月光の彼方へ 作:9kv8xiyi
泣き声が聞こえた。女性の泣き声だ。
悲しくて泣いている。寂しくて泣いている。
不思議と、少女には理解できた。
嘆いているのだ。置いていかれたのだ。帰りたいと祈り、助けてほしいと願っている。
だけど世界はとても非情で、だからその女性は、悲しくて、苦しくて……なぜだか少女は、その悲哀が胸をいっぱいに埋め尽くすのを感じていた。
悲しくて、泣きたくなる。それは同情であり、共感でもある。
『家』への帰還を願う少女の思いは不思議とその女性の嘆きをすとんと受け入れ、馴染ませたのだ。
「呼んでる……」
呼んでいる。この泣き声は、誰でもない、少女自身を呼んでいる。
──月の方
なんとなく、行かないといけないな、と感じた。なんでだろう、とも感じた。
二つの相反する考えは共存していて、そのどちらも、少女の背を柔らかく押すのだ。
起きなさい。起きなさい。
目覚めなさい。
──お目覚めください、月の方
「……うん」
少女は振り返らなかった。
「そうだね」
狩人の夢
目を覚ました少女は、いの一番に満月を見た。
空を覆う満月。煌々とした光をいっぱいに湛えた、嗅ぎなれた匂い。彼女が切望する月ではないけれど、だけどとても落ち着くこの姿は……
「遅い目覚めだな、貴公」
「──うん。おはよう」
狩人。例の黒装束は、やはりいつも通りにそこにいた。
古ぼけた洋館と満月の世界で、大樹の下で、狩人は値踏みするように少女を見つめていた。
少女は、自身が白い花が満開に咲くところで横になっていたことに気付く。
少女は土の地面であろうとも横になって休むことがあるが、やはり寝心地は良いに越したことはない。その点、この花畑のカーペットは十分以上に柔らかで、穏やかな眠りを提供してくれた。
労わるように花弁を撫でると、花は静かに揺れた。
それから少女は、狩人の他に、自身を見下ろすもうひとつの影が存在することに気付く。
「おはようございます、月の方」
「うん、おはよう」
掛けられた言葉にそう返す。それは柔らかで落ち着いた女性の声で、そして、少女の知らない声だ。
「……誰?」
「はじめまして、月の方。私は人形、この夢の守り人です」
見上げた。
声の出処は随分と高いところにあって、地べたに座り込む少女は思いっきり空を見上げなければ、目を合わせることが出来なかったのだ。
「────ぅあ」啓蒙+
美しい女性だ。色白で、鼻が高い。銀髪は透き通って厳かで、その視線は鋭く、しかし暖かい。
服装は、どこかの国の上流階級の人間を思い起こさせた。柔らかでゆったりとした装いは、女性元来の威圧感をずっと穏やかなものにしている。
しかし少女は──すぐに、気がついた。
この女性は、人間ではない。喋る。瞬きをする。少女をじっと見つめている。しかしその関節は球体で、人工物だ。それでもこの女性は、
「────」
呆然とする少女を見兼ねて、人形は静かな動きでしゃがみこんだ。
まるで舞踊にでも誘うように少女に手を伸ばす。少女がその手を取ったのは、半ば反射である。
手を伸ばされる。その手を掴む。引っ張りあげられる。自然に行われたその動作は、しかしこの地に生まれて以来、初めて経験することだった。
「寝惚けているのか、貴公?」
狩人の声で我に帰る。
そこで初めて人形と向かい合い、少女はその大きさに驚いた。
思っていたよりもずっと大きい。少女は小柄だが、それよりもなお。
比較的大柄な狩人よりも大きいその女性は、どう見ても生きていて、しかしどこからどう見ても精巧な人形だ。
それから人形は、恭しく頭を下げた。
「ようこそ、狩人様の夢の世界へ」
その言葉に、閃くものがあった。
「……夢?」
夢。夢、
嗚呼、なるほど。嘆息にも似た納得が突き抜けて行き、後には理解だけが残った。
「……じゃあ、ここがキミの『家』なの?」
「そうとも言えるな」
突き止めてやると息巻いていたら、こんなにも呆気なく辿り着いてしまった。これでは拍子抜けだ。
「なぜ貴公が
少女の感情の機微を知ってか知らずか、狩人はそんなことを嘯いた。
紅茶で良いかね、だとか何とか言って、ふらりと洋館に入っていく。ふと、少女は燃え盛る洋館を幻視した。そんなもの、どこにも存在しないというのに。
古ぼけた洋館はただそこにあった。
それから周囲の様子を窺って、この場所が雲海に浮かぶ庭園のような場所であることを知る。そう時間をかけずに、少女はここが異界であることを把握したのだ。
「うん? 待て、茶葉に20は高過ぎるだろう。消耗品だぞ」
狩人は端っこの方で何か独り言を呟いている。狩人の言動が変なのはいつものことなので無視した。
「……ねぇ」
「はい、なんでしょう」
意を決して、少女は人形に話しかけた。
少女が誰かに話しかけるために決意するなど、そうあることではない。しかし人形の人外じみた様相は──少女も広義で見れば人外であることを含めても、なお躊躇いの感情を生み出すに足るものだった。
その血は青白く、故に甘く香り立つのだ。
「ここの月って、あの人の月だよね」
少女は、空に浮かぶ月へ視線を送った。
その月は、これまで見たどれよりも大きく、眩しく、そして、
「ええ」
人形は、少女と同じように月を見つめ、答えた。
その視線はひどく無機質だが、数え切れないほどの感情が色濃く渦巻いているように見える。そして、やはり静かな調子で答えるのだ。
「狩りを全うして悪夢から目覚めた狩人様は、やがて夢を手中に置きました。貴女が一人目の来客ですよ、月の方」
「……うーん」
少女は困った。
やけに話し方が比喩的で分かりにくいのは狩人の悪癖だと思っていたが、どうやら彼の世界の共通語だったらしい。
「椅子が足りないな……なに? 一脚20000でどうだ、だと? うむむ……是非もなし……」
仕方ないので、少女は少しずつ言葉を咀嚼して、そして気になったところを問いかけた。
「月の方って私のこと?」
「はい。望郷に焦がれ、帰るべき場所を追い求める月の上位者。しかし貴女は、少なくとも悪夢の主ではありません。だからこそ貴女は、こうやって狩人様の夢に足を踏み入れることができたのでしょう」
「……うーん、そうだね」
少女はとりあえず納得してみせた。
よく分からないことは確かにあるのだけれど、不思議とこの人形の言葉を聞いていると、少女は自身の心が穏やかになっていくのを感じたからだ。
夢とは守りであり、一種の帰るべき場所である。少女はただ、この閉ざされた神秘的な閉鎖空間に、奇妙な安らぎを見出したのだ。
「紅茶を淹れたぞ。とくと味わうが良い」
やがて、狩人が現れた。どこかからか不定形の触手を生やし、ティーポットとカップと机と椅子を持っている。
ちゃんと三脚の椅子があることから察するに、少女のみならず、人形も頭数に入っているらしい。狩人が設置するが早いが、人形はその長身に見合わぬ素ばやい動作で着席し、服の皺を整えていた。
「我が『家』へようこそ、貴公」
「……うん」
狩人に手招きされて、少女も椅子に座った。それが、少女が経験した初めてのお茶会だったのだ。
泡沫の紅茶
狩人が使者と取引して得た茶葉、それを抽出したもの。
夢の中でありながら、それはとても暖かく、香り高い。あるいは、夢だからだろうか。