月光の彼方へ 作:9kv8xiyi
声の出処は、狩人の夢だ。
それは、少女が『夢』の世界にいる時にだけ聞こえてくる。
起きなさい。目覚めなさい。
そしてその声は、呼んでいるのだ。
霜月の愛し子を。帰る場所を探し求める上位者を。
少女はただ、その呼び声に答えてみたくなった。それだけだった。
「うーん……」
寝ている人形の横を通り過ぎて、少女は我が物顔で屋敷に踏み入った。
別荘呼ばわりする程度には入り浸った狩人の夢のことは、その領域の狭さも相まってよく把握している。少なくとも表面的なことは。
狩人。人形。使者。見たことはないけれど、かつてここにいたという老いた狩人。そして、この夢のかつての『主』。言葉の節々から
ヤーナムという土地のことは知らないけれど、何か大きな──そう、大きな異変があって、狩人はその渦中にいた。そこでも狩人は、テイワットでそうしたように狩って狩って狩って……そして、今に至る。
泣いている。泣いている。泣き声が聞こえてくる。泣き声が呼んでいる。
この泣き声は、きっと狩人に関連するもの。古都ヤーナム、狩人と獣の乱れた因果が渦巻いた呪われた土地で、いっそう狂気の沙汰にあった最奥のひとつ。そしておそらく、狩人が手を下したもの。狩人が手に入れたもの。
泣いている。呼んでいる。
その声を聞いていると、少女はどうにも気持ちが沈んでいくのだ。
悲しくて、寂しい。共鳴するが如く、同情し、共感し、そして螺旋を描いてぐるぐると落ちていく気持ちが、やっぱり同じように咽び泣くのだ。
起きなさい。目覚めなさい。
この声の主に会いたい。なぜ泣いているのか知りたい。
そんな衝動は病的なまでに少女を着き動かし、当人も預かり知らぬままに、夢遊じみた行動を取らせる。
どうすれば良いかは、なぜだか手に取るように分かった。それを閃きと呼ぶかもしれないし、天啓と呼ぶかもしれない。確かなことは、少女が迷わなかっただけだということ。
洋館を彷徨う少女は、やがて作業台の上に奇妙な物体を見つけた。
その物体は人体の頭骨のような奇妙な外見をしていて、しかしじっと見ていると心の奥底がぞわぞわと泡立つような、妙な不快感が湧き上がるような、そんなおぞましさを感じさせる。きっと狩人が扱う珍妙な道具なのだろうと確信させるそれは、しかし少女に見つけられることを待ち望んでいたかのように静かに佇んでいた。
上位者の智彗
上位者と呼ばれる諸々の存在
神に近い彼らの、失われた智慧の断片
使用により多くの啓蒙を得る
「『上位者』……」
狩人が時折口にする言葉。
彼はときどき、少女、ひいてはテイワットの神のことを「上位者のような」と形容する。しかしそこに込められた意味が、単に人の上位存在を指しているわけではないことは、なんとなく理解していた。
上位者。神のようなもの。しかし、それは神ではない。人ならざる者、宇宙悪夢的狂気の化身。
知らない、関係ない。泣き声が木霊する。
起きなさい、目覚めなさい!
少女はただ、自身に促されるままに頭骨を砕いた。
泣いている。泣いている。
少女は直感的に理解した。
置いていかれたのだ。見捨てられたのだ。
気付けば、少女は見知らぬ場所にいた。
それは世界の裏側のように空虚な場所で、ずんと重い暗闇が立ち込めている。一歩、足を踏み出すと水音がした。
どこだろう。少女はそう思ったが、しかしそんな内なる疑念とは裏腹に、足が勝手に進んだ。二歩目、三歩目、水を弾きながら進む足は、行き先を確信している。
ここはどこだろう? 祭壇だ。
内なる問いに、叡智が答える。
なんのための? 上位者のためだ。
見知らぬ問いに、答えが示される。
静かな空と、果てなき宇宙。暴かれた秘密。聖歌隊は宇宙の所在を暴き、『彼女』に謁見を果たした。
浅ましき人間は求めたのだ。知恵、奇跡、進化。彼女はそれを与え、与え、与え、しかしそれは同時に、奪われることでもある。
欲望は醜悪な色をしている。形なき言葉は、しかし汚泥のように足元から体を包み込み、身動きすら封じるのだ。それのなんと苦しく、惨めなことであろうか。
彼女は孤独と苦悩の中で、故郷への帰還を求めた。
果てなき空へ呼びかけ、家路を夢見、誰でもない神に祈って帰郷だけを願い続けた。
その果てが、
少女は、クーヴァキを伝う視線の向こうに、『彼女』を感じ取った。
祈る姿は、儚げだ。
地に膝をついて、手を組み、頭を垂れて願う。それはまるで詠月の司祭のように真摯であったが、それよりもなお純粋である。
俗世の穢れを纏わない姿はいっそう神々しく、この時になって少女ははじめて、自分以外の『神』を知らないことを思い起こした。
「きれい……」
不思議と、少女にはその姿がどうしようもなく貴いものに思えたのである。
ただ、帰りたいという叫び。人類が彼女に仕出かした業の深い所業でさえ、彼女の祈りを強く、確かなものにした。
帰りたい、帰りたい、故郷へ帰りたい、家に帰りたい。悲痛な叫びがクーヴァキを通して生々しく伝わってきて、少女は自身の胸が苦しくなるほどの辛く重たい感情を処理し無ければならなかった。
それは決して楽しい感情ではないけれど、それでも少女はその気持ちを余すことなく受け止めることができたし、何より理解を示すことができた。
「わかるよ」
だって、少女は。
「私も、同じだから」
少女は、その時はじめて、『彼女』を見た。
異界からの使者。遊星から流れ落ちた者。
テイワットに根差す少女は、端から触れるべきではなかった。
それは大いなる血の遺志の権化であり、秘匿され続けてきた神秘そのものである。宇宙の深淵は万物に抱擁の手を差し伸べるが、その慈悲深き暗黒をもって万人を狂気へと誘うのだ。
見えなかった。分からなかった。
そこに『彼女』がいるのだと理解していたけれど、それでも少女は、意識にぽっかり穴が空いたみたいに、何も分からなかった。
それでも少女は、ただ、
「…………ぁ」
駆り立てられるかのような衝動と行動に少女が自身の異常を悟ったとき、しかし全ては手遅れだった。
悪夢の上位者とは、いわば感応する精神である。故に、呼びかける声に応えたのだ。そこには是非もなく、ただそうあるべきだから、そうなった。たったそれだけの話である。
美しき星の娘は、ただ啜り泣くように肩を震わせた。