──その少女は生まれた時から自分の居場所を探し求めていた。
世界から己という存在を拒絶される業を背負いながらも、救いを求める不幸な人々を見捨てることが出来ず、月神としての役割を果たして信者達に救いを与えた。
やがてその救済は人々の欲望を刺激し、月神の力を求めて醜い争いが起こるようになった。
(……嗚呼、此処は私の居場所じゃないんだね)
偽りの月などもう見たくないと瞳を閉ざし、本物の月という自分の居場所を求めて空に手を伸ばす。
少女がテイワットに生まれ落ちて幾年もの月日が流れ、各地を転々と彷徨い歩きながらも様々な出来事を経験した。
そこで出逢った掛け替えのない友人達の協力により、遂に少女──コロンビーナ・ハイポセレニアはテイワットを離れ、月へと旅立つことになる。
別れが間近に迫った祈月の夜──友人達の粋な計らいにより祭りを存分に楽しむことが出来た。
ナド・クライの月神クータルとしてではなく、コロンビーナという一人の少女として心の底から笑うことが出来た。
友人達はコロンビーナとの別れを惜しみながらも、彼女が無事本物の月に辿り着けるようにと祈りながら快く送り出してくれた。
古き時代の遺物と三つの月の力を借りて、コロンビーナが月へと帰還しようとしたまさにそのタイミングで、狂気と悪意が彼女に牙を剥いた。
「……ほう、月は『我々』とこうも近かったのか」
そんな言葉と共に彼女の前に姿を現したのは、ファデュイ執行官第二位の序列を持つ
彼は虎視眈々と三つの月の力が集うこのタイミングを狙っており、コロンビーナを罠に嵌めたのである。
「テイワットの原初の力は元々高天の玉座のものなどではない。──そして今、私のものとなった」
テイワット大陸、ナド・クライの上空で、かつてないほどの濃密な力が渦巻き、世界が軋むような音が木霊する。
異変を察知したコロンビーナの友人達が、急いで救援に駆けつけるも、博士が行使した原初の月の力により、世界の時間が凍結した。
何が起こったのかすら判らぬまま静止する人々。
唯一の例外はこのテイワットのルールに縛られない、外界からやって来た『
「──はぁああああッ!!」
囚われのコロンビーナを助けようと、凄まじい剣戟で博士に襲い掛かる蛍であったが、博士は軽くあしらうように攻撃を往なしており、両者の力量差を如実に物語っていた。
コロンビーナは、荒い息を吐きながら夜空を見上げる。
そこには、本来あるはずのない異様な光景が広がっていた。
「
全ては博士の狂気的な実験の成果によるものだった。
「……ダメ、私が……私が居る限り、三つの月は博士に利用される……」
コロンビーナの心に、悲壮な決意が宿る。
自身の身体に流れる月の力こそが、博士が月を掌握するための鍵となってしまっている。ならば、その鍵となる力を、この空間から消滅させるしかない。
「こうするしかない……」
彼女は血反吐を吐きながらも、残された僅かな力を絞り出してテイワットの世界に干渉する。
空間が歪んで静謐な冷気を漂わせる『月の扉』がゆっくりと開かれた。
この扉の先が何処に繋がっているかなど術者である彼女自身にも判らない。当てもなく亜空間を彷徨った末に、何処にも辿り着けず孤独な死を迎える可能性すらあるのだ。
だが彼女に迷いはなかった。
博士の野望を挫くため、そして愛する者達が居る世界を守るため。コロンビーナは白き衣を翻し、暗い口を開けた扉の中へと身を投げ出そうとする。
「──あっ!?」
──その刹那の瞬間、彼女の衣服から1枚のカードが滑り落ちた。
別れの間際に皆から貰った『
それは彼女がテイワットで育むことが出来た、数少ない温かな記憶の結晶。
これだけは絶対に手放すことが出来ないと、無意識のうちにコロンビーナはカードに向かって手を伸ばしていた。
──本来の運命であれば、月の扉を潜ったコロンビーナは時空の牢獄に囚われながらも、過去のテイワットに干渉して蛍を助け導き、三人の原初の月の女神達に出逢う筈であった。
しかし、その重要な局面で「手を伸ばす」という些細な動作が、天理が定めた運命に巨大な変数を生じさせた。
指先がカードに触れた瞬間、周囲の空間に幾何学的なノイズが走る。
天理の運命すら記述していなかった想定外の事態──時空の牢獄へと続くはずだった道筋にピキリと巨大な罅が入った。
「──っ!?」
声にならない悲鳴と共にコロンビーナの身体は本来のルートを外れ、時空の狭間に生じた「亀裂」の中へと吸い込まれていく。
行き着く先は過去でも未来でもない──天上の神々ですら観測不能な未知の世界であった。
2025年9月8日──『ハーベストムーン』と呼ばれる満月が夜空に上がり、日本では約3年ぶりの皆既月食も重なったことで、赤銅色の満月が見られる特別な夜でもあった。
街の喧騒から離れた静かな雑木林の中にある小さな湖畔。鏡のように静まり返った水面に浮かぶ美しい満月を、一人の青年が椅子に座りながらぼんやりと眺めていた。
その青年──
この湖畔は今は亡き両親が初めて出逢った想い出の場所であり、父と母が愛したこの景色の中で、綺麗な月を眺めていれば、己の中にある孤独感が埋められる気がしたのだ。
「……静かだな」
しかし得られた結果は真逆であった。
周囲に人気のない湖のほとりで、たった一人で暗闇に隠れていく月を観察するのは余計に寂しさが増すばかりだ。
2年程前に勤めていた一流企業を辞め、半ば世俗から切り離された生活を送っている今の彼にとって、この孤独感は受け入れるべき代償でもあった。
金銭や心身にゆとりがあり、自由に使える時間も企業に勤めていた時より圧倒的に増えたものの、だからこそ時間を持て余して余計なことまで考えてしまう。
頼れる親族はおらず、今は両親の残した一軒家に
本当に今の生活を続けていても良いのだろうかと、ふとした瞬間に不安を抱いてしまうのだ。
「──贅沢な悩みだよな」
そう呟いた陽介の声が闇に溶けるように消えていく。
多少の孤独感が何だというのだろうか。会社で働いていた頃と比較すれば、今の方が遥かに人間らしい生活が出来ているではないか。
世の中働きたくなくとも働かなければ生きていけない者達も沢山居るのだ。それに比べれば今の自分の立場は非常に恵まれていると言えるだろう。
そんな風に自問自答しながらも、暖かいコーヒーを片手に夜空に浮かぶ月を観察する陽介。
皆既月食により月が地球の影に覆われ、赤銅色に染まり始めていた。不気味でありながらも、どこか神々しい雰囲気を持つ赤い満月が闇夜に溶けるように消えていく。
ノスタルジックな感傷に浸りながらも、陽介はその幻想的な光景を目に焼きつけようとする。
──そんな月見の最中に不可思議な現象が起こった。
──パリンッ
静寂な湖畔に場違いな音が響いた。
まるで薄氷を踏み抜いたような、あるいは繊細なガラス細工が砕け散ったような硬質で澄んだ音。
「──はっ?」
陽介は音のした方角──頭上を見上げると信じられない光景が広がっていた。
赤黒く染まった夜空に大きな「亀裂」が入っていたのだ。
雲の切れ間などではない。空間そのものが罅割れて、そこから青白い光が漏れ出している。
次の瞬間、亀裂の隙間から何かがこぼれ落ちた。
最初は流れ星かと思った。
だが、それはあまりにもゆっくりと、そして優雅に舞い降りてきた。
人だ──白いドレスのような衣装を纏った小柄な少女。
少女は瞳を閉じたまま、重力に逆らいふわり、ふわりと宙を漂う羽根のように舞い降りてくる。
再び輝きを取り戻し始めた月の光が、少女の身体をスポットライトのように照らし出した。
透き通るような白い肌に、夜風に揺れる長い黒髪。
その姿は御伽噺に出てくる月の精霊か、あるいは地上に迷い込んだ天使のように見えた。
「────」
陽介は息をすることすら忘れ、その幻想的で美しい光景に魅入っていた。
あまりにも現実離れしていて思考が追いつかない。
だが少女の降下速度が徐々に増し、その落下地点が湖の水面であることに気づいた瞬間、陽介の身体は弾かれたように動いていた。
(……このままだと、溺れるぞッ!)
理屈ではない。
目の前で消え入りそうな命の灯火を、守らなければならないという咄嗟の救済行動。
陽介は湖の浅瀬へと駆け込むと、冷たい水に身を震わせながらも両手を大きく広げて身構える。
少女の身体が目前に迫り、彼女を包んでいた淡い発光現象が次の瞬間にフッと消え去る。
衝撃に備えて踏ん張った陽介の腕の中に少女の身体がすっぽりと収まった。いわゆる「お姫様抱っこ」の形だ。
「……っ、ととッ!?」
意外な重みが腕に加わりバランスを崩して転びかける陽介。
幽霊や幻影の類ではない。
薄い布切れ越しに伝わる確かな生命の重さと少女特有の柔らかさ。
そして、ひんやりとした夜気の中に感じる微かな体温。
「……生きて、るよな?」
恐る恐る、陽介は腕の中の少女の顔を覗き込んだ。
長い睫毛が影を落とすその顔立ちは、この世のものとは思えないほど整っている。
目を覚ます気配はないが、規則正しい寝息が彼女が生きていることを証明してくれた。
先ほどまでの神秘的な浮力は完全に消え失せており、濡れた靴の冷たさと腕にかかる心地よい重みが、これが夢ではなく現実であることを突きつけていた。
(とにかく、このまま放置する訳にもいかないよな……)
陽介は年甲斐もなく早鐘を打つ心臓を自覚しながら、濡れないように少女を背負い直し、自宅へと戻る道を歩き始める。
──彼の頭上では何事もなかったかのように、月が静かな輝きを取り戻そうとしていた。
コロンビーナの実装が待ち遠しいです…