秀知院学園において、生徒の本分とは何か。
それは『勉学』である。特に、外部入学組(混院)である私たちにとって、成績は己の存在価値を証明する唯一の武器と言っても過言ではない。
「……はぁ。憂鬱」
放課後の生徒会室。
窓の外はどんよりとした曇り空。私の心も同じような色をしていた。机の上に広げられたのは、来週に迫った期末試験の出題範囲の教科書。そして、真っ赤なインクで直された用紙の数々。
中等部の生徒会長として。
私は無様な点数を取るわけにはいかない。
それに、家に帰れば『あいつ』がいる。高等部で不動の一位を取り続ける学年一位の怪物、兄・白銀御行。「圭ちゃん、勉強教えてやろうか?」なんて上から目線で言われるのだけは、死んでも阻止しなければならない。兄としての威厳を保とうとするあのドヤ顔を想像するだけで、はあ……。
「おや、会長。ため息をつくとは珍しい。幸せが逃げると言いますが、それは今すぐ吸い込み直した方がきっと良いでしょう」
向かいの席から、冷静な、しかしどこか含みのある声が聞こえた。顔を上げると、そこには異様な光景が広がっていた。
「……宝月くん」
「はい」
「その、頭に被っているSF映画の拷問器具みたいなのは何?」
副会長の宝月悠。
彼は、頭部に無数のコードが繋がれた銀色のヘッドギアを装着していた。コードの先は、机の上に置かれた重厚なアタッシュケース型の端末に接続されている。そして彼の瞳は、どこか一点を見つめ、恍惚とした光を宿していた。
「これですか? 我が社の研究部門が極秘に開発した学習支援デバイス『ニューロ・プレジャー・ブースト』です」
「名前からしてヤバそうなんだけど」
「原理は単純です。問題を解く、正解する、その瞬間に脳の報酬系に微弱な電気信号を送り、ドーパミンとエンドルフィンの分泌を強制的に促します」
「……はい?」
「つまり、『勉強=気持ちいい』と脳に錯覚させることで、無限の集中力と学習意欲を引き出す。言わば『学習中毒』を人工的に作り出すマシンですよ」
彼は淡々と言うと、手元の数学の問題集に視線を落とした。カリカリとペンを走らせる。
「……解けた」
ピピッ、と電子音が鳴る。その瞬間。
「あ……っ、ふぅぅ……これだ……そう! この感覚……‼︎」
宝月くんがビクンと身体を震わせ、頬を紅潮させながら熱っぽい吐息を漏らした。その表情は、まるで極上のスイーツを口にした乙女か、あるいは温泉に浸かった老人のように、とろけている。
「……キモい」
「素晴らしい……積分計算がこんなに快感だなんて……もっと、もっと数式を……!」
私は参考書で自分の顔を覆った。
ダメだ、この人。頭はいいはずなのに、どうしてこうも方向性が明後日の方向にぶっ飛んでいるんだろう。勉強するたびに変な声を出されたら、こっちの集中力が削がれるどころの話ではない。
「宝月くん。今すぐその変態マシンを外して。気が散る」
「変態とは心外な。これは科学の勝利です。しかし、確かにここだと藤原書記……失礼、萌葉さんが遊びに来て邪魔をする可能性が高い。それに、会長の視線が痛い」
「……自業自得」
「では場所を変えましょう。より静粛で、学習に適した場所へ」
彼は名残惜しそうにヘッドギアのスイッチを切った(賢者タイムのような顔になった)。
「場所って? 図書室は満員だし……」
私が不思議しそうに尋ねると、あっけらかんと彼は答えた。
「高等部の生徒会室です」
「えっ?」
「高等部の御行会長に『革新的な学習メソッドの実験台になってほしい』と連絡したところ、『望むところだ、かかってこい』との返信がありました」
私は天を仰いだ。努力と根性の権化である兄と、効率と快楽の奴隷である宝月くん。混ぜるな危険。水と油。その二人が出会って、平穏無事に終わるわけがない。
「では行ってまいります」
「……待って、分かったから」
「はい……?」
「監視役としてついて行く」
□■□■□
高等部の校舎は、中等部とは空気が違う。
廊下を歩く生徒たちもどこか大人びていて、すれ違うたびに漂う香水の香りも上品だ。そんな空気に少し緊張しながら、私たちは生徒会室の重厚な扉をノックした。
「入れ」
聞き慣れた、でも家で聞くより数段低い声。
扉を開けると、そこには優雅なサロンのような空間が広がっていた。革張りのソファ、アンティーク調の家具。そして、窓際に立つ兄・白銀御行と、お茶の準備をしている四宮かぐや副会長。
「お邪魔します、かぐやさん」
「ああいらっしゃい、圭! よく来たわね! さっ、座って座って?」
かぐやさんが、パァっと花が咲いたような笑顔で駆け寄ってきた。彼女の手を取り、ソファへと促される。この空間で唯一の癒やし。私の憧れの女性、かぐやさん。
「今日は勉強会ね。圭のために、脳の糖分補給に最適なフランス直輸入のショコラを用意したの」
「ありがとうございます、かぐやさん……!」
「さて、宝月副会長」
和やかな空気を切り裂くように、兄が鋭い視線を宝月に向けた。その目は、睡眠不足による充血で赤く光り、異様な迫力を放っている。
「話は聞かせてもらった。『勉強を快楽に変える』だと? ふざけているな」
「おや、御行会長。挨拶もそこそこに全否定ですか」
宝月くんは動じることなく、アタッシュケースを開いてあのヘッドギアを取り出した。
「人間は弱い生き物だ。辛いことは続かない。ならば、辛いことを『気持ちいいこと』に変えてしまえばいい。この装置があれば、苦行である勉強が、最高のエンターテインメントに変わる!」
「言語道断だ! お前の考えは根本から腐っている!」
兄がバンッ! と机を叩いた。
「いいか! 勉強というのはな、己の弱さと向き合い、苦しみ、あがき、その果てに掴み取るからこそ意味があるんだ! 安易な快楽に逃げて得た知識など、砂上の楼閣に過ぎん!」
「精神論ですね。非効率の極みだ。結果が同じなら、プロセスは楽な方がいいに決まっている」
「その道筋にこそ魂が宿るんだよ! シャーペンの芯が折れる音、ノートに滲む汗、眠気覚ましのコーヒーの苦味……それら全てが記憶の定着を強固にする!」
「マゾヒストの理論だ……」
「なんとでも言え! 俺は10時間ぶっ通しで問題を解き続け、幻覚を見たこともある! その向こう側にこそ、真の学力がある!」
……どちらもある意味、変態だ。
謎に次元の高い話をしていて頭が痛くなる。「幻覚を見るまで勉強する」のも、「快楽物質を出して勉強する」のも、どっちも人としてどうかと思う。
「……あの、かぐやさん。あの二人、放っておいていいんですか?」
「ええ、放っておきましょう。男の人は、ああいう無駄なプライドの張り合いが好きなのよ」
かぐやさんは優雅に紅茶をすすりながら、冷ややかな、それでいてどこか楽しげな目で二人を見つめていた。何かを審美するかのように、じっくりと。
「それより圭? 数学のこの範囲、まだ不安なんじゃない?」
「あ、はい。この二次関数の最大値・最小値の場合分けがどうしても……」
「ええ貸してごらんなさい。……ここはね、グラフを動かすんじゃなくて、定義域の方を動かして考えると分かりやすいのよ?」
かぐやさんの教え方は、魔法のように分かりやすかった。兄の「気合で覚えろ!」というスパルタ指導とは大違いだ。論理的で、丁寧で、何より私のペースに合わせてくれる。
「すごい……一発で分かった。ありがとうございます、かぐやさん!」
「ふふ、圭は飲み込みが早いですからね。教えがいがあります」
褒められて、私は嬉しくなった。やっぱりかぐやさんは素敵だ。こんなお義姉さんが欲しい。
……いや、何を考えてるんだ私は。
ふと横を見ると、宝月くんがヘッドギアを装着し、何やら唸り声を上げ始めていた。
「くっ……んっ……! こ、この方程式の羅列……たまらない……!」
「おい宝月! お前、目が完全にイっているぞ! 正気に戻れ!」
「会長も……試しますか……? 世界が……数式の色に染まって見えますよ……あはっ」
「誰がやるか! この邪道め!」
兄の怒号、宝月くんの危ない声。全てがカオスだ。
バチバチッ!
突然、宝月くんのヘッドギアから小さな火花が散った。
「あ……れ?」
「おい! 煙が出てるぞ!」
「あ、出力制御のリミッターが……ドーパミン過剰分泌……sys……tem……err……or……」
ガクッ。宝月くんは白目を剥いて、机に突っ伏した。
「ほ、宝月くん⁉︎」
「いわんこっちゃない! 脳をいじるからそうなる!」
兄が慌ててヘッドギアを引っこ抜く。
プシュー、と情けない音を立てて煙が上がった。
□■□■□
数分後。氷嚢で頭を冷やした宝月くんは、げっそりとした顔で復活した。
「……不覚です。快楽のあまり、電圧を上げすぎて脳がオーバーロードしました」
「バカなの?」
「反省してます。やはり、楽をして知識を得ようなどと……まだ時代が早すぎたか」
彼はしおらしく項垂れている。あの自信満々な態度はどこへやら。前髪が乱れて、少し幼く見えるその顔に、怒る気力も失せてしまった。
「……はぁ。もういいから。ほら、まだここ終わってないでしょ」
私は自分のノートを彼の前に突き出した。
「……英語、ですか」
「うん。宝月くん長文苦手でしょう?」
「どれどれ」
彼はまだ少しふらつく手でシャーペンを握り、私の隣に椅子を引き寄せた。距離が近い。さっきまでの変態マシンの騒動で忘れていたけれど、彼の顔がすぐ近くにある。
「うーん……」
私の隣に座った彼は、ノートの英文を睨みつけたまま、唸り声を上げた。その眉間には深いシワが刻まれている。さっきまでの自信満々な態度はどこへやら、まるで難解な暗号解読に挑むスパイのような険しい顔だ。
「……読めないの?」
「いえ、単語の意味は分かります。しかし、この文章構造が論理的ではない。なぜ主語の直後に動詞が来ない? この『that』は指示代名詞なのか関係代名詞なのか、それとも接続詞なのか……文脈依存度が高すぎて、アルゴリズムが確立できません」
「難しく考えすぎ。言葉なんだから、もっと流れで読めばいいの」
私は呆れてため息をついた。なるほど、彼は数字やロジックには滅法強いけれど、こういう曖昧さを含む「言語」の領域はからきしダメらしい。いつもAI翻訳ソフトに頼り切っていた弊害だろう。
「貸して。ここはね、後ろから修飾してるの」
私はシャーペンを持ち、彼のノートに矢印や括弧を書き込んでいく。
「この『The boy』が主語で、動詞はずっと後ろの『is』。その間の部分は、男の子の説明をしてるだけ。だから、先にこっちのカッコ内を訳してから、主語に繋げるの」
「なるほど……変数を定義する前に、属性データを羅列しているわけですか」
「……まあ、そういう解釈でいいけど」
彼は「ふむふむ」と真剣に頷きながら、私の書き込みを食い入るように見つめている。
「すごいですね、会長。あんな複雑な文字列が、会長の説明を聞くと整然としたデータに見えてくる。……まるで、コードのバグ取りをしてもらった気分だ」
「英語をバグ扱いしないでよ」
文句を言いつつも、悪い気はしなかった。普段、生徒会の仕事では彼に助けられてばかりだ。予算管理も、スケジュールの調整も、彼の提案する「効率化」に頼りきりだった。でも今は、彼が私を頼っている。私が、彼を導いている。
「……ここも分からない。この『run』は走る、じゃないですよね?」
「それは『経営する』って意味。後ろに『company』があるでしょ?」
「なんと……一つの関数に複数の定義があるとは……アメリカ語、恐るべし」
「アメリカ語じゃなくて英語ね」
彼はブツブツと呟きながら、必死にノートにメモを取っている。
ふと、私はシャーペンを走らせる彼の手元から、視線を上へと移した。
すぐ隣にある、彼の横顔。
俯いているせいで、長いまつ毛が頬に影を落としている。通った鼻筋。真剣な眼差し。口元は少し結ばれていて、子供みたいに無防備だ。おでこには、さっきの爆発の名残で貼った冷却シートが張り付いているけれど……それでも、整った顔立ちであることに変わりはない。
(……こうして見ると、やっぱカッコいい、のかな)
いつもは生意気な理屈ばかりこねる口も、今は静かだ。距離が近い。微かに香る、制汗剤の匂い。私の説明を一言も聞き漏らすまいとする、真摯な姿勢。
ドクン、と心臓が小さな音を立てた。
「……で、会長。次の行なんですが」
「っ⁉︎」
彼がパッと顔を上げてこちらを向いた瞬間、私は弾かれたように視線を逸らした。
「あ、え、えっと! 次はね! 熟語! そう、熟語だから!」
「会長? 顔が赤いですよ。室温が高いですか?」
「ち、違う! 早く次やるよ!」
私は熱くなった頬を隠すように、少しだけ身体を背けた。心臓がうるさい。見られたかな。今の、じっと見てたの。なんで私、こんなに動揺してるんだろう。ただの副会長で、英語もできないポンコツなのに。
「……ふふっ」
「……ぐぬぬ」
部屋の奥から、楽しげな忍び笑いと、ギリギリと歯ぎしりする音が聞こえた。
恐る恐る目を向けると、かぐやさんが口元に手を当てて、慈愛に満ちた(そして全てを察した)目でこちらを見ていた。一方、兄は窓際で頭を抱えている。
「くそっ、宝月のやつ……『出来ない自分』をさらけ出して母性本能をくすぐる作戦か⁉︎ 高度だ……高度すぎる! 俺には真似できん! 妹はやらんぞっ⁉︎」
□■□■□
勉強会が終わり、私たちは夕暮れの帰り道を歩いていた。頭を使った後の心地よい疲労感。隣を歩く宝月くんは、まだ故障したヘッドギアが入ったアタッシュケースを重そうに持っている。
「……して、英語学習において『人から教わる』というプロセスの有効性は認めざるを得ません」
彼は少し歩調を緩めて、隣の私を見た。
「会長の声で解説されると、不思議と頭に残る」
少し照れくさそう、でも真っ直ぐな瞳で言われる。
「……っ」
私はカバンの持ち手をギュッと握りしめた。夕焼けのせいにしてしまえばいい。この顔の熱さは、全部夕焼けのせいだ。
「また今度、ご指導を賜っても?」
「……気が向いたらね。あ、あとジュース」
「え?」
「授業料! 自販機の飲み物で手を打ってあげる」
「了解です! では最高級のトク○のお茶を……」
「普通のサイダーでいいの!」
私は顔を隠すように早足で歩き出した。
背後から、彼が慌てて追いかけてくる足音が。
「ソーダのことでしょうか」
「ラムネでも何でもいいから!」
空を見上げると、一番星が光っていた。
ああ……それにしても本当に。
(今の私、どんな顔してるんだろう……?)
その未知の感情に、優しく包まれながら。
本日の勝敗:白銀圭の敗北
理由:ふとした瞬間の横顔の破壊力と、頼られる心地よさに、完敗したため