 

私は、何も言えなかった。

 

萌葉は、くるりと背を向けた。二、三歩歩いて、それから、立ち止まった。

 

「……あと、宝月くんのこと」

 

振り返らないまま、萌葉は言った。

 

「圭ちゃん、まだ何も言ってないでしょ」

「……なんで、萌葉が」

「聞いちゃったの。宝月くんがお父さんに、アメリカに来いって言われてるところ」

 

シャトルの中の、あの声。

 

——圭ちゃんには、いつ言うの。

 

「なんで、言ってくれなかったの……」

 

自分でも驚くくらい、声が震えた。

 

「宝月くんが、自分で言いたいって言ったから」

 

萌葉は、空を見上げた。

 

「それに。……これは、圭ちゃんが、自分で言わなきゃいけないことだから。私が代わりに言ってあげたら、意味ないもん」

 

萌葉は、今度こそ歩き出した。

 

「じゃあね、圭ちゃん。また明日!」

 

いつもの、明るい声だった。

 

正門を出ていく萌葉の背中を、私は、ただ見送っていた。

 

だから、気づいてしまった。

 

萌葉の、スカートの横で握られた右手が。

ずっと、小さく震えていたことに。

 

 

本日の勝敗:藤原萌葉の勝利

理由:非公式の調査では勝ちに最も近いため

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