読書好きの「僕」は、恋人と同棲している。
ある夜、彼女を殺してしまうが、翌朝には何事もなかったかのように生き返る。
以来、「僕」は彼女の笑顔を「正す」ために殺しを繰り返す。
習慣化した狂気の先で、「僕」が選んだ結末とは。

1 / 1
第1話

僕は、読書が好きだ。本には、僕の知らない世界が、知らない考えが詰まっている。

 

ページをめくる度に溢れてくるあのワクワク感が、僕は好きだった。

だから、僕は色んな本を読んだ。有名な作品から、周りの人は誰も知らないようなものまで、自分が気になった本は全てだ。

 

 

 

僕が今読んでいるこの本は、つい最近買ったものだ。これは、書店の棚の端に1冊だけ置かれていた。

 

真っ白な表紙に「人生」というシンプルな題名と、聞いた事のない著者名だけが書かれている。その得体の知れなさが逆に気になって買ってみたが、結果的に買ってよかったとは思う。

 

内容としては、渡って筆者の人生観が綴られているだけで、そこに読者への配慮なんてものはない。

 

その人生観も捻くれた考えのものばかりで、それを斬新な考えで面白い、なんて思える僕みたいな人間でないと、楽しめるようなものではないだろう。

 

その中でも、僕が特に興味を持ったのは、この文だ。

 

───肉体の死だけが人の死ではない。人の死とは、自我が崩壊したこと、つまり、自分らしさを失うことである。

 

僕がこの文の何に魅かれたのかは分からなかった。だが、僕はそのページに栞を挟み、何回も読み返すほど、この文が気に入っていた。

 

 

 

「まーたそれ読んでるの?」

 

本を読んでいると、背後から肩を叩かれた。それに対し、うん、と適当に返事をして、そのまま読書を続けた。

「ちょっとー?なんか適当じゃない?私拗ねるよー。」

 

すると、その人物は後ろから顔を覗かせてくる。

 

彼女は、少し身をかがめたまま、僕の視界に入る位置で止まった。

長い髪が肩から零れて、ページの端に影を落とす。

彼女は、僕の恋人だ。最近になって、同棲を始めた。

 

「本ばっかり。そんなに面白い?」

 

「うん。」

 

短く答えると、彼女は小さくため息をついた。

彼女は、僕とは違って読書が好きではない。

 

物語よりも、人と話す方が好きな人だ。だから僕が本に夢中になっていると、こうしてちょっかいを出してくる。

 

それが嫌だったわけではない。

 

むしろ、いつものことだった。

 

彼女は、よく笑う。

 

くだらない話でも、すぐに声を上げて笑うし、たまに何が面白いのか分からないところでも笑っている。

僕は、そんな彼女の笑顔が、何よりも好きだった。

 

そう。好きだったんだ。

 

 

 

僕は仕事を終え、自宅のマンションに向かっていた。この頃は仕事が忙しく、残業続きで毎日帰りが遅くなっていた。恐らく、あと数日は続くだろう。

 

仕事は辛いが、家に帰ればあの笑顔が待っていると考えると、自然とやる気が出た。

 

彼女のことを考えていれば、時間が溶けるように過ぎていく。

 

ほら、そうしていれば、もう自宅の前だ。

 

僕は勢いよく玄関を開けた。彼女が、笑顔で迎えてくれるはずだ。

 

「遅いよ、もう。」

 

彼女は、ぶすくれた顔で待っていた。

 

「あはは、ごめん。」

 

謝るが、彼女はそれだけでは満足しないらしい。

 

「明日、ちゃんと起こすから。だから、今日は遅くまで、私にかまって。」

 

なんて可愛い要求をしてくる。だが、明日も仕事だから、あまり遅くまで起きていられない。

 

「仕事が落ち着いたら、ちゃんとかまうから。だから今日は……。」

 

「やだ。最近ずっとそれ。」

 

彼女は、寂しそうな顔をした。それは、僕が初めて見る表情だった。

 

「ねえ。私だって、寂しいんだよ……?」

 

やめてくれ。早く寝ないといけないのに、そんな目で見られたら……。

 

 

 

───なんで、彼女は笑ってくれないのだろう。

 

 

 

は?いや、なんだ、今のは。

 

まるで他人が自分の脳に介入してきたみたいに、突然そんな考えが頭に浮かんだ。

 

「あ、ああ。分かった。今日は付き合うよ。」

 

頭の中のその考えを置いておきたくなくて、僕は咄嗟に、彼女の提案を受け入れていた。

 

「ほんと?やった!」

 

彼女はぱっと表情を明るくして、僕の腕に抱きついてきた。

その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ軽くなる。

 

───よかった。

 

そう思ったはずだった。

 

僕たちは食事を終え、寛ぐことにした。

彼女はソファに座り、テレビをつけた。バラエティ番組の賑やかな音が部屋に広がる。

 

僕はその隣に腰を下ろしながら、無意識にスマートフォンを確認していた。

 

「ねえ。」

 

彼女が言う。

 

「ちゃんと見てる?」

 

「見てるよ。」

 

本当は、内容なんて頭に入っていなかった。

 

仕事のこと、明日の予定、読みかけの本。いくつもの考えが浮かんでは消えていく。

 

彼女は画面を見つめたまま、少し間を置いてから言った。

 

「最近さ、前みたいに笑ってくれないよね。」

 

そんなことはない、と言おうとして、言葉に詰まった。

 

自分が、いつ笑ったのか思い出せなかったからだ。

 

「別に、疲れてるだけだよ。」

 

そう答えると、彼女は何も言わなかった。

 

ただ、画面の光に照らされた横顔が、妙に静かだった。

 

しばらくして、番組が終わる。

 

「もう寝ようか。」

 

僕がそう言うと、彼女は小さく首を振った。

 

「もう少しだけ。」

 

その声は、いつもより弱かった。

 

そのとき、まただ。

 

胸の奥に、あの感覚がよぎった。

 

 

 

───僕が見ているものは、本物か?

 

 

 

理由は分からない。

 

ただ、彼女がそこにいるのに、どこか遠くに感じられて、落ち着かなかった。

 

静けさが、欲しかった。

 

自分の中に、はっきりとそう思う何かがあった。

 

それが何なのか、考えようとする前に、彼女が立ち上がった。

 

「……じゃあ、お風呂入ってくるね。」

 

彼女はそう言って、こちらを見た。

 

その目が、ほんの一瞬、不安そうに揺れた気がした。

 

だが、すぐに笑った。

 

その笑顔を見て、胸がざわつく。

 

どこか、いつもの彼女と違う気がした。

 

───違う?

 

いや、そんなはずはない。

 

彼女は彼女だ。よく笑って、僕に構ってくる、いつもの彼女。

 

そう自分に言い聞かせながら、僕はテーブルの上に置いた本に視線を落とした。

 

栞の挟まれたページが、開いている。

 

 

 

───肉体の死だけが人の死ではない。

 

 

 

僕はなぜか、その一文を読み返していた。

 

何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。

 

 

 

誰かが囁いた。

 

 

 

───彼女は、本当に生きているのか?

 

 

 

僕は、その問いを無視した。答えてしまえば、もう戻れなくなる気がした。

 

「おかえり。って、またその本読んでる。」

 

入浴を終え部屋に戻ってくるなり、彼女は僕に近づいてくる。

 

「今日は私と過ごすんだから、これは没収。」

 

そう言って、彼女は僕から本を取り上げた。

 

「ちょ、ちょっと!」

 

僕は立ち上がり、本を取り返そうとする。しかし、彼女の必死の抵抗により、中々本に手が届かない。

 

本は、僕の指先から逃げるように、彼女の腕の中に押し込められた。

 

「もう、ちょっとくらいいいじゃん。」

 

彼女は笑っていた。

 

ふざけているだけだとは、分かっていた。

 

「最近さ、その本ばっかりだよね。」

 

何気ない口調だった。

 

責めるようでも、怒っているわけでもない。けれど、その言葉が、妙に胸に引っかかった。

 

「別に、いいでしょ。」

 

思ったより、強い声が出た。

 

彼女は一瞬だけ目を丸くした。

 

「……怒ってる?」

 

「怒ってない。」

 

嘘だった。だが、何に怒っているのかは、自分でも分からなかった。

 

彼女は本を抱えたまま、少し距離を取った。

 

「そんなに大事?」

 

その問いに、答えられなかった。

 

本が大事なのか、考えが大事なのか、それとも───。

 

「私より?」

 

その一言で、頭の中が白くなった。

 

「そんなこと、言ってないでしょ。」

 

僕は一歩、前に出た。

 

彼女は無意識に、後ずさる。

 

その仕草が、胸をざわつかせた。

 

 ──違う。

 

彼女は僕から距離を取ろうとなんてしない。

 

次の瞬間だった。

 

彼女の足が、ソファの足に引っかかった。

バランスを崩し、後ろに倒れる。

 

「危な───」

 

声をかけるより先に、鈍い音が響いた。

 

テーブルの角に、彼女の頭が当たった。

 

時間が止まった。

 

テレビの音だけが、やけに大きく聞こえる。

 

彼女は、動かない。

 

僕は、名前を呼ばなかった。

 

呼べなかったのかもしれない。

 

胸の奥に、静かな空白が広がっていく。

 

音が、消えていく。

 

考えも、感情も、輪郭を失っていく。

 

僕の目に見えるのは、彼女の顔だけだった。

 

その顔は、眠っているように穏やかだった。

 

無意識に、僕の手が伸びた。その先にあるのは、彼女の顔だ。

 

僕は彼女の口の両端を引っ張る。

 

彼女は、笑顔だった。

 

僕が求めていた、本当の笑顔。

 

 

 

───彼女が笑ってくれるのなら、いいじゃないか。

 

 

 

そうだ。笑ってくれるなら、別にいいか。

 

僕はおぼつかない足取りで、自室に向かう。そのままベッドに横になり目を瞑る。

 

静けさに包まれて、僕は眠りに落ちていく。

 

 

 

目を覚ますと、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。

 

いつもと変わらない朝だった。

 

喉が少し渇いていて、頭が重い。

眠りが浅かったのだろうか、とぼんやり考えながら、上体を起こす。

 

そのとき、気づいた。

 

音が聞こえる。

 

誰もいないのに、いないはずなのに。部屋の外から、鍋の沸騰する音が聞こえる。

 

僕はベッドから降り、リビングへ向かった。

 

一歩踏み出すごとに、胸の奥がざわつく。

 

───いや、大丈夫だ。

 

そう自分に言い聞かせながら、キッチンの方を見る。

 

「……あ。」

 

彼女が、そこにいた。

エプロンをつけ、フライパンを火にかけている。朝食の準備をしているらしかった。

 

「おはよう。」

 

何事もなかったように、彼女は言った。

 

昨日と同じ声。

 

いつもと同じ、少しだけ間延びした口調。

 

僕は返事をしなかった。

 

できなかった。

 

彼女は僕の様子を気にするでもなく、手を動かし続けている。

 

「今日も仕事でしょ?無理しないでね。」

 

その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 

理由は分からない。

 

ただ、そうであるべきだと感じた。

 

僕は椅子に腰を下ろし、彼女の背中を見つめる。

 

髪の揺れ方。

立ち方。

包丁を持つ手の動き。

 

どれも、見慣れたものだった。

 

───生きている。

 

そう思った瞬間、その考え自体が、ひどく余計なものに感じられた。

 

生きているに決まっている。

 

彼女は、ここにいるのだから。

 

「どうしたの?」

 

彼女が振り返り、不思議そうに首を傾げる。

 

その表情を見て、僕は思った。

 

ああ、よかった。

彼女は、笑っていた。

昨夜のことが、頭をよぎる。

あの静けさ。

あの感覚。

 

けれど、それはすぐに形を失った。

 

夢の断片のように、輪郭が曖昧になる。

 

思い出そうとする必要はない。

 

今が、すべてだ。

 

「……なんでもない。」

 

そう答えると、彼女は小さく笑った。

 

「変なの。」

 

その一言が、なぜか胸に残った。

 

食卓に並んだ朝食は、いつもより少し豪華だった。

 

彼女は機嫌が良さそうで、よく話した。

 

僕は相槌を打ちながら、テーブルの端に置かれた本に視線を落とす。

 

表紙は、真っ白だった。

 

そこに書かれた題名を見て、なぜか息が詰まる。

 

───人生。

 

彼女は気づいていない。

 

あるいは、気にしていないのかもしれない。

 

それでいい、と僕は思った。

 

すべては、元に戻った。

 

そうでなければ、おかしい。

 

昨夜のことなど、なかったのだ。

 

彼女は生きている。

 

彼女は、ここにいる。

 

それだけで、十分だった。

 

 

 

それから数日間は、何事もなく過ぎていった。

 

彼女は、いつも通りだった。

 

朝は僕より少し早く起き、簡単な朝食を用意してくれる。

仕事に出る僕を玄関まで見送り、「いってらっしゃい」と笑う。

 

その笑顔を見るたび、胸の奥が少しだけざわついた。

 

 

 

───違う。

 

 

 

理由は分からない。

 

形は同じだ。声も、目元の動きも、口角の上がり方も、すべて覚えている通り。

 

なのに、何かが足りない。

 

以前は、笑顔を見るだけで安心できた。

 

それが、今はできない。

 

まるで、精巧に作られた人形を見ているようだった。

 

そんなことを考える自分を、何度も戒めた。

 

疲れているだけだ。

仕事が忙しいから、神経が過敏になっているだけだ。

 

彼女は、生きている。

そう言い聞かせるたび、その言葉が空虚に響いた。

 

ある夜、彼女はソファに座り、テレビを見ながら笑っていた。

 

バラエティ番組の、どうでもいい場面だった。

 

「ねえ、これ面白くない?」

 

そう言って、こちらを見る。

 

笑っている。

 

───はずだった。

 

僕は、彼女の顔から目を離せなくなった。

 

笑顔が、固定されている。

 

動いているのに、動いていない。

 

それを見た瞬間、胸の奥に、あの感覚が蘇った。

 

静けさ。

澄んだ空白。

 

───ああ。

 

思い出した。

 

あのときだ。

 

あの夜、彼女が動かなくなったあと。

あの笑顔は、完璧だった。

雑音がなく、曖昧さがなく、嘘がなかった。

 

僕が求めていたのは、あれだ。

 

今、目の前にある笑顔は、違う。

 

それは、生きているがゆえの、歪みだった。

 

「……どうしたの?」

 

彼女が言う。

 

声に、わずかな不安が混じる。

 

その不安が、決定的だった。

 

彼女は、分かっていない。

 

自分の笑顔が、壊れていることに。

 

このままでは、いけない。

 

僕は立ち上がった。

 

「ねえ。」

 

彼女が、少し身を引く。

 

「大丈夫?」

 

大丈夫じゃないのは、君だ。

 

そう言いかけて、やめた。

 

言葉では、伝わらない。

 

これは、直さなければならないことだ。

 

僕は彼女の肩に手を置いた。

 

びくり、と彼女の体が揺れる。

 

「ちょっと……。」

 

その声を、最後まで聞く必要はなかった。

 

 

 

───静かにして。

 

 

 

心の中で、そう呟く。

 

僕は彼女の首筋を思い切り掴む。

 

手に力を込めると、彼女の体から抵抗が消えていく。

 

暴れる音も、呼吸も、やがて途切れた。

 

部屋が、静かになる。

 

ようやく、正しい状態に戻った。

 

彼女は床に横たわっている。

 

目は閉じられ、顔は穏やかだった。

 

僕は、その前に膝をつく。

 

そっと、彼女の頬に触れる。

 

冷たい。

 

それでいい。

 

口元に、指をかける。

 

ゆっくりと、引き上げる。

 

───ああ。

 

これだ。

 

そこにあったのは、偽物ではない笑顔だった。

 

歪みも、揺らぎもない。

 

胸の奥が、静かに満たされていく。

 

僕は、深く息を吐いた。

 

これで、また大丈夫だ。

 

彼女は、ちゃんと彼女に戻った。

 

僕は、そのまま床に座り込み、しばらく動かなかった。

 

何も考える必要はなかった。

 

必要なことは、すべて終わったのだから。

 

 

 

そこからは、前と同じだった。

 

1度寝て起きる。

 

すると、彼女は生きており、何事もなかったかのように朝食の準備をしている。

 

そして、あの偽物の笑顔を振りまく。

 

彼女が生きていることは、もはや何の問題もない。

 

だが、あの笑顔を僕に見せるのならば。

 

 

 

僕が、本物の笑顔に、正してあげなければならない。

 

 

 

そこから、彼女を正すのが習慣になるまでは早かった。

 

最初は数日に1回程度。正すのに慣れてくると、3日に1回、2日に1回と、徐々に頻度が多くなっていき、最終的には毎日彼女を正すようになった。

 

最近は再び仕事が忙しくなってきたが、家に帰ればあの笑顔が待っていると考えると、自然とやる気が出た。

 

彼女のことを考えていれば、時間が溶けるように過ぎていった。

 

 

 

今日も、彼女を正した。

 

動かなくなった彼女の顔は、まるで眠っているように穏やかだった。

 

顔。その単語に何かが引っかかる。

 

何か、顔に対して強い思いを抱いていた気がする。

 

 

 

今日も、朝が来た。

 

キッチンから、包丁の音が聞こえる。

 

規則正しく、一定のリズム。

 

彼女は、いつも通り朝食を作っていた。だが、こちらを見ても、すぐに笑わなかった。

 

「……おはよう。」

 

少し遅れて、そう言う。

 

口角は上がっているが、どこかぎこちない。

 

その笑顔を見て、胸の奥がざわついた。

 

───違う。

 

以前ほど、強く正したいとは思わなかった。

 

それが、ひどく不安だった。

 

「最近さ」

 

彼女が、フライパンから目を離さずに言う。

 

「君、私の顔ばっかり見てるよね。」

 

手が止まる。

 

「そう?」

 

「うん。まあ別に、見るだけならいいんだけど……。」

 

僕たちの間に、沈黙が流れる。

 

「ねえ。」

 

彼女が振り返る。

 

その表情は、もう笑顔ではなかった。

 

「私、最近ちょっと怖いんだ」

 

その一言で、何かが軋んだ。

 

怖い?

 

───誰が?

 

彼女は、生きている。

 

正されている。

 

何の問題もないはずだ。

 

なのに。

 

顔、という言葉が、また浮かぶ。

 

ああ、そうだ。

 

僕は、彼女の顔が好きだった。

 

笑っているかどうかじゃない。

 

正しいかどうかでもない。

 

ただ、彼女の顔が。

 

その事実が、今になって、重くのしかかってきた。

 

 

 

その日は、彼女を正さなかった。

 

理由は分からない。正確に言えば、理由を探すのをやめた。

 

彼女は、夕食の準備をしながら、何度もこちらを見ていた。

 

視線が合うと、すぐに逸らす。

 

笑わない。

 

それだけで、胸の奥が締めつけられた。

 

以前なら、それは「間違い」だった。

 

正すべき兆候だった。

 

だが今は、違った。

 

笑わない彼女を見ていると、正してしまえば、何か取り返しのつかないものを失う気がした。

 

「……最近、遅いね。」

 

彼女が言う。

 

声は低く、慎重だった。

 

「仕事が忙しいから。」

 

そう答えると、彼女は小さく頷いた。

 

「やっぱり違う。」

 

一拍、間が空く。

 

「最近、帰ってきたときの君、前と違う。」

 

その言葉に、反射的に否定しかけて、やめた。

 

違う。

 

確かに、違う。

 

だが、それは悪いことだっただろうか。

 

彼女は続ける。

 

「前はさ、疲れてても、ちゃんと私を見てくれてた。」

 

胸が、ちくりと痛んだ。

 

「今は……見られてる、って感じがする。」

 

見られている。

 

確かめられている。

 

評価されている。

 

正される前提で。

 

その言葉が、頭の中で反響する。

 

───僕は、何をしていた?

 

食卓の上に、白い表紙の本が置かれている。

 

いつからそこにあったのか、分からない。

 

僕は、無意識にそれを手に取った。

 

栞の挟まれたページが、自然に開く。

 

───肉体の死だけが人の死ではない。

 

以前は、この文が正しいと思っていた。

 

疑いもしなかった。

 

だが、今は。

 

「自分らしさ」とは、何だ。

 

笑顔の形か。

 

正しいことか。

 

静けさの中で動かなくなることか。

 

違う。

 

そんなはずはない。

 

彼女は、笑っていなくても、彼女だった。

不安そうでも、怒っていても、黙っていても。

 

正す必要なんて、なかった。

 

僕は、本を閉じた。

 

その音が、やけに大きく響く。

 

「ねえ。」

 

彼女が言う。

 

「私、君に聞きたいことがある。」

 

その声は、迷いを含んでいた。

 

「もし……私が、前みたいに笑えなくなったら。」

 

一瞬、言葉を失う。

 

「それでも、一緒にいてくれる?」

 

その問いは、正誤を求めていなかった。

 

修正を求めてもいなかった。

 

ただ、僕の選択を求めていた。

 

僕は、彼女の顔を見る。

 

完璧ではない。

 

歪んでいる。

 

揺れている。

 

それでも。

 

それが、生きている顔だった。

 

「……当たり前だよ。」

 

自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。

 

彼女は、目を見開き、そして、泣きそうな顔で笑った。

 

ああ。

 

これだ。

 

これが、彼女だった。

 

胸の奥で、何かがほどけていく。

 

今まで積み重ねてきた「正しさ」が、音を立てて崩れていく。

 

僕は、初めて気づいた。

 

僕が壊していたのは、彼女の笑顔じゃない。

 

彼女そのものだった。

 

その事実が、恐ろしくて、

 

同時に、はっきりしすぎていて。

 

僕は、その夜、眠れなかった。

 

彼女の寝息を聞きながら、天井を見つめる。

 

───彼女と別れる。

 

それが、僕の決断だった。

 

どうやら、1度生まれた感情は、消すことができないらしい。

 

今でも、僕の中には真っ黒な感情を持った僕がいる。

 

今は、僕が勝っているだけ。それがいつ崩れるかはもはや誰にも分からない。

 

それなら、これ以上、彼女に触れてはいけない。

 

それが、彼女を生かす唯一の方法だ。

 

そう思いながら、僕は、朝が来るのを待っていた。

 

 

 

いつの間にか、窓から朝日が射していた。

 

僕は、顔を横に向ける。

 

彼女は、僕の方を向いたまま、寝息を立てていた。

 

彼女は、とても綺麗だった。

 

僕は無意識のうちに、彼女の頬に手を伸ばしていた。

 

そして、僕の手のひらが頬に触れる。

彼女の肌は、氷のように冷たかった。

 

 

 

彼女は、死んでいた。

 

 

 

リビングの机に、本が一冊、開いた状態で置いてある。

 

───肉体の死だけが人の死ではない。人の死とは、自我が崩壊したこと、つまり、自分らしさを失うことである。

そして、これは自分自身のみに限った話ではない。他人がその人らしさを失えば、自分の中で、その人は死んだも同然なのだ。

 

 

 

僕は、本当の彼女を見つけることが出来た。

 

でも、その僕は、本当の僕だったのだろうか。

 

その問いへの答えが返ってくることは、二度となかった。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。