月光の彼方へ 作:9kv8xiyi
少女は闇にいた。
深い闇だ。何も見えない。何も聞こえない。それはクーヴァキを介して高い感知能力を持つ少女にとっては未知の経験で、だからこそとても恐ろしく、寂しい感覚だった。
「……狩人、いないの?」
少女は、男の名前を呼んだ。
その男はいつも黒装束だったから、こんな深い闇の中にいたら見つけられないかもしれない。少女は、彼女が気付いていないだけで、闇の中に見知った人物がいることに期待したのだ。
『────』
音が聞こえた。声だ。誰かの声だ。よく聞こえなかったけれど、だけどその声はひどく耳に馴染んで、安心できた。
あぁ、よかった。そこにいたんだ。
少女はただ、安堵して、それから声の主を探した。
闇の中。暗い水の中。
白い少女は、ぐちゃぐちゃとした、不定形の、血に塗れた触手の塊のような不定形を見た。
目が合う。目が合う。目が合う。
身の毛がよだつ化け物の奥から、幾万もの遺志たちが、じっと少女を見つめていた。
「────っっ!?!?」
少女の声は、やはり闇にかき消されて、どこにも届かなかった。啜り泣く声だけが、闇の中を渡っていった。
深い海のような祭壇で、狩人はただ、小さく体を動かした。
「やめて、やめて……!」
シュッ、音を立てて布を擦った触腕は、しかし狩人の体を捉えずに空を裂く。
随分と大振りな攻撃だ。かつての、アビスの首元を的確に狙って締め落とした精度の高さはどこにも見受けられず、それ故に狩人は
右へ。右へ。後ろへ。前方、左、右。
素早く、素早く、ゆっくり歩いて、そうやって軽やかに歩くだけで、何も恐れる必要はない。
「来ないで!」
狂乱している。それは誰がどう見ても見紛うことのない純然たる事実であり、何かを恐れるように叫ぶ少女の、今の有り様である。
必死になって月の力を振り回す姿は迷子の子供のようであり、狩人をしてやりづらいと思わせる。
狩人は理解していた。
そも、テイワットに起源を持つ存在が異世界の存在と結びつくはずがない。そのようなことは起こらないし、起こってはならないのだ。
しかし、狩人がいた。狩人は自身をこの世界に合わせて同調させていたが、狩人の内の宇宙にあるものはそうではない。本来なら内側に秘められて出てこないその世界に、しかし少女はどうやってか繋がってしまった。
人形の言葉を借りるなら、呼び掛けに感応する狩人の血を経て、夢を見てしまったのだ。
異なる波長の者同士が、無理に接続しようとした。それも、かたや月の寵児、かたや宇宙の落とし子である。中途半端な親和性の高さは、この場合は逆に悪い方向に働いてしまったようだ。
完全に狩人の落ち度である。狩人は反省した。
「うぅ…………!!」
「うーむ」
おおかた、いらぬ知識に触れすぎたのだろう。
パニック、恐怖症、強迫観念。いずれも啓蒙の果てに狂気に落ちた者の症状で、しかしそれらよりは随分と軽い様子なのは、やはり腐っても神ということか。
冷静な観察と分析は、狩人の十八番であった。これまで、どんな強敵であってもそうやって戦い、
大振りな攻撃は、避けるには容易い。武器すら振る必要はなく、水銀弾を撃つ必要すらない。
「なんで……」
避けて、避けて、避けて。そうやって様子を伺っていると、少女の口から漏れる言葉が聞こえてくる。
決して狩人に向けた言葉ではない。それはきっと独り言で、だからこそずっと、少女の本心の発露そのものだ。
少女は震える体で、定まらない視線で、狩人を見た。狩人を見ながら、狩人ではない何かを見ていた。
少女はずっと、狩人に重ねた何かに視線を向けている。その何かにひどく怯えていて、嫌がっている。狩人は、少女が決してとち狂った幻覚を見ているとは思わなかった。だから小さく漏れる言葉に傾聴したのだ。
「なんで、月が見えないの……?」
──啓蒙を得た者は、深淵の知識に触れる。それはきっと新たな視座のことであり、それ故にメンシス学派の気狂いどもはそれを「脳に瞳を宿す」と表現したのだろう。
見えないものを見る。隠されたことを知る。
啓蒙とは知るべきではなかったことを知ることであり、人々は秘匿を明らかにすることで進化出来ると信じてやまなかったのだ。
「──あぁ」
嘆息。それは決して、呆れでも、怒りでもない。ただ、
「なんで、なんで……なんで、月を隠すの?」
少女は、月を求めていた。故郷たる霜月への帰還を遮二無二追い求めていて、狩人へのファーストコンタクトも、元を辿れば手がかりを求めてのものだった。
その目的は今も揺らいでいない。少女は月に帰りたい。帰るべき家を見つけたい。作り物の空で覆われた、偽物の封を破りたい。
「なるほど」
気が逸れた。触腕が狩人の顔を掠め、僅かに傷をつける。
狩人は、上位者である。
何度でも繰り返そう。狩人は月の魔物を殺し、青ざめた血を拝領し、夢の主として正当に進化した上位者である。
しかし狩人は、自身が
だから狩人は、ヤーナムの伝統的な狩り装束を纏い、様式美じみた仕掛け武器を振るい、己が血から生み出した水銀弾を撃つ。
上位者としての自身を夢に抑え、お節介な直感を与える啓蒙を低く保ち、敢えて獣性を高めて自由かつ粗暴に振る舞う。血に酔って血は赤く、知は人の子のようであれ。あまりに考え無しの獣狩りの日々は、しかし狩人の人間性を保つことに寄与していた。
少女はそのようなこと知らなかったし、知る必要もなかった。
ところが、いらぬ啓蒙を受け入れたがために知ってしまったようだ。狩人の本来の姿、狩人のあるべき姿、狩人が隠している姿。
「気に食わなんだか」
「う、うぅ…………っ!!」
夢の上位者、月の主。
かつての儀式の秘匿に準えて隠した『月』は、
ふと、狩人の脳裏に、人形の顔が過った。
無表情で、冷たく、鋭利で、狩人をじっと見つめる顔だ。記憶の中の人形は、無言のままになんとかしろと狩人を急かしている。
「──あぁ」
もう一度、息をひとつ。
狩人は、自身の思考が急速に冷たく固まっていくことを知覚した。脳が解け、自身が大きく広がっていく。
どこか他人事のように自身を俯瞰しながら、しかし狩人の目的は明確で、そしてその為に取るべき行動も既知だったのだ。
「良いだろう」
「きゃっ……!!」
今度は、避けなかった。狩人目掛けて飛んできた月の力を、狩人は武器を振り上げて切り払った。
莫大な神秘は武器にさえ宿る。無数の獣、そして数多の上位者を屠ってきた仕掛け武器が、いまさら攻撃すら弾けなくてどうしようか。
怯む少女は、しかしクーヴァキによって生み出した力のひとつを弾かれただけだ。
負傷には程遠く、消耗にもなりはしない。むしろ意思も曖昧な少女の更なる警戒を誘っただけであり、狩人は、決して油断出来なかった。
それでも狩人は、少女に武器を向けた。
明確な遺志をもって、成すべきことを定めたのだ。
「月香の狩りを、知るがいい」
その瞳は透き通り、しかしもはや、真っ当に少女を見つめてはいなかった。
迷走中