「少し休憩にしませんか、総監」
そっと紅茶のカップを彼女の横に滑らせると、疲れた目をしたトパーズ総監が可愛らしい笑顔を見せて、お礼を呟いた。
「…はあ。あなたがいてくれて、ほんとうに良かったって思うよ」
彼女の心の底から響くような声を聞いて、思わず頭を下げた。いつもいつも、私が何か小さな配慮をしたり、先回りしてやるべきことをやったりすると、彼女はいつもこんなふうに大げさに褒めてくれるのだ。
私は、彼女の秘書みたいなものなのだから、仕事として当然なのに。けれども、そう思ってもらえることが嬉しくて、彼女のために限界まで頑張ってしまう自分も自覚している。どんなに寝不足になろうが、同僚に妬まれようが、彼女の少し安堵した笑顔を見るだけで、全てが癒されるのだ。
少しだけ休まった顔をしている彼女の横でお茶の準備をしていたそのとき、背後から、突然にしてこの穏やかな午後を踏み潰す、聞き慣れた声がした。
「やあ」
幻聴であれ、と祈りながら執務室の入り口の方へ視線を飛ばすが、無理な願いだったらしい。
「さっきの件だけれど、僕はちょっと納得がいかなくてね」
全身を派手な色に包んだその男は、絶賛息抜き中のトパーズ総監を、なんとも思っていない様子で邪魔をしてくる。全くもって、悪魔のような男だ。ようやく彼女を休憩させることができたというのに。
アベンチュリンとかいう、響きだけは荘厳な通称を持つその男は、我が物顔で応接用のソファに腰掛けて、持ってきた何らかの資料を広げ始めた。
追い出しましょうか?という視線を愛しの総監に投げるが、彼女は諦めたみたいな弱々しい笑顔で首を振って、奴のいるソファの方へ向かい、対面に腰掛けた。ああ、おいたわしや。
それからは、またたく間に議論の時間となった。ふたりは、資料とにらめっこしながら素早く意見を戦わせる。
「…ほら、見てくれ!これじゃあ、君ばかり美味しいところを持っていくってことだろう?」
「あなたはこっちの市場を全部任されるんだから、全体的に見れば同じようなものでしょ」
「小さい市場がたくさん、ってことは、それだけ日数と手間がかかるってことだろう?僕だけハードスケジュールになるじゃないか!」
彼らの言い合いの内容について詳しくは知らないが、今度ある大きな規模の仕事のことらしい。さっきの会議で決まったことのようだけど、こんなふうにここでトパーズ総監を煩わせれば、事態はいい方向に行くのだろうか?いや、全体会議で決まったことを、ここで覆せるとは思えない。
つまり、あまり生産性を感じられない話し合い。しかも、聞く限り、あまり素早く終わるという感じもしない。
仕方がないので、あの男の分の紅茶も用意した。今日のこの後の予定は、比較的詰まっていない。だからこそ、この不毛なイチャモンを早く終わらせて、彼女に有意義な休み時間を過ごさせたいんですが、という気持ちで、そっと彼の横に紅茶を滑らせた。
すると、それに気づいたアベンチュリン総監が、すっと視線をこちらに向ける。
あまり正面から見たことのない、あのなんとも言えない色の目。
それがこちらを見据えた。
「ああ、ありがとう」
いえ、と少し感じた緊張を隠しながら軽く会釈をし下がる。あんなにこちらを見なくてもいいのに。そんな不満から、軽く彼の方を見遣れば、驚いたことに、彼はまだこちらを見ていた。
その目が少し大きくなり、それから細まる。
嫌な予感がした。
「ああ、…。君が、あの噂の部下だね?」
噂?って何だ?
何の話か分からずにトパーズ総監を見れば、心底嫌そうな顔をしている。
「彼女のことは気にしないで」
「そうそう。トパーズが、いつも君のことを褒めているよ。優秀な秘書だって」
「はあ、それは、光栄です」
彼女の制止に聞く耳も持たないまま、こちらに話しかけられたので仕方なく返しておく。それにしても、総監がそんなことを言ってくれていたなんて!嬉しいような恥ずかしいような気持ちだ。その感情も隠すため、恭しく見えるように俯いた。
少しの沈黙に、彼との話は終わったと見て、素早く話の届かないところに下がろうとしたとき、視界の隅で、あの派手な色が動く。
「君で手を打とう」
宙に浮いた、理解できないその言葉。
顔を上げてみても、その状態は変わらなかった。アベンチュリン総監が私の方を向いて薄く笑んでいるだけ。
それは、トパーズ総監も同じだったらしい。可愛らしい顔を、とんでもないくらい呆けた表情にしている。それがようやく驚きの表情に変わって、勢いよく立ち上がった。
「なに…?まさか、もふこを連れて行く気…?」
「君よりもずっと大変な任務を任されるんだ。それに相応しいサポートがあって然るべきだろう?」
当然じゃないか、とでも言いたげに眉を下げる彼を見て、ようやく状況が飲み込めた。
「あのう、私は…トパーズ総監の部下なのですが」
彼女の名前を強調して言ってみた。
「配属部署が変わるわけじゃない。そんなに心配なら…そうだな。人事の方にも話を通しておくよ」
彼の顔を見るに、何の効力もなかったらしい。
人事とか、そういう問題じゃない、と視線だけで彼を威嚇してからトパーズ総監に助けを求めるが、彼女は既に諦めた顔。もしかしたら、今回の仕事は、本当に彼女には有利で、彼には不利な何かがあるのかもしれない。
いや、でも。なぜ、私がその穴埋め役を?
そんなことって。
脳裏に湧いてくる不満を言うことも、表立って反抗することもできない私の手は、いつの間にかアベンチュリン総監に掴まれ、ずるずると彼の執務室の方角へと引きずられていったのだった。