ブラザー・オブ・ザ・デッド   作:とけそうだら

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いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。

より良い作品を目指し、この度、本作を第一話から全面的にリライトすることにいたしました。
これまで応援してくださった皆様には、突然の変更となってしまい誠に申し訳ありません。

なお、中盤以降の展開につきましては、以前のバージョンと大まかな流れは同じになる予定です。
すでに読んでいただいた方には、再度似たようなお話を投稿することになってしまい大変恐縮ですが、描写などをブラッシュアップしてお届けしますので、新しく生まれ変わった本作を、引き続きよろしくお願いいたします。


第一章
第1話:予兆


「イーサン。スマホ見ながら食べないの。行儀が悪いわ」

 

「分かってるって、母さん」

 

 

 そう返事をしながらも、俺の親指は画面を止めなかった。

 

 マンハッタン郊外、クイーンズ地区。

 ミラー家のダイニングは、どこにでもある中流家庭の夕食風景――の、はずだった。

 

 テーブルの真ん中には、母さん特製のミートローフ。

 甘酸っぱいソースの匂いが湯気と一緒に立ちのぼり、横にはマッシュポテト。

 上に落とされたバターがゆっくり溶けて、白い丘に金色の筋を作っていた。見た目だけなら、平和そのものだ。

 

 だけど、その夜の部屋には、料理の匂いより先に、妙な緊張が満ちていた。

 

 

『……各国で報告されている“進行性過激症”について、政府は冷静な対応を呼びかけています。一方、マイアミ、シカゴなど一部の都市では、暴動や略奪が発生――』

 

 

 壁掛けテレビのニュースが、やけに大きく聞こえる。

 誰も真面目に見ていないくせに、誰一人として消そうとしない。そんな音量だった。

 

 

「またその話か」

 

 

 父さん――デビッド・ミラーが、マグカップを片手に顔をしかめた。

 さっきまでNYPDの制服を着ていた男は、今はくたびれたスウェット姿だ。それでも背筋だけは警官みたいに伸びている。

 

 

「物騒な世の中になったもんだ」

 

「あなた、本当に大丈夫なの?」

 

 

 母さん――キャサリンが眉を寄せる。「暴動だなんて、警察も駆り出されるんでしょう?」

 

 

「ただのデモが過激化しただけだ。いつものことさ」

 

 

 父さんはそう言ってコーヒーをすすり、それから俺でも母さんでもなく、向かいの席に座るノアを見た。

 

 

「それよりノア。ニンジン残すな。栄養をちゃんと取らないと次の検査でまた引っかかるぞ」

 

「うぅ……」

 

 

 ノアは露骨に顔をしかめ、フォークの先でニンジンをつついた。

 相変わらず、こいつは野菜を食う時だけこの世の終わりみたいな顔をする。

 

 俺はその様子を横目で見ながら、スマホの画面を父さんに向けた。

 

 

「ねえ父さん。これ見た? マイアミのやつ。なんかヤバい病気が流行ってるって」

 

「また変な動画か」

 

「変っていうか、めちゃくちゃ伸びてる。ほら、このチャンネル。“政府は真実を隠してる!”とか言ってさ。噛みつかれたやつが急に暴れ出すんだって」

 

「お前はそういう胡散臭いのばっかり――」

 

 

 父さんが呆れた声を出しかけた時だった。

 

 動画のサムネイルが切り替わる。

 逃げ惑う群衆。転がるカメラ。

 画面の奥から走ってくる、人とも獣ともつかない何か。

 

 

「ひっ」

 

 

 ノアの喉が小さく鳴った。

 

 俺はそれを見て、少しだけ気分が良くなった。

 別に泣かせたいわけじゃない。

 ただ、怖がる顔を見ると、兄として妙な優越感が湧く時がある。

 

 その時、ノアは俺のスマホじゃなく、壁のテレビをじっと見つめていた。

 

 

「……あの人、変だよ」

 

「ん?」

 

 

 父さんが振り向く。

 

 

「ニュースの隅っこの人。茶色いコートの人……さっきから、同じ角をぐるぐる回ってる。歩き方も……なんか、おかしい」

 

 

 俺には分からなかった。

 ニュース映像なんて、記者とパトカーと騒いでる群衆しか映っていないように見える。

 

 けど母さんは、いつものことみたいに小さくため息をついた。

 

 

「もう、ノア。またそういうこと言って。映像の切り替わりでそう見えただけよ」

 

「でも……」

 

 

 ノアは小さな声で続けた。

 

 

「学校でみんな言ってた。これ、悪魔憑きなんじゃないかって」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の中の悪ガキがひょっこりと顔を出した。

 俺はわざと椅子を寄せてノアを逃げ場のない状態にし、その小さな耳元で低く囁く。

 

 

「なあノア、知ってるか。ああいうイカれた連中に噛まれたら、お前も『そっち側』のバケモノになっちまうんだぜ」

 

「や、やめてよイーサン……!」

 

「夜中、真っ暗な部屋で急に目が開くんだ。自分の意志とは関係なく、ただ無性に生肉が食いたくなる。……もしかしたら今夜、よだれを垂らしたお前が、母さんの頭からガリガリと(かじ)りついて――」

 

「イーサン、そこまでだ」

 

 

 ドスッと、父さんの声がその場の空気を完全に制圧した。

 

 

「……別に、冗談じゃんかよ」

 

 

 俺は不満げに口を尖らせたが、父さんの鋭い眼光に射抜かれ、すぐに視線を逸らした。

 

 

「いい加減にしろ。弟を脅かして何が楽しい。現場で命がけで暴動を止めている人間がいる時に、デマを面白おかしく語るな」

 

 

 口を尖らせる。

 どうせ俺は、こういう時だけきっちり怒られる役だ。

 

 その空気を切るみたいに、父さんの視線が母さんの右腕に止まった。

 

 

「そういえば、キャサリン。その腕、どうした」

 

「ああ、これ?」

 

 

 母さんは、まるで今思い出したみたいに自分の腕をさすった。右の前腕に、真新しい白いガーゼが巻かれている。

 

 

「昨日、お隣のアボットさんに噛まれたのよ。廊下で会ったらなんだかぼんやりしてて、急にガブッて」

 

「……噛まれた?」

 

 

 父さんの顔つきが、サッと険しくなった。

 

 

「大げさね。歯が当たっただけよ」

 

 

 母さんは笑って、ガーゼをペラリとめくる。

 思わず、俺は息を呑んだ。

 下から現れたのは、笑って済ませるようなものじゃない。

 紫色に腫れ上がり、傷口の周りには毒々しい赤黒い筋が浮き出ている。

 

 

「病院で消毒もしたし、破傷風も大丈夫って言われたわ。ほら、ただの怪我」

 

「熱は?」

 

「少しあるかも。でも、ただの気疲れよ」

 

 

 そう言う母さんの呼吸は、少しだけ荒かった。

 頬は熱を出した子供のように赤く、額にはじっとりと嫌な汗が浮いている。

 空調は寒いくらい効いているのに。

 父さんは黙ったまま、射抜くような目で数秒間母さんを見つめ、それから低く言った。

 

 

「今夜はもう休め。いいか、少しでも様子がおかしかったら、すぐに言え」

 

「うん、そうさせてもらうわ」

 

 

 母さんは軽く笑って流した。

 けれど、その笑い方はひどく硬く、どこか虚ろだった。

 

 重苦しい空気をどうにかしたくて、俺はずっと温めていた話題を食卓に放り投げた。

 

 

「ねえ、父さん。明日の授業参観、来てくれるよな?」

 

「……授業参観?」

 

「社会の発表があるんだ。ニューヨークの地理。父さんの分署の周辺も調べたんだぜ。地図とか写真とか、めっちゃ作り込んだし」

 

 

 言いながら、自分でも情けなくなった。

 犬が尻尾を振って餌をねだるみたいじゃないか。

 案の定、父さんの顔にははっきりと『困惑』が浮かんでいた。

 

 

「……悪い、イーサン。明日から非常招集だ。しばらく署に泊まり込みになる」

 

「……じゃあ、母さんは?」

 

 

 行き場をなくした期待を、母さんに向ける。

 けれど、返事は俺よりも早く、隣のノアに向かって放たれた。

 

 

「ごめんね。その日はノアの定期検診なの。喘息の予約はずらせないのよ。……ほらノア、ピーマンも食べなさい」

 

「えぇ……苦いよ……」

 

 

 当然のような顔。

 最初から、俺の入る余地なんてなかったみたいに。

 

 ああ、まただ。

 父さんは仕事、母さんはノア。

 この家で、俺が最後に名前を呼ばれることは絶対にない。

 

 理性の奥で、何かがパチンと弾ける音がした。

 

 

「あー、うん。分かった。いつものことだし」

 

 

 俺は吐き捨てるように言い、乱暴にスマホを操作すると、ノアの目の前にその画面を突きつけた。

 

 

「ほら見ろよ。こいつら、犬みたいによだれ垂らして人間に噛みついてる。血もすげえな。お前みたいに弱くてすぐ泣くヤツは、ヤツらに捕まって真っ先に頭から食われるだろうな」

 

「や、やめ――けほっ、ごほっ、けほっ、ひゅーっ!!」

 

 

 ノアの顔色が一変した。

 肩が激しく上下に跳ね、喉の奥から空気が漏れるひゅうひゅうという音が鳴り始める。パニックによる発作だ。

 

 

「ノアッ!」

 

 

 ガタァッ! と母さんが椅子をなぎ倒して立ち上がった。

 俺の体を邪魔そうにドンッと突き飛ばし、ノアを抱き抱える。震える手でポケットから吸入器を取り出した。

 

 

「大丈夫、大丈夫よ。ほら、吸って。ゆっくり、そう……!」

 

 

 慣れた手つきだった。

 慣れすぎていて、余計に腹が立つ。

 

 数回吸わせて、背中をさすって、咳が少し落ち着いたところで、母さんが俺を睨んだ。

 

 

「イーサン! あなたが怖がらせるからノアが発作を起こしたのよ!」

 

「……俺のせいかよ」

 

 

 自分でも嫌になるくらい、声が尖った。

 でももう、引き返せなかった。

 

 

「だって、いつもそうじゃん」

 

「イーサン」

 

「いつもノア、ノア、ノアだ! 父さんは仕事でいないし、母さんはノアしか見てない! 俺が何したって、どうせ二の次なんだろ!」

 

 

 テーブルの上の空気が、一瞬で凍った。

 

 母さんが何か言おうとする。

 でも俺の方が先だった。

 

 

「どうせ俺なんかいなくても困らないんだろ! ノアさえいればいいんだろ!」

 

 

 ノアの目が見開かれる。

 父さんの顔が、今まで見たことのない色に変わった。

 

 それでも止まれなかった。

 止まったら、自分がみじめになる気がした。

 

 

「ノアなんて――」

 

 

 喉が熱い。

 言ってはいけないと分かっているのに、舌の方が先に動いた。

 

 

「ノアなんて、いなければよかったのに――」

 

 

 シン、と音が消えた。

 

 テレビのニュースも。

 皿の触れ合う音も。

 部屋の中の全部が、一瞬で遠くなる。

 

 母さんが、青ざめていた。

 ノアは泣いていなかった。ただ、大きな目で俺を見ていた。信じられないものを見るみたいに。

 

 次の瞬間、その静寂を父さんの怒声が叩き割った。

 

 

「――貴様ッ!!」

 

 

 ガタンッ!!

 椅子が倒れ、食卓が揺れた。

 

 父さんが立ち上がる。

 警察官としてじゃない。父親として、本気で怒っている顔だった。

 

 その声にノアの肩が跳ね、ついに涙が落ちた。

 声は出さない。

 ただ、ぽろぽろと静かに泣く。

 その涙が、皿の横に転がったニンジンに落ちた。

 

 見ていられなかった。

 

 

「くそっ!」

 

 

 俺は椅子を蹴るように立ち上がり、ダイニングを飛び出した。

 廊下を踏み鳴らして、自分の部屋に駆け込む。ドアを乱暴に閉めて、さらに蹴りつける。

 

 

「っ、ああもう……くそっ……!」

 

 

 ベッドに顔を埋めた。

 怒りで息が熱い。なのに胸の奥だけが、氷みたいに冷えていく。

 

 

(みんなして俺ばっかり責めやがって……)

 

 

 違う。

 本当は分かってる。あんなこと、言うつもりじゃなかった。

 でも、言ってしまった。

 

 

(全部、俺が悪いって言うんだろ……)

 

 

 廊下の向こうで、何かが落ちるような音がした。

 そのあと、母さんの声。

 よく聞き取れない。

 父さんの低い声。

 ノアの咳。

 テレビのニュースだけが、さっきと同じ調子で現実味のない危険を喋り続けている。

 

 俺は枕に顔を押しつけたまま、目を閉じた。

 

 

(こんな世界、いっそ滅べばいい)

 

 

 子供みたいな願いだった。

 最低で、愚かで、取り返しがつかないやつだ。

 

 ――この時の俺は、まだ知らなかった。

 

 その祈りみたいな悪態が、数日後には笑えない現実になることも。

 さっき口にしたあの言葉が、家族に向けて放った“最後の刃”になることも。

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