ブラザー・オブ・ザ・デッド   作:とけそうだら

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第2話:崩れはじめる朝

 車の中は、ひどく静かだった。

 

 いや、正確には「静かすぎた」のだ。

 エンジンの低い唸り。

 信号待ちのたびにかすかに軋むブレーキ。

 ダッシュボードの上で、誰かからの通知を知らせて震える母さんのスマホ。

 それ以外の音が、この密室には何ひとつない。

 

 いつもなら、ノアが学校の話をする時間だ。

 昨日読んだ図鑑のこと、給食のデザートが何だったか、隣の席のやつが変な顔で牛乳を吹いたとか。

 そういう他愛もないことを、息継ぎすら忘れたかのように喋り続ける。

 母さんはそれに優しく笑い、俺が横から茶化して、狭い車内はいつも妙にうるさくて、温かかった。

 

 けれど今日は違う。

 後部座席に並んで座る俺とノアの間には、透明で分厚い、ガラスの壁みたいなものがそびえ立っていた。

 

 あの喧嘩の夜から、二日。

 たった二日しか経っていないというのに、永遠のように長く感じる。

 

 ノアは俺の隣で、自分の体より少し大きなリュックを胸に抱え込んだまま、ずっと窓の外を見つめていた。

 俺の方を見ない。

 ――というより、意図して「見ないようにしている」のが、痛いほど分かった。

 

 俺だって、同じだ。

 

 あの夜、俺は言った。

 絶対に言ってはいけないと頭のどこかで分かっていた言葉を、苛立ちのままに吐き出してしまった。

 

 

『ノアなんて、いなければよかったのに――』

 

 

 今さら謝ったところで、なかったことにはならない最悪の呪い。

 それでも、俺の頭の中はあの日からずっと、同じ場面をリピートしてはやり直していた。

 あの時、口を噤んでいれば。

 部屋に逃げ込む前に、ちゃんと振り返って謝れていれば。

 せめて今朝、車に乗る前に「悪かった」と、その一言が言えていれば。

 

 でも、できなかった。

 変な意地が邪魔をして、喉の奥が張り付いたように動かなかったのだ。

 

 ふと、母さんがハンドルを握ったまま、ルームミラー越しに後部座席を覗き込んだ。

 

 

「ノア、吸入器は持った?」

 

「……持った」

 

 

 消え入りそうな小さな返事。

 それだけで、会話はぷつりと途切れる。

 

 

「イーサン。学校が終わったら、ノアを連れて校門で待ってなさい。今日は仕事で少し遅くなるかもしれないけど、必ず迎えに行くから」

 

「……分かってるよ」

 

 

 俺はぶっきらぼうに返し、ノアとは反対側の窓の外へ目を向けた。

 

 雨上がりのクイーンズの朝は、見慣れたはずの街並みなのに、どこか「変」だった。

 交差点の角に、赤色灯を回したままのパトカーが不自然に停まっている。

 ドラッグストアの前には、開店前から苛立った様子の人だかりができている。

 道路の反対側では、店主らしい男がシャッターを半分だけ下ろしたまま、外に立つ客と激しい身振りで口論していた。

 

 カーラジオから流れるニュースの音声も、妙に耳に障る。

 

 

『――市当局は、一部地域において引き続き警戒態勢を維持しています。発熱、錯乱、および突発的な攻撃性などの症状が見られる場合は、対象者に近づかず、直ちに医療機関または警察へ通報を――』

 

 

 突発的な攻撃性。

 病気の症状として片付けるには、ずいぶんと物騒な響きだった。

 

 母さんが、ラジオの音量を少しだけ下げた。

 

 

「ニュースっていつも大げさなのよね。気にしなくていいから」

 

 

 信号が赤に変わり、車がゆっくりと停止する。

 正面の横断歩道を、フードを目深に被った男がふらつきながら渡っていくのが見えた。

 真っ直ぐ歩けていない。

 酔っ払いみたいにも見えるし、ひどい熱で頭が回っていないようにも見えた。

 

 母さんは、信号が青に変わってもすぐには車を出さなかった。

 その男が完全に歩道へ上がり、視界から消えるのをじっと確認してから、ひどく慎重な動作でアクセルを踏み込む。

 

 

「……母さん」

 

「なに?」

 

「顔色、悪いよ」

 

 

 自分でも驚くくらい、自然にその言葉が出た。

 母さんは一瞬だけ目を瞬かせ、それから何でもないことのように笑ってみせた。

 

 

「大丈夫よ。ちょっと寝不足なだけ」

 

 

 でも、その笑顔にはいつもの余裕がなかった。

 カーディガンの袖口から覗く右腕のガーゼはまだ外れていないし、ハンドルを握る指先も、白くなるほど強く強張っている。

 

 

『お隣のアボットさんに噛まれたのよ』

 

 

 そう笑って言っていたのは、二日前のことだ。

 冗談みたいな話だと思った。

 でも、ガーゼの隙間から見えた歯型は、冗談で済むようなものじゃなかった。

 赤黒く腫れ上がり、見た瞬間に胃がせり上がるような、生々しい傷跡。

 

 父さんは、今朝もいなかった。

 暴動の対応による『非常招集』が続いているらしい。

 あの喧嘩の夜から、一度も家に帰ってきていない。

 

 昨日の授業参観にも、結局、両親はどちらも来なかった。

 

 そのことを思い出すと、腹の奥に鉛を飲み込んだような重さが蘇る。

 俺は中等部の社会の授業で、クイーンズとマンハッタンの地理、橋と地下鉄の位置、人口分布まで徹底的に調べ上げて発表した。

 それなりに自信もあったし、先生には褒められた。

 友達たちにも「すげえじゃん」と言われた。

 

 でも、教室の後ろにズラリと並んだ保護者の中に、うちの親の姿はなかった。

 

 別に、初めてのことじゃない。

 父さんが仕事で忙しいのはいつものことだし、母さんだって、ノアの定期検診があるって前から言っていた。

 分かってる。

 頭ではちゃんと分かってる。

 

 分かってる、けど。

 

 期待しなかったわけじゃないのだ。

 ほんの少しくらい、もしかしたら無理をして来てくれるかもしれないと、馬鹿みたいに待っていた自分がいた。

 その惨めさが抜けきらなくて、今朝の俺はまだ、不機嫌という鎧を脱げずにいた。

 

 

「……昨日の発表、どうだったの?」

 

 

 母さんが前を向いたまま、ふと思い出したように聞いてきた。

 思わず鼻で笑いそうになる。今さらかよ、と。

 

 

「別に」

 

「“別に”じゃ分からないでしょう」

 

「ちゃんとやったよ。先生にも褒められたし」

 

「そう。よかったじゃない」

 

 

 よかったじゃない。

 たったそれだけ。

 

 言い返してやりたくなる。

 来なかったくせに、と。

 俺のことなんて本当はどうでもいいくせに、と。

 けれど、二日前の最悪な喧嘩の続きを、今ここで蒸し返す気力は俺にはなかった。

 

 重苦しい沈黙を破ったのは、ずっと窓の外を見ていたノアだった。

 

 

「昨日ね、ぼくのクラス、何人もお休みしてた」

 

「ただの風邪だろ?」

 

 

 俺が言うと、ノアは小さく首を横に振った。

 

 

「分かんない。でも、朝、先生たちが廊下でずっと怖い顔で話してた。あと、保健室の前もすごく混んでたよ」

 

 

 母さんの手が、ハンドルの上でピタリと止まった。

 

 

「……ノア。変なこと考えなくていいのよ。最近はみんな、テレビのニュースを見て不安になっているだけ」

 

「でも……」

 

「大丈夫だから」

 

 

 今度の母さんの声は、少しだけ語気が強かった。

 有無を言わさない響きがあった。

 ノアは口を噤み、俺もそれ以上は何も言えなかった。

 

 車は、学校の前の通りへと入っていく。

 

 俺たちが通う公立校は、クイーンズ地区の中でも少し古いタイプの学校だ。

 小等部と中等部で校舎は分かれているが、敷地は一つに繋がっている。

 正門を入って左側に背の低い小等部校舎、右奥に三階建ての中等部校舎、そして真ん中にグラウンドと体育館。

 兄弟で通わせやすいという理由で、近所ではそれなりに評判の学校だった。

 

 だが、今日の校門前は、明らかにいつもと様子が違った。

 

 送りの車列が、不自然なほど長く続いている。

 歩道には子供の手を引く親の姿がやけに目立つし、門のところには教師が何人も立って、生徒を急かすように校舎の中へ押し込んでいる。

 

 

「なんか今日、車多くない?」

 

 

 俺が訝しげに言うと、母さんは短く息を吐いた。

 

 

「……ニュースを見て、送り迎えにしたい親が多いのかもね」

 

 

 車が歩道側に寄って止まる。

 まず、ノアがリュックを抱え直してドアに手をかけた。でも、すぐには降りようとしない。

 

 

「イーサン」

 

「なに」

 

「……今日も帰り、教室まで迎えに来てくれる?」

 

「なんで?」

 

「だって……今日は嫌な音がたくさんするから……だから……」

 

 

 ノアが、すがるような上目遣いで俺を見た。

 今朝、家を出る前にも、似たような怯えた目でこっちを見ていた。

 

 本当なら、ただ「いいよ」と笑って言えば済む話だった。

 それだけで、あの日から続く気まずい空気も、少しは薄まるかもしれない。

 

 けれど、俺の口から飛び出したのは、そんな優しい言葉じゃなかった。

 

 

「母さんから頼まれたから行くよ。でも、次からは一人で校門まで来いよな」

 

 

 ノアは傷ついたように少しだけ唇を噛み、それでも「……うん」と小さく頷いて車を降りた。

 小等部校舎へ向かうその小さな背中が、不安そうな人の流れに紛れて見えなくなる。

 

 母さんが、ルームミラー越しに俺をじっと見た。

 

 

「あなた、もう少しノアに優しくしてあげられないの?」

 

「俺だって放課後、友達と話したいことくらいあるし」

 

「そういう意味で言ってるんじゃないでしょう」

 

 

 一瞬、車内の空気がひやりと冷えた。

 

 

「……お兄ちゃんなんだから、ちゃんとノアを見てあげて」

 

 

 また、それだ。

 都合のいい時だけ持ち出される『兄なんだから』という言葉。

 

 喉の奥まで文句がこみ上げたが、今さら家族喧嘩の続きを校門前でやるのも馬鹿らしい。

 俺は舌打ちを飲み込み、乱暴にドアを開けた。

 

 

「行ってきます」

 

「イーサン」

 

 

 母さんが、背中越しに俺を呼び止めた。

 

 

「なに」

 

「……昨日、行けなくてごめんね」

 

 

 その言葉に、不覚にも少しだけ心臓が跳ねた。

 まさか今ここで、そんな風に謝られるとは思っていなかったからだ。

 

 でも、謝られたからといって、すぐに素直に尻尾を振れるほど、俺も大人じゃなかった。

 

 

「別に」

 

 

 冷たくそれだけを言い残し、俺は車を降りた。

 ドアを閉める直前、母さんが小さく、ひどく苦しそうに咳き込むのが聞こえた。

 振り返ると、母さんは右腕のガーゼの上から、自分の腕を強く押さえつけるように手を置いていた。

 

 

「……腕の傷、ほんとに平気なの?」

 

 

 強がっているくせに、また訊いてしまう。

 母さんは顔を上げ、少し困ったように、でも優しく笑った。

 

 

「大丈夫よ。帰ったら少し休むから」

 

 

 車はそのまま長い列に乗って、ゆっくりと動き出した。

 俺はしばらくそのシルバーの背中を見送ってから、重い足取りで中等部校舎へと向かった。

 

 

 

 校舎に足を踏み入れた瞬間、肌の表面をピリッと撫でるような、奇妙な違和感があった。

 

 うるさい。

 だがそれは、金曜の朝特有の、週末を待ちわびるあの底抜けの賑やかさではなかった。

 

 誰もが声を落としてひそひそと喋っているのに、その「ざわめき」の総量だけが異様に大きいのだ。

 廊下のあちこちで、生徒たちがスマートフォンの小さな画面を覗き込んでは顔を見合わせている。

 すれ違う教師たちは、生徒を安心させるようにぎこちない笑顔を貼り付けていたが、その目だけはひどく血走っていて、全く笑っていなかった。

 

 

「マイアミの橋、完全に封鎖されたってマジ?」

「うちの親、今日は学校休めってうるさくてさ」

「地下鉄も止まるかもって噂、見た?」

「バカ、それ絶対デマだろ」

「でも、”kicknock”のあの動画……」

 

 

 すれ違うたびに、断片的な言葉が耳にこびりつく。

 昨日までニュースの向こう側の「遠い世界の出来事」だった異常事態が、冷たい水がひび割れから染み出すように、少しずつ、確実にこの学校の中へと流れ込んできているのが分かった。

 

 中等部、2年B組。

 自分の教室のドアを開け、俺は思わず足を止めた。

 

 席が、まばらに空いていた。

 

 一つや二つじゃない。

 前方から見ても、後方から見ても、まるで虫食いのようにぽっかりと穴が開いている。

 いつもなら雑に放り出されているはずのリュックや上着もなく、椅子は行儀よく机の下に収まったまま。

 主のいない無機質な机の表面だけが、冷たく光を反射していた。

 

 

「……なんだよ、これ」

 

 

 無意識のうちに呟きが漏れる。

 昨日の授業参観の振り替え休日でもないのに、ここまで一気に休むか?

 いや、ありえない。

 

 自分の席に歩み寄り、リュックを置きながら教室を見渡す。

 登校してきている連中も、どこか落ち着かない様子だった。

 大声で笑っている奴もいるが、それは楽しそうだからではなく、得体の知れない気味悪さを誤魔化すための、空虚な笑いに見えた。

 

 斜め前の席で、女子生徒が身を乗り出して友達に囁いている。

 

 

「サマンサんち、お母さんがすごい熱出したらしくて休みなんだって」

 

「え、マジで? ただの風邪?」

 

「わかんない。でも今朝、急に意味わかんないことで怒鳴り出したとか言ってて……」

 

 

 俺は逃げるように視線を逸らした。

 聞きたくない話ばかりが、勝手に耳の奥へと侵入してくる。

 

 今朝の、母さんの青白い顔色。

 右腕の、痛々しいガーゼ。

 そして、押し殺すような苦しげな咳。

 

 

(……やめろ。関係ない)

 

 

 俺は机に肘をつき、無理やり窓の外へと意識を向けた。

 冷たい雨に濡れたグラウンドの向こうに、背の低い小等部校舎が見える。

 あの中のどこかに、ノアがいる。

 今ごろ、いつものように怯えた目で、周りの騒ぎをじっと見つめているのだろうか。

 

 その時、ポンッと背中を叩かれた。

 

 

「お、イーサン。やっぱ来てたか」

 

 

 振り返ると、幼馴染で悪友のマイケルが軽く片手を上げて教室に入ってくるところだった。

 だらしなく緩めたネクタイに、雑に撫でつけただけの金髪。

 良くも悪くも、いつものマイケルだ。

 

 

「お前こそ遅刻ギリギリだぞ」

 

「家出る前から親がうるさくてさ。なんかタチの悪いインフルが流行ってるみたいだから今日は休めだの、テレビ見ろだの。マジで過保護すぎてめんどくせえ」

 

 

 マイケルは悪態をつきながら、俺の前の席にリュックを放り投げ、椅子をくるりと反転させてドカッと座り込んだ。

 だが、すぐに教室の異様な空席の多さに目を留め、ヒュッと小さく口笛を吹いた。

 

 

「うわ、やっぱうちのクラスもすげえ休み多いな。学級閉鎖レベルだろ」

 

「何人ぐらいだと思う?」

 

「さっきザッと数えたけど、たぶん十四、五人はいない。下手したらクラスの半分は消えてるぞ」

 

「多すぎだろ」

 

「だよな。いくらインフルでも、一晩でここまで一気に減らねえって」

 

 

 マイケルは少しだけ身を乗り出し、内緒話をするように声を落とした。

 

 

「しかもさ、うちのママが病院で働いてるだろ? 今朝、この辺の病院、どこも異常なほど混んでるらしいぜ。急な高熱出したとか、暴れてる奴に『噛まれた』とか、そういうのばっかだって」

 

「……噛まれた?」

 

 

 不意に放たれたその言葉に、俺の全身がビクッと強張った。

 マイケルは俺の反応に気づかず、大げさに肩をすくめて続ける。

 

 

「ほら、今ネットの動画でたくさん上がってるやつ。クスリで頭の飛んだやつらに噛みつかれたとかなんとか」

 

「…………」

 

 

『アボットさんにやられちゃって。急にガブリ、よ』

 

 母さんの笑い声が、脳の奥底で不気味にリフレインする。

 

 

「いやまあ、どうせデマも半分くらい混じってんだろうけどさ。でも、こうやってリアルに空席見せつけられると、さすがにちょっと気持ち悪いよな」

 

「……ああ、そうだな」

 

 

 俺は喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じながら、どうにかそれだけを返した。

 

 

「そういやお前、親と仲直りできた?」

 

 

 唐突に話題が変わる。

 こいつの、この変に空気を読まない切り替えの早さに、今日だけは救われた気がした。

 

 

「別に」

 

「うっわ、顔こわっ。なんだ、まだ親と冷戦状態かよ。授業参観すっぽかされたの、相当根に持ってるな?」

 

「根になんか持ってねえよ。……うるさいな、お前には関係ないだろ」

 

 

 俺が鋭く睨みつけると、マイケルは「悪い悪い」とあっさり両手を上げた。

 

 

「痛いとこ突いた。ごめんって。……でもまあ、うちも来てなかったからおあいこだろ。うち片親だし、ママは夜勤ばっかだからさ。昨日なんか家に帰ったら、暗い部屋のテーブルに冷たい冷凍ピザが一枚放置されてただけだぜ? お前より俺の方がよっぽど泣けるだろ」

 

 

 少しだけ、俺の口元が緩んだ。

 慰めのつもりなのか、ただの自虐なのかは分からないが、こいつはこういう時、変に同情したり踏み込みすぎたりしない。

 それがありがたかった。

 

 その時、教室の前方で、数人の男子がスマホの画面を見せ合って騒ぎ始めた。

 

 

「おい、なにこれ」

「うわ、エグっ……内臓出てねえか、これ」

「ちょ、音出すなって。先生来るぞ」

「これ、映画の撮影とかじゃなくてマジもんか?」

 

 

 マイケルがそっちに顔を向けて、呆れたように鼻で笑った。

 

 

「また大げさなフェイク動画だろ。どうせ映画の切り抜きか特殊メイクだっての」

 

「お前だって、さっきからネットの動画の話ばっかじゃんか」

 

「俺が見てんのはニュースにもなってるリアルな『暴動』のやつ! あいつらが見てるような『人間食ってる』みたいなオカルト動画は、エンタメとして楽しんでるだけ。そこは違うっつーの」

 

 

 そんな軽口を叩き合っていた、まさにその時だった。

 不意に、廊下の向こう――一階の階段のあたりから、何かが派手に倒れ、砕け散るような大きな音が響いた。

 ざわついていた教室が、水を打ったように一瞬で静まり返る。

 

 

「……今の、何だ?」

 

 

 誰かが立ち上がる。

 それに釣られるように、何人かの生徒が不安げにドアの方へ視線を向けた。

 

 続いて。

 

 

「きゃあああああっ!!」

 

 

 短い、しかし鼓膜を突き破るような、本物の悲鳴だった。

 女の子の声だ。

 

 凍りついていた教室の空気が、一気にパニックのざわめきへと変わる。

 

 

「おい、なんかあったのか?」

「保健室の方じゃね?」

「ちょっと、見に行こうぜ」

「待てって。ヤバい不審者とかが入ってきたのかも……」

 

 

 不審者。

 その言葉に、マイケルがゆっくりと俺の方を振り返った。さっきまでの軽薄な笑みは完全に消え失せ、顔が引きつっている。

 

 

「これ……マジで凶器を持った不審者とか、そういうヤバいやつかもな」

 

「……小等部の方、大丈夫かな」

 

 

 俺は、無意識のうちに口に出していた。

 窓の外、雨に煙る小等部校舎の屋根を睨みつける。

 胸の奥が、嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。

 

 もし、刃物や銃を持った犯罪者が学校に入り込んでいるとしたら。

 あっちには、ノアがいる。

 あいつは極端な怖がりだ。

 

 ちょっとした大きな音でもパニックを起こす。

 もしあんな悲鳴を間近で聞いて、怯えて過呼吸にでもなったら――確実に、酷い喘息の発作を起こす。

 

 マイケルが眉をひそめた。

 

 

「お前の弟、あっちだっけ」

 

「うん」

 

「まあ、向こうにも先生いるし、教室の鍵閉めれば――」

 

 

 マイケルがそこまで言いかけたところで、教室の前方のドアが、バンッ! と勢いよく開け放たれた。

 

 担任のハリス先生だった。

 普段は気だるそうにコーヒーカップを持ち歩いているくせに、今日は明らかに様子が違った。

 顔面は蒼白で、肩で息をし、額にはびっしりと脂汗が浮いている。

 

 

「座れ! 全員自分の席につくんだ!!」

 

 

 ほとんど怒鳴り声だった。

 教壇に立つハリス先生の顔からは完全に血の気が引き、額の脂汗がメガネの縁まで滴り落ちている。

 

 

「いいか、スマホはしまえ。一言も喋るな。……すぐに、ホームルームを始める」

 

 

 静まり返った教室で、一人の生徒が耐えきれずに声を上げた。

 

 

「先生、今の悲鳴は……。不審者が入ったんじゃないんですか?」

 

「――黙れ。言ったはずだ、私語は禁止だと」

 

 

 先生は冷たく突き放すように言った。

 その視線は、生徒ではなく、しっかりと閉められた廊下のドアだけに注がれている。

 

 

「ただの生徒の発作だ。大人が対応している。お前たちは、余計なことを考えなくていい」

 

 

 ハリス先生は教卓に立ち、震える手で出席簿を開くと、一人ずつ名前を呼び始めた。

 空席の異常な多さが、呼ばれるたびに、まるでカウントダウンのように教室の空気を重くしていく。

 

 

「アレン」

「……欠席です」

「サマンサ」

「欠席」

「リカルド」

「欠席」

 

 

 後ろの席で、誰かが「マジで多すぎだろ……」と震える声で呟いた。

 ハリス先生の、こめかみがぴくりと動く。

 

 

「静かにしろと言ったはずだ」

 

 

 ハリス先生はチョークを握りしめたまま、忌々しそうに教室をねめつけた。

 低くドスを効かせた威圧的な声。

 そこにあるのは、怯える生徒に対する思いやりなどではなく、「自分のホームルームを邪魔された」という身勝手な苛立ちだけだ。

 本当に、いつ見ても虫唾が走る『教師』の顔だった。

 

 出席確認が半分ほど進んだ、その時。

 教室の天井にある校内放送のスピーカーが、ブツッ、というノイズと共に不気味な音を立ててオンになった。

 

 続いて、事務員の女性の上ずった声が響く。

 

 

『えー……全校生徒に、連絡します。現在、中等部、ならびに小等部において……急な体調不良者が、出ていますが……っ、各教室で待機を! 廊下には、絶対に出ないで――』

 

 

 声の主の切羽詰まった叫びは、最後まで続かなかった。

 

 ガシャンッ! と、パイプ椅子か何かがなぎ倒されるような派手な音。

 遠くで誰かが「来るな!」と叫ぶ声。

 直後、ゴトゴトとマイクが床を転がる音に混じって、耳障りなハウリングのノイズだけが教室のスピーカーから吐き出され、不気味に途絶えた。

 

 教室の空気が、一瞬にして零下まで凍りつく。

 

 

「……おい、嘘だろ。今の放送切れたの、絶対に普通じゃなくね?」

「ああ。おかしい。普通じゃない……どうなってんだよ、これ」

 

 

 クラスメイトたちの強張った声が、俺の耳にはどこか遠くの出来事のように聞こえた。

 胃の底に、鉛のような重くて冷たい「嫌な予感」がズシリと沈み込む。

 

 小等部。

 ノア。

 その名前が、頭のど真ん中で鋭く赤ランプを点滅させた。

 もし、この得体の知れない異常事態が、小等部にも広がっているのだとしたら。

 

 気づけば、俺は立ち上がっていた。

 椅子の脚が床を擦り、大きな音を立てる。

 

 

「イーサン?」

 

 

 マイケルが驚いて、慌てて俺の腕を掴んだ。

 

 

「お前、どこ行く気だよ」

 

「小等部だ」

 

「は!? 今廊下に出たら、先生に止められるって!」

 

「あっちに弟がいるんだよ!」

 

 

 自分でも驚くほど、声が裏返っていた。

 教室中の視線がこっちへ向く。

 ハリス先生が、血走った目で険しい顔を作り、こちらへ歩み寄ってきた。

 

 

「イーサン、席に戻れ。今は教室で待機だ」

 

「でも、小等部に不審者が出たんなら、ノアが――」

 

「戻れと言っている!!」

 

 

 教室に響き渡ったヒステリックな怒鳴り声に、俺はビクッと肩を震わせ、一瞬だけ動きを止めた。

 

 昨日までなら、先生の指示には大人しく従っていたはずだ。

 大人が「待機しろ」と言うなら、それが一番安全なのだと信じていられた。

 

 でも、胸の奥で警報機みたいに鳴り響く『嫌な予感』が、どうしても拭えない。

 さっきの悲鳴。

 不自然に途切れた放送。

 ハリス先生は本当に、外で何が起きているのか分かっていて「ここにいろ」と言っているのか?

 もし、ヤバい犯罪者がすでに小等部に入り込んでいるのだとしたら。

 俺がここで大人しく大人の指示に従っている間に、ノアの身に何か起きてしまったら――。

 

 グイッ、と。

 マイケルが俺の服の裾を強く下へ引っ張った。

 

 

「……イーサン、落ち着けってば」

 

 

 マイケルは引きつった顔で俺に耳打ちすると、すかさずハリス先生に向かって、必死にへらへらとした笑いを作ってみせた。

 

 

「せ、先生、すんません! こいつ、ネットのヤバい動画の見すぎで、ちょっと頭おかしくなってるんです。不審者とか、映画の見すぎっつーか……」

 

「……ネット? ああ、例の暴動動画のことか。くだらん」

 

 

 ハリス先生は、マイケルの苦し紛れの言い訳にすがりつくように吐き捨てた。

 額に浮かんだ脂汗を手の甲で乱暴に拭い、教卓の前に立つ。

 

 

「いいか、よく聞け。お前たちもだ!」

 

 

 バンッ! と、威嚇するように教卓が強く叩かれた。ビクッと教室中の生徒の肩が跳ねる。

 

 

「SNSで出回っているようなフェイクニュースや、再生数稼ぎの誇張されたデマを真に受けて、この神聖な学校でパニックを起こすなど言語道断だ。お前たちは中学生にもなって、情報の真偽も確かめられないのか!」

 

「フェイクニュース!?」

 

 

 俺はたまらず声を荒らげた。マイケルが慌てて俺の腕を引くが、もう止まれなかった。

 

 

「じゃあ、さっきの悲鳴は何なんですか! あの放送の切れ方だって、どう聞いたってただの体調不良なんかじゃないだろ!」

 

「口を慎め、イーサン!」

 

 

 ハリス先生は首に青筋を立てて怒鳴り返した。

 

 

「子供が勝手な想像で騒ぎ立てるな! 具合の悪くなった児童が転倒して、マイクスタンドを倒しただけだ。それを見てパニックになった別の女子児童が悲鳴を上げた……ただそれだけのことだ!」

 

「そんなわけない! あんな、人が殺されるみたいな悲鳴――」

 

「黙れと言っている!!」

 

 

 先生のヒステリックな絶叫が、俺の言葉を強引に叩き潰した。

 教室中が息を呑み、水を打ったように静まり返る。

 ハリス先生は肩で荒い息を吐きながら、血走った目で俺たち生徒をギョロギョロと見回した。

 

 

「……外で起きているのは、ただの暴動だ。いいか、ここは安全な学校だ。頑丈な壁も、ドアの鍵もある。不審者など入ってきやしない! お前たちはただ規則を守り、大人の指示に従って自分の席に座ってさえいれば、絶対に何も問題は起きないんだ!」

 

 

 早口でまくし立てるその説教には、もはや教育者としての理性はなかった。

 「自分たち大人が常に正しく、子供の言うことなど取るに足らない」という、自身のちっぽけな権威とプライドに必死にしがみつく、ひどく滑稽で惨めな姿だった。

 

 

「…………」

 

 

 俺は、ギリッと奥歯が鳴るほど強く噛み締めた。

 自分の目で安全を確認したわけでもないのに、どうして断言できる?

 もし今この瞬間も、刃物か銃を持った狂人が校舎をうろついていたらどうするんだ。

 

 

(ダメだ。こんな思考停止した大人を信じて、ここで大人しく座っていたら――ノアが殺されるかもしれない)

 

 

 気がつけば、俺はマイケルの手を乱暴に振りほどいていた。

 息を潜めて、ごまかしている場合じゃない。

 

 

(イーサン……こわいよぉ……)

 

 

 頭の奥で、泣き虫な弟の声が反響する。

 ただでさえ極端な怖がりなのだ。

 小等部であんな悲鳴や騒ぎを聞いてパニックになれば、ノアは確実に酷い喘息の発作を起こす。

 息ができなくなって、冷たい床にうずくまり、喉をヒューヒューと鳴らして苦しむ小さな背中が脳裏にフラッシュバックして、いてもたってもいられなかった。

 

 

『――ノアなんて、いなければ』

 

 

 二日前の夜、俺が怒りに任せて吐き捨てた、あの最低な呪いの言葉。

 もし、あいつがこのまま何かの事件に巻き込まれて死んだら? 

 俺のあの言葉が、あいつへの『最後の一言』になってしまったら?

 

 

(そんなの……絶対に、嫌だ……!)

 

 

 ガタンッ!!

 俺は椅子を後ろに蹴り飛ばすようにして立ち上がった。

 

 

「おい、どこに行くつもりだ!」

 

 

 ハリス先生が血相を変えて叫ぶ。

 

 

「どいてくれ! 俺は弟のところへ――」

 

 

 俺はハリス先生の制止を振り切り、教室の前方のドアへ向かって全力で駆け出した。

 背中に怒声が突き刺さるが、立ち止まる気はなかった。

 ドアノブの冷たい金属に、手が触れる。

 これを開けて、廊下へ飛び出せば。

 

 ――ドンッ!!

 

 次の瞬間、視界が激しく揺れた。

 

 

「いい加減にしろ、このクソガキが!!」

 

 

 怒りで顔を真っ赤に染め上げたハリス先生が、俺の胸ぐらを力任せに掴み、後方へ向かって思い切り突き飛ばした。

 

 

「がっ……!」

 

 

 背中から激しく床に叩きつけられ、肺の空気が一気に弾き出された。

 ひどくむせながら顔を上げると、血走った目で俺を見下ろすハリス先生と目が合った。

 教師が、本気で生徒に暴力を振るった。

 その信じがたい光景に、教室中の誰もが声を失う。

 圧倒的な力を持った大人からの物理的な抑圧。

 その事実を前に、張り詰めていた空気が、まるで分厚い氷に覆われたかのようにピンと張り詰めた。

 

 

「お前たちは、黙って私の言うことを聞いていればいいんだ! ネットのデマや妄想に踊らされて、勝手にパニックを起こすんじゃない! 不審者などいない! いいか、学校には誰も侵入などしていないし、何も起きてなどいないんだ! 私がそれを証明してやる!」

 

 

 先生は荒い息を吐き、床に倒れた俺を睨みつけたまま、後ろ手で教室のドアノブを掴んだ。

 そして、乱暴な手つきで、廊下側のスライドドアを勢いよく引き開ける。

 

 

「ほら見ろ! 廊下には何も――」

 

 

 ハリス先生の勝ち誇ったような言葉は、最後まで続かなかった。

 

 開け放たれたドアの向こう。

 薄暗い廊下に、一人の『見知らぬ男』が立っていた。

 

 どこかの会社員だろうか、スーツ姿だった。

 だが、その首筋の肉はごっそりと無残にえぐれ、真っ白だったはずのワイシャツは、べっとりと赤黒い液体で染まりきっている。

 男は、焦点の合わない白濁した眼球をギョロリと動かすと、開いたドアから教室の中へと、ふらふらとした足取りで侵入してきた。

 

 

「あ……」

 

 

 ハリス先生の開いた口から、ひゅう、と間の抜けた息の音が漏れた。

 

 廊下に立つ見知らぬ男は、何もしていなかった。

 両腕をだらりと力なく下げたまま、血でどす黒く染まった首を、ありえない角度にコトリと傾げる。

 

 焦点の合わない眼球は、俺たちの誰をも見ていない。

 ただ、喉の奥で鳴る「ゴロロロ……」というひどく湿った唸り声だけが、完全に凍りついた教室に、絶望のノイズのように不気味に響き渡っていた。

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