恋の時価総額は計れない   作:深紫Sιn姉

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第五話:白銀圭は特訓したい

秀知院学園中等部、体育館。

 

放課後のこの場所には、体育シューズが床を擦る音や、生徒たちの活気ある声が響いている。来月に控えた球技大会に向け、各クラスが練習に熱を入れているからだ。

 

私のクラスはバレーボールに出場することになっている。生徒会長として、そしてクラスの一員として、私は率先して練習に参加していた。運動神経には自信がある。戦略も立てた。優勝への道筋は見えていた。

 

——はずだった。

 

「……おかしいですね」

 

ネットの向こう側で、独りブツブツと呟く男。我が生徒会の頭脳であり、最新鋭のテクノロジーを操る副会長、宝月悠。

 

彼の足元には、無残にも転がり落ちたバレーボール。そして彼の周囲には、なんとも言えない空気が漂っていた。

 

「イメージトレーニングでは、流れるように美しいフォームで相手コートの隅に決まっていたはずなんですが……。完璧な放物線を描くはずが、なぜ……」

 

彼はタブレット端末を見ながら、真剣な顔で虚空を睨んでいる。

私はネットをくぐり、彼の目の前に立った。

 

「宝月くん」

「あ、会長。見てください、この計算式。理論上、俺のサーブはオリンピック選手級の回転数を——」

「御託はいいから」

 

私は彼の手からタブレットを取り上げ、ベンチに置いた。

 

「さっきから十本打って、一本もネットを越えてないのはどういうこと?」

「……どうやら、俺の身体は俺の言うことを聞いてくれないようだ。反抗期ですかね」

「それを世間では『運動音痴』って言うの」

 

私は頭を抱えた。勉強もできる、仕事もできる、金もある。天は二物を与えずと言うけれど、まさか神様が奪ったのが「身体能力」のすべてだとは。普段のスマートな姿からは想像もつかない、生まれたての子鹿のような足取り。それが今の彼だ。

 

 

□■□■□

 

 

「あはははは! やっばーい! 今の見た? 圭ちゃん‼︎」

 

爆笑しながら私たちの間に割って入ってきたのは、書記の藤原萌葉だった。彼女はバレーボールを指先でくるくると回しながら、無邪気かつ残酷な笑顔を宝月くんに向ける。

 

「宝月くんってば、ボール投げようとして自分の頭に当ててたよ! どういう身体構造してるの? ギャグ漫画でももっとマシだよ!」

「ぐっ……笑いたければ笑うがいい、藤原書記。しかしこれは、一時的な不調であって……」

「言い訳なっが! 往生際が悪いよ副会長〜」

 

萌葉はニヤリと笑うと、私の肩に腕を回してきた。

 

「ねえねえ圭ちゃん。このままだと生徒会の恥だよ? 球技大会、全校生徒が見てるんだから」

「……分かってる。だからこうして練習してるの」

「甘い! 甘いよ圭ちゃん! そんな生温い練習じゃ、このポンコツロボットは直らないよ!」

 

萌葉の目が、怪しく光った。嫌な予感がする。この藤原家の人間が目を光らせる時、ろくなことが起きないというのは、これまでの経験則で証明されている。

 

「私がとっておきの『藤原流・根性叩き直しメニュー』を伝授してあげる! お姉ちゃん(千花)直伝のやつ!」

「い、いや、俺は遠慮したい——」

「問答無用! さあ宝月くん、まずは準備運動からだよ! 『死の反復横跳び』一万回! その次は『地獄のスクワット』五千回!」

「す、数値設定が異常だ! それでは人体の構造的限界を超えて——」

 

宝月くんの抗議も虚しく、萌葉は笛をピーッと吹き鳴らした。

 

「口答え禁止! ほら動く動く! マグロみたいに止まったら死ぬと思って動きなさい!」

「ええっ⁉︎」

 

体育館の隅で、地獄の特訓が始まった。萌葉の罵声と、宝月くんの悲鳴が交互に響く。

 

「足が上がってない! もっと高く!」

「り、理論上、これ以上の可動域は靭帯の損傷を招き……あべしっ!」

「うるさーい! 気合いだ気合い! 声出して!」

 

……あーあ。

私は遠い目をした。宝月くん、普段はあんなに偉そうに「効率」だの「ロジック」だの言ってるのに、今は完全に食物連鎖の最底辺だ。ジャージは埃まみれ、髪はボサボサ、額は汗まみれだ。

 

クラスの女子たちが、ヒソヒソと話しているのが聞こえた。

 

「ねえ、あれ宝月くんだよね?」

「なんか……イメージ崩れるわー」

「あんなにドジっ子だったんだ」

「ちょっと引くかも……」

 

その声を聞いた瞬間、私の胸の奥で、カチンと何かが鳴った。

 

(……そんな言わなくても、みんなして)

 

確かに彼は運動音痴だ。見ていられないほど不格好だ。でも、彼はいつだって真面目なのだ。生徒会の仕事だって、誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残って。私が困っている時は、さりげなく助けてくれて。

そんな彼の努力を知らないくせに、表面的なことだけで「引く」とか言わないでほしい。

 

「……萌葉、ちょっとストップ」

 

私は二人の間に割って入った。

 

「あれ? どうしたの圭ちゃん? 今いいところだったのに」

「見てられない。そんな無茶苦茶なトレーニング、怪我するだけ」

 

私はゼーハーと息を切らして床に倒れ込んでいる宝月くんに手を差し伸べた。彼は白目を剥きかけていたが、私の手に気づいてハッとした表情をする。

 

「……か、会長……」

「立てる? 少し休憩入れるよ」

「申し訳ない……情けない姿を……」

 

彼の手は、汗でじっとりと濡れていた。でも、私は構わずその手を強く握って引き上げた。

 

「……萌葉、あんたはあっちでサーブ練習してて。私が彼を見るから」

「えーっ? 圭ちゃんが教えるの? 甘やかしたらダメだよ?」

「甘やかしてない! 効率的な指導をするだけ!」

「ぶーぶー。まあいっか、圭ちゃんのお手並み拝見ってことで!」

 

萌葉は面白くなさそうに頬を膨らませたが、大人しくボールを持って離れていった。残されたのは、私と、瀕死の副会長だけ。

 

 

□■□■□

 

 

「……大丈夫?」

「いえ、正直に申し上げます。生命維持機能が低下しており、まるで肺が燃えているようだ……」

 

宝月くんは壁にもたれかかり、スポーツドリンクをちびちびと飲んでいる。ジャージの袖で顔を拭うその姿は、いつものクールな副会長とは別人のようだ。

 

「……はぁ。宝月くんって本当に極端だね」

「面目ない。頭では、ボールの軌道も、落下地点も、必要な力も。全て計算できているのに、身体が追いつかない。……ううむ、これはこの身体構造そのものに問題があるのやもしれなく」

 

彼は自嘲気味に笑った。その弱々しい笑顔を見て、私はなんだか無性にイライラした。彼を笑う周囲に、そして何より、自分を卑下する彼自身に。

 

「貸して」

 

私は彼の手からボールを奪い取った。

 

「いい? 宝月くん。あなたの最大の欠点は『考えすぎ』。計算とか理論とか、どうでもいい」

「しかし、何も考えずに行動するのは……」

「うるさい。スポーツは身体との対話なの。頭でっかちだから、身体の声が聞こえなくなるの」

 

私は彼の背後に回り込み、その背中をパンと叩いた。

 

「はっ⁉︎」

「背筋伸ばす! 猫背になってる!」

 

私は彼の手首を掴み、無理やりレシーブの形を作らせる。

 

「腕はこう組む。膝はもっと曲げる。重心を落として」

「ちょ、会長、近い。当たってます……!」

「何が?」

「い、いや何も! うん、やっぱなんでもない!」

 

彼の耳が真っ赤になっている。

 

……ああ、なるほど。意識してるのか。そう気づくと、私まで急に恥ずかしくなってきた。彼の背中越しに伝わる体温。制汗剤と汗の混じった匂い。普段、机を挟んで向かい合っている時とは違う、生々しい「男子」の感覚。

 

でも、ここで引いたら負けだ。

私は生徒会長。

彼は出来の悪い部下。

これは指導。そう、ただの指導だ。

 

「……力を抜いて。ガチガチだよ?」

「うーん難しい。会長が後ろにいると、緊張で心拍数が上がってしまう……」

「また理屈っぽいこと言う! いいから、私が投げるボールを、今の姿勢で返すことだけ考えて」

 

私は彼から離れ、正面に立った。

彼がホッとしたような、残念なような顔をする。

 

「いくよ」

 

私はふわりと、優しいボールを投げた。山なりの、誰でも取れそうなボール。

 

「……感覚、感覚」

 

彼はブツブツと呪文のように唱えながら、ボールを見上げた。そして、不格好ながらも必死に腕を伸ばし——。

 

バチンッ。

 

ボールは彼の腕に当たり、明後日の方向へ飛んでいった。でも、後ろには飛ばなかった。空振りもしなかった。ちゃんと、前に飛んだ。

 

「……お」

 

彼は驚いたように自分の腕を見つめている。

 

「当たった……」

「当たり前でしょ。ボールを見てれば当たるの」

「会長は女神か?」

「……ボール取ってくる」

 

私はボールを拾いに行きながら、彼に背を向けて言った。顔がニヤけてしまうのを隠すために。

 

「ま、さっきよりはマシになったと思うよ。マイナス100点から、マイナス30点くらいには」

「……うーむ手厳しい。やはり閻魔か?」

 

振り返ると、彼はいつもの少し生意気な表情に戻りつつあった。でも、その口元は嬉しそうに緩んでいる。そして、ふと彼はこちらに微笑んでこう言った。

 

「ありがとうございます、会長。……その、また教えてくれますか?」

「……気が向いたらね」

 

私は素っ気なく答えた。

でも、心の中では「仕方ないなぁ」なんて思っている自分がいたり、いなかったり。

 

 

□■□■□

 

 

練習終了後。

私たちは体育館の片付けをしていた。萌葉は「お姉ちゃんの服を勝手に借りてきたのがバレそう!」と言って、嵐のように帰ってしまった。結局、残ったのは私と宝月くんの二人。

 

「……痛っ」

 

モップがけをしていた彼が、小さく呻いて膝をついた。

 

「どうしたの?」

「いえ、少し……足が攣ったようで」

「もう、情けないなぁ」

 

私は彼に駆け寄り、その足を見た。

筋肉がピクピクと痙攣している。

慣れない運動を無理やりやった証拠だ。

 

「座って。伸ばしてあげるから」

「そんな、会長に足を触らせるなんて——」

「いいから! ほら早く治したいでしょう?」

「うーん、それは確かに」

 

私は強引に彼の足を掴み、ストレッチを始めた。彼は「うぐっ」とか「ひぎっ」とか、情けない声を上げている。

 

「……あのさ」

 

私は彼のつま先を押しながら、ポツリと言った。

 

「宝月くんって、いつも完璧ぶってるくせに、意外とポンコツだよね」

 

彼は苦笑いを浮かべて、壁にもたれたまま答える。

 

「……痛いところを突きますね、会長。ええ、自分でも自覚していますよ」

「自覚あるなら、もう少し身体動かす練習しなよ。私が言うのもなんだけど、頭だけで生きてると、いつかバランス崩すよ」

 

私はつま先をさらに軽く押して、筋を伸ばす。彼が「うっ」と小さく呻いたけど、気にしない。

 

「……会長にこうやって触ってもらえるなら、むしろご褒美かも?」

「は? 何それ」

 

私は手を止めて睨んだ。顔が熱くなるのをごまかすために、わざと声を尖らせる。

 

「いや冗談冗談。……でも、本当に感謝。藤原書記のスパルタじゃ、今頃病院送りでしょうね」

「萌葉のやり方はあれだけど、根性論もたまには必要でしょ。……ほら、もう少し伸ばすよ」

 

私は再び足を押す。彼のふくらはぎがピクピク動いて、だんだん痙攣が収まってきた。体育館はもうほとんど人がいなくて、遠くで用具を片付ける音だけが響いてる。夕方の光が窓から差し込んで、床がオレンジ色に染まってる。

 

「……会長」

 

彼が急に真面目な声で呼んだ。

夕陽に照らされた彼の瞳は、いつになく真剣で、私の顔をじっと見上げている。

 

「な、なに……改まって」

 

私は動揺を悟られないよう、努めて冷静に振る舞った。夕暮れの体育館。二人きり。吊り橋効果の余韻。……まさか、ここで?

 

彼は懐から、スッと一枚の紙幣を取り出した。

 

「授業料です」

 

彼の指に挟まれていたのは、一万円札だった。

 

「プロ並みの手技でした。対価を支払わないのは、私の主義に反する」

 

彼は爽やかな笑顔で、お札を私に差し出してきた。そこに、甘い雰囲気も、青春のトキメキも、一切存在しない。あるのは、資本主義のドライな取引だけだった。

 

「…………」

 

私は無言で、持ち上げていた彼の足を——離した。

ドサッ。

 

「ぐっ……⁉︎ か、会長?」

「……バカ」

 

私は差し出された一万円を指先で弾き、カバンを持って立ち上がった。今ここでその金を受け取ったら、私は「女子」としてだけでなく、「人間」として何か大切なものを失う気がしたから。

 

私は出口へと歩き出す。背後で、彼が慌てて立ち上がる気配がした。

 

「ま、待ってください! 現金がダメなら電子マネーで! それとも株式譲渡ですか⁉︎」

「違うってば!」

 

私は体育館の重い扉を開け、そこで足を止めた。

振り返らずに、少しだけ声を張り上げる。

 

「……ジュース」

「え?」

「自販機の、ジュースでいいから」

 

一瞬の沈黙の後、パッと明るくなった彼の声が響いた。

 

「——はっ! お安い御用!」

 

私は額を押さえたまま、彼が走ってくるのを待った。

 

「こういうのでいいの」

「会長がそうおっしゃるのならば」

 

そして鳴るは二つの缶の開けられる爽快な音。

夕闇染まる校舎に、二つの足音が並んで響いた——。

 

 

本日の勝敗:白銀圭の勝利

理由:一万円の臨時収入は逃したが、プライスレスな時間を手に入れたため

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