――ゴロロロォ……。
その音を聞いた瞬間、教室の空気が死んだ。
さっきまでざわついていたはずなのに、誰一人、息すらまともにしていない。
開け放たれたスライドドアの向こう、薄暗い廊下に立っていたのは、スーツ姿の男だった。
ただし、まともな人間じゃない。
首の肉がごっそり抉れ、赤黒い裂け目の奥で、潰れた喉がひくひく痙攣している。
白かったはずのワイシャツは、胸元まで血でべっとり濡れ、ネクタイはその上に張りついていた。
男は、壊れた人形みたいに首をかくりと傾けると、白く濁った眼球をぎょろりと動かし、すぐ目の前にいるハリス先生を見た。
「あ、あ……」
ハリス先生の喉から漏れたのは、教師の怒声でも説教でもなかった。
ただの、情けない怯えた息だった。
次の瞬間、男が動いた。
「ヴォアアアァッ!!」
吠えるような咆哮とともに、男の身体が前に弾けた。
ハリス先生に覆いかぶさるように飛びつき、そのまま首元へ噛みつく。
――ブチュッ。
肉が裂ける音が、やけにはっきり聞こえた。
「ぎゃああああああっ!!」
ハリス先生の絶叫が教室を引き裂いた。
男は離れない。先生の肩を両腕で押さえつけたまま、首筋の肉を食いちぎるように何度も顎を動かしている。
そのたびに、鮮やかな血が噴き上がった。
最前列の机が赤く染まる。
誰かの頬に、制服に、ノートに、温かい血が飛ぶ。
「い、いやああああああっ!!」
「先生が……!」
「化け物だ! 逃げろ!!」
そこでようやく、教室が爆発した。
悲鳴。泣き声。机の倒れる音。
全員が一斉に立ち上がり、後ろのドアへ殺到する。押し合い、ぶつかり合い、誰かが転び、誰かがその上を踏み越えていく。
でも俺は、床に倒れたまま動けなかった。
息ができない。
心臓だけが、肋骨を内側からぶち破りそうなくらい暴れている。
(……なんだよ、あれ)
頭が理解を拒んでいた。
暴徒とか、ドラッグでイカれたやつとか、そういう話じゃない。
目の前で起きているのは、もっと単純で、もっとおぞましい何かだった。
あれは襲ってるんじゃない。
食ってる。
ハリス先生を床に押し倒した男は、痙攣して悶え苦しむ先生の引き裂かれた首筋へと、さらに深く顔を埋めた。
ゴボッ、ゴチュッというひどく嫌な水音と共に、狂ったように肉を貪る獣の咀嚼音(そしゃくおん)だけが教室に響き渡る。
「うっ……」
胃がひっくり返りそうになる。
口を押さえたまま、俺は目を逸らした。逸らしたのに、音だけが耳にこびりつく。咀嚼する音。骨に歯が当たる音。先生の絶叫が、途中でしゃくり上げるみたいに途切れる音。
(ダメだ……ここにいたら、俺も食われる)
本能が喚いている。逃げろ、走れ、立て、と。
なのに足が動かない。膝に力が入らない。床に縫いつけられたみたいだ。
「イーサン!!」
いきなり腕を乱暴に引っ張られた。
顔を上げると、マイケルがいた。
いつもの軽口なんか影もない。顔面は真っ白で、目だけが血走っている。
「立て! 今すぐ!」
「マイケル……」
「後ろはダメだ、詰まってる! 前から抜けるぞ!」
言われて振り向く。
後ろのドアには生徒が殺到し、人の壁みたいになっていた。泣きながら押すやつ、転んだやつを踏みつけるやつ、開かない開かないと叫ぶやつ。完全に出口として死んでいる。
「で、でも前には……!」
「あいつは今、先生食ってる! 行くなら今しかねえ!」
マイケルは俺の返事も待たず、腕を引いた。
俺も半ば引きずられるように立ち上がる。震える足で、床に散らばったプリントやリュックを踏み越えた。
教卓の横を通る。
ハリス先生は、もう動かなくなっていた。
俺たちが息を止めて横を通り抜けようとした瞬間、男の血まみれの手が、今度は先生の裂けた腹部から、ドロリとしたものを引きずり出した。
……それは、まだ熱を持ったピンク色の腸(はらわた)だった。
「っ……!」
見た瞬間、喉の奥まで悲鳴がこみ上げた。
でも声にしたら終わる気がして、俺は歯を食いしばったまま走る。
ドアを抜け、廊下へ飛び出す。
そして、教室の中なんてまだ序の口だったことを知った。
廊下は、もっとひどかった。
悲鳴が反響している。
怒鳴り声が飛び交っている。
泣き声と、何かを噛みちぎる濡れた音と、喉の奥で鳴る獣みたいな唸り声が、全部ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
床には血。壁にも血。
倒れた生徒。這いずる生徒。誰かに押し倒されて首元を食われている教師。
引き裂かれた制服。片方だけ脱げた上履き。ノートに散った血の手形。
その全部が、ほんの数分前まで“学校”だった場所を、別の世界に変えていた。
「な、何だよこれ……」
マイケルの声が震える。
「学校中、全部こうなってんのかよ……」
俺は答えられなかった。
答えられるわけがない。
右を見ても、左を見ても、地獄だった。
安全な場所なんて、もうどこにも見えない。
「ゔぅおおおォ……」
すぐ近くの3年C組から、アメフト部のジャージを着た上級生がふらりと出てきた。
だが、彼の顔の左半分は皮膚がごっそりと抉れ、白い顎の骨が剥き出しになっている。濁った瞳が俺たちを捉えた。
「わ……く、来るな」
俺は後ずさりしながら、無意識にポケットを探った。
何もない。映画の主人公みたいに銃なんて持っていない。俺はただの、無力な12歳のガキだ。
「イーサン、こっちだ!」
マイケルに肩を掴まれ、俺たちは階段の方へ向かって走り出した。
背後から、アメフト部のゾンビが唸り声を上げて追ってくる。
「走れ! 止まるな!」
血で滑る床を踏みしめながら、廊下を全力で駆け抜ける。
足元で「助けて」と泣き叫ぶ同級生を見ても、手を差し伸べる余裕などなかった。見捨てて、自分の命を守る。それだけで精一杯だった。
(ごめん……ごめん……!)
すり減っていく良心に心の中で謝りながら、俺は階段へと飛び込んだ。
一段飛ばしで駆け下りながら、俺は必死に頭を働かせる。
(父さんの言ってた『非常招集』……警察は今、外でこれと戦ってるんだ。学校に来る余裕なんてない)
大人に守ってもらえる時間は終わった。
自分たちの力で生き延びるしかない。
(武器が必要だ。戦わなきゃ、食われる)
ある休日。
銃の撃ち方を教えてくれた父さんの、冷たく厳しい声が蘇る。
『人を撃てば、一生その重みを背負うことになる。だがな、イーサン。死体になってから後悔するよりはマシだ。もし、お前を理不尽に殺そうとする狂人と出くわしたら、ためらうな。そいつを完全に排除してでも、這いつくばってでも、お前は生き残れ』
――排除。
つまり、自分が生きるために引き金を引け、つまり相手を殺せ、ということだ。
(あいつらは……もう人間じゃない。化け物だ)
階段を二階まで下りたところで、俺たちは立ち止まった。
下へ降りる一階の踊り場は、すでに”『人間だったもの』の群れ”で埋め尽くされていた。逃げ遅れた者たちの、肉を食いちぎられる断末魔が響いてくる。
「クソッ、下は全滅だ! イーサン、どうする!?」
「……小等部校舎だ。あっちへ行く」
恐怖を押し殺し、俺は答えた。
「小等部!? バカか、あっちだってどうなってるか――」
「ノアがいるんだよ!!」
俺はマイケルの胸ぐらを掴み、自分でも驚くほどの声で怒鳴りつけた。
「あいつは喘息持ちだ! こんなパニックじゃ、発作を起こして息ができなくなる。俺が助けに行かなきゃ……あいつは確実に死ぬんだ!」
マイケルは俺の剣幕に押され、一瞬言葉を失った。だが、すぐに俺の手を振り払い、真剣な顔で俺を睨み返した。
「……分かったよ。お前が行くなら、俺も付き合う。お兄ちゃんだもんな」
「マイケル……」
「でも、あっちへ行くには、一階の渡り廊下を通らなきゃならない。下へ下りるのは自殺行為だぜ」
俺は階段の窓から、グラウンドの方を見下ろした。
中庭を挟んで、小等部校舎へと繋がる、ガラス張りの渡り廊下が見える。あの中にも、すでに人影が動いていた。ゾンビか、逃げ惑う児童かは分からない。
「……非常階段だ」
俺は、廊下の奥で赤く光る『EXIT』のサインを指さした。
「あそこから外へ出る。グラウンドを横切るんじゃない。外周を回って、小等部へ行く」
マイケルが息を呑む。
「外の方がマシ、ってことか」
「中にいるよりはな」
「……よし。乗った」
俺たちは一度、階段を駆け上がって二階の廊下へ戻った。
戻った瞬間、さっきより状況が悪化しているのが分かった。
床に倒れていた生徒の何人かは、もう動かない。
けれど、何人かは違った。
関節の向きが明らかにおかしい。
首がだらりと傾いたまま、床を掻いている。
ゆっくり、ぎこちなく、それでも確実に――立ち上がろうとしていた。
「……っ」
喉がひりつく。
あれは負傷者じゃない。
もう、さっきまでの人間じゃない。
「イーサン」
マイケルの声が、ひどく低い。
「あいつら……また動いてるぞ」
「……分かってる」
分かってる。
分かってるけど、認めたくなかった。
俺は足元に転がっていたモップを拾い上げた。
先端を床に押しつけ、柄の真ん中に全体重をかける。
バキッ、と乾いた音がして、木の柄が真ん中から折れた。
尖った断面が、ささくれだった牙みたいに突き出る。
「俺はこれ使う」
マイケルは廊下の壁に固定されていた消火器を乱暴に引きはがした。
金具が外れる甲高い音が、ひどく大きく響く。
「くそ、重っ……でもまあ、相手をぶっとばすにはこれで十分だろ」
「……ぶっ飛ばすだけじゃダメだ」
「え?」
「完全に息の根を止めないと、また襲ってくる」
父さんの声が、耳の奥で蘇る。
――ためらうな。
――お前の命を脅かすなら、完全に沈黙するまで攻撃しろ。
マイケルが俺を見る。俺の目が本気だと悟り、ゴクリと喉を鳴らした。
「……マジかよ」
「行くぞ」
俺たちは武器を構え、非常口へ向かって走り出した。
そこまでの廊下は、まさに死の通路だった。
静かじゃない。
むしろ、音だらけだ。
どこかで誰かが泣いている。
どこかで誰かが助けを呼んでいる。
その全部の隙間に、喉の奥で鳴るあの湿った唸り声が混ざる。
「あぁあ゛あ゛あ゛あ゛……」
最初に進路を塞いだのは、女子生徒だった。
制服の上着が肩口から裂け、片方の腕がだらりと垂れ下がっている。
顔の左半分は血とよだれでべたべたに汚れ、頬の肉がえぐれて歯茎が見えていた。
それでもそいつはまっすぐこっちを向き、両腕を伸ばしてくる。
「う、うわ……」
マイケルが足を止めかける。
でも止まったら終わりだ。
俺は歯を食いしばり、折れたモップの柄を真正面から突き出した。
「うおおおおおっ!!」
俺はためらうことなく、女子生徒の胸の中心を全力で突き刺した。
手応えはあった。骨か、肉か、間違いなく急所を貫いた生々しい感触。
人間なら、絶対にその場に崩れ落ちる一撃だ。
なのに、止まらない。
そいつは胸に棒が刺さったまま、痛がる素振りすら見せずに、さらに一歩、二歩とこっちへ迫ってくる。
濁った目は、俺の顔じゃない。首筋を見ていた。
(嘘だろ、効いてない……!)
一瞬で全身の血の気が引く。
胸じゃダメだ。
腹でもダメだ。
じゃあどこだ。
その時、頭の奥で父さんの声が雷のように響いた。
――人間だろうが猛獣だろうが関係ない。最大の弱点は頭だ。
――止めたきゃ、脳髄を壊せ。
「頭……!」
俺はモップの柄を無理やり引き抜いた。
女子生徒の身体がぐらりと揺れる。
その一瞬の隙に、今度は下から跳ね上げるように、顔面めがけて全力で突き上げた。
マイケルの絶叫。
振り向いた瞬間、さっき廊下で見たアメフト部の上級生が、もう目の前まで迫っていた。
半分崩れた顔から血を垂らし、肩を怒らせるみたいに前のめりで突っ込んでくる。
「おゔぉぉおォッ!!」
避けきれない。
そう思った瞬間、
――ガツンッ!!
横から、消火器が叩きつけられた。
金属の塊がアメフト部のこめかみに直撃し、そいつの頭が大きく跳ねる。
マイケルは叫びながら、両手で消火器を振り抜いていた。
「どけ、このクソ野郎!!」
上級生は二、三歩よろめく。
その隙を逃さない。
俺は一歩踏み込み、折れたモップの柄を横から叩き込んだ。
狙いは側頭部。
――バキッ。
今度ははっきり、骨の砕ける音がした。
アメフト部の身体が壁へ叩きつけられ、そのままずるりと崩れ落ちる。
ぴくりとも動かない。
数秒、俺たちはその場で息を止めた。
「……止まった、よな」
マイケルが引きつった顔で言う。
「たぶん」
「たぶんって何だよ……」
言いながら、マイケルの手は震えていた。
消火器の取っ手を握る指先が真っ白だ。
「……ナイス」
俺が言うと、マイケルは強張ったまま、へらっと笑おうとして失敗した。
「全然嬉しくねえよ。クソ怖ぇ」
でも、その一撃がなかったら、今ごろ噛まれていたのは俺の方だった。
「行くぞ。まだいる」
呻き声が近い。
さっきの音に引き寄せられたのか、廊下の先でまた人影が揺れた。
俺たちは走った。
非常口のドアは、ほんの数メートル先なのに、やけに遠く見えた。
滑る床を蹴り、血の染みを飛び越え、倒れた机の脚をまたぐ。
途中、壁に手をついてうずくまっていた男子生徒が、突然こちらへ顔を向けた。
口元が真っ赤だった。
「走れ!!」
俺が叫ぶ。
マイケルがドアバーを体当たりみたいに押し込む。
非常口の扉が外へ開いた。
冷たい雨が、顔面に叩きつけられる。
外だ。
だが、助かったわけじゃない。
グラウンドは、もう終わっていた。
体育の授業中だったのか、体操着姿の生徒が何人も倒れている。
その中を、何人もの“元・生徒”がふらつきながら歩いていた。
遠くでは誰かが転び、その上に二体、三体と群がっていくのが見える。
「……うそだろ」
マイケルが呟く。
正面突破なんて無理だ。
あんな広い場所へ出たら、すぐに囲まれる。
「グラウンドは捨てる」
俺は左手側――フェンスと校舎の間を走る、細いコンクリートの側道を指差した。
「あっちだ。外周を回る」
小等部校舎の非常階段へ続く、狭い道。
普段なら誰も気にしないような、裏方の動線だ。
マイケルも一瞬で理解したらしい。
「見つかりにくい方へ行くってことだな」
「それしかない」
「よし、走れ!」
俺たちは側道へ飛び込んだ。
雨で濡れたコンクリートが滑る。
フェンスの向こうではグラウンドの惨劇が続いているのに、こっちの通路だけ妙に細く、暗く、息が詰まるほど静かだった。
けれど、その静けさが逆に怖い。
小等部校舎は、雨の向こうにぼんやりと煙って見えた。
窓のいくつかは開き、どこかの教室から紙が吹き出している。
あの中に、ノアがいる。
無事だろうか。
泣いていないだろうか。
発作を起こして床にうずくまっていないだろうか。
胸が、ぐっと縮む。
(頼む……ノア)
足を止めるな。
考えるな。
間に合え。
(待ってろ……今、行く)
俺は折れたモップの柄を握り直し、雨を切り裂くみたいに前へ走った。
そのすぐ後ろを、消火器を抱えたマイケルの荒い息が追ってくる。
もう、戻れない。
生きてここを出る。ノアと一緒に。
冷たい雨と鉄の匂いが混じる中、俺たちは修羅場と化した小等部へ向かって、まっすぐに飛び込んでいった。