九月一日。始業式。
体育館の壇上に、伊井野会長が立った。
「——以上をもって、第六十九期生徒会の任期満了に伴う、生徒会長選挙の実施を公示します。立候補の受付は、本日から一週間です」
ざわ、と体育館が揺れた。
秀知院の生徒会長選挙。
兄が初めて会長に選ばれたのは、高等部一年の、秋だった。
私は、膝の上で拳を握った。
□■□■□
放課後。
私は、生徒会室の机に、一枚の紙を広げていた。
『生徒会長選挙 立候補届』
氏名欄に、白銀圭、と書く。字が、震えた。
理由なら、いくらでも言える。
兄と同じ、一年生の秋だから。
かぐやさんたちの『続き』を守りたいから。
伊井野会長の生徒会を、繋ぎたいから。
全部、本当だ。
でも、本当は、もう一つある。
会長になれば、副会長を指名できる。
指名すれば、それは、ここにいてほしいという意味になる。十月から海の向こうへ行くかもしれない人を、この部屋に繋ぎとめる、正当な理由になる。
『行かないで』と言えない私が、『副会長になって』なら。
……ずるい。
ずるいのは、私の方だ。
ペン先が、立候補届の上で止まった。
「圭さん」
顔を上げると、宝月くんが立っていた。
「推薦人の欄、空いていますね」
「……うん」
「俺の名前を、書いてもいいですか」
宝月くんは、いつもの涼しい顔で、ペンを取り出した。
何も知らないみたいな顔で。
私が、この紙にどんなずるい気持ちを書き込もうとしているのか、何も知らないみたいな顔で。
「お願い、します」
宝月くんは、推薦人の欄に、角張った下手な字で、自分の名前を書いた。
□■□■□
事件は、受付三日目に起きた。
「立候補届を、確認します」
生徒会室にて。
伊井野会長が、選挙管理の責任者として、提出された書類を読み上げていた。
「一年、白銀圭さん。推薦人、宝月悠くん」
ここまでは、いい。
「そして同じく、一年」
ここまでは、よかった。
——そう、ここまでは。
「一年、藤原萌葉さん。推薦人——」
私は、ゆっくりと振り返った。
萌葉が、ソファの上で、にこにこと手を振っていた。
「えへへ。私も出るね、会長選挙!」
…………。
「……萌葉」
「うん?」
「なんで」
「ひみつ〜」
萌葉は、いつもの顔で笑った。
いつもの顔、だった。
□■□■□
翌日から、萌葉との選挙戦が始まった。
そして私は、思い知ることになった。
藤原家が、どういう家なのかを。
朝……正門の前に、萌葉が立っていた。
揃いの桜色のはっぴを着た応援団を、ずらりと後ろに従えて。
「おはようございまーす! 一年、藤原萌葉です! みんなの萌葉、みんなの生徒会! よろしくお願いしまーす!」
一人一人の目を見て、名前を呼んで、握手をする。
相手の部活も、委員会も、好きなお菓子まで覚えている。中等部から上がってきた生徒は、ほぼ全員が萌葉の知り合いだった。
藤原家は、政治家の家系だ。
選挙のノウハウが、血の中に流れている。
「……勝てる、の?」
私は、生徒会室の机に突っ伏した。
計算なら、誰にも負けない。
予算案を作らせたら、学年で一番だと思う。
「どうしたら……」
でも、知らない人の目を見て、笑って、名前を呼ぶことが、私にはできない。
中等部の時は、それで良かった。誰も対立候補がいなかったから。
□■□■□
追い打ちは、別の方向から来た。
「白銀さん。これ……嫌でしょうけど」
石上先輩が、スマホの画面を見せてきた。
校内の匿名掲示板だった。
『御曹司の金で選挙を買う気だろ』
『推薦人が宝月グループの跡取りって、もう答え出てる』
『金持ちの彼氏がいると、選挙も楽でいいよね』
私は、画面から目を逸らした。
交流会で、全校の前で、あんなことをしたからだ。
みんな、私と宝月くんのことを知っている。そして、宝月くんの家が、どれだけのお金を持っているかも。
「……宝月くん」
伊井野会長が、静かに口を開いた。
「選挙管理の責任者として、通告します。選挙期間中、宝月くんは、白銀さんの選挙活動に一円も使わないこと」
「一円も、ですか」
「一円もです。ポスターの紙代も、ペン代も。疑いを持たれる行為は、全て禁止します」
厳しい。
でも、それが一番正しいことも、分かっていた。
「……分かりました」
宝月くんは、一拍置いてから、頷いた。
「では、ツクヨミで全校生徒の投票傾向を予測して、最適な——」
「禁止です」
伊井野会長の、静かで厳かな声が響いた。
その日のうちに、会長は萌葉の陣営にも、同じ確認に行ったらしい。
桜色のはっぴは、千花姉ぇが高等部の文化祭で使ったお古。ポスターは、美術部の友達が描いてくれたもの。
どちらも、費用はゼロ円だった。
藤原家は、お金ではなく、人で選挙をする家なのだ。
□■□■□
翌朝。
掲示板に、私の選挙ポスターが貼られていた。
模造紙に、マジックの手書き。
『白銀圭 生徒会長候補 一円単位で、みんなの生徒会を守ります』
字が、下手だった。
角張っていて、大きさがばらばらで、『候補』の『補』の字が、少しだけ間違っていた。
あの、帳簿と同じ字だった。
「……模造紙と、マジックは」
「美術部から、余っていたものを譲っていただきました。ゼロ円です」
隣に立っていた宝月くんが、どこか誇らしげに言った。
「生まれて初めて、ポスターを手で書きました。……思っていたより、難しいものですね」
萌葉の、プロが作ったみたいな桜色のポスターの隣で、それは、ひどく不格好だった。
不格好で、下手で、字まで間違っていて。
「ああ——」
私は、誰にも見られないように、こっそりスマホで写真を撮った。
□■□■□
宝月くんの選挙活動は、それからも続いた。
お金を使えない。ツクヨミも使えない。
だから彼は、朝、正門に立った。
萌葉の桜色の応援団の反対側に、一人で。
「おはようございます。白銀圭を、よろしくお願いします」
ぎこちない。握手のタイミングが、絶妙にずれている。相手の名前を、全然覚えていない。
でも、三日目くらいから、様子が変わり始めた。
「宝月くん、思ったより普通の人だね」
「御曹司って、もっと偉そうかと思ってた」
足を止めて、話しかけてくる生徒が、一人、二人と増えていった。
私は、その横で、ぎこちなく頭を下げることしかできなかった。
私だって、何もしていなかったわけじゃない。
昼休みには教室を回り、放課後には部活の見学に顔を出した。予算の使い方を説明する資料も作った。一円単位で、去年と今年の差額まで計算して。
でも、資料を差し出すと、みんな困ったように笑った。
「白銀さん、すごいね。……でも、ちょっと難しいかな」
握手をしようとして、相手の手のどこを握ればいいのか分からなくなった。名前を呼ぼうとして、呼ぶ前に相手が通り過ぎていった。萌葉なら、三秒でできることだった。
一度だけ、二年生の先輩に、まっすぐ聞かれた。
「白銀さんって、お兄さんみたいな会長になりたいんですか?」
答えられなかった。
なりたい、と言えばよかったのかもしれない。違う、と言えばよかったのかもしれない。
どちらを言っても、嘘になる気がした。
先輩は、私の沈黙を見て、申し訳なさそうに去っていった。
私は、新しい電卓を握りしめたまま、廊下に立ち尽くしていた。
「圭さん」
どれくらい、そうしていたんだろう。
気づいたら、宝月くんが隣に立っていた。手には、私が作った予算の資料を持っている。
「この資料、俺は分かりやすいと思います」
「……それは、悠くんが会計監査だからでしょ」
「はい。毎日、圭さんの帳簿を見ているので」
宝月くんは、資料の端を指でなぞった。
「一円単位で、誰のお金がどこに行くのか、全部書いてある。こんなに正直な予算案は、学生じゃ滅多にあるものではありません」
私は、小さく笑った。
笑ったら、少しだけ、目の奥が熱くなった。
---
夕方の廊下には、もう誰もいなかった。
聞くなら、今だと思った。
「ねえ、悠くん。十月——」
「はい」
宝月くんが、静かにこちらを向いた。
十月から、どうするの。
アメリカに、行くの。
喉まで出かかった言葉を、私は、飲み込んだ。
聞いてしまったら、答えが返ってくる。答えが返ってきたら、私はまた、笑って『おめでとう』と言わなければいけなくなる。
「……ううん。なんでもない」
「……そうですか」
宝月くんは、それ以上、何も聞かなかった。
二人で並んで、夕陽の差す廊下を、黙って歩いた。
九月の残りの日数を、私は、頭の中で数えないようにしていた。
□■□■□
その頃、生徒会室は、冷戦状態だった。
「……お前、どっちの味方なんだよ」
ある日の放課後。書類を片付けながら、石上先輩が言った。
「白銀さん、明らかに苦戦してるだろ。少しくらい、助言してやっても」
「できません」
伊井野会長は、手を止めずに答えた。
「私は、選挙管理の最終責任者です。誰の味方でもない会長なの」
「白銀先輩の妹だぞ。僕らが、どれだけあの人に世話になったか」
「分かってる」
会長の手が、止まった。
「分かってるから、ちゃんとしたいの。……最後なんだから」
最後。
その言葉に、石上先輩も、黙った。
九月で、伊井野会長の任期は終わる。
誰もが知っていて、誰も口にしなかったことが、生徒会室の空気の中に、ぽつんと落ちた。
「……終わったあとのことは、考えてんのかよ」
石上先輩が、ぼそりと言った。
会長は、答えなかった。
ただ、机の上の、自分の判子を、指先でそっと撫でた。
□■□■□
選挙戦の、折り返しの日。
マスメディア部が、非公式の支持率調査を号外に載せた。
『藤原萌葉 六十二%』
『白銀圭 三十八%』
数字は、嘘をつかない。
その日の夕方、私は、正門の前で萌葉を待っていた。
応援団を解散させて、一人で歩いてきた萌葉は、私を見つけると、いつもの顔で手を振った。
「圭ちゃん! 一緒に帰る?」
「……萌葉」
私は、正面から、萌葉を見た。
「なんで、出たの」
萌葉は、小さく首を傾げた。
それから、珍しく、笑うのをやめた。
「圭ちゃん、中等部の時、誰とも戦ってないでしょ」
心臓を、まっすぐに掴まれた気がした。
中等部の、生徒会長選挙。
立候補したのは、私一人だった。対立候補が現れなくて、信任投票で、そのまま会長になった。
「高等部に上がった日、圭ちゃん言ってたよね。『入れてください』なんて言えるわけないって。あれ、中等部の会長だったことに、本当は自信がないからでしょ」
「……」
「圭ちゃんはね、自分がちゃんと選ばれたことがあるって、まだ信じてないんだよ。だから、欲しいものを欲しいって言えないの」
萌葉の顔が、よく見えなかった。
「私ね、圭ちゃんが本物の会長になるところ、見たいんだ。誰かに譲ってもらったんじゃない、ちゃんと勝ち取った会長」
萌葉は、いつもの笑顔に戻った。
「だから、本気で倒しにいくね。手加減しないよ?」
私は、何も言えなかった。
萌葉は、くるりと背を向けた。二、三歩歩いて、それから、立ち止まった。
「……あと、宝月くんのこと」
振り返らないまま、萌葉は言った。
「圭ちゃん、まだ何も言ってないでしょ」
「……なんで、萌葉が」
「聞いちゃったの。宝月くんがお父さんに、アメリカに来いって言われてるところ」
シャトルの中の、あの声。
——圭ちゃんには、いつ言うの。
「なんで、言ってくれなかったの……」
自分でも驚くくらい、声が震えた。
「宝月くんが、自分で言いたいって言ったから」
萌葉は、空を見上げた。
「それに。……これは、圭ちゃんが、自分で言わなきゃいけないことだから。私が代わりに言ってあげたら、意味ないもん」
萌葉は、今度こそ歩き出した。
「じゃあね、圭ちゃん。また明日!」
いつもの、明るい声だった。
正門を出ていく萌葉の背中を、私は、ただ見送っていた。
だから、気づいてしまった。
萌葉の、スカートの横で握られた右手が。
ずっと、小さく震えていたことに。
本日の勝敗:藤原萌葉の勝利
理由:非公式の調査では勝ちに最も近いため