ブラザー・オブ・ザ・デッド   作:とけそうだら

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第4話:裏口

 雨が、顔に刺さるみたいに冷たかった。

 

 俺は折れたモップの柄を握りしめたまま、小等部校舎の正面へ向かって走っていた。

 後ろから、消火器を抱えたマイケルが荒い息を吐きながらついてくる。

 ときどき金属の底が地面や壁にぶつかって、ガン、と嫌な音を立てた。

 

「静かにしろって……!」

 

「無茶言うなよ、こんなの抱えて全力疾走したことねえよ!」

 

 いつもの軽口みたいな言い方だった。

 でも、声はひきつっている。

 怖いのは、俺だけじゃない。

 

 フェンスの向こうでは、グラウンドがまだ地獄のままだった。

 体操着姿の生徒が泥の中に倒れ、その上に別の生徒たちが群がっている。

 遠くで誰かが転び、悲鳴を上げ、次の瞬間には何体もの影に覆い隠された。

 

 見ないようにしても、目に入る。

 聞かないようにしても、悲鳴が耳を刺す。

 血と泥と雨の匂いが、喉の奥にこびりついて離れなかった。

 

(ノア……!)

 

 小等部校舎は、雨の向こうにぼんやりと見えていた。

 低いレンガ造りの、古くて、少しだけ可愛い形の校舎。

 いつもなら、あっちからは小さい子どもたちの騒がしい声が聞こえてきた。

 

 でも今は違う。

 

 正面玄関のあたりに、人影がいくつも見えた。

 ふらふら歩き回るやつ。

 ドアを叩くやつ。

 しゃがみこんだまま、急に顔を上げるやつ。

 

 あそこにまともな人間がいないことくらい、ここからでも分かった。

 

 それでも、俺は足を速める。

 

「正面から入る!」

 

「はぁ!?」

 

 マイケルの声が裏返った。

 次の瞬間、俺のリュックを後ろから思いきり引っ張る。

 首が締まって、危うく前のめりに転びそうになった。

 

「何すんだよ!」

 

「それはこっちの台詞だ、バカ! 本気で言ってんのか!?」

 

「本気に決まってるだろ! ノアがいるかもしれないんだぞ!」

 

 振り払おうとした俺の肩を、マイケルが今度は真正面から掴んだ。

 雨で濡れた前髪の奥の目が、ひどく真剣だった。

 

「だからって正面はねえよ! 見ろ!」

 

 マイケルが顎で示した先、玄関の庇の下に三体ほど集まっていた。

 一体は黄色いレインコートを着た小さな女の子。

 もう一体は、たぶん先生だ。カーディガンの肩が食い破られ、腕が変な方向へ曲がっている。

 残りの一体は保護者か何かだろう、スーツ姿の男だったが、首の半分がなくなっていた。

 

 そいつらは、ただ立っているだけじゃない。

 ガラス扉の向こうへ、断続的にぶつかっている。

 

 中から誰かが机で塞いだのか、玄関にはバリケードみたいな影が見えた。

 でも、その前の床一面に血が広がっていて、あれが安全な入口じゃないことくらい、火を見るより明らかだった。

 

「……っ」

 

 言葉が詰まる。

 

 分かってる。

 分かってるけど、足を止めたくなかった。

 

「正面は終わってる」

 

 マイケルが低く言う。

 

「終わってねえよ。まだ中に生きてるやつがいるかもしれないだろ」

 

「いたとしても、そこから突っ込んだらお前が終わる!」

 

「じゃあどうしろって言うんだよ!」

 

 思ったより大きな声が出て、自分でもびくっとした。

 玄関の前にいたやつらのうち一体が、ぴたりと動きを止める。

 顔だけが、ぎこちなくこちらを向いた。

 

 俺たちは同時に息を呑んだ。

 

「……ほら見ろ」

 

 マイケルがほとんど口だけで言う。

 

 黄色いレインコートの小さな影が、雨の中でふらりと一歩踏み出した。

 続いて、スーツ姿の男もぎくしゃくと身体をこちらへ向ける。

 

 やばい。

 

 頭では分かる。

 でも胸の奥では、別の声が叫んでいた。

 

 今すぐ走れ。

 ガラスを割ってでも入れ。

 ノアが待ってるかもしれないだろ、と。

 

「俺は行く」

 

 低く言って、一歩前へ出る。

 

 その瞬間、マイケルが俺の腕を掴んだ。

 

「行くな」

 

「離せ」

 

「離したらお前、マジで突っ込むだろ」

 

「当たり前だ!」

 

「当たり前じゃねえ!」

 

 雨音の中で、マイケルの怒鳴り声が鋭く跳ねた。

 

「弟助けに行くんだろ!? だったら最短で死ぬルート選ぶなよ!」

 

 ぐっと喉が詰まる。

 走っていきたい。今すぐガラスを叩き割って中に入りたい。

 でも、正面に飛び込んだ瞬間に囲まれるのが目に見えていた。

 

「……じゃあ裏か?」

 

 俺は歯を食いしばったまま言う。

 

「知らねえよ。けど正面は違う。絶対違う」

 

「時間がないんだよ」

 

「分かってる!」

 

 マイケルも怒鳴り返す。

 その声は苛立ちというより、半分以上、恐怖だった。

 

「俺だって分かってるよ! でも、今のお前、頭回ってねえだろ!」

 

「回ってる」

 

「回ってねえよ。ノアのことしか見えてねえ」

 

 その言葉が、胸の奥にまっすぐ刺さった。

 

 図星だった。

 ノアのことしか見えていない。

 見えるわけがない。弟なんだぞ。

 

 俺は腕を振りほどこうとした。

 でも、マイケルは離さない。

 

「……離せって」

 

「嫌だね」

 

「マイケル」

 

「嫌だ。お前が落ち着くまで絶対離さねえ」

 

 玄関の前のやつらが、こっちへ少しずつ寄ってくる。

 雨の中を、足を引きずるみたいに。

 時間をかければかけるほどまずい。

 

「じゃあどうする」

 

 絞り出すみたいに言うと、マイケルも唇を噛んだ。

 

「……まず、入れそうな場所を探す。窓とか、裏口とか、通用口とか」

 

「そんな都合よくあるかよ」

 

「なくても正面よりマシだ」

 

「ノアが別の場所にいたら?」

 

「だから探すしかねえだろ!」

 

 そこで初めて、マイケルの声が少し揺れた。

 

「……お前一人で突っ込んで死なれたら、ノア見つけても意味ねえんだよ」

 

 その一言で、頭に上っていた熱が少しだけ引いた。

 

 玄関。

 群がるやつら。

 中にいるかもしれないノア。

 そして、ここで死んだら終わりだっていう、どうしようもない現実。

 

 俺は歯を食いしばったまま、玄関から目を逸らした。

 

 その時だった。

 

「止まって!」

 

 女の声がした。

 

 俺たちは反射的に振り向く。

 校舎脇の植え込みの陰、雨樋の影みたいな場所から、一人の女が姿を現した。

 

 三十代くらいの先生だった。

 紺のカーディガンに濡れたブラウス、名札、泥だらけのスカート。

 片手には子ども用のアルミバット。

 もう片方の腕には浅くない裂傷があって、そこをハンカチで乱暴に縛っている。

 

 けれど、その目はまだ死んでいなかった。

 

「あなたたち、中等部の子よね」

 

 息を切らしながらも、その先生は小声で言った。

 

「正面はだめ。あそこはもう塞がれてる。中からも開かないし、あれだけ集まってたら、開けた瞬間に終わる」

 

 俺は一歩前へ出た。

 

「弟がいるんです。ノアっていって、小等部の一年で――」

 

 先生は首を振った。

 

「名前までは分からない。でも校舎に残ってる生存者は、みんな音楽室に集めてる」

 

 胸の奥が強く跳ねた。

 

「じゃあ、ノアも……」

 

「無事なら、そこにいるかもしれない」

 

 その言葉だけで、息が少し戻った。

 確実じゃない。

 でも、完全に手遅れじゃない。

 

「会わせてください!」

 

「だから正面はだめって言ってるの!」

 

 先生は声を抑えながらも鋭く言った。

 それからすぐに周囲を見回し、玄関の影にいるやつらの様子を確認する。

 

「裏から入るわ」

 

「裏?」

 

「配膳室と給食搬入口につながる通用口があるの。職員と業者くらいしか使わないから、あっちはまだ数が少ない」

 

 マイケルが目を細める。

 

「まだ、ってことはゼロじゃないんだな」

 

「ゼロなんて場所、もう学校の中にはない」

 

 先生は即答した。

 疲れ切った顔で、でも足だけは止めない。

 

「でも正面よりはずっとまし。音楽室へ行くなら、あそこを使うしかないわ」

 

 俺はマイケルと顔を見合わせた。

 迷ってる暇なんてない。

 

「案内してください」

 

 先生は一度だけ頷いた。

 

「私はイトウ。イトウ・ヨーコよ。喋るのはあと。今はついてきて」

 

 そう言うと、イトウ先生は身を低くして校舎脇へ走り出した。

 俺たちも、その背中を追った。

 

 

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