月光の彼方へ 作:9kv8xiyi
居座られた。
ここしばらくの狩人の所感である。
何がどうなってどこと繋がったのか知らないが、あの日少女は狩人の夢に現れた。狩人の夢、上位者たる狩人の血に宿る異界がどうして少女を迎え入れたのか、夢の主であるに関わらず狩人はまるで見当がつかなかったのだ。
紅茶を淹れながら、狩人は使者に問うた。何がどうなっているのかと。使者は両手を広げ、大仰なリアクションで首を傾げて関与を否定し、説明を放棄した。長い付き合いだから人形が何も知らないことは一目見て分かったし、この空間の主も従者も誰も原因が分からないのならば、分からないなりにどうにかする他ないのだ。
幸い、少女は多少は知った仲だ。
テイワットにおける上位者ではあるが、少なくとも今は敵ではない。ならば今すぐの対処は必要ないし、これからゆっくりと原因究明に乗り出そう。
そんな気持ちを込めて紅茶と軽食と提供したのが、良かったのか悪かったのか。結果として少女は、この奇妙な『お茶会』をいたく気に入ってしまったらしい。
「貴公、また来たのか」
「うん」
端的に言って、入り浸っていた。
これまで、狩人が少女の居場所を気にしたことはなかった。いるときは近くにいる、いないときはどこかにいる。その「どこか」は銀月の庭かもしれないし、モンドかもしれない。あるいは、世界の裏側かもしれない。どこかで寝ているんだろうな、程度の認識。どこにいるか気にしたことはなかったし、その必要もなかった。
しかしここしばらく、たいてい少女は狩人の夢にいるのだ。
狩人と行動を共にしていないときに夢を訪れてみれば、八割ほどの確率でいると言えばその頻度が伝わるだろうか。
そして、寝ているか月を眺めているか、人形と茶を飲んで寛いでいる。
狩人は普段
「……あ、これおいしい」
「そうですか。お口に合ってなによりです」
「うん、ありがとう」
こうやって、人形と席を共にしている姿こそが、何よりの証左でなかろうか。夢の世界というのにどこからか調達した茶菓子が、豪勢にアンティークの机を彩っている。使者を見つめると、そっと目を逸らした。
そも、人形が飲食を好むなど初耳だ。確かに人形はどこからどう見ても人形なのに喋るし動くし瞬きもするが、よもやここまでとは。
狩りも、ここしばらくは
ヤーナムの悪夢も一人で駆け抜けただけあってどうと言うことはないのだが、いかんせん少女との協力が長すぎたためにテイワットでの狩りがそれに合わせて最適化されており、思わぬ苦戦を強いられる日々だ。無知蒙昧で矮小な獣に嬲り殺されることは狩人にとって極めて屈辱的であり、しかし狩人としてのプライドが少女を呼び起こすことを許さない。実に人間的な理由で、狩人は今日もうっかりハメ殺しを喰らうという悪い夢から目覚めたのであった。
「狩人、こっちだよ」
定位置に現れた狩人に気付くやいなや、少女はそう言って手招きをした。ご丁寧にもう一つ用意された空席を月の触腕で引き、仲間に加われと急かしてくる。
立ち上がろうとする人形を片手で制しながら、狩人は半ば不服ながらも少女の誘いに乗って席に着いた。
「貴公、随分と寛いでいるじゃないか」
無論、皮肉である。
少女は菓子を口に含み、咀嚼し、飲み込み、それから紅茶までひとくち飲んで、ようやっと答えた。
「ここは良い場所だね」
そういえばこの女はこういう感じだったな、と狩人は最近薄れかけていた少女へのイメージを上書きした。
傍若無人、天真爛漫、儚げな月のベールの下にはずっと強い意志がある。思えばずっとそうだったではないか、何を今更。狩人は自身の思考を戒めた。油断は良くないことだ。上位者たるもの、侮るべからず。
「月が大きくて、落ち着く」
だから大好きだよ、と少女は続けた。
それはまさしく自分のお気に入りの秘密基地を語る子供のような朗らかさで、思わず人形を見遣れば、随分と微笑ましげな表情を浮かべているではないか。
かの『時計塔』と似通った冷たく鋭利なかんばせに浮かぶ慈愛の色は宇宙叡智的な美しさを漂わせるが、それと同時に、底知れなく恐ろしい。
それから、少女に倣って月を眺める。
狩人の夢に浮かぶ月は大きく、果てしない。この異界には延々と月が浮かぶが、しかしテイワットとは異なり、その月は本物である。
かつて月の魔物を狩り、その血を簒奪したとき、かの月は狩人のものになった。そして狩人が上位者の血と知でもって進化を是としたとき、月は狩人となったのだ。
そして、そうであるならば、何度でも言おう。
「あの月は、貴公のものではないぞ」
「うん。分かってるよ」
狩人が水を差し、少女が答える。静謐な夢の場にはそぐわない不躾な言葉の応酬を、しかし狩人は必要と感じていた。
人間は、帰る場所がなければならない。そして帰るべき場所は、揺らいではならないのだ。
テイワットに出自を持つ少女が──帰るべき
狩人はかの醜悪で醜く上位者気取りで貧相で血の気が足りない月の魔物を嫌悪していた。
上位者としての視座を得て、すなわち上位者とはこんなものかと知って、それ故に狩人はあの上位者のように在るべきではないと考えていた。
狩人は決して絶対に過去を顧みない。選択を反省せず、後悔しない。ヤーナム以前の記憶はないが、狩人はきっと何度やり直してでもヤーナムに舞い戻っただろうという予感がある。
それはそれとして、ヤーナムを……というより狩人を果てぬ悪夢に巻き込み、殺し、殺し、殺し、殺し、その果てに殺された上位者連中には不満のひとつやふたつやみっつも抱こう。
そういうものなのだ。
「ここは、私の家じゃない」
獣、そして上位者狩りの狩人に問われて、少女は極めて軽い調子で答えた。少女とて今更言われるまでもないことをよく理解していたからだ。
初志貫徹、少女の志しはいつだって揺らいでいない。家に帰ることが少女にとって成すべきことだ。そして家とは、果てなき霜月だ。少女は言葉の内にそんな思いを秘めていたし、狩人は余すことなくその意思を受け取って、飲み込んだ。
狩人は紅茶を口に含んだ。濃厚な血のようなとろりとした味は、狩人の舌が狂っているのか、それとも。
「──それでは、月の方。貴女にとってここは、どのような場所でしょうか?」
「うーん……」
茶請けの菓子の減りが早い。使者は足元を見ているのか、茶葉や菓子に法外な対価を要求してくる。まったく愉快な話だ。使者は狩人を慕い、従うのではなかったのか? 暴利で狩人の貯蓄を貪るのが本性だったのか?
狩人の不満に対し、使者たちは腕をぶんぶんと振り回して陳情した。どうやら、普段取り扱わない品物を入手することの大変さを表現しているらしい。
それならば仕方ない。狩人は大人しく狂気の死血と上位者の智慧を取り出した。
「別荘かな」
「まあ」
狩人は上位者である以前に大人であるので、後ろから聞こえたそんな会話はとりあえず無視した。