秀知院学園中等部、生徒会室。
放課後のこの場所は、生徒たちの憧れの聖地であり、学園の頭脳が集まる場所だ。
そこには静寂と、凛とした空気が——流れていなかった。
「ねえねえ圭ちゃん! これ見てこれ! 超ウケるんだけど!」
ソファーで寝転がりながら雑誌をバタつかせているのは、書記の藤原萌葉。私の親友であり、この生徒会のトラブルメーカーだ。
「……萌葉。仕事中に大きな声を出さないで。今は来月の予算配分の見直しをしてるんだから」
私は眉間を揉みながら、冷静を装って注意する。机の上には各部活から提出された予算申請書が山積みになっていた。中等部の予算なんてたかが知れているのに、どうしてこうも彼らは欲望に忠実なのか。『サバゲー部』の『新型暗視ゴーグル購入費』なんて、即却下だ。却下。
「だって暇なんだもん。圭ちゃんが真面目すぎるの! ほら、宝月副会長もそう思うでしょ?」
萌葉が矛先を向けた先は、私の斜め向かいの席で、黙々とパソコンを叩いている彼——宝月悠。
彼は手を止めず、視線も画面に向けたまま口を開いた。
「会長の仕事ぶりは適正ですよ、藤原書記。それに、この予算案を今日中に片付けないと、来週の職員会議に間に合わない」
「ぶーぶー! 二人ともお堅いー! なんか夫婦みたいで嫌ー!」
ガタンッ!
私は思わず立ち上がり、膝を机に強打した。激痛が走るが、それ以上に顔が熱い。
「な、何を言ってるの萌葉! ふ、ふうふって……そんなわけないでしょ! 私と宝月くんはただの会長と副会長で、仕事上のパートナーなだけで!」
「……会長。足、大丈夫ですか?」
宝月くんが心配そうにこちらを見ている。その冷静な瞳と目が合うと、昨夜の父の言葉がフラッシュバックする。
『娘の青春に幸あれ』
(っ……余計なことまで思い出した!)
私はコホン、と咳払いをして座り直した。
「も、問題ありません。……そう、それより萌葉。暇ならこの『オカルト研究会』の申請書を見ておいて。儀式用のロウソク代が異常に高いの」
「はーい。……あ、でもその前にさ! これだけやらせて! 心理テスト!」
ふと萌葉が起き上がり、雑誌を広げて私たちの机に割り込んできた。
「『深層心理でわかる、あなたの求める理想の王子様タイプ』! これ結構当たるんだって!」
「……そんなことやってる時間はないって、萌葉」
「いいじゃんいいじゃん! 宝月くんも興味あるでしょ?」
「俺は……まあ、息抜き程度になら」
「ほら! 副会長もやる気だよ! じゃあいくよー!」
有無を言わさず始まった。宝月くんも、断ればいいのに意外と付き合いがいい。それとも、彼もこういうのが好きなんだろうか。……いや、単に萌葉をあしらうのが面倒なだけか。
「質問! あなたは森の中で道に迷いました。そこに一匹の動物が現れて、道案内をしてくれると言いました。それはどんな動物?」
「……犬」
私は即答した。
ペス(藤原家の飼い犬)の顔が浮かんだからだ。
「鷹かな?」
「へー、なんかカッコつけちゃって! じゃあ次! その動物は、案内したお礼に何かを要求してきました。それは何?」
「……餌」
「……金」
「宝月くん、夢がないよ! まあいいや、最後! 動物と別れた後、あなたはポケットの中に何か入っていることに気づきます。それは何?」
「……手紙」
「……宝石」
萌葉はニヤニヤしながら、ページをめくった。
「結果発表〜! まず圭ちゃん! 『犬』を選んだ人は『誠実で嘘をつかない人』を求めています。『餌』はお礼の象徴、つまり『見返りを求めない献身』。そして『手紙』は『言葉による愛情表現』! つまり圭ちゃんは……『誠実で、自分だけに尽くしてくれて、愛の言葉を囁いてくれる人』を待ってる寂しがり屋タイプでーす!」
「なっ……⁉︎」
図星、とは言いたくない。言いたくないけど、顔が引きつるのがわかる。普段、生徒会長としての振る舞いに疲れている反動か、心のどこかで「甘やかされたい」と思っているのは否定できない。でも、それを「寂しがり屋」なんて言葉で片付けられるのは癪だ。
「ち、違うよ萌葉! だいたい心理テストなんてバーナム効果でしょ! 誰にでも当てはまるようなことを言ってるだけで……」
「はいはいツンデレ乙。で、宝月くんの結果は〜」
萌葉が視線を彼に移す。
「『鷹』は『高い視座と知性』。『金』は『現実的な力』。そして『宝石』は『永遠の輝き』……つまり宝月くんは、『自分と対等に渡り合える知性を持ち、かつ自分が守るべき価値のある、美しく気高い存在』を求めている! おお〜、なんか財閥の御曹司っぽい!」
ふーん、と私は横目で彼を見る。美しく気高い存在、ね。やっぱりお金持ちは理想が高い。私みたいな庶民染みた生活をしている人間とは住む世界が違うのだ。
「……ふーむ。当たってるかどうかはともかく、分析としては面白いね」
彼は涼しい顔でそう言った。
その反応が、なんだか少しだけ、つまらなく感じた。
□■□■□
心理テストの騒ぎも一段落し、私たちは再び仕事に戻った。しかし、どうにも集中できない。
(誠実で、尽くしてくれて、愛の言葉を……)
萌葉の言葉が頭の中をぐるぐると回る。私はチラリと副会長のいる席を見る。彼は黙々とキーボードを叩いていた。その横顔は整っていて、知的で、確かに『鷹』のような鋭さを感じさせる。
「……会長」
「ひゃい⁉︎」
突然名前を呼ばれて、変な声が出た。
最悪だ。顔から火が出そう。
「あ、あの、なに?」
「さっきから手が止まってますよ。……何か悩み事でも?」
彼は椅子を回転させ、こちらに正対した。その瞳は真っ直ぐ私を見つめている。嘘も誤魔化しも見透かすような、綺麗な瞳。
「な、なんでもありません。ただ、ちょっと目が疲れただけで……」
「ああ、そういえば昨日の今日ですしね。……少し休憩しましょうか」
彼はそう言うと、立ち上がって部屋の隅にある給湯スペースへ向かった。手慣れた手つきでポットからお湯を注ぎ、何かを作っている。
やがて、私の目の前に湯気の立つマグカップが置かれた。
「ココアを淹れてみました。糖分補給にどうぞ」
「……ありがとう」
マグカップを両手で包むと、じんわりとした温かさが伝わってくる。一口啜ると、甘い香りが鼻腔をくすぐり、こわばっていた肩の力がふっと抜けた。
「……美味しい」
「それはよかった。実はこれ、うちの会社が開発に関わっている新しいカカオ豆を使った試供品なんですよ。リラックス効果が高い成分が含まれていて、それでいて集中できる」
「また自社製品……相変わらず商売熱心なんですね」
「会長にモニターになってもらえれば、宣伝効果は抜群ですね」
彼は悪戯っぽく微笑んだ。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ高鳴る。
(……こういうところ)
仕事が出来て、気遣いが出来て、でも時々こうやって年相応の顔を見せる。悔しいけれど、やっぱり彼は優秀な副会長だ。
「ねえねえ宝月くーん! 私にはー?」
ソファから萌葉が声を上げる。
「藤原書記にはありません。さっき隠れてクッキー食べてましたよね?」
「げっ、バレてた!」
そんなやり取りを見て、私は思わずクスッと笑ってしまった。
「あ、圭ちゃんが笑った! やっといつもの圭ちゃんに戻った〜」
「う、うるさい! ……でも副会長、ありがとうございます」
私は素直に礼を言った。
彼は「どういたしまして」と短く返し、また自分の席に戻っていく。
その背中を見ながら、私はふと思った。
『誠実で、尽くしてくれて』。……まさかね。
□■□■□
時刻は十八時を回ろうとしていた。
萌葉は「ピアノのレッスンがあるから!」と言って先に帰ってしまった。結局、残ったのは私と宝月くんの二人だけ。
「よし、これで大体終わり」
最後の書類にハンコを押し、私は大きく伸びをした。
窓の外は完全に日が落ちて、夜の闇が広がっている。
「お疲れ様です、会長。……送りますよ」
「え?」
「もう暗いですから。女の子一人じゃ危ないでしょう」
彼は当たり前のようにそう言った。
鞄を持ち、私を待っている。
「い、いいって! 悪いから。私、家も方向違うし……」
「車を待たせてあります。会長の家まで送らせてください」
「く、車⁉︎」
さすがはお金持ち。中学生で送迎付きとは。しかし、彼の家の車で送ってもらうなんて、もし近所の人に見られたら何を言われるか。それに、狭い車内で二人きりなんて……心臓がもたない。
「だ、大丈夫! 私、歩いて帰るのが好きで! 運動にもなるし! だからお気遣いなく!」
私は慌てて鞄を掴み取り、逃げるように生徒会室のドアを開けた。
彼が追いかけてくる気配がする。私は早足で廊下を進んだ。
「会長! 待ってください!」
「本当に大丈夫だから! 宝月くんは自分の車で——きゃっ⁉︎」
焦っていたせいか、階段の踊り場で足がもつれた。身体が前に傾く。目の前には硬い床。
(あ、転ぶ——)
衝撃に備えて目を瞑った私の身体は、床に叩きつけられることはなかった。代わりに感じたのは、温かい体温と、微かな制汗剤の香り。そして、腰に回された力強い腕。
「……っと、セーフ。危ないですよ、会長」
恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に宝月くんの顔があった。彼は私を庇うように抱き留めてくれていたのだ。
近い。あまりにも近すぎる。彼の長いまつ毛の一本一本まで数えられそうな距離。お互いの吐息がかかる。
「だ、大……じょうぶ……」
声が震える。離れなきゃいけないのに。
彼の瞳が、私を真っ直ぐに捉えて離さない。
「白銀会長?」
ドキリと心臓が跳ね上がる。
思考が停止する。
時が止まったような錯覚。
彼は何かを言いかけて——その時。
廊下の奥から、カツカツという足音が聞こえてきた。
「っ⁉︎」
「……おっと」
我に返った私たちは、パッと身を離した。
もし今誰かに、こんな抱き合っているような姿を見られたら、どんな誤解を生むかわからない。
「会長、こっちへ!」
彼は私の手首を掴み、走り出した。
「ちょ、ちょっと宝月くん⁉︎」
「人に見つかると面倒だ。隠れよう!」
彼に引かれるまま、私たちは近くの空き教室——『用具準備室』へと滑り込んだ。
バタン、と扉を閉める。
中は真っ暗で、掃除用具や使われていない机が詰め込まれているため、とても狭い。
「しっ……静かに」
彼が私の口元に人差し指を当てる。
狭い空間。密着する身体。暗闇の中で、彼の心臓の音まで聞こえてきそうだ。
廊下を人の足音が近づいてくる。
(ど、どうしよう……これじゃまるで……)
まるで、漫画によくある『閉じ込められイベント』ではないか!
彼の腕が、私を守るように背後の壁に添えられる。いわゆる『壁ドン』の体勢。暗闇の中、彼の瞳だけが光って見えた。
「ほ、宝月くん——?」
「しーっ。静かにしていれば、きっとやり過ごせる」
彼の囁くような声が、耳元をくすぐる。
私はコクコクと頷くことしかできない。
足音は扉の前でぴたりと止まった。私の心臓は早鐘を打ち、口から飛び出しそうだ。もし開けられたら、言い訳できない。
(お願い、通り過ぎて……!)
私は彼の制服の裾をギュッと握りしめた。彼は動じない。ただ静かに、私の頭の横に手を置いて守るような姿勢を崩さない。そしてしばらくして……。
ウィーン、ガシャ。
扉の向こうで機械的な音がしたかと思うと、足音は遠ざかっていった。
「……行ったかな?」
彼が低く囁き、ゆっくりと身体を離した。
緊張が解け、私はへなへなと座り込みそうになる。
「は、ぁ……死ぬかと思った……。誰だったんだろう、先生かな?」
「いえ、あれは自動巡回警備ロボット『マモルくん一号』ですね。うちの会社がこの学校に先月から試験導入したやつですな」
「……はい?」
私は聞き返した。
ロボット? 人間じゃなくて?
「熱感知センサー搭載なので、人間がいれば立ち止まってスキャンします。この部屋は断熱性が高いから気づかれずに済みましたね」
「…………」
私はゆっくりと立ち上がり、埃を払った。
つまり、私たちは人間ですらない掃除機のような機械に怯え、少女漫画みたいな密着をして、ドキドキしていたということ?
「……あのさ、宝月くん」
「はい、なんでしょう」
「知っててコレやったの?」
「えっ、いや……それは、うーん?」
「っ⁉︎」
私は顔を真っ赤にして用具室を飛び出した。
廊下には確かに、ずんぐりむっくりしたロボットがウィンウィンと去っていく後ろ姿があった。
「もう知らない! 帰る!」
「あ、会長! 送りますってば!」
私は逃げるように廊下を走る。
夕闇の校舎に、私の足音だけが響く。
(うう……)
握りしめていた手のひらには、彼の制服の感触と、少しだけの温もりが残っていた——。
本日の勝敗:宝月悠の勝利
理由:吊り橋効果による心拍数の掌握(疑惑あり)