秀知院学園中等部、体育館。
放課後のこの場所には、体育シューズが床を擦る音や、生徒たちの活気ある声が響いている。来月に控えた球技大会に向け、各クラスが練習に熱を入れているからだ。
私のクラスはバレーボールに出場することになっている。生徒会長として、そしてクラスの一員として、私は率先して練習に参加していた。運動神経には自信がある。戦略も立てた。優勝への道筋は見えていた。
——はずだった。
「……おかしいですね」
ネットの向こう側で、独りブツブツと呟く男。我が生徒会の頭脳であり、最新鋭のテクノロジーを操る副会長、宝月悠。
彼の足元には、無残にも転がり落ちたバレーボール。そして彼の周囲には、なんとも言えない空気が漂っていた。
「イメージトレーニングでは、流れるように美しいフォームで相手コートの隅に決まっていたはずなんですが……。完璧な放物線を描くはずが、なぜ……」
彼はタブレット端末を見ながら、真剣な顔で虚空を睨んでいる。
私はネットをくぐり、彼の目の前に立った。
「宝月くん」
「あ、会長。見てください、この計算式。理論上、俺のサーブはオリンピック選手級の回転数を——」
「御託はいいから」
私は彼の手からタブレットを取り上げ、ベンチに置いた。
「さっきから十本打って、一本もネットを越えてないのはどういうこと?」
「……どうやら、俺の身体は俺の言うことを聞いてくれないようだ。反抗期ですかね」
「それを世間では『運動音痴』って言うの」
私は頭を抱えた。勉強もできる、仕事もできる、金もある。天は二物を与えずと言うけれど、まさか神様が奪ったのが「身体能力」のすべてだとは。普段のスマートな姿からは想像もつかない、生まれたての子鹿のような足取り。それが今の彼だ。
□■□■□
「あはははは! やっばーい! 今の見た? 圭ちゃん‼︎」
爆笑しながら私たちの間に割って入ってきたのは、書記の藤原萌葉だった。彼女はバレーボールを指先でくるくると回しながら、無邪気かつ残酷な笑顔を宝月くんに向ける。
「宝月くんってば、ボール投げようとして自分の頭に当ててたよ! どういう身体構造してるの? ギャグ漫画でももっとマシだよ!」
「ぐっ……笑いたければ笑うがいい、藤原書記。しかしこれは、一時的な不調であって……」
「言い訳なっが! 往生際が悪いよ副会長〜」
萌葉はニヤリと笑うと、私の肩に腕を回してきた。
「ねえねえ圭ちゃん。このままだと生徒会の恥だよ? 球技大会、全校生徒が見てるんだから」
「……分かってる。だからこうして練習してるの」
「甘い! 甘いよ圭ちゃん! そんな生温い練習じゃ、このポンコツロボットは直らないよ!」
萌葉の目が、怪しく光った。嫌な予感がする。この藤原家の人間が目を光らせる時、ろくなことが起きないというのは、これまでの経験則で証明されている。
「私がとっておきの『藤原流・根性叩き直しメニュー』を伝授してあげる! お姉ちゃん(千花)直伝のやつ!」
「い、いや、俺は遠慮したい——」
「問答無用! さあ宝月くん、まずは準備運動からだよ! 『死の反復横跳び』一万回! その次は『地獄のスクワット』五千回!」
「す、数値設定が異常だ! それでは人体の構造的限界を超えて——」
宝月くんの抗議も虚しく、萌葉は笛をピーッと吹き鳴らした。
「口答え禁止! ほら動く動く! マグロみたいに止まったら死ぬと思って動きなさい!」
「ええっ⁉︎」
体育館の隅で、地獄の特訓が始まった。萌葉の罵声と、宝月くんの悲鳴が交互に響く。
「足が上がってない! もっと高く!」
「り、理論上、これ以上の可動域は靭帯の損傷を招き……あべしっ!」
「うるさーい! 気合いだ気合い! 声出して!」
……あーあ。
私は遠い目をした。宝月くん、普段はあんなに偉そうに「効率」だの「ロジック」だの言ってるのに、今は完全に食物連鎖の最底辺だ。ジャージは埃まみれ、髪はボサボサ、額は汗まみれだ。
クラスの女子たちが、ヒソヒソと話しているのが聞こえた。
「ねえ、あれ宝月くんだよね?」
「なんか……イメージ崩れるわー」
「あんなにドジっ子だったんだ」
「ちょっと引くかも……」
その声を聞いた瞬間、私の胸の奥で、カチンと何かが鳴った。
(……そんな言わなくても、みんなして)
確かに彼は運動音痴だ。見ていられないほど不格好だ。でも、彼はいつだって真面目なのだ。生徒会の仕事だって、誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残って。私が困っている時は、さりげなく助けてくれて。
そんな彼の努力を知らないくせに、表面的なことだけで「引く」とか言わないでほしい。
「……萌葉、ちょっとストップ」
私は二人の間に割って入った。
「あれ? どうしたの圭ちゃん? 今いいところだったのに」
「見てられない。そんな無茶苦茶なトレーニング、怪我するだけ」
私はゼーハーと息を切らして床に倒れ込んでいる宝月くんに手を差し伸べた。彼は白目を剥きかけていたが、私の手に気づいてハッとした表情をする。
「……か、会長……」
「立てる? 少し休憩入れるよ」
「申し訳ない……情けない姿を……」
彼の手は、汗でじっとりと濡れていた。でも、私は構わずその手を強く握って引き上げた。
「……萌葉、あんたはあっちでサーブ練習してて。私が彼を見るから」
「えーっ? 圭ちゃんが教えるの? 甘やかしたらダメだよ?」
「甘やかしてない! 効率的な指導をするだけ!」
「ぶーぶー。まあいっか、圭ちゃんのお手並み拝見ってことで!」
萌葉は面白くなさそうに頬を膨らませたが、大人しくボールを持って離れていった。残されたのは、私と、瀕死の副会長だけ。
□■□■□
「……大丈夫?」
「いえ、正直に申し上げます。生命維持機能が低下しており、まるで肺が燃えているようだ……」
宝月くんは壁にもたれかかり、スポーツドリンクをちびちびと飲んでいる。ジャージの袖で顔を拭うその姿は、いつものクールな副会長とは別人のようだ。
「……はぁ。宝月くんって本当に極端だね」
「面目ない。頭では、ボールの軌道も、落下地点も、必要な力も。全て計算できているのに、身体が追いつかない。……ううむ、これはこの身体構造そのものに問題があるのやもしれなく」
彼は自嘲気味に笑った。その弱々しい笑顔を見て、私はなんだか無性にイライラした。彼を笑う周囲に、そして何より、自分を卑下する彼自身に。
「貸して」
私は彼の手からボールを奪い取った。
「いい? 宝月くん。あなたの最大の欠点は『考えすぎ』。計算とか理論とか、どうでもいい」
「しかし、何も考えずに行動するのは……」
「うるさい。スポーツは身体との対話なの。頭でっかちだから、身体の声が聞こえなくなるの」
私は彼の背後に回り込み、その背中をパンと叩いた。
「はっ⁉︎」
「背筋伸ばす! 猫背になってる!」
私は彼の手首を掴み、無理やりレシーブの形を作らせる。
「腕はこう組む。膝はもっと曲げる。重心を落として」
「ちょ、会長、近い。当たってます……!」
「何が?」
「い、いや何も! うん、やっぱなんでもない!」
彼の耳が真っ赤になっている。
……ああ、なるほど。意識してるのか。そう気づくと、私まで急に恥ずかしくなってきた。彼の背中越しに伝わる体温。制汗剤と汗の混じった匂い。普段、机を挟んで向かい合っている時とは違う、生々しい「男子」の感覚。
でも、ここで引いたら負けだ。
私は生徒会長。
彼は出来の悪い部下。
これは指導。そう、ただの指導だ。
「……力を抜いて。ガチガチだよ?」
「うーん難しい。会長が後ろにいると、緊張で心拍数が上がってしまう……」
「また理屈っぽいこと言う! いいから、私が投げるボールを、今の姿勢で返すことだけ考えて」
私は彼から離れ、正面に立った。
彼がホッとしたような、残念なような顔をする。
「いくよ」
私はふわりと、優しいボールを投げた。山なりの、誰でも取れそうなボール。
「……感覚、感覚」
彼はブツブツと呪文のように唱えながら、ボールを見上げた。そして、不格好ながらも必死に腕を伸ばし——。
バチンッ。
ボールは彼の腕に当たり、明後日の方向へ飛んでいった。でも、後ろには飛ばなかった。空振りもしなかった。ちゃんと、前に飛んだ。
「……お」
彼は驚いたように自分の腕を見つめている。
「当たった……」
「当たり前でしょ。ボールを見てれば当たるの」
「会長は女神か?」
「……ボール取ってくる」
私はボールを拾いに行きながら、彼に背を向けて言った。顔がニヤけてしまうのを隠すために。
「ま、さっきよりはマシになったと思うよ。マイナス100点から、マイナス30点くらいには」
「……うーむ手厳しい。やはり閻魔か?」
振り返ると、彼はいつもの少し生意気な表情に戻りつつあった。でも、その口元は嬉しそうに緩んでいる。そして、ふと彼はこちらに微笑んでこう言った。
「ありがとうございます、会長。……その、また教えてくれますか?」
「……気が向いたらね」
私は素っ気なく答えた。
でも、心の中では「仕方ないなぁ」なんて思っている自分がいたり、いなかったり。
□■□■□
練習終了後。
私たちは体育館の片付けをしていた。萌葉は「お姉ちゃんの服を勝手に借りてきたのがバレそう!」と言って、嵐のように帰ってしまった。結局、残ったのは私と宝月くんの二人。
「……痛っ」
モップがけをしていた彼が、小さく呻いて膝をついた。
「どうしたの?」
「いえ、少し……足が攣ったようで」
「もう、情けないなぁ」
私は彼に駆け寄り、その足を見た。
筋肉がピクピクと痙攣している。
慣れない運動を無理やりやった証拠だ。
「座って。伸ばしてあげるから」
「そんな、会長に足を触らせるなんて——」
「いいから! ほら早く治したいでしょう?」
「うーん、それは確かに」
私は強引に彼の足を掴み、ストレッチを始めた。彼は「うぐっ」とか「ひぎっ」とか、情けない声を上げている。
「……あのさ」
私は彼のつま先を押しながら、ポツリと言った。
「宝月くんって、いつも完璧ぶってるくせに、意外とポンコツだよね」
彼は苦笑いを浮かべて、壁にもたれたまま答える。
「……痛いところを突きますね、会長。ええ、自分でも自覚していますよ」
「自覚あるなら、もう少し身体動かす練習しなよ。私が言うのもなんだけど、頭だけで生きてると、いつかバランス崩すよ」
私はつま先をさらに軽く押して、筋を伸ばす。彼が「うっ」と小さく呻いたけど、気にしない。
「……会長にこうやって触ってもらえるなら、むしろご褒美かも?」
「は? 何それ」
私は手を止めて睨んだ。顔が熱くなるのをごまかすために、わざと声を尖らせる。
「いや冗談冗談。……でも、本当に感謝。藤原書記のスパルタじゃ、今頃病院送りでしょうね」
「萌葉のやり方はあれだけど、根性論もたまには必要でしょ。……ほら、もう少し伸ばすよ」
私は再び足を押す。彼のふくらはぎがピクピク動いて、だんだん痙攣が収まってきた。体育館はもうほとんど人がいなくて、遠くで用具を片付ける音だけが響いてる。夕方の光が窓から差し込んで、床がオレンジ色に染まってる。
「……会長」
彼が急に真面目な声で呼んだ。
夕陽に照らされた彼の瞳は、いつになく真剣で、私の顔をじっと見上げている。
「な、なに……改まって」
私は動揺を悟られないよう、努めて冷静に振る舞った。夕暮れの体育館。二人きり。吊り橋効果の余韻。……まさか、ここで?
彼は懐から、スッと一枚の紙幣を取り出した。
「授業料です」
彼の指に挟まれていたのは、一万円札だった。
「プロ並みの手技でした。対価を支払わないのは、私の主義に反する」
彼は爽やかな笑顔で、お札を私に差し出してきた。そこに、甘い雰囲気も、青春のトキメキも、一切存在しない。あるのは、資本主義のドライな取引だけだった。
「…………」
私は無言で、持ち上げていた彼の足を——離した。
ドサッ。
「ぐっ……⁉︎ か、会長?」
「……バカ」
私は差し出された一万円を指先で弾き、カバンを持って立ち上がった。今ここでその金を受け取ったら、私は「女子」としてだけでなく、「人間」として何か大切なものを失う気がしたから。
私は出口へと歩き出す。背後で、彼が慌てて立ち上がる気配がした。
「ま、待ってください! 現金がダメなら電子マネーで! それとも株式譲渡ですか⁉︎」
「違うってば!」
私は体育館の重い扉を開け、そこで足を止めた。
振り返らずに、少しだけ声を張り上げる。
「……ジュース」
「え?」
「自販機の、ジュースでいいから」
一瞬の沈黙の後、パッと明るくなった彼の声が響いた。
「——はっ! お安い御用!」
私は額を押さえたまま、彼が走ってくるのを待った。
「こういうのでいいの」
「会長がそうおっしゃるのならば」
そして鳴るは二つの缶の開けられる爽快な音。
夕闇染まる校舎に、二つの足音が並んで響いた——。
本日の勝敗:白銀圭の勝利
理由:一万円の臨時収入は逃したが、プライスレスな時間を手に入れたため