雨が、顔に刺さるみたいに冷たかった。
俺は折れたモップの柄を握りしめたまま、小等部校舎の正面へ向かって走っていた。
後ろから、消火器を抱えたマイケルが荒い息を吐きながらついてくる。
ときどき金属の底が地面や壁にぶつかって、ガン、と嫌な音を立てた。
「静かにしろって……!」
「無茶言うなよ、こんなの抱えて全力疾走したことねえよ!」
いつもの軽口みたいな言い方だった。
でも、声はひきつっている。
怖いのは、俺だけじゃない。
フェンスの向こうでは、グラウンドがまだ地獄のままだった。
体操着姿の生徒が泥の中に倒れ、その上に別の生徒たちが群がっている。
遠くで誰かが転び、悲鳴を上げ、次の瞬間には何体もの影に覆い隠された。
見ないようにしても、目に入る。
聞かないようにしても、悲鳴が耳を刺す。
血と泥と雨の匂いが、喉の奥にこびりついて離れなかった。
(ノア……!)
小等部校舎は、雨の向こうにぼんやりと見えていた。
低いレンガ造りの、古くて、少しだけ可愛い形の校舎。
いつもなら、あっちからは小さい子どもたちの騒がしい声が聞こえてきた。
でも今は違う。
正面玄関のあたりに、人影がいくつも見えた。
ふらふら歩き回るやつ。
ドアを叩くやつ。
しゃがみこんだまま、急に顔を上げるやつ。
あそこにまともな人間がいないことくらい、ここからでも分かった。
それでも、俺は足を速める。
「正面から入る!」
「はぁ!?」
マイケルの声が裏返った。
次の瞬間、俺のリュックを後ろから思いきり引っ張る。
首が締まって、危うく前のめりに転びそうになった。
「何すんだよ!」
「それはこっちの台詞だ、バカ! 本気で言ってんのか!?」
「本気に決まってるだろ! ノアがいるかもしれないんだぞ!」
振り払おうとした俺の肩を、マイケルが今度は真正面から掴んだ。
雨で濡れた前髪の奥の目が、ひどく真剣だった。
「だからって正面はねえよ! 見ろ!」
マイケルが顎で示した先、玄関の庇の下に三体ほど集まっていた。
一体は黄色いレインコートを着た小さな女の子。
もう一体は、たぶん先生だ。カーディガンの肩が食い破られ、腕が変な方向へ曲がっている。
残りの一体は保護者か何かだろう、スーツ姿の男だったが、首の半分がなくなっていた。
そいつらは、ただ立っているだけじゃない。
ガラス扉の向こうへ、断続的にぶつかっている。
中から誰かが机で塞いだのか、玄関にはバリケードみたいな影が見えた。
でも、その前の床一面に血が広がっていて、あれが安全な入口じゃないことくらい、火を見るより明らかだった。
「……っ」
言葉が詰まる。
分かってる。
分かってるけど、足を止めたくなかった。
「正面は終わってる」
マイケルが低く言う。
「終わってねえよ。まだ中に生きてるやつがいるかもしれないだろ」
「いたとしても、そこから突っ込んだらお前が終わる!」
「じゃあどうしろって言うんだよ!」
思ったより大きな声が出て、自分でもびくっとした。
玄関の前にいたやつらのうち一体が、ぴたりと動きを止める。
顔だけが、ぎこちなくこちらを向いた。
俺たちは同時に息を呑んだ。
「……ほら見ろ」
マイケルがほとんど口だけで言う。
黄色いレインコートの小さな影が、雨の中でふらりと一歩踏み出した。
続いて、スーツ姿の男もぎくしゃくと身体をこちらへ向ける。
やばい。
頭では分かる。
でも胸の奥では、別の声が叫んでいた。
今すぐ走れ。
ガラスを割ってでも入れ。
ノアが待ってるかもしれないだろ、と。
「俺は行く」
低く言って、一歩前へ出る。
その瞬間、マイケルが俺の腕を掴んだ。
「行くな」
「離せ」
「離したらお前、マジで突っ込むだろ」
「当たり前だ!」
「当たり前じゃねえ!」
雨音の中で、マイケルの怒鳴り声が鋭く跳ねた。
「弟助けに行くんだろ!? だったら最短で死ぬルート選ぶなよ!」
ぐっと喉が詰まる。
走っていきたい。今すぐガラスを叩き割って中に入りたい。
でも、正面に飛び込んだ瞬間に囲まれるのが目に見えていた。
「……じゃあ裏か?」
俺は歯を食いしばったまま言う。
「知らねえよ。けど正面は違う。絶対違う」
「時間がないんだよ」
「分かってる!」
マイケルも怒鳴り返す。
その声は苛立ちというより、半分以上、恐怖だった。
「俺だって分かってるよ! でも、今のお前、頭回ってねえだろ!」
「回ってる」
「回ってねえよ。ノアのことしか見えてねえ」
その言葉が、胸の奥にまっすぐ刺さった。
図星だった。
ノアのことしか見えていない。
見えるわけがない。弟なんだぞ。
俺は腕を振りほどこうとした。
でも、マイケルは離さない。
「……離せって」
「嫌だね」
「マイケル」
「嫌だ。お前が落ち着くまで絶対離さねえ」
玄関の前のやつらが、こっちへ少しずつ寄ってくる。
雨の中を、足を引きずるみたいに。
時間をかければかけるほどまずい。
「じゃあどうする」
絞り出すみたいに言うと、マイケルも唇を噛んだ。
「……まず、入れそうな場所を探す。窓とか、裏口とか、通用口とか」
「そんな都合よくあるかよ」
「なくても正面よりマシだ」
「ノアが別の場所にいたら?」
「だから探すしかねえだろ!」
そこで初めて、マイケルの声が少し揺れた。
「……お前一人で突っ込んで死なれたら、ノア見つけても意味ねえんだよ」
その一言で、頭に上っていた熱が少しだけ引いた。
玄関。
群がるやつら。
中にいるかもしれないノア。
そして、ここで死んだら終わりだっていう、どうしようもない現実。
俺は歯を食いしばったまま、玄関から目を逸らした。
その時だった。
「止まって!」
女の声がした。
俺たちは反射的に振り向く。
校舎脇の植え込みの陰、雨樋の影みたいな場所から、一人の女が姿を現した。
三十代くらいの先生だった。
紺のカーディガンに濡れたブラウス、名札、泥だらけのスカート。
片手には子ども用のアルミバット。
もう片方の腕には浅くない裂傷があって、そこをハンカチで乱暴に縛っている。
けれど、その目はまだ死んでいなかった。
「あなたたち、中等部の子よね」
息を切らしながらも、その先生は小声で言った。
「正面はだめ。あそこはもう塞がれてる。中からも開かないし、あれだけ集まってたら、開けた瞬間に終わる」
俺は一歩前へ出た。
「弟がいるんです。ノアっていって、小等部の一年で――」
先生は首を振った。
「名前までは分からない。でも校舎に残ってる生存者は、みんな音楽室に集めてる」
胸の奥が強く跳ねた。
「じゃあ、ノアも……」
「無事なら、そこにいるかもしれない」
その言葉だけで、息が少し戻った。
確実じゃない。
でも、完全に手遅れじゃない。
「会わせてください!」
「だから正面はだめって言ってるの!」
先生は声を抑えながらも鋭く言った。
それからすぐに周囲を見回し、玄関の影にいるやつらの様子を確認する。
「裏から入るわ」
「裏?」
「配膳室と給食搬入口につながる通用口があるの。職員と業者くらいしか使わないから、あっちはまだ数が少ない」
マイケルが目を細める。
「まだ、ってことはゼロじゃないんだな」
「ゼロなんて場所、もう学校の中にはない」
先生は即答した。
疲れ切った顔で、でも足だけは止めない。
「でも正面よりはずっとまし。音楽室へ行くなら、あそこを使うしかないわ」
俺はマイケルと顔を見合わせた。
迷ってる暇なんてない。
「案内してください」
先生は一度だけ頷いた。
「私はイトウ。イトウ・ヨーコよ。喋るのはあと。今はついてきて」
そう言うと、イトウ先生は身を低くして校舎脇へ走り出した。
俺たちも、その背中を追った。