月光の彼方へ 作:9kv8xiyi
「──それで」
幾匹かの月霊が慌てたように狩人の元へ集ってきた時点で、狩人は嫌な予感がしていた。
月霊とは、いわば月の力の化身である。これはつまり月の神の眷属ということで、さらにこれが何を意味するのかというと、眷属が大慌てということはあの少女に何かしらのアクシデントがあったということになる。
いつも通りの狩りの最中に月霊に取り囲まれてすぐに事態に気が付いたのは、優れた直感か、それともこれまでの経験が成せる技か。
ともかく、狩人は急いで『夢』に飛んだ。
またぞろ洋館が大炎上かとも覚悟していたが、幸か不幸かそんなことはなかった。狩人の夢はいつも通りの静寂に包まれていて、柔らかく、暖かく、美しい。
では何が? 狩人は、一歩踏み出した段階で異変に気が付いた。
白い花に囲まれて例の少女が寝ている。それはいつものことだ。
ここしばらく、花畑は少女の褥であった。夢の中でも特にお気に入りのようで、気が付けばここにいて、座っているか、寝ている。
しかし今日は、いつもと少し様子が異なる。丸くなって眠る少女に向けて連れてきた月霊が殺到し、少女の横にはどこか難しい顔をした人形が屈んでいる。眠る少女は時折体を震わせていて、そして何より、
「これは、どういうことだ」
「彼女は夢を見ているようです」
人形は答えた。
彼女は時に狩人よりも多くを知っている。狩人の問いかけは信頼であり、同時に確認でもあった。
人形の細く長い指が少女の頬を撫でる。
少女は小さな呻き声を上げて体を震わせたが、目覚める気配はない。外観にはなんら異常はなく、夢見が悪いのだなと思う程度。しかし、こと狩人の夢という場において、『夢見が悪い』などという事象はあってはならない。夢は、穏やかであるべきなのだ。
そして──狩人は、今もなお匂い立つ、かつて嫌というほど経験した濃厚な気配を、ひしひしと感じている。
「匂い立つなぁ」
濃厚な血の気配。脳裏に響く遠い声。彼方からの呼びかけ。
「貴公も感じるだろう?」
「はい」
それは間違いなく、『上位者』の気配。そしてこの香りは、かつて狩人が相対した、そして狩人が打ち倒した、大いなる『星』の気配だ。
「なぜだ」
狩人の言葉は少ない。三文字に込められた意味は、なぜ少女が悪夢を見ているのか、なぜ少女から上位者の匂いがするのか、なぜ既に死んだ上位者の気配がするのか、なぜ少女は『こう』なったのか、なぜ気付かなかったのか。そういった意図が綯い交ぜだ。
人形に倣って少女の白く柔らかな頬をグローブ越しの指先で突きながら、狩人は思考を回した。
確かに上位者は人間の呼び掛けに応えることはある。かつてビルゲンワースは、如何様な形であれ、上位者と確かに見えた。
しかし上位者の視線を得ることは奇跡にも等しい確率であるし、何よりテイワットはかつてのヤーナムとは異なる世界で、さらに偽りの空によって宇宙からは断絶している。
如何に月に由来するとて、少女が自力で『星』に謁見したとは考えにくい。
ならば。
「狩人様」
「……………………私か」
気付けば、人形はいつもの精巧で無機質な目で狩人をじっと見つめていた。その視線に批難の色はない。当然だ、人形は狩人の従者であるのだから。
しかし狩人は、その視線をぶつけられるとどうにも自分が小さく思えてならなかった。不思議なことがあるものだ。
「狩人様がこれまで手にかけ、取り込んできた血の遺志は、全て狩人様の中にあります。獣も、血に狂った狩人も、全ての上位者も」
人形は滔々と語った。
「そして狩人様、貴方は夢の上位者の後継です。夢は呼びかける意思に感応し、その姿を変えるでしょう」
その視線も、その声音も、まったくいつも通りの様子である。
しかし狩人は知っていた。狂った悪夢の守り人というどうしようもない役目から解き放たれ、狩人の夢に追従してこの方、人形とて少しずつ変わってきているということを。
「狩人様。月の方に──貴方の、貴き血を飲ませたことがありますか?」
「……………………知らぬ」
端的に言って、狩人は責められている気がしてならなかった。
事実かもしれないし、そうじゃないかもしれない。どうしようもなく人間臭い狩人が、勝手にそう思っただけである。ただ、誰も気付かなかっただけ。
どこかの狼のようにむっつりと黙り込んだ狩人を、人形がじっと見つめた。勝手についてきた月霊達は少女の周りを動き回りながら「どうにかしろ」と狩人を急かしてくるし、使者達はやんややんやと騒ぎ立てている。
仕方ないので、狩人は立ち上がった。
狩人がやることなど、いつだって決まっている。狩人はただ、仕掛け武器を持ち、獣狩りの銃を持つ。ヤーナムのしきたりに従って、知と理と礼節をもって人間として獣と相対するのだ。
それ以外を知らないし、知る必要もない。少なくとも狩人はそう思っていた。
「……
「どうして欲しい?」
人形は問いかけた。狩人は答えた。
そして意地の悪い言葉に、人形は口を噤んだ。
何かしら問題がある時は、原因と思われるものに触れるとたいてい変化があるものだ。
今回も例に違わず、狩人が少女の『夢』に触れると、気付けば狩人は見知らぬ場所にいた。
そこはやはり夢幻の世界で、遠方は酷く曖昧な虚ろな姿をしている。濡れそぼった空間はかつての断絶を示したが、足元を濡らす程度になった今では意味を成すまい。封は破られたのだ。
聖地かなにかか?
狩人は、星と宇宙の力に満ち満ちた、祭壇のようなこの空間に強烈な既視感を覚えた。狩人の記憶と夢が血の遺志を取り込んだ異界はいっそうの神秘に満ち、厳かな世界を演出している。
目的の真っ白な少女は、薄暗い空間において容易く見つかった。
水に濡れることも厭わず、少女は地に臥せって丸くなっている。純白のドレスが相まって、まるで膨らんだ鳩みたいだ。狩人は呑気な思考のままに足を進めた。
一歩、二歩、三歩。水を弾きながら歩んで、さらに後数歩進めば手が届くところまで来て、狩人は言葉を投げかけた。
「ああ、貴公」
ピクリと、蹲る少女の肩が震えた。
両手を広げる。薄く張った水面に、武器の輝きが反射する。
狩人の語りかけはいっそ軽やかですらあったが、透き通った瞳だけは少女を見据えていた。
言い聞かせるような言葉は忠告か、自戒か。
しかし狩人は、少女がもはや狩人の言葉を正しく受け取っていないことも、そして狩人自身の認識を今更戒めるまでもないことも、よく理解していた。その上でさえ、言葉にしなければならない様式美もあろう。
「かねて血を恐れたまえよ」
狩人が飛び退いた。
跳ね上げた水滴が数瞬前の狩人を追い、そして、
直撃の対価は、決して小さくはない負傷であろう。
一撃を喰らうのもまずいと認識しつつ、それでも狩人は、ただ値踏みするように少女を見つめたのだ。
「──来ないでっ!!」
らしくもなく叫ぶ少女は、狩人を見ているようで、しかし何も見ていなかった。視界を閉ざしながらも全てを見据えていた少女の目は、今はただ暗い闇の中に向けられていたのである。そんな、真に目を覆われた少女からは、極めて濃厚な星と宇宙の気配がしていた。
少女が
⬛︎⬛︎の愛し子、
「ふーむ……」
狂乱の悪夢の中、狩人は唸った。
それはどう始末をつけたものかという算段であったが、同時に構えた仕掛け武器は、青白い血を求めて鈍い光を反射していた。