「——かぐや姫は、五人の求婚者に、それぞれ難題を与えました」
九月。古典の授業。
黒板に、五つの宝の名前が並んでいた。
仏の御石の鉢。蓬莱の玉の枝。火鼠の皮衣。龍の首の珠。燕の子安貝。
「結局、誰一人として本物を持ってくることはできませんでした。職人に偽物を作らせた者もいれば、命がけで海に出た者もいる。大金を払って、商人から買い取った者もいました」
火鼠の皮衣。
大金で買ったその宝は、本物なら燃えないはずだった。
火にくべたら、あっけなく燃えてしまった。
お金で買った宝は、燃えてしまう。
私は、ちらりと隣の席を見た。
宝月くんは、黒板をじっと見ていた。
それから、すっと手を挙げた。
「先生」
「はい、宝月くん」
「宝で手に入らないなら、何なら手に入るんでしょう」
教室が、ざわついた。
先生は、困ったように笑った。
「……それは、宝月くんが自分で考えてみて」
その時、前の席から、もう一本手が挙がった。
「はーい! 私、分かります!」
萌葉だった。
「宝で手に入らないなら、自分から言うしかないと思います! 好きです、って!」
教室が、どっと沸いた。
萌葉は、くるりと振り返って、私を見た。
にこっと笑った。
□■□■□
投票日まで、あと十日。
萌葉との選挙戦は、相変わらず劣勢だった。
そして、もう一つの戦いも、始まっていた。
「父への返事は、投票日の夜までです」
先週、帰り道で、宝月くんがそう言った。
それだけ言って、それきり何も言わなかった。
投票日の夜。
それまでに、この人は、海の向こうへ行くかどうかを決める。
私からは、言わない。
言ったら、足かせになる。
だから——言わせる。
「ねえ、悠くん」
放課後の生徒会室。
私は、帳簿をめくりながら、何気ない風を装った。
「アメリカの麦茶って、高いらしいね」
「一本、三ドル前後ですね。為替を考えると、四百円を超えます」
「……高いね」
「はい」
翌日。
「向こうって、豆大福売ってないよね」
「ロサンゼルスに、和菓子店が三軒あります」
「…………そう」
翌々日。
「圭さん。向こうとの時差は、十六時間あります」
「……うん」
「圭さんの朝が、俺の昼になります」
「電話代、かかるね」
「ツクヨミ経由なら、無料です」
「……そう」
ソファの石上先輩が、遠い目をしていた。
「……見たことあるわ、これ。前に。二年くらい、毎日」
「石上、口出しは禁止」
「選挙と関係ないだろ」
「いいから黙ってて」
伊井野会長は、判子を持ったまま、じっと私たちを見ていた。
□■□■□
公開討論会は、その週の木曜日だった。
昼休みの講堂。
選挙管理の責任者である伊井野会長が、壇上の真ん中に立つ。
「これより、生徒会長選挙の公開討論会を行います。持ち時間は、一人三分。その後、候補者同士で一度ずつ質問を行います」
壇上の左に、私。右に、萌葉。
講堂は、満員だった。純院も、混院も関係なく。
秀知院の生徒の半分以上が、ここにいる。
先攻は、私だった。
予算案。去年度との比較。部活動費の配分。施設修繕の優先順位。一円単位で詰めた数字を、三分間、正確に読み上げた。
完璧だった、と思う。
前の方の列で、何人かが船を漕いでいた。
「はーい! 藤原萌葉です!」
萌葉が立ち上がった瞬間、講堂の空気が変わった。
「私が会長になったら、まず、購買のメロンパンを毎日百個増やします!」
歓声。
「文化祭の後夜祭の花火を、倍にします!」
歓声。
「生徒会室を、みんなのたまり場にします! ソファもう一個置きます!」
「置かせません」と伊井野会長が小声で言ったのは、誰にも聞こえていなかった。
三分間、萌葉は一度も原稿を見なかった。
一人一人の顔を見て、名前を呼んで、笑わせて、頷かせた。
勝てない。
そう思った。
でも。
「では、候補者同士の質疑に移ります。白銀さんから」
私は、マイクを握った。
ここで引いたら、終わる。
親友だから。
大好きだから。
だからこそ、本気でいかねば、萌葉に失礼だ。
「藤原さんの公約を、全て実行した場合の費用を計算しました」
講堂のざわめきが、一段低くなった。
「メロンパン、年間で約百八十万円。花火の倍増、約二百四十万円。ソファと改装費、約六十万円。……合計すると、生徒会費の、四・七倍です」
しん、と。
講堂が、完全に静まり返った。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「足りない分は、どうしますか」
萌葉は、私を見た。
一秒。
それから、いつもの顔で、にっこりと笑った。
「足りないね! だから、白銀さんに計算してもらおうと思ってました!」
講堂が、どっと沸いた。
「……冗談です。でも、半分本気」
萌葉は、マイクを持ち直した。
「私、数字は苦手です。でも、誰が何に困ってるかは、知ってます。メロンパンが毎日昼休みの五分で売り切れて、三年の先輩が二年間一回も買えてないこととか。後夜祭で、花火が見えない場所の係の子がいることとか。……数字の外側にいる人の顔なら、全部、覚えてます」
拍手が、起こった。
私の数字より、ずっと大きな拍手だった。
……そうだ。これが、藤原萌葉という女だ。
「では、藤原さんから白銀さんへ」
萌葉が、こちらを向いた。
さっきまでの笑顔とは、少しだけ違う顔だった。
「白銀さんの予算案、完璧です。一円の無駄もない」
そこで、萌葉は、一拍置いた。
「でも、そのお金で、誰が笑うか。書いてありますか?」
——刺さった。
一番、痛いところに。
萌葉は、私のことを、私よりも知っている。
だから、どこを刺せば一番効くのかも、知っている。
講堂の視線が、私に集まる。
数字で答えようとした。
だが答えられなかった。
笑顔の数なんて、どこにも書いていない。
手が、震えかけた。
その時、講堂の後ろの方で、石上先輩がソファの代わりのパイプ椅子に座っているのが見えた。
——三千二百四十円。
その時に、天啓が降りてきた。
「……私の家は、昔、お金がありませんでした」
気づいたら、口が動いていた。
「だから、知っています。一円は、誰かの昼ごはんで、誰かの電車賃で。……誰かが、誰にも言わずに、こっそり立て替えたお金かもしれない」
講堂の後ろで、石上先輩が、そっと目を逸らした。
「笑顔の数は、書けません。でも、誰も泣かない予算なら、書けます。一円も、誰かが黙って損をしない予算なら」
…………。
拍手は、萌葉の時ほど大きくはなかった。
でも、さっき船を漕いでいた前の列の何人かが、顔を上げて、手を叩いていた。
壇上を降りる時、すれ違いざまに、萌葉が小さく呟いた。
「……やるじゃん、圭ちゃん」
「……そっちこそ」
翌日のマスメディア部の号外には、こう書かれていた。
『藤原萌葉 五十六%』
『白銀圭 四十四%』
差は、縮まっていた。
□■□■□
その日の放課後。
萌葉に呼ばれて、私は誰もいない教室にいた。
窓から、夕陽が差している。萌葉は、窓際の机に腰掛けて、足をぶらぶらさせていた。
「ねえ、圭ちゃん」
「なに」
「いつまでやるの、それ」
萌葉は、窓の外を見たまま言った。
「麦茶とか、豆大福とか。……見てて、ちょっと痛いよ」
かっと、顔が熱くなった。
「……萌葉には、関係ないでしょ」
「関係あるよ」
「ないよ」
自分の声が、尖っていくのが分かった。
「萌葉には、分かんないよ。萌葉は、いつだって欲しいものを欲しいって言えるじゃない。みんなに好かれて、笑って、選挙だって、あんなに——」
「言えないよ‼︎」
萌葉が、叫んだ。
放課後の教室の空気が、びりっと震えた。
萌葉が、こんな声を出すのを、私は初めて聞いた。
「……私だって。言えなかったことくらい、あるよ」
萌葉は、机から降りた。
夕陽が、萌葉の背中から差していた。顔が、よく見えなかった。
「私はずっと、圭ちゃんの代わりに言ってあげる係だった。会長やりなよ、って。宝月くん、いいじゃんって。圭ちゃんが言えないこと、全部、私が先に言ってきた」
萌葉の声が、少しだけ揺れた。
「でも、今回だけは、代わりに言ってあげない。……言ったら、圭ちゃん、一生、自分で言えないままになっちゃうから」
萌葉は、私の横をすり抜けて、教室の扉に手をかけた。
「……萌葉。言えなかったことって、何」
萌葉は、振り返らなかった。
「ひみつ」
扉が、閉まった。
夕陽の差す教室に、私は一人で取り残された。
□■□■□
生徒会室に戻ると、宝月くんが一人で帳簿をつけていた。
伊井野会長と石上先輩は、選挙管理の打ち合わせで、席を外しているらしい。
角張った、下手な字。
毎日、私の帳簿を、一円単位で見ている人の字。
投票日の夜まで、あと一週間。
私は、扉の前に立ったまま、深呼吸をした。
言えない。
言ったら、足かせになる。
——でも。
萌葉は、言わなかったことを、ひみつと言った。
ひみつのまま、一人で抱えてきたのだ。
きっと、ずっと。
私も、そうなるのか。
ひみつにして、一生。
「……宝月悠くん」
私は、生徒会室の真ん中まで歩いていった。
宝月くんが、顔を上げた。
「選挙管理規定により、候補者は、当選した場合の役員指名の予定を、事前に本人に伝えることができます」
規定。ルール。
最後の最後まで、私はそういうものの陰に隠れようとしていた。
「だから、伝えます。……私が会長になったら、副会長になってください」
宝月くんは、ペンを置いた。
「……それは、圭さんが会長になった場合の話ですね」
静かな声だった。
逃がしてくれない、声だった。
そうだ。この人も、待っていたのだ。ずっと。
「……ううん」
声が、震えた。
「違う。会長になれなくても」
喉が、熱い。
「会長になれなくても、私の、隣にいて」
言葉が、止まらなかった。
「行かないで。……アメリカなんか、行かないで」
言えた。
八月一日に、線香花火の前で、どうしても言えなかった五文字。
視界が、滲んでいた。泣くつもりなんて、なかったのに。
宝月くんが、立ち上がった。
「……はい」
それだけ言って、それから、少しだけ困ったように笑った。
「言わせて、すみません」
「……っ、ほんとだよ……」
「圭さんが何も言わないなら、行くつもりでした。……足かせには、なりたくなかったので」
「バカ」
私は、制服の袖で目をこすった。
「足かせにしてよ。……それくらい、させてよ」
宝月くんは、小さく頷いて、ポケットから端末を取り出した。
一回のコールで、相手が出た。
「父さん。……行きません」
短い沈黙。
端末の向こうから、かすかに声が聞こえた。
『……そうか。お嬢さんに、よろしく伝えなさい』
通話が、切れた。
その時、生徒会室の扉の向こうで、がたっ、と音がした。
扉が細く開いていた。
その隙間に、石上先輩と伊井野会長が、並んで固まっていた。
石上先輩の顔が、見たことがないくらい真っ赤だった。
伊井野会長は、何も言わずに、その横顔をじっと見上げていた。
「……見んな」
「見てない」
二人は、そそくさと扉を閉めた。
□■□■□
翌朝。
「圭〜! 大変だ、ニュース見たか!」
父が、配信機材の前で叫んでいた。
「宝月グループ株、一時急落! 御曹司の米国赴任見送りの報道で、時価総額、十兆円減!」
私は、トーストを咥えたまま固まった。
十兆円。
登校すると、宝月くんが、正門で何事もなかったような顔をしていた。
「おはようございます、圭さん」
「……十兆円、減ったって」
「はい」
「いいの、それ」
「十兆円より、圭さんです」
……麦茶、千億本。
計算するのを、途中でやめた。
□■□■□
その日の朝。
萌葉は、いつものように、桜色の応援団の先頭に立っていた。
私は、まっすぐ、その前まで歩いていった。
応援団の子たちが、ざわっと道を開ける。
「萌葉」
萌葉が、私を見た。
「……言えたよ」
萌葉は、目を見開いた。
それから、ふっと、柔らかく笑った。
「知ってる。顔、見れば分かるもん」
その目の端が、ほんの少しだけ、光っていた気がした。
「だから」
私は、萌葉の目を、まっすぐに見た。
「次は、萌葉に勝つ。選挙、本気で勝ちに行くから」
萌葉の目が、ぱっと輝いた。
いつもの、いや、いつもより、ずっと楽しそうな顔だった。
「望むところ‼︎」
本日の勝敗:白銀圭の敗北
理由:とうとう自分から「欲しい」と言ったため